クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 シャボン玉が弾けるように、それは跡形もなく消えた。

 いっきに軽くなった瞼を何回か瞬かせる。しばらく薄汚れた天井を視界に留まらせたあと、ゆっくりと上体を起こし、辺りを見渡した。
 昨晩、八畳間の和室に所狭しと敷き詰められていた布団は撤収され、残されていたのは、中央に敷かれているこの一枚だけだ。

 ――しまった。

 千木良(ちぎら)(あい)はそそくさと立ち上がり、その布団を畳み始めた。

「あっ、起きた」

 和室から一段下がったスペースから、温度の低い淡々とした声が掛かった。

 藍は横目でその人物を捉えると、手は動かしたまま、あからさまに大きなため息をつく。

 三面の卓上ミラー越しに目が合う。ちょうど、アイラインを引いているところだったようで、鋭い目はいつもより大きく見えた。

「起こした方がよかったぁ?」

 メイクに夢中になっているせいか、声に力が入っていない。気の抜けた声に、呆れて二度目のため息が漏れる。

「ばっちりメイクする時間あるくらいなら、ね」

「あ、そう?」相手が振り向き、パイプ椅子の背もたれに寄り掛かりながら言う。「あんまいい夢じゃなさそうだったけど」

 その一言に、バサバサと動かしていた手が止まる。

 普通の人間であれば、悪い夢を見ているときこそ、すかさず起こしてもらいたいものだろうが、藍の場合は違った。彼女も、そこのところは承知している。

 申し訳なさから、藍の口は小さく動いた。

「……いや、ごめん」

 返事はなかった。

 掛け布団を敷布団に巻き込むようにして畳むと、藍はそれを押し入れの中へと押し込む。襖を閉めて振り向くと、相手はこちらの様子など一切気にした様子もなく、メイクの続きに取り掛かっていた。

 藍は、同期であるその女の背中を見て思う。

 ――相変わらず、泉月(いづき)との空間は心地がいい。

 変に気を遣わず、たとえ遣ってしまったとしても、何食わぬ顔でやり過ごす。学生時代から、ねちっこい女社会に鬱陶しさを感じていた藍にとって、若生(わかお)泉月の不干渉はむしろありがたかった。お互い、立ち入られたくないところには突っ込まない。それは、警察学校で出会ったときからそうだ。どの組織にもやはり女の世界は存在するのだと思い知らされたが、泉月と過ごした警察学校での十ヶ月間は、それほど悪いものではなかった。

 和室から出て、洗面所へと向かう。冷たい水で顔を洗い、最寄りのコンビニで買った歯磨きセットで歯を磨く。スーツに袖を通し、手首につけたままの黒ゴムで髪をひとつに括った。

 ものの十分で支度をすると、泉月もちょうどメイクを終えたところで、丁寧にヘアセットをしている。

 藍は、その様子を訝しむように見つめた。

「なんか今日、メイク濃くない?」

「藍こそ、心配になるレベルで血色ないけど平気そう?」

「わたしはいいの。いつもこんなんだから」

「マジか」泉月が打たれたように振り返る。「男前集団に囲まれてるのに?」

「誰のこと言ってるの」

 鼻で笑う藍に「とぼけんなよ〜」と泉月が眉を顰めた。が、その口角は上がっており、唇の隙間からはトレードマークの八重歯が覗いている。

「各署で噂になってる。捜査一課の殺人犯捜査第九係は、男前揃いだってね。この前の同期会でも、みんな藍のこと妬んでたよ」

 ヘアアイロンをしまいながら「ウケる~」と言う泉月を一瞥(いちべつ)し、藍は起床後十分にして本日三度目のため息を吐く。

「それ、本人に言わなくていいやつだから。それに、妬まれるほど気楽な仕事じゃありませんー」

「って、今度の同期会で言ってやんな」

「行かない。めんどくさい。無意味」

「だろうねー」

 警視庁捜査一課第五強行犯捜査殺人犯捜査第九係は、秋の定期異動で藍が配属されたばかりの部署だ。捜査一課は警察の花形とも言われており、藍は同期の誰よりも早くその門を叩いた。辞令を目にした同期は、驚きを隠せなかっただろう。藍自身も、なぜこのタイミングで自分が捜査一課に配属されることになったのか、上層部の意図を理解できていなかった。

 幼いころからこうだ。運動をしてみても、勉強をしてみても、何かとうまくいってしまう。そのたびに、異性からは引かれ、同性からは(ひが)まれた。そのせいと言うべきか、おかげと言うべきか、コミュニティというコミュニティから(はじ)き出され、一人でいることが大半を占めた。それでも、泉月のように寄り添ってくれる人間は必ず一人はいて、そういう人たちのおかげで藍は孤独にならずに済んでいる。

 断じて、不毛な集まりには参加しないけれど。

「そんなことより、動機はそれか」

「動機?」

 とぼけた顔をする泉月の前に回り込んで仁王立ちをすると、藍は片口角を上げた。

「先に言っておくけど、布施(ふせ)主任に色目を使うようなら、いくら泉月でも許さないからね」

「ああ、あんたの推しね」

「推しとか、そんなやわなもんじゃないから。お慕い申してるから」と、胸に手を当てる。

「じゃあなおさら、きっちりメイクしなよ」

「いまさらだよ」

 布施とは、九係の主任警部補の布施征哉(ゆきや)のことだ。藍が所属する九係布施班の班長で、直属の上司であり、古き恩人でもある。藍が警察を目指すきっかけとなった人物だ。それ以上に特別な感情を抱いているのだが、同じ部署の所属となったいま、その気持ちは抑えるようにしている。

「っていうか、布施主任じゃないなら誰」

「何が」

「泉月がばっちりメイクを決めたくなるほど、気になる相手」

「あぁ、安心して。九係の中にはいないから」

 そう言いながら、泉月はメイクポーチの中にリップやらマスカラやらを片付け始めた。サンリオキャラクターのストラップが、じゃらじゃらと音を立てている。

「あたしの推しは、イケオジ」

「イケ、オジ……?」

 ふと、泉月が部屋の掛け時計を見上げた。

「あ、いっけないこんな時間」

 時計の針は、午前八時十五分を指している。

 藍と泉月は顔を見合わせると、慌てて仮眠室を出た。