クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 事件の風向きが変わったのは、その翌日のことだった。

 八時半から始まった二度目の朝会で、柳内から耳を疑うような報告がなされた。

「先日、失踪宣告を受けていたという実和子の父親について北鳴門(きたなると)署に捜査協力を要請したところ、白峯村にて人身売買の疑いがあるとの報告が上がってきた」

「はぁ?」

 人身売買。

 突拍子もない単語に、藍だけでなく捜査員全員が声を漏らした。

「おいおい、どういうことだよ」

「これ状況によってはマル暴も絡んでくるんじゃないか」

「マジか、俺苦手なんだよなぁ。匿対(とくたい)のほうがマシだよ」

 マル暴とは、刑事部に属する暴力団対策課のことだ。主に暴力団、違法薬物の取り締まりを担い、元々は「四課(捜査第四課)」「組対(組織犯罪対策部)」とも呼ばれていたが、近年の暴力団勢力の衰退、トクリュウ(匿名・流動型犯罪グループ)への対策強化のために刑事部と統合となり、母体だった組織犯罪対策部はその看板を下ろした。

 ちょうど藍の辞令と重なった組織再編だったため以前の空気感はあずかり知るところではないが、刑事部と同じフロアに下がってきてから、関係性はより悪化しているようだ。もちろん個人間で親睦の深い刑事同士はいるが、組織的に見てみれば仲が良いとは言えない。捜査主導権争いや、そもそもの捜査文化の違いなどがあり、昔から犬猿の仲なのだ。

 しかし徳島県警からの報告が正しければ、暴力団の関与もあり得る。人身売買が県境を越え、東京にまで手が伸びていたとしたらマル暴も黙っていられないだろう。

「静かに! いまのところ、後藤田晋也の捜査については向こうに一任している。一報を寄越してきた刑事から続報はない。とにかくいまは余計なことは考えず、自分たちの仕事に注力してくれ」

 ざわつきを抑え込むように、柳内は腹から声を出してさらに続ける。

「正月早々の事件で、世間からはかなり注目を浴びている。各SNSでも――トレンド入り……とやらをしているらしい。詳細もまだわかっていなければ、今回の事件にどう関わってくるかもまったく予想が出来ない。視野は狭めず、大きく見てくれ。以上」

 柳内が締めると、捜査員たちは散り散りに本部を後にしていく。

 藍も、筆記具を鞄にしまいこむとパイプ椅子の背もたれにかけていた黒のトレンチコートを手にし、立ち上がった。

 しかし、突如として目の前に大きな影が立ちはだかった。

 顔を上げてみるとそこには、何やら落ち着かない様子の日向が立っていた。横にはなぜか、内海の姿もある。

「えっと、何でしょう」

 二人の顔を交互に見る。
 内海からは何も話すことはないようで、なおも口を真一文字に突っ立っている日向を横目に見ている。

「何か言うことあるんだろ」

 空気が白け始めたところで、内海がようやく助け舟を出した。昨日はあの場にいなかったが、おそらく布施から仲裁役を頼まれたのだろう。藍も、なんとなく昨日のことに違いないと思っていたので、そのまま黙って日向の言葉を待った。

 意外にも、日向は大人しく頭を下げてきた。

「昨日は悪かった。ちょっと飲み過ぎたみたいで、お前を傷つけるようなこと言った」

「それから?」内海が腕を組みながら、先を促す。

「手出して、すまなかった」

 ――日向には謝っとけ。

 布施からの助言を思い出し、藍も渋々頭を下げた。

「……わたしのほうこそ。すみませんでした」

 顔を上げると、内海たちの後ろに篠田の姿が見えた。すでに出る準備が出来ているようだ。

「ま、仲良くやれよ」

 内海は役目を終えると、岳郎の鑑取り捜査で組んでいるという那由多とともに部屋を出ていった。那由多にも昨日の一件が耳に入っているのか、謎のウィンクをかまされた。

 警察学校時代から、まったく変わっていない。

 まるで、音階の狂ったピアノのような男だ。しかし、耳障りな音は出さずに妙に心地よいメロディを奏でる。だからきっと、この先誰も調律することをせず放ったらかしにしておくのだろう。実際に、厳正公平であるはずの教官でさえも、那由多の振る舞いには軽く注意をする程度だった。

 気がつけば、隣で朝会に参加していた泉月も姿が見えない。

 刹那、日向と二人だけの気まずい空気が流れた。

「千木良巡査、出れますか」

「はい。……じゃあ、わたし出るんで」

「おう。気をつけろよ」

 柄にもなく素直な声を背に受け、藍も篠田と部屋を出た。

 今日は、麻植小百合と谷美空の聴取だ。二人とも、白峯村出身。徳島県警から上がってきたという人身売買の件が事実であれば、何かしら知っている可能性が高い。かなり重要な任務だ。

 鼓動が骨に響き、細胞という細胞が奮い立たされる。メラメラと滾る士気を手に握り、車に乗り込んだ。

 今日は、篠田は助手席側の扉を開けず、そのまま運転席のほうへと回った。どうやら、物分かりはいいらしい。

「まずは、麻植小百合さんを訪問しましょうか。白金なので、ここからは三十分もかかりません」

「はい」

 エンジンが掛かる。
 もわっとした温かい空気に包まれた。

「昨日は平気でしたか」

 車が敷地外に出たところで、篠田が聞いてきた。

 そういえば見られていたかと、知り合って間もない篠田に褒められたものではない姿を見せてしまったことに、わずかばかりの羞恥が沸いた。

 しかし、先ほど日向と話しているところは見ていたはずだ。当事者間で解決しているのを目の当たりにしたというのに、わざわざ掘り返してくるとはどういうつもりなのだろうか。

 藍は不信感を抱きながらも「心配無用です」と淡白に返した。

「怪我もありませんか」

「殴り合いをしたわけではないので」

「それならよかったです。顔に傷でもついたら、困りますからね」

 嫁にもらえないぞ、ということが言いたいのだろうか。

 幼稚園に通っていた頃、事あるごとに男の子と喧嘩をしていた藍に、母が口酸っぱく言っていたことを思い出した。顔に傷がある女の子はお嫁さんに行けないんだよ、と。その言葉を聞くたびに、女である自分に嫌気が差したのを覚えている。しっかり女である自覚はあったけれど、女を理由にいろいろなことを制限されることに対しては、子どもながらに理不尽さを感じていた。

「……女、だからですか」

 思わず漏れ出た言葉に、藍自身「あっ」と声を漏らした。

 すみません。何でもないです。
 すぐさま前言撤回をしたつもりだったが、篠田は藍の心を汲んだように「いえ」とかぶりを振った。

「男も女も関係ありませんよ。顔に傷があれば、聴取相手も身構えてしまうでしょう。ただでさえ特異な職業なんですから」

「あぁ、たしかに」

 意外にも現実的な返答で、呆気にとられた。

 思わず出た心の声に対して、焦って弁解をしようとする篠田を、藍は思い浮かべていたのだ。

「篠田さんのほうこそ、大丈夫でしたか」

「はい?」

「報告上げたあと、柳内係長に呼び出し食らってましたよね」

 赤信号に捕まり、緩やかに車が止まった。
 篠田は「あぁ」と相槌のような声を漏らし、苦い笑みを浮かべている。

「もしかして、わたし何かやらかしましたかね? それで、篠田さんが代わりにお説教受けたとか」

「いえ、そんなことは――」

「いいですよ、慣れてるので」

「えっ?」

「交番勤務のときからそうです。これまでペア組んだ相手に散々迷惑をかけて、受けて当たり前の罵詈雑言を浴びせられてきたので。篠田さんも、いつまでもお行儀よくしてないで、思うことあったらバンバン言ってください。わたしも、そっちのほうがやりやすいので」

 何も言わず、極限まで鬱憤を溜められて最後に大噴火。そんなことをされてしまっても、じゃあなんであのときに言ってくれなかったんだ、としか思えない。申し訳なさと同時に、頼んでもいない建前で勝手にキャパオーバーをした相手に対して、歯痒さを感じてしまうのだ。それなら、日向のように真っ向から嫌味を垂らしてもらったほうがまだマシだ。

 しかし、そんな思いと裏腹に、篠田は「何か勘違いをされているようですけど」と切り出した。

「柳内係長とは、警察学校時代の同期なんです」

 信号が青に変わり、ふたたび車が動き始めた。右折し、甲州街道へと入る。

 同期。その言葉を聞いて、藍の頭の中には泉月と那由多の顔が思い浮かんだ。友達ではない、同年代の仲間。だとしても、若いうちに出会った彼らとは砕けた口調で話す仲だ。

 ふと、考える。

 篠田は、いつからこんな堅苦しい敬語を使うようになったのだろうか。

「篠田さんって、警察学校にいたときからそんな喋り方なんですか。誰に対しても、慎ましやか、というか……さすがにラーメン屋やってたときはそんなんじゃなかったでしょ」

 何がおかしたかったのか、篠田が笑う。

「ええ、もちろん。私にも、若い頃はありましたからね」

「何かきっかけがあったんですか? いくら何でも、同期にまでそんな堅い敬語は違和感ありますよ」

「まぁ同期と言いましても三十年も前の話ですし、柳内係長は立派に出世されています。一端の所轄刑事の私が、馴れ馴れしく話しかけるのは気が引けるんです。あちらは、あのときと変わらず接してくれていますど」

「でも、一課で一緒だったこともあるんですよね?」

 その問いに、篠田は「まぁ」と曖昧に答えるだけだった。

 あまり踏み込んでほしくないのか、開いていた口は隙間なくそっと閉じられた。藍も、これ以上は聞かないほうがいいかもしれない、と口を噤んだ。好奇心はあったが、穏やかな篠田の顔に一瞬だけ陰が差したような気がして、そこに踏み出す勇気はなかった。これが事件の参考人であれば、たとえどんな暗闇であろうとも躊躇なく扉を開けていたのだが。

 正月休み明けのせいか、なかなか車は進まない。少々、渋滞しているようだ。

 エンジン音だけが鳴り響く車内で、不意に篠田の声が落ちた。

「慣れたらいけませんよ」

 言葉の意図が理解できず、藍は篠田の横顔を見つめた。篠田は視線を感じてか藍を一瞥すると、その言葉の補足をするように続けた。

「罵詈雑言、慣れないでください」

「あぁ……」

「もっと、自分を大切にしてあげてください。達観せずに、生きてください」

 低く温かい声に、全身が包まれたような気がした。篠田に対する不信感とは相反するその感覚を振り払うように、藍は頭を揺らす。

「ラーメン屋や刑事よりも、カウンセラーのほうが向いてそうですね」

 むず痒さを誤魔化すようにそう言えば、篠田は「年の功ってやつですよ」と小さく微笑んだ。

 結局、四十分ほどかけて目的地に着いた。

 想像していた十倍ほどの高さの、いわゆるタワーマンションというやつだ。隣接する敷地には来訪者専用の大きな駐車場もあり、篠田は車をその中へと滑り込ませた。

「ずいぶんといいところに住んでますね。玉の輿ってやつかな」

「どうでしょうね」

 駐車場を出て、正面口からマンション内へと入る。一つ目のオートロックで麻植小百合の部屋番号を入れると、インターホンの向こうから透明感のある声が聞こえてきた。
 やはり本部のほうですでに手回しがあったようで、身分を名乗ると、すんなりと通された。

 ロビーはまるで三ツ星ホテルのように洗練されており、落ち着いた雰囲気を纏っていた。パッと見ただけで、四台の防犯カメラが確認できた。背筋が伸びた七三分けのコンシェルジュの元で来館手続きを終えると、突き当りを左に曲がったところに二つ目のオートロックがあることを伝えられる。管理費だけでも、かなり掛かっているはずだ。

 二個目のオートロックで、先ほどのように部屋番号を入力すると、間もなくしてロックが解除された。

 無駄に広いエレベーターに乗り込み、最高層階の『40』のボタンに触れる。最低限の振動と音で、かごが動き始めた。

 藍は、初めて見たタワーマンションの内装に興味を示しながらも、手に汗を握っていた。

 自分が幼いころに住んでいた都営住宅とは、勝手がまるで違う。コンシェルジュもいなければ、防犯カメラなんてダミーだ。もし、自分や中井一家が住んでいた場所がこのマンションだったら――なんて考え始めたところで、エレベーターの扉が開いた。気圧の変化で、少々耳が詰まっている。

 共用廊下はダークブラウンの壁に囲まれ、等間隔に設置されたダウンライトからは電球色が降り注いでいた。ワンフロアにいったい何戸あるのだろう、といった広さの廊下で、麻植小百合の部屋はすぐにわかった。扉を開け、藍たちの来訪を待ち構えていたからだ。

「麻植小百合さんですね。我々――」

「電話はいただいています。どうぞ」

 警察手帳を提示する間もなく、リビングへと通される。

 白や淡色系で統一された部屋に、生活感は感じられない。あまりにも均質的なインテリアから、他の人間の意思や嗜好は匂わない。ただ、リビングと寝室を隔てる扉の隙間から、一人で寝るには大きすぎるベッドが見えた。

 しかし、突然ぴしゃりとその隙間が閉じられた。

 視線を移せば、そこには怪訝そうな顔の小百合が立っている。

「そんなじっくり見んでよ。内見しに来たわけやないですよね」

「……失礼しました」

 軽く頭を下げれば、小百合はすたすたとキッチンのほうへ歩いていった。ポットを手にする姿を見て、篠田はすかさず「お構いなく」と言ったが、小百合はその手を止めることはなかった。

「自分の分やから、お構いなく。さっさと終わらせてもらえますか」

 ポットを持った方の手で「テキトーに座ってください」とジェスチャーされ、テーブルを挟んで向かい合うように置かれたダイニングチェアに二人は腰を掛けた。小百合はキッチン台に軽く寄り掛かり、高そうなマグカップを両手にそっと口をつけた。

 諧謔(かいぎゃく)の混じった口調に、小百合の温度を測りかねる。どのように出るべきか迷っていると、小百合のほうから口を開いた。

「テレビで見たわ。実和子、死んだんやってね」

「実和子さんとは、最後いつお会いになりましたか」

「いつやったかなぁ……もうだいぶ()うとらんと思うけど」

「では、上京してからは少なくとも会ってる、ということですよね。スマホに連絡先があったくらいですから」

「ほうやね。おんなじ村から出てきたもの同士やったけん、近くにおったら会うでよ。うちはそーゆーの、あんま好きやなかったけど」