クロスロード -警視庁捜査一課・千木良藍-

 篠田が車に戻ってきたのは、十分ほど経ってからだった。

 過呼吸同然の祐衣を落ち着かせたあと、藍たちは菅原宅を後にした。

 時刻は十一時半。昼飯にしてはやや早いような気もしたが、朝から何も食べていない藍の胃は水分も養分もなく枯れ果てていた。
 近くの定食屋でのランチを勧められたが、改まって食事を共にするには、関係値がまだ足りていない。というより、藍は篠田とは合わない気がしていた。だからこそ、車内で手っ取り早く昼食を済ませてしまおうと思っていたのだが、篠田が提げたビニール袋の中身を見て絶句した。

「どうかされましたか?」

「どうかされてるのは、そちらじゃないですか篠田さん」

「と、言いますと」

「何これ」

 袋の中から、問題の品を取り出す。

 オムライスおにぎり――通称・オムにぎり。
 それから、明らかに幼児向けの紙パックのりんごジュース。パッケージには、かの有名なアンパンのヒーローが描かれている。藍自身も小さいころによく観させられていた、あの国民的アニメだ。

「わたしのこと、三歳児だと思ってます?」

「え、お嫌いでしたか」

「いや好き嫌いの問題じゃなくて……」

 やはり揶揄われているのかとも思ったが、篠田の至って真剣な表情を見て口にするのをやめた。いや、これが揶揄いでないとするのであれば、それはそれで少し怖いが。

 篠田はオムにぎりを左手に、紙パックを右手に持って、早速昼食を取っている。

 ――次からは頼まずに、自分で買いに行こう。

「……いただきます」

 とりあえずいまは、栄養を摂らなければいけない。先ほどのように、いつまた柳内から連絡が来るかわからない。やれ茨城だの、やれ千葉だの、基本的に本部に腰を据えている捜査主任官は、地図の上をなぞるかのように指示を飛ばしてくる。その指示通り、藍たちは駒のように動くしかないのだ。

 オムにぎりとりんごジュースは、懐かしい味がした。特別に頑張った日に、母が食卓に出してくれていたものによく似ている。裕福と言えない家庭で育った藍にとって、卵とジュースでさえも相当なご褒美だった。

 案外悪くない。
 篠田を詰ろうと思っていた先ほどまでの気持ちは、オムにぎりとりんごジュースと共に、すとんと胃に落ちていた。

「柳内係長、実和子さんの父親の失踪について、なんて言ってました?」

「他の班からすでに報告が上がっていたようで、事情は把握しておられました」

 父親の名前は、後藤田晋也(しんや)。生きていれば、五十六歳。幸枝とは六歳差だ。

「病院に戻って、幸枝さんから話を聞きましょう。こんな大事なこと、いったいどういうつもりで隠してたのか確認しないと」

「それはできません」

 そんな返事が返ってくるような気はしていたが、いざ口に出されると、ため息が漏れた。

 バディを組んでから三時間も経っていないというのに、篠田の人間性はなんとなく掴めている。

「まともに話をできる状況じゃないから、ですか」

「おっしゃる通りです。わかっていただけますか」

「いえ、まったく」

 ビニール袋の中に、オムにぎりの包みと空になった紙パックを投げ入れた。

「相手が混乱していて整理がついてないときこそ聴取のチャンスでしょ、普通に考えて」

「支離滅裂な聴取をとったところで、捜査も混乱に陥ります。ここはじっくりと時間を取って、ひとつずつ聞き出していくのが無難です。それに、徳島県警への捜査協力を要請するよう、柳内係長にも依頼しておきました」

「それならそうと、先に言ってくださいよ」

「すみません」

 ふたたび、ため息。

 しかし、このため息は篠田だけに向けられたものではない。今日聴取をした、後藤田幸枝、菅原祐衣に対するものでもある。

 藍の頭には、二人の言葉がぐるぐると回っていて、心の靄はなかなか晴れない。

 ――一線を引いて、踏み込みすぎんようにしてきました。

 ――聞けませんよ。付き合いが長いと、意外とそういうもんですよ。

 なぜなのだろう。

 お互いが生きていて、コミュニケーションを取れる手段がある中で、なぜあの人たちは話すことをしなかったのだろう。本当の気持ちを隠し隠され、結局何もわからないまま、中井実和子は死んでしまったのだ。

 もう、その心に踏み込むことはできない。

 同期に素直な気持ちを明かすことのできない自分が言えたことではないのだが。

 幸枝も祐衣も、生前に話しておけばよかったと、深く後悔しているはずに違いない。

「……バカみたい」

 思わず漏れた声に、篠田が反応する。藍は「何でもないです」と素っ気なく返すと、車窓の外をぼんやりと眺めた。

 パーキング前の道を、小学生くらいの女の子と母親が手を繋いで歩いていくのが見えた。お揃いのマフラーを首に巻き付けて、肩をすくめながらも楽しそうに笑い合っている。

 どんな話をしているのだろう。

 お年玉を何に使うか。お雑煮の具は何が美味しかったか。はたまた、新年の抱負について語り合っているのかもしれない。
 そんなことを考えていると、いつの間にかパーキングの精算を終えた篠田が、車を出した。

 午後は、地取り班の応援に回ることになった。

 メッシュマップに基づき当該区域の全世帯に聞き込みをする地取り捜査は、中心地から離れるにつれ、有力情報を得られる可能性は低くなっていく。

 藍たちは、一番外側の区域を担当している班の応援に入った。中心区域に捜査員が集中投下されたことにより、人員が不足していたのだ。

 しかし、(しらみ)潰しに当たっても、結局何ひとつ情報は得られなかった。

 どれほど足を動かし、手を動かしても、必ずしも対価があるわけではない。地味で無駄とも思える地道な捜査は、藍が一番嫌うものだ。

 帰庁したのは、午後八時を過ぎてからだった。

 部屋の後方では弁当を食べながら缶ビールを開けている者もいたが、藍と篠田はその横を通り過ぎ、雛壇席へと向かった。今日一日の成果を報告しなければならない。

 初日にして、すでに疲労の色が見える柳内の前に立つ。水分をすべて抜かれたような、干し野菜のような顔だ。今朝びしっと決まっていたスーツは、ネクタイが緩められ、ジャケットのボタンも開けていた。
 柳内は二人に気づくと、力なく片手を上げて「お疲れさん」と労いの言葉を口にする。

「千木良、初陣はどうだった」

「大敗北です。まさか、仲間に首を斬られるとは……」

 柳内の眉がぴくりと上がる。

「シノ、お前何かしたのか」

「え、私ですか」

 篠田は、やってもいない罪を着せられたかのように目を丸くした。

 ――白々しい。

 もし、あのまま後藤田幸枝の聴取を続行していたら、有力な何かを得られていたかもしれない。しかし、途中で聴取を切り上げてしまったことにより、あと一歩というところでお預けとなった。

 重要参考人とも言える人間に、考えさせる時間を与えてしまっている。

 後藤田晋也の失踪を伏せていた以上、うしろめたい何かがあったはずだ。その何かが、今回の事件に少なからず関係していると、藍はそう確信していた。

 白けてしまった空気に居心地の悪さを覚えたのか、柳内はひとつ息を吐くと、捜査報告を求めてきた。基本的にメモを取っていたのは篠田だったため、藍は横で理路整然とした報告を聞くに留まった。

 初日にしてはまずまず。それが、柳内の評価だった。

「明日も引き続き、実和子の鑑取りを頼む」

 麻植(おえ)小百合(さゆり)(たに)美空(みそら)
 柳内の口から出た二人の名前と住所を、手帳に書き込んだ。こちらの二人も、徳島県白峯村の出身らしい。後藤田家のことについて、詳しい情報を持っている可能性が高い。

「じゃ、明日に備えてゆっくり休んでくれ」

「お疲れ様です」

「――あ、ちょっと待った」

 踵を返したところで、柳内の声に足を止めた。

「シノ、少しいいか」

「はい」

 突然の指名に焦った様子も見せず、篠田は藍に「明日もよろしくお願いします」とだけ伝えると、柳内について部屋を出ていった。

 いっきに、肩の力が抜ける。
 なんだか今日は、とても疲れた。

 ジャケットポケットの中から、ごろごろと入っているうちのひとつを取り出す。金の包み紙を外すと、サイコロ型のチョコレートが茶色い肌を現した。藍はそれを、一口で口の中に放り込んだ。

 ほんのり甘くて苦い濃厚な味が、脳を満たしていく。ごちゃごちゃになっていた頭も、ずんと重かった体も、みるみる回復していく気がした。

 ――今日はもう寝よう。

 部屋中を見渡してみても、泉月の姿はない。まだ帰庁していないのか、帰庁していたとしたら先に仮眠室に戻っているだろう。本部の部屋は見ての通り、むさ苦しい男たちの巣窟だ。

 もはや大衆居酒屋かと目を疑うほど、アルコールと油のにおいが充満している。これで、明日の朝会にまともに出席できるのだろうか。

 呆れと苛立ちが相半ば、長机の間をすり抜けていくと突然腕が掴まれた。それも、かなり強い力で。