クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 藍が指定したのは、江戸川区清新町と江東区新砂を跨ぐ清砂大橋を渡り、五分ほど走った場所だった。駅前の近くに林立する団地で、その様相は今回の事件現場となった百人町のアパートと似通っている。車を降り、藍が見上げたのはひとつの薄汚れた棟。

 五棟建ち並ぶ、ちょうど真ん中の三号棟だった。

「ここは――」

「実家……だった場所です」

 そこはかつて、藍が母と二人で過ごした思い出のアパートだった。

 しかし、もう母はいない。

「母はこのアパートの一室で、刺し殺されました」

 隣で、篠田は言葉を失っていた。

 敷地内にある申し訳程度の大きさの公園の中へと、足を踏み入れる。二人掛けのベンチに腰を下ろすと、篠田も後に続いて隣に座った。

 肩が触れる。

 車内よりも、ラーメン屋の席よりも近い距離に、藍は何とはなしに安心感を覚えていた。そのせいか、ぽろりぽろりと口から言葉が落ちていく。

「ちょうど冬休みに入ったばかりの出来事で、わたしはその日、クラスメートの家で行われるクリスマスパーティーに参加する予定でした」

 しかし、いざその子の家に着いてみると、パーティーは中止になったと聞かされた。夕方から降り始める雪を見越してのことだと説明されたが、きっとそれは嘘だったのだろう。

 そんな考えに至ったのは、何も捻くれていたからではない。肩を落として家路についた藍は、プレゼントを抱えてその子の家へと向かう他のクラスメートを偶然見かけてしまったのだ。

「金銭面的にプレゼントは用意できなかったけど、居てくれるだけでいいから、ってその子は招待してくれたんです。でも、気が変わったのか、誰かから不公平だと声が上がったのかは知りませんけど、仲間から外されてしまった」

 もともと、同性からは敵対視されがちだった。母譲りの美しさと、父譲りの万能さ。

 父と言っても、血縁関係があるだけだ。二人は結婚せずに、別々の道を歩んだ。父が器用な人だったということは、藍が百点満点のテストを持ち帰るたびに、母が嬉しそうに話していた。その表情から、円満な別れ方だったということが窺えたが、詳しいことは藍にもわからない。もう少し大人になってから聞いてみようと思っていたが、それが叶う前に母はこの世を去った。

 とにもかくにも才色兼備な藍は、集団になると省かれる性質を持ち合わせていた。

 しかし、そのことは母に知られたくなかった。

「余計な心配、かけたくなかったんです。だから家に戻ると言っていた時間まで、近くの公園でひとり時間を潰していました」

 でも――。

「あのとき、変な意地を張らずに帰っていれば、母はいまも生きてたかもしれない。そうでなくても、わたしだけがこんな世界に一人取り残されることはなかった。一瞬の強がりで、わたしは一生分の幸せを手放してしまったんです。生きているうちに、もっとたくさん話しておけばよかった」

「思い出したいことがある、というのは、お母様との思い出ですか?」

 それまで黙っていた篠田が、口を挟んだ。

 その問いに、藍は力なく首を横に振った。

「母との思い出は、よく覚えています。わたしが思い出せないのは、犯人の顔です」

「犯人の顔……もしかして、」

「雪が降ってきて、予定より少し早めに家に帰ったわたしは、犯人と鉢合わせました。わたしも犯人に包丁を向けられ、その顔はたしかに見たはずなのに――気づけば意識を失ってました。次に目を覚ましたのは、搬送された病院です」

 肌を刺すような冷たい風が吹く。

 藍は、コートの立ち襟に耳を隠した。

「事件はいまだ未解決。特命捜査対策室で継続捜査されてます。二〇一三年のクリスマスイヴに起きた『江東区南砂シングルマザ―殺人事件』です。十年前まで捜一にいたシノさんなら、聞いたことくらいはあるんじゃないですか」

 篠田の眉が、ぴくりと動いた。大きく息を吐くと「覚えています」と、呟くように言った。

「そのとき捜本に吸い上げられたのは別の係でしたが、話は聞いていました。犯人の痕跡はすべて綺麗に拭き取られ、鑑識が手持ち無沙汰になるほどだったと……まさか、千木良巡査があの事件のご遺族だったとは」

「布施主任とは、そのころからの付き合いです」

 当時、所轄の生活安全課少年係にいた布施は、事件以前に藍を補導していた。

 藍の母は、昼も夜も働きに出ていた。言わずもがな、女手ひとつで藍を育てるためだ。朝も昼も夜も、藍が家にいれば食事を作ってから家を出るようにしていたが、そこまで手が回らないことも少なくはなかった。

 ある日、深夜に腹を空かせコンビニへ入店したところを店員に通報された。そこにやって来たのが、当直勤務をしていた布施だった。

 事件が起きた日も、藍が入院する病院にいち早く駆けつけた。日頃から、千木良母娘のことを気にかけていたからだ。

「本当は、強行犯係に来たかったわけじゃないんです。異動希望は、特命捜査対策室で出していました」

「お母様の事件を、解決するためですね」

「無理なことだとはわかってましたよ。同じ捜一内の部署に配属されたのは、布施主任の恩義だと思ってます。わたしが警察を志した理由を知ってて、上に掛け合ってくれたんでしょう。でなきゃ、わたしが花形部署に配属された理由がわかりません」

 寒さで感覚を失いそうになった手をコートのポケットに手を突っ込むと、藍はベンチから立ち上がり、目の前のブランコに乗った。

「シノさんも来てください」

 藍の挙動を不思議に思いながらも、篠田は手招きに従って隣のブランコに腰を下ろした。しかし、すぐさま藍に「違いますよ」と指摘されてしまう。

「押してください」

「えっ」

「いいから、押してください」

 篠田は戸惑いながらも、ブランコから立ち上がり藍の背後に回った。その背中は篠田が思っていたよりも小さく、悲惨な過去を背負うにはあまりにも頼りなさそうに見えた。

「……いきますよ」

「お願いします」

 篠田は藍の背中に触れると、そっと押す。ブランコは微かに揺れただけで、すぐさま篠田のもとへと戻ってくる。またその背中を、押す。

「シノさん、下手くそ」

「す、すみません」

「お子さんのブランコ、押してあげたことないんですか。どんなに忙しくても、子育てに協力的でないと、奥さんにも嫌われちゃいますよ」

 藍の背中を押し続ける左手の薬指に、はまっているものは何もない。

 しかし篠田は、特に訂正するでもなくその背中を押し続けた。藍が自身にブランコを押させている理由が、おのずと見えてきたからだ。それに、やや小難しい娘が、年嵩である自分に打ち明けてくれいる話を途中で折ることにも気が引けた。

 篠田の予想通り、藍は自身の話に戻した。

「警察官になってなかったらいまごろどうなってたんだろうって、思ったんです。母が殺されてから、わたしは犯人への復讐だけを考えて生きていました。わたしの幸せを奪ったそいつが心底憎くて、でも顔を思い出せないやるせなさにひどく苦しめられた」

 こみ上げるものを抑え込むような、詰まりがちな声に耳を傾けながら、篠田はそれに気づかないふりをし続けた。

「そんなときに、布施さんが……布施主任が、わたしの心を救ってくれた。――その犯人にとって一番の敗北は、君自らの手によって手錠を掛けられることだ、と」