クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 ――見たことがない?
 いったいどういうことだ。

 藍の眉間には自然と皺が寄っていた。

「いつも村にやってくるのは子どもたちだけだった気がするんです」

「気がするって……」あまりにもにわかな記憶に、藍は思わず息を吐いた。「じゃあ、その子たちはどこに住んでたんです?」

「それが、わからないんです」

 美空への不審感は一層増した。

 大事なところだけが抜け落ちている、というよりも、隠しているような気がした。

 藍は腕を組むと、机に身を乗り出した。

「村の人口はおよそ五〇〇人。〇歳から十八歳までの人口推移はその二割にも満たない」

「何が言いたいんですか?」

「ありえないでしょ、わからないなんて。子どもが一〇〇人しかいない村で、引っ越してきた子が話題にならないわけがない。それに、谷さん言いましたよね?」

 ――十八になるまでは外の世界がどうなっているかなんて知りもしなかったです。

「自分たちが見れない外の世界を見てきた子に、興味を示さないことは非常に考えにくいです。どこから越してきたのか、どこに住んでいるのか、きょうだいはいるのか、気になるはず。それが直接聞けない距離感にあったとしても、小さな村で噂が回るのは一瞬だと思うんです」

 それでは、なぜ美空はその子たちの居住地がわからないのか。

 わからないことはなかったはずだ、というのが藍の結論だ。

 何かを隠している。絶対に。

 しかし、美空は俯くと、困ったようにかぶりを振った。

「……すみません。本当に思い出せなくて」

 ここまで詰めれば何かしら漏らすだろうと思ったが、期待は大きく外れた。

 強張っていた藍の体も、呆気にとられたようにゆるゆると脱力していった。

「その迎子の方たちは、いまどこに?」篠田が訊く。

「いまはわかりませんけど、少なくとも大学進学の年には村に残っていたと思います」

 篠田は、美空の知る限り迎子の名前を訊き出すと、早々に席を立ちあがった。

「いろいろと突然なことばかりで、混乱されていると思います。また何かありましたら、こちらにかけてください」

 言いながら名刺を差し出し、谷美空への聴取は終了した。

「そろそろお昼の時間ですね。何か食べましょうか」

 校舎を出て車に乗り込むと、篠田は呑気にそんな提案をしてきた。

 また聴取のことで何か言われると思ったが、ただの思い過ごしのようだ。

「ラーメンなんてどうです?」

 美味しい店を知っています、という篠田の言葉に乗って、藍は首を縦に振った。

 近くのコインパーキングに駐車して向かった先は、ひとつ向こうの通りにある『もりた』という店だった。平日のためか店内はがらんとしており、暇を持て余していたであろうネパール系の店員たちが「らっしゃいませー」と、口々に言う。

 食券機で注文をするシステムらしいが、滅多にラーメン屋に入らない藍は、少々戸惑っていた。注文を終え、先に食券を手にした篠田に、藍はおすすめメニューを聞く。

「若い方には、油そばが人気なようです」

「シノさ――」言い掛けて、一度口をつぐむ。「篠田さんは、何にしたんですか」

 篠田は照れ臭そうに笑いながら、手に持っていた食券を掲げた。

「恥ずかしながら、ここ最近は胃もたれが酷くて……つけ麺です」

 ――なんだ。ただのおじさんじゃん。

 そんなことを思って、藍は思わず吹いてしまった。

 驚いて目を丸くする篠田に「なんでもないです」と言うと、藍は勧められた油そばの食券を購入した。テーブル席もあったが、カウンター席に二人並んで座る。店主に食券を渡すと、沈黙が流れた。

 しかし、それも束の間。篠田がその沈黙を破った。

「少し元気が出てきたみたいで、ほっとしましたよ」

「えっ」

「麻植さんの聴取が終わってから、気落ちしているように見えました。余計なお世話でしたらすみません」

 言いながら、篠田は紙エプロンを差し出した。藍はそれをそっと受け取る。

 篠田は、人間性も刑事適性も、自分より遥かに上だ。それに加えて、熟年者の余裕というものも感じる。

 昨日初めて顔を合わせた時には、所轄で(くすぶ)っているだけの窓際中年刑事だと思い込んでいた。

 見くびっていたのは、篠田ではない。
 藍のほうだった。

 無条件に差し出される篠田からの優しさを、どう受け取ればいいのか、わからなかった。わからないけれど、もらってばかりではダメだと思った。

 突然思い立ち、スーツのポケットに入っていたものを無言で差し出す。

「……なんですか?」

「あげます」

「チョコレート、ですか?」

 藍が篠田に渡したのは、常時持参しているサイコロ型チョコレートだった。

 篠田はそれを摘み上げると、満足げに微笑んだ。

「ありがたく頂戴します」

「どうぞ」

 相変わらず堅苦しい篠田だったが、喜んで受け取ってくれたことに、藍は胸を撫で下ろした。

「千木良巡査は、甘いものがお好きなんですか」

 どちらかというと、甘いものは好きではない。

 篠田に渡したものも、苦味の強いダークチョコレートだ。

「……チョコレートには、脳の血流を改善する物質が多く含まれてます。認知症予防にもなりますよ」

 質問の答えになっていなかったが、篠田はふっと笑った。

「そうですね。まだ大丈夫だと高を括っていては、あとで後悔しますから」

 ありがとうございます、とふたたび礼を言う篠田に、なんだか申し訳なくなった。嫌味のつもりで言ったわけではなかった。

 藍はカウンター越しに、鍋から立ち上る湯気をぼんやりと眺めた。白い湯気は、みるみるうちに店主の顔を隠していく。まるで、悪夢に見るあの男のようで、そっと目を逸らした。胸が、きゅう、と締め付けられる。

「思い出したいことがあるんです」

 胸につっかえた異物を吐き出すように、気がつけばそんな言葉を漏らしていた。

「まぁ、それを食べたところで記憶が戻るわけでもないんですけど」

 話すつもりは微塵もなかったし、考えたこともなかった。

 自分のことについて語るのは、いままでずっと避けてきた。求めてもいない同情の言葉を掛けられるのは、虚しくて苦しいからだ。組織の中でも信頼を置いている泉月と那由多にさえ、詳細に話したことはない。

 それなのに、出会ったばかりの篠田に藍は自ら口を開いていた。

 そこへ注文品が運び込まれた。母国の訛りがある拙い日本語は、凍りかけていた二人を溶かすような温かさがあった。

 冬場は何にしても冷めやすい。二人は無言でそれぞれの麺を食べ終えた。

 話の続きをしたのは、ひんやりとした車内に戻ってからだ。

「シノさんは――」今度は言い直さなかった。「自分の大切な人に関わる重大な記憶を失くしてしまったら、どうしますか?」

 フロントガラスの向こうに視線を投げながら問いかけてくる藍の横顔を、篠田もまた見つめる。その横顔に滲む悲愴感は、かつての誰かに似ていた。捉えどころがなさそうで、気がつけば追っていたはずの自分が、むしろ捉えられている。そしてまた知らないうちに、どこかへと隠れてしまう。まるで、かくれんぼのように。

 そんな危うい気配に、篠田は思わず息を呑んだ。
 やや抽象的な質問に、しばらく考え込む。

 エンジンがつけられ次第に空気が温まり始めたころ、篠田はようやく口を開いた。

「どんな手を使ってでも、思い出します。それがたとえ、目を背けたくなるような記憶でも、その人と自分のためになるのなら」

 シフトレバーをドライブに入れ、サイドブレーキを下ろすと、篠田はハンドルを握った。

「あの、」

 藍がすかさず声を掛けると、ブレーキから足を離しかけていた篠田が元の姿勢に戻った。車ががくん、と止まった。

「寄ってもらいたいところがあります」