クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 驚いて振り向くと、そこには憎たらしい日向の顔があった。酒を飲んでいるのか、顔が赤い。しかし、藍を見る目は今朝のそれと変わらなかった。

「……何」

「お前も付き合えよ」

「無理」

 それまで掴まれたままだった腕を振り払う。その衝撃のせいか、日向はだらしなくおくびを吐いた。瞬発的に、鼻を覆う。

「飲み過ぎでしょ……そんなんで明日大丈夫なの」

「お前に心配される筋合いはない」

「心配してるわけじゃない」

「いいから座れ」

 無理に手を引っ張られ、近くにあった椅子に座らされる。同じテーブルには、所轄の捜査員が四人ほど。ここが捜査本部の部屋だということを忘れているのか、かなり酒が回っている様子だ。幹部たちは、この有り様をどう見ているのだろうか。

「千木良さん、だっけ。まだ若いのに一課だなんて、すごいねぇ」

「俺も若いころは何度か希望出したんだけどな、志半ばで挫折したよ」

 缶ビールを片手に、顔も名前も知らない中年刑事たちが、こぞって藍に構う。

 若いのに。女なのに。すごいね。

 捜一に配属されてから、耳にタコができるほど聞かされた言葉の数々に、またかとため息が出かける。それをなんとかして飲み込んだとき、日向がわざとらしく喉を鳴らして笑った。

「違いますよ。こいつ、自分の実力でのし上がってきたわけじゃないんで」

 その一言に、ヘラヘラと笑っていた捜査員たちの顔が固まった。空気を読むように顔を見合わせる捜査員たちには目もくれず、藍は日向へと鋭い視線を向けた。

「それ、どういう意味」

 日向は、憎たらしい笑みを浮かべていた。

 しまった。乗ってしまった。

 そう思ったときにはすでに遅く、日向はゴシップネタを話すように、トーンを下げつつも好奇が透ける弾んだ声で言った。

「課内で噂になってるんスよ。こいつが、布施主任と寝たんじゃないかって」

「……は」

「異動してきてから、妙に親密そうなところを見たってやつもいるし。そもそも、こんな生意気なちんちくりんが、優秀な先輩刑事を差し置いて一課だなんて、普通じゃ――」

 日向の声が途切れた。いや、藍が途切れさせたのだ。

 代わりに、ぱちん、と乾いた音が部屋中に響き渡った。それまで各テーブルで騒がしかった捜査員たちが一斉にこちらに振り向いたが、藍の視線の先には片頬を赤くした日向しか映っていない。

 考えるよりも前に、体が動いていた。
 椅子から立ち上がると、打たれて放心状態の日向の胸ぐらを掴む。危険を察知したのか、何人かが止めに入りに来ていたが、もはや藍の視界には入っていない。

「くっだらな」

「はぁ?」

「ネチネチネチネチ、うっさいんだよ。自分よりも早い段階で一課に来たわたしのことが、羨ましくて堪らないだけでしょ?」

 煽るような発言を受けた日向は、顔を震わせながら椅子から立ち上がった。それまで静観していた他の捜査員たちも、さすがに腰を上げた。

「お前、あんまナメてると――」

「ナメてるのはどっち。そんなに悔しいなら、結果でわたしのこと黙らせて。あんた、刑事でしょ?」

 次の瞬間、日向の手が藍の襟元を掴んだ。

 二人の間に、近くにいた捜査員たちが駆け寄る。
 その光景は、ライブ中のモッシュさながらだった。

 おしくらまんじゅう状態で、それでもなお、両者とも手を離さずに睨み合う。缶ビールの中身が溢れても、椅子が倒れても、その場が静まり返ることはなかった。

「おい、何してんだ!」

「やめろって。ここ本部だぞ!」

 アルコールを摂取せずに残業をしていた素面の捜査員たちの懸命な制止のおかげで、ようやく互いの手が離れる。ここまで止められては、さらに掴み掛かる気力もなく、ただ、荒い呼吸だけが残った。

 落ち着け、と言わんばかりに肩を叩かれ、日向から離れたところへと移動させられる。幹部の誰かが戻ってくる前に事態を収拾しようとしていた中堅の捜査員たちの努力も虚しく、騒ぎを聞きつけた柳内が部屋に戻ってきた。その後ろには、篠田、そしてちょうど帰庁した布施と、泉月の姿もあった。

「おいおい、何だこれは」

 荒れた部屋を見て、柳内がこちらへと寄ってくる。
 羽交い締めされている日向と、宥められている藍を見比べると「何があった」と低い声で問いかけた。篠田たちも、何事かと目を丸めている。

 ふと、布施と目が合った。

「……別に」

 いつもであればその瞳を見つめ返しているけれど、藍はすぐに視線を逸らした。ぷいっと顔を背けた藍に、柳内は「ガキか」と呆れたように額に手を当てた。

「誰か、この状況を説明しろ」

 しかし、答える者はいない。

 布施と藍のゴシップネタが着火剤となりました、なんて、本人を前に言えるはずがない。それに、ここにいる大半が騒ぎの全貌を把握していなかった。

「千木良、」

「……はい」

「ちょっと布施と話してこい」

 このタイミングで、とも思ったが拒否するわけにもいかない。

 部屋の前方に立っていた布施は、状況を飲み込めていないはずだったが、柳内の言葉を聞くと、藍に頷きかけ先に廊下へと出て行った。

「日向、」

「……っス」

「お前はこっちだ」

 柳内が、日向を部屋の奥へと誘導する。
 藍は、その背中を見送った。

 捜査員たちの痛い視線を受け止めると、せめてもの謝罪として一礼を残し、重たい足取りで部屋を出る。

 その直前、泉月と目が合った。
 悪さをして呼び出しを食らった友人を見送るような、やっちまったな、という呆れと笑いがないまぜになった眼差しだった。