クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 白金を出た藍と篠田は、永代通りを東に進んだ先にある江戸川区葛西に降り立った。白峯村のもう一人の出身者、谷美空の聴取を行うためだった。

 谷美空は、葛西にある公立小学校の教師だ。子どもたちの登校日は七日からだそうだが、教師は今日から出勤らしく、聴取は校舎内の空き教室で行われる手筈になっていた。

 事務員に声を掛けると、しばらくして美空が姿を現した。童顔で、低身長の可愛らしい女性だった。一点の曇りもなさそうなその姿から、はたして事件解決に進展する情報が得られるのだろうかと偏見の目で見てしまう。

 案内されたのは、一階にある特別支援学級の教室だった。記憶の中より小さく、カラフルな装飾が施されている教室に、少々そわそわしてしまう。机と椅子は教室後方に寄せられ、中央には三者面談のように三台の机と三脚の椅子が品の字型に並べられていた。

 藍と篠田は親子席に座り、美空と向かい合う。
 これから通知表やら何やら出されるのではないかと錯覚し、藍の背筋は無意識に伸びていた。

「今日はお時間いただきありがとうございます」

 藍が言う前に、篠田が口を開いた。

 いつもの藍であれば、勝手に捜査主導権を握る所轄刑事に対し、いくら年上と言えど噛みついていただろう。

 ふと、一時間前のことを思い返した。

 ――うちはただ、あの村のこと知りよる人間が一人でも減ってくれたことに、ほっとしとるだけ。

 小百合の言葉が、脳裏にべっとりと貼りついていた。

 実和子もそうだったというように、小百合もまた「幸せ」という漠然とした言葉に縛られているように見えた。

 そして藍も、彼女たちのすぐそばにいるのだ。

 旭日章(きょくじつしょう)が、胸元に光る朱色のバッジが、いまは藍の盾になっている。その盾がひとたび失くなってしまえば、自分はいったいどうなってしまうのか。そんな非生産的な考えが脳内を支配していた。

 ここに来るまでの車中で、どうにか気持ちを切り替えようとしたが、無理だった。おそらく、そんな藍の異変に気付いて、篠田はすかさず舵を取ったのだろう。どこまでも抜かりない紳士然とした対応力に、一人の人間として敬意が芽生えつつあった。

 ここは何も言わず、手帳を取り出してメモに徹することにした。アナログ的なものは、嫌いではない。

 美空も、実和子夫妻の訃報についてはニュースで知ったという。そのせいか、昨夜はなかなか眠りにつけなかったそうだ。言われてみれば、雪のような白い肌には不釣り合いな青黒いクマが浮かび上がっている。

 死亡推定時刻とされる二日の午後七時から九時ごろのアリバイや、殺害の動機になりえそうな話を知らないか、などと形式的な質問を投げ掛ける篠田の横で、藍は美空の返答をできる限り言ったとおりに書き込んでいく。

 三が日は、徳島に帰っていたという。もしかしたら、帰省先で幸枝と友思に出くわしたかもしれないと期待して横から口を挟んだが、両親は現在、徳島市内に住んでいるとのことだった。両親はともに教育家だったようで、七年前に村立の学校が立て続けに廃校になったことをきっかけに村を出た。美空も、それ以来村に顔を出していないという。

 次に、実和子から金を貸してほしいと言われたことがないか、という質問に対しては、深く黙り込んでから静かに頷いた。死人を(おもんぱか)っての沈黙であったことは、容易に理解できた。これは想定内だった。小百合という少々捻くれた女に金の相談を持ち掛けているのだから、寛容そうな美空には誰よりも先に頼んでいるはずだと思ったのだ。

「それで……谷さんはお金を貸したんですか?」

 篠田の窺うような問い方に、美空は責められていると感じたのか、肩をすくめた。

「貯金はしている方だったので、五万円ほど」

 かなり渡したな、と藍は思わず仰け反った。

 その反応を見て、弁解するように美空は続けた。

「別に、返してもらうつもりはありませんでしたよ。返すとは言ってくれましたけど、返ってこないものだと思って渡しました」

「なぜ、そう思ったんですか?」

 美空は一度口を閉ざしかけたが、すべてを話す気になったのか椅子の背もたれに身を預けると、ふたたび口を開いた。

「家賃払うお金が足りないと言われたからです。それって、よっぽどですよね」

「そうですね」篠田が頷く。

「だから、返されなくてもいいやって思ったんです。実和子とは同郷やし、ちっちゃいころからずっと一緒だったんで」

 気が抜けたのか、美空の口からは阿波弁の訛りが出てきた。

「お金が不足した理由は聞きましたか?」

「ええ、まあ……」

「その理由、お聞かせ願えますか」

 美空の口から出た言葉は、衝撃的なものだった。

「岳郎さん、口座から勝手にお金を引き落としちゃったみたいで」

 思わず、藍は篠田と顔を見合わせた。

 篠田はすぐに美空に向き直った。

「何かに使ってしまったのでしょうか。例えば、パチンコや競馬などのギャンブルでお金を賭けたとか」

「さあ、そこまではわからないです。詳しく聞いちゃうのも、なんだか悪い気がして」

 罪とも言えるお人好しさに、思わず出そうになったため息を呑み込んだ。

 口座から引き落とした金の使い道については、岳郎側の鑑取りを担当している班に聞いた方が早い。篠田も同じ考えだったようで、別の質問に移った。

「では、白峯村にいたころの話を聞かせてください。当時、村で何か違和感を覚えるようなことはありませんでしたか?」

「村のこと、ですか」

 村の話が実和子の事件にどう関与しているんだとでも言いたげに、美空の眉がわずかに寄った。

「実和子のお父さんが失踪したっていう話は……」

 おそるおそる聞いてくる美空に、篠田は「聞いています」とゆっくりと頷いた。

「実和子さんのお父様以外のことで、何か違和感を抱いたことはありませんでしたか?」

「違和感……」

 美空は小さく唸ると困ったように笑い、横髪を右耳にそっとかけた。

「ありませんね。むしろ、この街に対して違和感を抱くことの方が多いです」

「と、言いますと?」

「東京は、人が冷たいですよね。村より一万倍以上も人がいるのに、ずっと独りにされているこの感じ。違和感しかないです」

「たしかに、おっしゃる通りです」

「あの村は四方八方を山に囲まれていて、十八になるまでは外の世界がどうなっているかなんて知りもしなかったです。村の話を聞かれて答えるたびに、大学の友人からは気味悪がられました。ハンセイシキのこととか、ゲイフウサイのこととか――」

「ちょっと待ってください」

 突然、篠田が美空の話を折った。

 ハンセイシキ、ゲイフウサイ――聞き慣れない単語に困惑したのだろう。篠田は自身の手帳を美空に差し出し、漢字でどう書くかを聞いた。

 見本のような美文字で書かれたのは『半成式』と『迎風祭』だった。初めて見る並びの文字に、はたしてこれらは何を意味するものなのかと頭を悩ませる。式や祭とあることから、催しを指していることは想像がつく。因習、というやつだろうか。

「どういった行事なんですか?」

 思わず身を乗り出して訊く藍に窺うような視線を向けながら、美空はそっと口を開いた。

「……半成式は、十歳のときに行われる慶事です。毎年、十歳になった子は誕生日に白装束を着せられ、白峯神社の参集殿で指南役と一日を過ごすという儀式です」

「それは、どういった目的で?」

 怪訝そうに眉をひそめた藍に、美空は辟易(へきえき)したように息を吐いた。同じような反応を、大学時代にもされたのだろう。

「人に話せないようなことはしていませんよ。ただ、十畳間の和室でいつもより豪華な食事を囲んで、酒を飲む指南役の相手をするだけです。親でも教師でもない大人と一対一で話をすることによって、成人を意識するきっかけを与えるとされています。うちの学校でも、十歳を祝う『二分の一成人式』というものがあるんですけど、それと比べると少し特異ではありますが……」

「だいぶ、ですけどね」

 藍が冷たく言い放つ。美空は、藍の反応を見て苦く笑った。

 その隣で、篠田が咳払いをひとつ。

 含みのある視線を寄越してくる。何か言われそうな気配を察したが、篠田はすぐに手帳に視線を落とした。半成式の下に書かれた文字を指差しながら「では、この迎風祭というのは?」と、またいつの間にか捜査主導権を(さら)っていた。藍はおとなしく、その場に座りなおす。

「年の暮れに行われるもので、その年、白峯村に越してきた人たちを歓迎する祭りです。村の中では、一番大きな行事なんですよ。神輿台の上に越してきた子ら――迎子(むかえご)――を乗せて、青年団のメンバーが中心になって担ぐんです。子どものころは、そこに乗れる子を羨ましく思ったものです」

「へぇ、それは楽しそうですね」

 篠田が和ませるように笑うと、美空も安心するように微笑んだ。

 しかし、その笑みはすぐに揺らいだ。

「……あっ」

 何か思い出したのか、美空は小さく声を漏らした。

「どうかされましたか?」

「あ、いや……あれ、どうだったかな」

「何か心当たりがあるようでしたら、何でも話してください」

「いや、ごめんんさい……ちょっと記憶が曖昧で」

 それでも構わない、と篠田が続けると、美空はようやく話し始めた。その表情は、あまり自信がないように見える。

「いま思い返してみると、わたし、その子たちの親を見たことがないなぁ、って」