クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 防犯カメラ映像のコピーが届いたのは、それから二日後。

 そして男の身元が確認できたのは、さらに一日後の一月八日のことだった。

「男の名前は川原(かわはら)健二(けんじ)。五十四歳。居住地は杉並区永福二丁目にあるデザイナーズアパート『アムール永福』の一〇三号室」

 ホワイトボードに貼りだされた男の顔は、かなり彫りが深く、ひとつひとつのパーツがはっきりとしていた。

 しかし、五十四歳。不倫相手にしては、やや年上すぎないか。

「川原の行方は?」

 内海から報告を受けていた柳内は、手元の資料に視線を落としながら問いかけた。

 捜本が立ちあがってからまだ一週間も経っていないというのに、ひどく疲れている様子だった。首元のネクタイも、ごぼうに見えてくる。

「アパートには不在でした。仲介の不動産業者によると、自称投資家だったようです」

「そんな素性の知れない人間、審査に通るもんなのか?」

「普通だったら無理でしょうね。ただ、川原の場合は事情が違います」

「どういうことだ」

「川原は、初期費用から二年後の契約更新日までの家賃を一括で前払いしていました。それを理由に保証人や保証会社も立てていないようで、どこの馬の骨かもわかりません。もともと住民同士の交流も希薄で、顔すら見たことがないという人が大半でした。ただ、レシートに記載されていたクレジット情報から身元が割れたのは、せめてもの救いでしたね」

 急き立てるような柳内とは反対に、内海はかなり落ち着き払っていた。

 んんっ、と痰が絡んだ咳払いをすると、柳内は椅子から立ち上がった。

「内海と西、日向と折原は、岳郎の鑑取りから抜けて川原健二周辺を徹底的に洗い出してくれ」

「はいっ」

 日向がいつになく気合いのこもった声で返事をする。

 残されたのは、藍と篠田、そして布施と泉月の四人だった。

「千木良とシノは、今日から中井友思についてくれ」

「布施主任と若生は?」

「彼女はそのまま、二人のサポート。布施は今日から徳島だ」

 藍は、打たれたように布施へと視線を向けた。

「一人で、ですか?」

「ああ。本当は一人分の交通費を出すのすら惜しいみたいだが」

「なんでいきなり……」

「お前とシノが谷美空から聞き出した情報のおかげだ」

 言いながら柳内が長机の上に投げるように置いたのは、A4サイズほどのパンフレットだった。表紙上部には【白峯村ガイド】と大きく書かれており、中央には【子どもの笑い声が響く村を目指して――】と、謳い文句のようなものが記されている。

 藍はそれを手に取ると、中身を検める。篠田も、横から覗き込む。

 冒頭数ページは、白峯村の歴史について書かれていた。

 白峯村は、もともと地方自治体に属さない半独立自治的な立場にあったそうだ。

 いまから一〇九年前、徳島県鳴門市には、日独戦ドイツ兵捕虜が収容される板東俘虜収容所(現ドイツ村)というものが存在していた。収容所と聞くと、あまりいいイメージは浮かばないだろう。強制労働や、非人道的な扱いを思い浮かべる人のほうが多いはずだ。しかし、当時収容所の所長を務めていた松江豊寿陸軍中佐は、収容されていた将兵たちに対し「武士の情け」として極めて寛大で人道的な措置を取っていた。その結果、捕虜兵たちも所長や板東の人間に対し信頼を寄せるようになり、文化的交流から友好の絆を築いていった。徳島県指定史跡となっているドイツ橋は、このときの捕虜兵たちが地元住民への感謝を込めて築造したものだ。

 だが、その交流を「馴れ合い」と捉え拒む者たちがいた。それが反旗を翻せるほどの人数ではなかったのは、公的に残っている資料や記録から定かである。

 パンフレットには、交流から疎外感を覚えた者たちが山を切り拓き、発展させていったのが白峯村だという内容が載せられていた。

 さらにページを捲っていくと、白峯村の住民たちへのインタビューが掲載されていた。農業や林業を生業とした男たち、食堂を切り盛りしている老婦人、青年団の若者たち――誌面越しでも眩しさを覚える屈託のない笑顔に、なるほど惹きつけられる者はいそうだな、と思った。都会に住んでいると、ふと記憶にないはずの田舎が脳内を満たすことがある。そんなときにこのパンフレットを手にすれば、見入ってしまうだろう。

 捜査に関係のなさそうなページをぱらぱらと捲っていくと、やがて藍の目には記憶に新しい文字列が映った。

「これ……」

「報告に上がっていた『半成式』と『迎風祭』について、そのパンフレットから具体的な内容は見えてこない」

 他の催事が見開き一ページを使用している中で、この二つの行事だけは一ページに押し込められている。行事風景の写真もなく、淡白な文字列だけが白紙に浮かんでいた。

「いまだ容疑者すら浮かんでこない。こうなったら、可能性の低いものもひとつひとつ潰していかなくちゃならん。てなわけでまぁ、まずはこの行事の実態を調べるために一人派遣するってわけだ。徳島県警とのやり取りも、仲介人としてウチの人間が立てば何かと都合がいい。そんな話が昨日のデスク会議で上がって、布施が立候補したってわけだ」

 柳内が、ボンッ、と布施の肩を叩く。

 ――別に、布施さんじゃなくてもいいじゃん。

 そんな念を込めた視線を布施に送れば、なぜだか苦い顔で返された。

「ってゆーか、徳島県警は何うかうかしてるんですか。人身売買の件も、あれから続報はないみたいですし。白峯村には駐在員もいるんですよね?」

 警察組織で言う駐在員とは、過疎地域や離島などに置かれる警察官のことだ。ただし交代制ではなく常駐のため、家庭を持つ者はそれごとその土地に移し、生活のすべてを村に委ねることになる。町にいるようなお巡りさんよりも、ずっと地元民たちと距離が近い駐在員が、人身売買という実態に気づかないはずがない。

「郷に入れば郷に従え、ってやつですよ」

 それまで口を閉ざしていた篠田が、そっと口を開いた。

 久しぶりに喋ったかと思えば、いったいどういうことだ。

「村という単位の小さな場所に身を置けば、多数派の意見が絶対です。いくら警察官と言えど、自身の生活が脅かされるようなことがあれば従うしかない。所轄署も県警本部も、そういった痛いところには目を瞑ってしまいます」

「そんなこと、あっていいの?」

「絶対にあってはなりませんね。だからこそ、布施主任が行かれるのですよ。癒着の疑いがある場所に一人で赴くのは、鎧もなしに敵陣に飛び込むようなものです。そんな危ない橋を、部下や他の仲間たちに渡らせたくなかったんでしょう」

 篠田が見透かすような視線を布施に送ると、布施はそれを吹き飛ばすように鼻で笑って見せた。

「シノさん、喋りすぎです」

「すみません」

「とまぁ、シノの言うとおりだ」横から柳内が入る。

「布施、フライトは何時だ?」

「三時です」

 藍は、腕時計に視線を落とした。

 現在時刻は九時になろうとしているところだ。これから帰宅して支度を整えても、少し時間は残るだろう。

 早々に部屋を出ていった布施を、気づけば藍は追っていた。

「布施主任!」

 廊下を行きかう署員から奇異の視線を浴びながら、やがてその逞しい背中に追いついた。しかし布施は、横目に藍をちらりと見ただけで、その足は緩めない。

「危険ってことですよね。本当に一人で行くんですか」

「ああ」

「わたしもついていきます。交通費くらいは自腹で出すので」

「何言ってるんだ。お前にはお前のやるべきことがあるだろ」

「いくらでも代わりは利きます。でも、布施さんのことを守れるのはわたしだけだから」

 逃げるように前へ前へと運ばれていた足が、ぴたりと止まった。

 くるりと振り向いた布施の目は、藍をしかと捉えている。

 色素の薄いその瞳に見つめられると、呼吸をすることすら忘れてしまう。体は固まり、視線を逸らすことさえできない。

 布施は大きく息を吐いた。ふと強張っていた表情が、糸を解かれたように緩んだ。

「心配してくれるのはありがたいけど、大丈夫だから」

「布施さんのこと、信じてないわけじゃない。きっと大丈夫だろうとも思ってるけど……」

 帳場が立ったその日、日向との一連の騒動のあと布施に向けられた言葉を、藍は忘れられずにいた。

 全部終わったら話したいこととは、いったい何なのか。
 そもそも、布施は無事に東京に戻ってきてくれるのだろうか。

 映画やドラマで似たようなシチュエーションを観たことがあるが、ハッピーエンドで終わることはそうそうない。大抵がバッドエンドで、お涙頂戴のラストとなる。

 でも、もう涙なんて流したくない。
 大切な人を失う苦しみを味わうのは、懲り懲りだ。

 藍は言葉を途絶えさせたまま、首を垂らした。

 呼吸音だけで、布施を困らせているのはわかった。

 刑事になったのは自分のような人間を増やさないため、母を殺した犯人を自らの手で捕まえるため。

 そして、そばでずっと支えてくれた布施さんに恩返しをするため。

 それなのに、いまの自分はどうだ。

 尊敬と個人的な好意を混同させ、捜査のために東京を発つ彼の足止めをしてしまっている。

 ――情けない。

 下唇を噛んだところで、後頭部に温かいものが乗っかった。

 驚いて顔を上げる。

 布施の左手が、藍の目の前に伸びていた。

 しかし、すぐにその手を誤魔化すかのようにポケットの中へと滑り込ませる。
 横を通りすぎていく女性二人組の署員が、藍と布施を好奇の目で見つめていた。

「……シノさんとは、どうだ」

「えっ」

 突拍子のない質問に、一瞬固まる。

「うまくやれてんの?」

「まぁ……最初はどうなることかと思ったけど、それなりに」

「ならよかった。シノさんに藍ちゃんを任せたのは正解だったよ」

 その言葉を最後に踵を返した布施に、藍は周囲の目など気にせずに叫んだ。

「――必ず、帰ってきてください!」

 布施はもう、振り返らなかった。

 徐々に小さくなっていく背中に不安を募らせながら、藍も名残惜しそうに会議室へと戻った。