暗い廊下を少し進んだ先に、自販機が設置されている。ベンチソファも置かれており、布施はそこに腰をかけていた。両手には、無糖と微糖のコーヒー缶が握られている。何も言わずに無糖を差し出され、藍はそれを受け取ると、布施の隣に腰を掛けた。
プルタブに指をかけ早速一口飲む布施の横で、藍は両手を温めるように缶コーヒーを持っている。言い訳をする気にもなれず、かと言って、自分に落ち度があったとも思えない。
「日向に何か言われたのか」
しばらくは藍からの言葉を待っていたが、布施は痺れを切らして口を開いた。
「布施主任には関係ないことです」
言えるわけがない。自分と布施が男女の関係にあるという噂に腹を立て、手を出してしまったなんて。
「関係ないことないだろ」
「ない」
「ある」布施の声色が、柔らかいものへと変わる。「どうしたの」
夜中に一人で外を歩く少女に優しく声を掛ける青年の顔が、藍の頭をよぎった。
もう十二年も前の話だ。
それでも布施は時々、あのころと同じような温かい瞳で、藍に向き合う。その眼差しを向けられては、隠し事などできない。しかし、今回は内容が内容だ。すんなりと真相を打ち明けるわけにはいかない。
「ついカッとなっただけ」
「その理由が知りたいんだけど」
「言いたくない」
「ガキか」
「係長と同じこと言わないでよ」
ソファに身を預け、薄暗い天井を眺めた。
自販機の明かりが、かろうじてこの空間を照らしている。
「こーゆー会話、知らないうちにいろんな人に聞かれてたのかも」
「うん」
「……わたしと布施さん、デキてるんだってさ。一課内で、あの二人は寝たことがある、って噂らしい」
ここに蛍光灯の明かりがあったのなら、きっと話すことはできなかっただろう。
こんな話、布施の顔をまともに見てできるはずがない。
「日向に、そう言われたの?」
「そう」
――ありえない、って否定されるかな。それはそれで少し寂しい。
想いを伝えてもいないのに、望まぬ形で失恋してしまうのではないかと、心がざわついた。
しかし、返ってきたのは布施の笑い声だった。
「寝たってことに関しては、噂じゃなくて事実だな」
「はっ?」
「まさか、それも覚えてないのか?」
「へっ」
予想だにしなかった返しに、藍は思わず布施のほうに顔を向けてしまった。
いたずらな笑みを浮かべる布施に、藍の顔はゆでダコのように赤くなっていく。そんな藍の両頬を片手で掴むと「どんな想像してんだよ」と、軽く揺らす。
「か、揶揄わないでよっ」
その手を払いのけ、藍は視線を逸らした。そして、手に持っていた無糖コーヒーの缶を開け、誤魔化すようにその縁に唇をつけた。
「本当に覚えてないのか」
「……いつの話ですか」
言いながら、藍は記憶を辿った。
しかし、布施と二人きり、泥酔して記憶を飛ばすまで飲んだ記憶はない。そもそも、藍は酒に強い。潰れるという失態は、犯したことがない。
では、いつ、どこで――。
「十二年前」
記憶の引き出しを開け切ったところで、布施がぽつりと呟いた。
「ホワイトクリスマスのあの日だよ」
――十二年前。ホワイトクリスマス。
今朝の夢の続きが、突如として脳内に流れてくる。
「病院に搬送された藍ちゃんが、一人じゃ寝れないからそばにいてくれってお願いしてきた。あのころは可愛かったんだけどなぁ」
「何言ってんの、いまも可愛いでしょ」
はいはい、と軽く流される。
布施は缶コーヒーを一口飲んでから、話を続けた。
「寝るまでそばにいてやろうって思ってたのに、気づいたら俺も寝ちゃってて――思い出した?」
「うん、思い出した。そのあと、上司に怒られたって話もね」
布施が、くつくつと笑う。
「そうそう。未成年の女の子の病室で、二人きりで一晩を明かすなんて前代未聞だー、ってな。こっぴどく叱られたよ」
「そりゃそうだよ」
藍は苦笑した。
それでもあの日、布施がそばにいてくれたことが、藍にとって唯一の救いだったのだ。目を覚ましたとき、もしあの場に布施がいなかったらと考えると胸の奥がぞわりと冷えた。きっと、いまの自分はない。
布施がおもむろに立ち上がる。空になった缶をゴミ箱に捨てると、今度は藍の目の前で片膝を立てた。ビー玉のように透き通った瞳で、藍のことを見つめている。
「堂々としてればいい」
「……うん」
大きな手が藍の小さな頭に乗っかり、何回か弾んだ。
「全部終わったら、話したいことがある」
「えっ」
「俺と藍ちゃんの、これからに関わる大事な話」
「ちょっ、それって――」
立ち上がり、踵を返す布施の背中に、藍は手を伸ばした。
途端、捜査一課の大部屋でよく聞く、低い声色で名を呼ばれた。
藍ちゃん、ではなく、千木良、と。
このモードになってしまえば、自然と背筋は伸びる。
「帳場が立ったばかりだ。あまり、敵は作らないほうがいい」
「はい」
「日向には謝っとけ。それから、止めてくれたやつらにもな」
「……わかりました」
日向に対しての謝罪は納得いかなかったが、巻き込んでしまった周囲の捜査員にはきちんと謝っておくべきだと思った。
それにしても――。
「わたしと布施さんの、これから――って」
暗闇に消えていく大きな背中を見つめながら、藍は先ほどの布施の言葉を反芻した。
糸が切れたように、頬が緩む。
誰に見られているわけでもないのに、藍は弛緩した表情を隠すようにその顔を両手で覆った。
プルタブに指をかけ早速一口飲む布施の横で、藍は両手を温めるように缶コーヒーを持っている。言い訳をする気にもなれず、かと言って、自分に落ち度があったとも思えない。
「日向に何か言われたのか」
しばらくは藍からの言葉を待っていたが、布施は痺れを切らして口を開いた。
「布施主任には関係ないことです」
言えるわけがない。自分と布施が男女の関係にあるという噂に腹を立て、手を出してしまったなんて。
「関係ないことないだろ」
「ない」
「ある」布施の声色が、柔らかいものへと変わる。「どうしたの」
夜中に一人で外を歩く少女に優しく声を掛ける青年の顔が、藍の頭をよぎった。
もう十二年も前の話だ。
それでも布施は時々、あのころと同じような温かい瞳で、藍に向き合う。その眼差しを向けられては、隠し事などできない。しかし、今回は内容が内容だ。すんなりと真相を打ち明けるわけにはいかない。
「ついカッとなっただけ」
「その理由が知りたいんだけど」
「言いたくない」
「ガキか」
「係長と同じこと言わないでよ」
ソファに身を預け、薄暗い天井を眺めた。
自販機の明かりが、かろうじてこの空間を照らしている。
「こーゆー会話、知らないうちにいろんな人に聞かれてたのかも」
「うん」
「……わたしと布施さん、デキてるんだってさ。一課内で、あの二人は寝たことがある、って噂らしい」
ここに蛍光灯の明かりがあったのなら、きっと話すことはできなかっただろう。
こんな話、布施の顔をまともに見てできるはずがない。
「日向に、そう言われたの?」
「そう」
――ありえない、って否定されるかな。それはそれで少し寂しい。
想いを伝えてもいないのに、望まぬ形で失恋してしまうのではないかと、心がざわついた。
しかし、返ってきたのは布施の笑い声だった。
「寝たってことに関しては、噂じゃなくて事実だな」
「はっ?」
「まさか、それも覚えてないのか?」
「へっ」
予想だにしなかった返しに、藍は思わず布施のほうに顔を向けてしまった。
いたずらな笑みを浮かべる布施に、藍の顔はゆでダコのように赤くなっていく。そんな藍の両頬を片手で掴むと「どんな想像してんだよ」と、軽く揺らす。
「か、揶揄わないでよっ」
その手を払いのけ、藍は視線を逸らした。そして、手に持っていた無糖コーヒーの缶を開け、誤魔化すようにその縁に唇をつけた。
「本当に覚えてないのか」
「……いつの話ですか」
言いながら、藍は記憶を辿った。
しかし、布施と二人きり、泥酔して記憶を飛ばすまで飲んだ記憶はない。そもそも、藍は酒に強い。潰れるという失態は、犯したことがない。
では、いつ、どこで――。
「十二年前」
記憶の引き出しを開け切ったところで、布施がぽつりと呟いた。
「ホワイトクリスマスのあの日だよ」
――十二年前。ホワイトクリスマス。
今朝の夢の続きが、突如として脳内に流れてくる。
「病院に搬送された藍ちゃんが、一人じゃ寝れないからそばにいてくれってお願いしてきた。あのころは可愛かったんだけどなぁ」
「何言ってんの、いまも可愛いでしょ」
はいはい、と軽く流される。
布施は缶コーヒーを一口飲んでから、話を続けた。
「寝るまでそばにいてやろうって思ってたのに、気づいたら俺も寝ちゃってて――思い出した?」
「うん、思い出した。そのあと、上司に怒られたって話もね」
布施が、くつくつと笑う。
「そうそう。未成年の女の子の病室で、二人きりで一晩を明かすなんて前代未聞だー、ってな。こっぴどく叱られたよ」
「そりゃそうだよ」
藍は苦笑した。
それでもあの日、布施がそばにいてくれたことが、藍にとって唯一の救いだったのだ。目を覚ましたとき、もしあの場に布施がいなかったらと考えると胸の奥がぞわりと冷えた。きっと、いまの自分はない。
布施がおもむろに立ち上がる。空になった缶をゴミ箱に捨てると、今度は藍の目の前で片膝を立てた。ビー玉のように透き通った瞳で、藍のことを見つめている。
「堂々としてればいい」
「……うん」
大きな手が藍の小さな頭に乗っかり、何回か弾んだ。
「全部終わったら、話したいことがある」
「えっ」
「俺と藍ちゃんの、これからに関わる大事な話」
「ちょっ、それって――」
立ち上がり、踵を返す布施の背中に、藍は手を伸ばした。
途端、捜査一課の大部屋でよく聞く、低い声色で名を呼ばれた。
藍ちゃん、ではなく、千木良、と。
このモードになってしまえば、自然と背筋は伸びる。
「帳場が立ったばかりだ。あまり、敵は作らないほうがいい」
「はい」
「日向には謝っとけ。それから、止めてくれたやつらにもな」
「……わかりました」
日向に対しての謝罪は納得いかなかったが、巻き込んでしまった周囲の捜査員にはきちんと謝っておくべきだと思った。
それにしても――。
「わたしと布施さんの、これから――って」
暗闇に消えていく大きな背中を見つめながら、藍は先ほどの布施の言葉を反芻した。
糸が切れたように、頬が緩む。
誰に見られているわけでもないのに、藍は弛緩した表情を隠すようにその顔を両手で覆った。


