しかし小百合の言葉を聞いて、藍は突如不安に陥った。
――うちはただ、あの村のこと知りよる人間が一人でも減ってくれたことに、ほっとしとるだけ。
彼女がどんなつもりでその言葉を口にしたのかはわからない。ただ、竹馬の友である実和子が殺されたというのにも関わらず悲痛の色ひとつない様子からして、村では相当ひどいことが起きていたに違いない。心を蝕むような、今後の人生を大きく狂わされるような何かが、閉塞的なあの村で行われていたのだ。
いまその村に戻ったら、小百合はどうするだろうか。もしかしたら、村民を一人残らず虐殺してしまうかもしれない。大袈裟だと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも藍には、小百合の瞳の奥から冷たく澱んだ火を見た気がしたのだ。それはかつて、病室の鏡で見た幼いころの自分のものとそっくりだった。
「ここに来るのは、警察学校入校の前日ぶりです。あの日からわたしは犯人に向けた殺意の一切を封じ込め、自分のような人間が増えないよう公務に向き合ってきました。次ここに来るときは、自分の手で犯人を捕まえたときだと決めてました。あのころ封じたものが、ここに来ることによって開放されてしまうような気がしたからです」
それでもこの場所に来ようと思ったのは、小百合の瞳を見て、いまの自分にその蓋を抑え続けられる力があるのか無性に確かめたくなったからだ。ここに来るだけで簡単に開かれてしまうような脆さがあれば、自分には旭日章を背負う資格などない。
ふいに、いつの間にか垂れていた藍のうなじがすっと元に戻った。そして、ブランコから降りると、藍はその場でくるりと体の向きを変える。ブランコを挟んで向かい合うような形になった。
篠田の目には、心なしか藍の目が潤んでいるように見えた。が、その目からこぼれるものはなさそうだ。だからこそ藍は、いまこうして篠田と向き合っている。
「でも、ここに来てわかりました。自分はとうに、揺るぎない正義を持ち合わせた警察官なんだ、って。決して、その蓋が開かれることはないと実感しました」
濁りのないまっすぐな瞳を見て、篠田は安堵したように息を吐きだした。
そして藍の隣へと移動し、目線を合わせるように腰を屈める。
「その揺るぎない気持ちがあったからこそ、千木良巡査は捜一の刑事になれたんだと思います」
篠田は、その小さな両肩に手を乗せた。
「どうか、自分を信じてください。何も不安に思うことはない。あなたは立派な警察官です」
水面に手をそっと乗せたときのように、藍の心の荒波は収まっていた。篠田の言葉は、優しくあたたかい。
藍は鼻の奥がつん、とした感覚に襲われ、ふたたび篠田に背を向けた。それを誤魔化すように、コートについた砂を払う。
「友思くんにも、わたしと同じような思いをしてほしくない。だからこそわたしたち警察官は、一日でも早く犯人を捕まえなくちゃいけないんです」
「……はい」
「引いてばかりでは、いけないんです」
篠田はそのときはじめて、藍が見境なく突っ切るような聴取をする理由がわかった。単なる短気や未熟ではなく、遺された人たちを早く救いたいという焦燥が、彼女の背中を常に押していたのだ。そのことに気づかず、篠田は勝手に襟を掴んでいた。藍からしたら、息苦しさしかなかっただろう。
「シノさん――、」
内省し始めたころに、藍がポニーテールを揺らしながら振り返った。
篠田は、その姿にやはり彼女を重ねてしまう。覚悟を決めたような強い眼差しは危うさを孕んでいて、少しも目を離すことはできなかった。
「協力してください。この事件は、わたしにとってひとつの試練だと思うんです」
藍が今回の事件解決を試練だと言うのなら――。
篠田にとっての試練は、この娘を無事に本庁へ帰すことだと思った。
ずっと止まったままでいた時間が、かちりと動き出すような感覚を、篠田は胸の中で確かに感じ取った。
「もちろん。身を尽くします」
覚悟を決めた。
しかし藍は、そんな篠田の言葉を聞いてぷっと吹き出した。
「尽くしたら死んじゃいますよ。おじさんなんだから、ほどほどにね」
少々生意気な藍の言葉に、篠田は強張っていた表情を緩めた。
相変わらず刺すような冷たい風が吹きつけていたが、二人の心には燃え滾る真っ赤な火が灯されていた。
そんな二人に水を差すように、けたたましい着信音が鳴り響いた。
藍のスマホだ。画面に表示された名前は珍しい相手だったため、すかさず応答をタップする。
「内海だ」
「どうかしましたか」
電話越しの新鮮な声に、鼓動が速まる。
普段掛かってこない相手からの電話は、虫の知らせがして落ち着かない。
たしか内海は、所轄刑事と岳郎の鑑取りに回っていたはずだ。こちらに電話が掛かってくるということは、得た情報の中で実和子に関係する何かがあったからだろう。
「岳郎さんの働いていた職場で、同僚から重要な証言があった。実和子さんに関することだ」
スマホを握る手に力が入り、爪の先端部分が白くなる。電話の向こうで、すっと息を吸い込む音が聞こえた。
続けて内海が発した言葉に、藍は頭を抱えそうになった。
まったく検討しておらず、それでいて単純なひとつの殺害動機がよぎり、なぜその可能性を考えすらしなかったのか、と自分を責めたくもなった。
電話を切ると同時に、その手からはだらんと力が抜けた。
「何かありましたか」
心配そうに顔を覗き込んでくる篠田を一瞥し、藍は大きすぎるため息をついた。
「この事件、わたしたちが描いている結末より、もっと単純なのかもしれません」
意味を理解できず首を傾げる篠田に、先に内海から告げられたものと同じ言葉で応えた。
「金銭トラブルでも、怨恨でもない」
ため息混じりの声で、藍は続けた。
「実和子さん、不倫していたかもしれません」
――うちはただ、あの村のこと知りよる人間が一人でも減ってくれたことに、ほっとしとるだけ。
彼女がどんなつもりでその言葉を口にしたのかはわからない。ただ、竹馬の友である実和子が殺されたというのにも関わらず悲痛の色ひとつない様子からして、村では相当ひどいことが起きていたに違いない。心を蝕むような、今後の人生を大きく狂わされるような何かが、閉塞的なあの村で行われていたのだ。
いまその村に戻ったら、小百合はどうするだろうか。もしかしたら、村民を一人残らず虐殺してしまうかもしれない。大袈裟だと言われてしまえばそれまでだが、少なくとも藍には、小百合の瞳の奥から冷たく澱んだ火を見た気がしたのだ。それはかつて、病室の鏡で見た幼いころの自分のものとそっくりだった。
「ここに来るのは、警察学校入校の前日ぶりです。あの日からわたしは犯人に向けた殺意の一切を封じ込め、自分のような人間が増えないよう公務に向き合ってきました。次ここに来るときは、自分の手で犯人を捕まえたときだと決めてました。あのころ封じたものが、ここに来ることによって開放されてしまうような気がしたからです」
それでもこの場所に来ようと思ったのは、小百合の瞳を見て、いまの自分にその蓋を抑え続けられる力があるのか無性に確かめたくなったからだ。ここに来るだけで簡単に開かれてしまうような脆さがあれば、自分には旭日章を背負う資格などない。
ふいに、いつの間にか垂れていた藍のうなじがすっと元に戻った。そして、ブランコから降りると、藍はその場でくるりと体の向きを変える。ブランコを挟んで向かい合うような形になった。
篠田の目には、心なしか藍の目が潤んでいるように見えた。が、その目からこぼれるものはなさそうだ。だからこそ藍は、いまこうして篠田と向き合っている。
「でも、ここに来てわかりました。自分はとうに、揺るぎない正義を持ち合わせた警察官なんだ、って。決して、その蓋が開かれることはないと実感しました」
濁りのないまっすぐな瞳を見て、篠田は安堵したように息を吐きだした。
そして藍の隣へと移動し、目線を合わせるように腰を屈める。
「その揺るぎない気持ちがあったからこそ、千木良巡査は捜一の刑事になれたんだと思います」
篠田は、その小さな両肩に手を乗せた。
「どうか、自分を信じてください。何も不安に思うことはない。あなたは立派な警察官です」
水面に手をそっと乗せたときのように、藍の心の荒波は収まっていた。篠田の言葉は、優しくあたたかい。
藍は鼻の奥がつん、とした感覚に襲われ、ふたたび篠田に背を向けた。それを誤魔化すように、コートについた砂を払う。
「友思くんにも、わたしと同じような思いをしてほしくない。だからこそわたしたち警察官は、一日でも早く犯人を捕まえなくちゃいけないんです」
「……はい」
「引いてばかりでは、いけないんです」
篠田はそのときはじめて、藍が見境なく突っ切るような聴取をする理由がわかった。単なる短気や未熟ではなく、遺された人たちを早く救いたいという焦燥が、彼女の背中を常に押していたのだ。そのことに気づかず、篠田は勝手に襟を掴んでいた。藍からしたら、息苦しさしかなかっただろう。
「シノさん――、」
内省し始めたころに、藍がポニーテールを揺らしながら振り返った。
篠田は、その姿にやはり彼女を重ねてしまう。覚悟を決めたような強い眼差しは危うさを孕んでいて、少しも目を離すことはできなかった。
「協力してください。この事件は、わたしにとってひとつの試練だと思うんです」
藍が今回の事件解決を試練だと言うのなら――。
篠田にとっての試練は、この娘を無事に本庁へ帰すことだと思った。
ずっと止まったままでいた時間が、かちりと動き出すような感覚を、篠田は胸の中で確かに感じ取った。
「もちろん。身を尽くします」
覚悟を決めた。
しかし藍は、そんな篠田の言葉を聞いてぷっと吹き出した。
「尽くしたら死んじゃいますよ。おじさんなんだから、ほどほどにね」
少々生意気な藍の言葉に、篠田は強張っていた表情を緩めた。
相変わらず刺すような冷たい風が吹きつけていたが、二人の心には燃え滾る真っ赤な火が灯されていた。
そんな二人に水を差すように、けたたましい着信音が鳴り響いた。
藍のスマホだ。画面に表示された名前は珍しい相手だったため、すかさず応答をタップする。
「内海だ」
「どうかしましたか」
電話越しの新鮮な声に、鼓動が速まる。
普段掛かってこない相手からの電話は、虫の知らせがして落ち着かない。
たしか内海は、所轄刑事と岳郎の鑑取りに回っていたはずだ。こちらに電話が掛かってくるということは、得た情報の中で実和子に関係する何かがあったからだろう。
「岳郎さんの働いていた職場で、同僚から重要な証言があった。実和子さんに関することだ」
スマホを握る手に力が入り、爪の先端部分が白くなる。電話の向こうで、すっと息を吸い込む音が聞こえた。
続けて内海が発した言葉に、藍は頭を抱えそうになった。
まったく検討しておらず、それでいて単純なひとつの殺害動機がよぎり、なぜその可能性を考えすらしなかったのか、と自分を責めたくもなった。
電話を切ると同時に、その手からはだらんと力が抜けた。
「何かありましたか」
心配そうに顔を覗き込んでくる篠田を一瞥し、藍は大きすぎるため息をついた。
「この事件、わたしたちが描いている結末より、もっと単純なのかもしれません」
意味を理解できず首を傾げる篠田に、先に内海から告げられたものと同じ言葉で応えた。
「金銭トラブルでも、怨恨でもない」
ため息混じりの声で、藍は続けた。
「実和子さん、不倫していたかもしれません」


