桶田工務店は、社長も含め従業員数八名の少数精鋭、地域密着型の会社だ。営業が一人、事務が一人、施工管理技士が二人、職人が三人。
突然やってきた内海と日向を茶と和菓子でもてなしたのは、事務員で社長の妻、明子だった。
苦労しているのだろうか、その皺の数から、年齢は六十ほどにも見える。
「突然押しかけてしまいすみません」
「いえ……主人は、今日から岳郎が入るはずだった現場に代わりに入っておりまして、休憩の合間を縫ってこちらに顔を出すと言っています」
内海の形式上の謝罪に、明子はさらりと答えた。どうやら、昨夜のニュース番組でも事件が取り扱われていたようで、そこで中井夫妻の訃報を知ったという。
事務所の中は、かなり静かだった。従業員は、明子の他に営業の男性が一人。他は現場に出払っているらしい。
明らかに耐用年数が超えているであろうオフィス什器が、会社の経営難を物語っている。天井は照明焼けのせいか黄ばんでおり、壁には色褪せたポスターが貼り付けられている。いつの、何のものかもわからない。
「だいぶ年季が入ってますね。どれくらいやられてるんですか」
日向が辺りを見渡しながら尋ねる。絶妙に配慮が欠けていたが、内海は特に何を言うでもなく、明子の反応を窺った。
「今年で創業四十七年になります。十五年前に義父が倒れてから、主人が後を継ぎました」
「長く続いているのは、それだけ多くの方に愛されている証拠ですね」
内海が称賛の言葉を添える。
しかし、明子はどこか含みのある弱々しい笑みでかぶりを振った。
「もう潮時ですよ。社員の皆さんには、まともに給料も与えてやれてないんです。業績不振で、去年の春には何人か解雇通告をしました。中には、義父の代から献身的に支えてくださっていた職人さんもいて……」
「それは、おつらい決断でしたね」
内海の言葉に、明子が目を伏せた。
そのとき、奥のデスクでキーボードを叩いていた音がぴたりと止んだ。視線を向けると、背広姿の男性社員と目が合った。会釈をしようとしたが、その前に視線を逸らされる。三十代といったところだろうか。彼がきっと、営業の社員なのだろう。
「岳郎は気さくで、職人からも取引先からも信頼されていました。中学卒業してすぐ、うちに来たときはまだやんちゃで、行く先々で他所の職人さんと揉めましてね……子どもがいなかったわたしたち夫婦にとっては、少し大きい息子みたいな存在でした」
「岳郎さんが高校に進学せず、就職を選んだ理由はご存知ですか?」
「いまこそ仲良しですが、当時はご両親との折りが合わなかったみたいで、いち早く独り立ちをしたいということでした。そのときはまだうちも余裕がありましたし、義父がそういうワケアリの若者を受け入れるのが好きな人でして」
「なるほど。……ちなみに、岳郎さんの奥様、実和子さんとはお会いになったことはありますか?」
「ええ。小さな会社ですから、会社の忘年会や新年会には家族を同席させる社員も多いんです。実和子さんとも、そこで何度か」
岳郎が初めて実和子を連れてきたのは、いまから十一年前。二人が二十歳になったばかりの忘年会だった。
当時、他所の先輩職人が行き着けていたスナックで実和子は働いていた。小さな村から親の手を借りずに出てきたという実和子の生い立ちに、その職人は岳郎を照らし合わせたという。節介をしたくなる年頃だったのか、すぐに岳郎と実和子を会わせた。
二人が距離を縮めるのは、あっという間だった。
会社に住み込みで働いていた岳郎は、いつの間にか実和子が住む単身者用のアパートに入り浸るようになった。
岳郎が実和子を忘年会に連れて行ったのは、お腹の中に二人の子がいるとわかったからだ。まだ若く、将来の見通しも立っていなかった二人にとって、それは嬉しさと不安が入り混じる、形容し難い複雑な感情だっただろう。
しかし、二人はすぐに籍を入れて、事件現場ともなった百人町の都営アパートに移り住んだ。実和子はスナックを辞め、出産後は昼間のパートに出るようになった。
決して裕福な暮らしではなかったが、明子の目には幸せな家庭に見えたという。
「岳郎は昔から血の気が多い子でしたけど、友思くんが産まれてからは物事を冷静に判断できるようになってたんです。岳郎は、恨まれるようなことはしていません」
目を潤ませながらそう訴える明子に、日向は慈悲の念もなく言い放つ。
「本人が直接的に関わっていなくとも、間接的に恨まれることは避けれませんよね。たとえば、昨年春に解雇したという職人の方とか。自分より後に入ってきた人間が切られず、長年従事してきた自分がクビとなれば、普通は面白く思わないでしょう」
「うちにいた職人さんたちは、そんな卑しい考えは持っていませんでした。解雇宣告はしましたけど、伝手はあるから気にするな、と皆さん笑って背中を押してくれたんです」
「あくまで形式的な質問ですので、どうかお気を悪くされないでください」
身を縮める明子に対し、内海が柔らかな声をかける。
少し言い方に気をつけろ――そう視線で促すと、日向は意図を汲み取ったのか、肩をわずかに落とし息を吐いた。
束の間の沈黙は、工務店の引き戸が開かれる音であっという間に破れた。
「お待たせしてすみません」
現れたのは、社長の桶田克昌だった。髪の大半は白に占められており、後退した生え際からは心労が窺える。作業着の上にネイビーのジャンパーを羽織っており、冬場だというのにその額には汗が滲んでいた。警察の訪問を聞きつけ、急いで戻ってきたのだろう。
「すぐそこの民家で修繕工事をやっておりまして……本当は、岳郎が監督に入る予定だったんですけど」
「お忙しいところに押しかけてしまい、申し訳ないです」
「とんでもない。岳郎と実和子ちゃんのためなら、いくらでも協力しますよ」
克昌は明子の隣に腰を下ろすと、唇を噛み締めながら岳郎のことを語った。
内容は明子とおおむね同じで、岳郎や実和子を恨んでいたような人間に心当たりはないという。集団解雇のときも、岳郎に限らず、首の皮一枚繋がった社員たちに恨みを抱くような人間はいなかった。その証拠に、解雇となった全員が、いまは別の会社に雇われていると。
「その方たちの勤務先や電話番号はわかりますか?」
「ええ、わかりますけど……」
内海の問いに、克昌は警戒の色を強めた。
心象が悪いのだろうが、仕方のないことだ。可能性をひとつひとつ潰し、地道に捜査をしていくのが刑事の仕事なのだ。
「すみません。これも形式的なものなので、どうかご協力ください」
「できれば、岳郎さんが関わっていた取引先のリストなども見せていただきたいんですけど」
日向が横から入ってきたことにより、克昌の顔にはさらに皺が刻まれた。しかし、明子が「あなた……」と声を掛けると、唸りながらも立ち上がった。
鍵付きのキャビネットの中から、A4サイズの分厚いファイルを二冊取り出すと、克昌はふたたび腰を下ろした。一冊は顧客リスト、もう一冊は下請け先リストのようだ。その中から、比較的リピート率の高い個人と会社を手帳に書き写す。
「ご協力感謝します」
三十分ほどでその作業を終えると、内海と日向は立ち上がった。
「あの子らのためにも、早く犯人を捕まえてやってください」
「最大限、力を尽くします」
頭を下げる克昌に、内海は確定的な言葉を避けてそう伝えた。
工務店から出る前に、またもや奥のデスクにいた男性と目が合ったが、内海は軽く会釈をしてその場をあとにした。
駐車場に向かいながら、聴取終了の旨を折原に連絡するよう日向に伝える。一瞬眉を顰めたが、日向はスマホを耳に押し当てた。やはり、馬が合わないのだろう。
内海は、不本意といった様子で電話口の折原と話す日向の横で、先ほどの聴取を反芻した。
特に、有力な情報は得られなかった。
ただ、取引先リストの情報を手に入れたことで、捜査範囲が拡大しただけだ。
事件解決までの道のりにさらなる分岐が増えたことにより、手間は二倍三倍に膨れ上がった。これからのことを想像しただけで、気が遠くなる。
隣で、日向がこちらを窺うような視線を向けていることに気づき、我に返る。
「どうした?」
「二人ともキリがいいみたいなんで、近くで飯でもどうかって」
マイク部分を抑えながら訊いてくる日向は、あまり乗り気ではなさそうだ。かくいう内海も、三人以上での会食は好まない。が、断ろうにもいい言い訳が思いつかない。
仕方ない、と息を吐いたところで、背後から忙しない足音が聞こえてきた。
思わず振り返る。
高揚と安堵が、内海の胸で入り混じった。
「日向、断っていいぞ」
「えっ」
「話したいことがあるそうだ」
日向の視線が、内海と同じ方へと向く。
先ほど出たばかりの桶田工務店のほうから、男性が走ってくるのが見えた。
突然やってきた内海と日向を茶と和菓子でもてなしたのは、事務員で社長の妻、明子だった。
苦労しているのだろうか、その皺の数から、年齢は六十ほどにも見える。
「突然押しかけてしまいすみません」
「いえ……主人は、今日から岳郎が入るはずだった現場に代わりに入っておりまして、休憩の合間を縫ってこちらに顔を出すと言っています」
内海の形式上の謝罪に、明子はさらりと答えた。どうやら、昨夜のニュース番組でも事件が取り扱われていたようで、そこで中井夫妻の訃報を知ったという。
事務所の中は、かなり静かだった。従業員は、明子の他に営業の男性が一人。他は現場に出払っているらしい。
明らかに耐用年数が超えているであろうオフィス什器が、会社の経営難を物語っている。天井は照明焼けのせいか黄ばんでおり、壁には色褪せたポスターが貼り付けられている。いつの、何のものかもわからない。
「だいぶ年季が入ってますね。どれくらいやられてるんですか」
日向が辺りを見渡しながら尋ねる。絶妙に配慮が欠けていたが、内海は特に何を言うでもなく、明子の反応を窺った。
「今年で創業四十七年になります。十五年前に義父が倒れてから、主人が後を継ぎました」
「長く続いているのは、それだけ多くの方に愛されている証拠ですね」
内海が称賛の言葉を添える。
しかし、明子はどこか含みのある弱々しい笑みでかぶりを振った。
「もう潮時ですよ。社員の皆さんには、まともに給料も与えてやれてないんです。業績不振で、去年の春には何人か解雇通告をしました。中には、義父の代から献身的に支えてくださっていた職人さんもいて……」
「それは、おつらい決断でしたね」
内海の言葉に、明子が目を伏せた。
そのとき、奥のデスクでキーボードを叩いていた音がぴたりと止んだ。視線を向けると、背広姿の男性社員と目が合った。会釈をしようとしたが、その前に視線を逸らされる。三十代といったところだろうか。彼がきっと、営業の社員なのだろう。
「岳郎は気さくで、職人からも取引先からも信頼されていました。中学卒業してすぐ、うちに来たときはまだやんちゃで、行く先々で他所の職人さんと揉めましてね……子どもがいなかったわたしたち夫婦にとっては、少し大きい息子みたいな存在でした」
「岳郎さんが高校に進学せず、就職を選んだ理由はご存知ですか?」
「いまこそ仲良しですが、当時はご両親との折りが合わなかったみたいで、いち早く独り立ちをしたいということでした。そのときはまだうちも余裕がありましたし、義父がそういうワケアリの若者を受け入れるのが好きな人でして」
「なるほど。……ちなみに、岳郎さんの奥様、実和子さんとはお会いになったことはありますか?」
「ええ。小さな会社ですから、会社の忘年会や新年会には家族を同席させる社員も多いんです。実和子さんとも、そこで何度か」
岳郎が初めて実和子を連れてきたのは、いまから十一年前。二人が二十歳になったばかりの忘年会だった。
当時、他所の先輩職人が行き着けていたスナックで実和子は働いていた。小さな村から親の手を借りずに出てきたという実和子の生い立ちに、その職人は岳郎を照らし合わせたという。節介をしたくなる年頃だったのか、すぐに岳郎と実和子を会わせた。
二人が距離を縮めるのは、あっという間だった。
会社に住み込みで働いていた岳郎は、いつの間にか実和子が住む単身者用のアパートに入り浸るようになった。
岳郎が実和子を忘年会に連れて行ったのは、お腹の中に二人の子がいるとわかったからだ。まだ若く、将来の見通しも立っていなかった二人にとって、それは嬉しさと不安が入り混じる、形容し難い複雑な感情だっただろう。
しかし、二人はすぐに籍を入れて、事件現場ともなった百人町の都営アパートに移り住んだ。実和子はスナックを辞め、出産後は昼間のパートに出るようになった。
決して裕福な暮らしではなかったが、明子の目には幸せな家庭に見えたという。
「岳郎は昔から血の気が多い子でしたけど、友思くんが産まれてからは物事を冷静に判断できるようになってたんです。岳郎は、恨まれるようなことはしていません」
目を潤ませながらそう訴える明子に、日向は慈悲の念もなく言い放つ。
「本人が直接的に関わっていなくとも、間接的に恨まれることは避けれませんよね。たとえば、昨年春に解雇したという職人の方とか。自分より後に入ってきた人間が切られず、長年従事してきた自分がクビとなれば、普通は面白く思わないでしょう」
「うちにいた職人さんたちは、そんな卑しい考えは持っていませんでした。解雇宣告はしましたけど、伝手はあるから気にするな、と皆さん笑って背中を押してくれたんです」
「あくまで形式的な質問ですので、どうかお気を悪くされないでください」
身を縮める明子に対し、内海が柔らかな声をかける。
少し言い方に気をつけろ――そう視線で促すと、日向は意図を汲み取ったのか、肩をわずかに落とし息を吐いた。
束の間の沈黙は、工務店の引き戸が開かれる音であっという間に破れた。
「お待たせしてすみません」
現れたのは、社長の桶田克昌だった。髪の大半は白に占められており、後退した生え際からは心労が窺える。作業着の上にネイビーのジャンパーを羽織っており、冬場だというのにその額には汗が滲んでいた。警察の訪問を聞きつけ、急いで戻ってきたのだろう。
「すぐそこの民家で修繕工事をやっておりまして……本当は、岳郎が監督に入る予定だったんですけど」
「お忙しいところに押しかけてしまい、申し訳ないです」
「とんでもない。岳郎と実和子ちゃんのためなら、いくらでも協力しますよ」
克昌は明子の隣に腰を下ろすと、唇を噛み締めながら岳郎のことを語った。
内容は明子とおおむね同じで、岳郎や実和子を恨んでいたような人間に心当たりはないという。集団解雇のときも、岳郎に限らず、首の皮一枚繋がった社員たちに恨みを抱くような人間はいなかった。その証拠に、解雇となった全員が、いまは別の会社に雇われていると。
「その方たちの勤務先や電話番号はわかりますか?」
「ええ、わかりますけど……」
内海の問いに、克昌は警戒の色を強めた。
心象が悪いのだろうが、仕方のないことだ。可能性をひとつひとつ潰し、地道に捜査をしていくのが刑事の仕事なのだ。
「すみません。これも形式的なものなので、どうかご協力ください」
「できれば、岳郎さんが関わっていた取引先のリストなども見せていただきたいんですけど」
日向が横から入ってきたことにより、克昌の顔にはさらに皺が刻まれた。しかし、明子が「あなた……」と声を掛けると、唸りながらも立ち上がった。
鍵付きのキャビネットの中から、A4サイズの分厚いファイルを二冊取り出すと、克昌はふたたび腰を下ろした。一冊は顧客リスト、もう一冊は下請け先リストのようだ。その中から、比較的リピート率の高い個人と会社を手帳に書き写す。
「ご協力感謝します」
三十分ほどでその作業を終えると、内海と日向は立ち上がった。
「あの子らのためにも、早く犯人を捕まえてやってください」
「最大限、力を尽くします」
頭を下げる克昌に、内海は確定的な言葉を避けてそう伝えた。
工務店から出る前に、またもや奥のデスクにいた男性と目が合ったが、内海は軽く会釈をしてその場をあとにした。
駐車場に向かいながら、聴取終了の旨を折原に連絡するよう日向に伝える。一瞬眉を顰めたが、日向はスマホを耳に押し当てた。やはり、馬が合わないのだろう。
内海は、不本意といった様子で電話口の折原と話す日向の横で、先ほどの聴取を反芻した。
特に、有力な情報は得られなかった。
ただ、取引先リストの情報を手に入れたことで、捜査範囲が拡大しただけだ。
事件解決までの道のりにさらなる分岐が増えたことにより、手間は二倍三倍に膨れ上がった。これからのことを想像しただけで、気が遠くなる。
隣で、日向がこちらを窺うような視線を向けていることに気づき、我に返る。
「どうした?」
「二人ともキリがいいみたいなんで、近くで飯でもどうかって」
マイク部分を抑えながら訊いてくる日向は、あまり乗り気ではなさそうだ。かくいう内海も、三人以上での会食は好まない。が、断ろうにもいい言い訳が思いつかない。
仕方ない、と息を吐いたところで、背後から忙しない足音が聞こえてきた。
思わず振り返る。
高揚と安堵が、内海の胸で入り混じった。
「日向、断っていいぞ」
「えっ」
「話したいことがあるそうだ」
日向の視線が、内海と同じ方へと向く。
先ほど出たばかりの桶田工務店のほうから、男性が走ってくるのが見えた。


