ザッと音がした瞬間、自分の中の時が止まった気がした。
 呼吸さえも惜しんで、突然空を飛んで横から現れた金髪の少年を、村上光流《むらかみみつる》は食い入るように見つめていた。
 文字通り飛んで目の前を横切ってきたのだ。スケボーに乗りながらだけど。

 少年という割には背の高い彼は、グレーのパーカーに黒いズボンを履いていた。
 夜の公園でスケボーを自由自在に操り、高度な技術と思える技を次々に披露していく。ど素人の自分でもわかるくらいなのだから、スケボーに詳しい人が見れば騒ぎ立てるかもしれない。

 ——すごい! 何いまの、カッコいい‼︎

 バイト先から家までの近道の為に公園の脇道を突っ切ってきたのは正解だったのかもしれない。そうでなければ出会ってなかったからだ。
 まるで獣道みたいになっている脇道で直立不動のまま見つめ続ける。

 ——スケボーでジャンプ出来る人って生で初めて見た!

 興奮しきって胸の鼓動が治らない。年齢的には十七歳になったばかりの自分と同じくらいか、少し年上の印象を受けた。

 どう頑張ったって自分では出来ない事をいとも簡単にあっさりとやってのけた彼が凄すぎて、今の感情をどう表して良いのかさえも分からなかった。

 すっかり虜になってしまい、瞬きするのも惜しくて見つめ続ける。彼の練習をずっと眺めていたら、コチラの存在に気がついたのか不意に視線が絡んだ。

 物陰にいるから不審者だと思われた可能性もあったので、不審者じゃないと説明しようと唇を開こうとしたけど音にならなかった。
 何も言葉を発さないまま数秒間見つめあう。沈黙が痛い。

 ——あれ? この人どこかで見たような……?

 街灯だけではよく見えないものの、妙な既視感を覚えた。どこで見たっけ? と逡巡する。
 男は「あ」と小さく言葉を発するなり、パーカーのフードをサッと深く被って、ボードを小脇に抱えたと思いきや、駆け足でその場を去っていく。

「しまった。名前くらい聞いておけば良かった」

 もう少し気を回せていれば会話くらい出来たんじゃないかな? と思うと悔やまれる。そんな言葉も出てこないくらいに彼のボードテクニックに魅せられていたのだから仕方ない。

 ——うるさいうるさい。どうしよう、まだ心臓がうるさい。

 痛いくらいに鼓動を刻んでいる。もっと彼がスケボーをしている所を見ていたかった。あと、出来るなら会話もしてみたかった。
 友情とも恋情とも違うこのトキメキは、一体何と言ったらいいんだろう?

『あたしの推しがさー』
『推し最高~』

 クラスの女子生徒たちの会話が脳裏をよぎっていく。

「推し……? そうだ! 推しだよ、推し!」

 顔が熱い。今鏡を見ると顔が真っ赤な自覚があった。ただでさえ猛暑日に近い程に暑いというのに、全身が茹ってどうにかなってしまいそうだ。

 ——推しヤバ……っ。死ぬ程カッコ良かった。

 身悶えていられたのも束の間で、姿勢をシャンと伸ばす。慌ててスマホで時間を確認するなり走り出した。

「早く帰らなきゃ、美咲《みさき》さんと滋《しげる》さんが心配する!」

 美咲と滋は自分を引き取って育ててくれている里親だ。穏やかで心優しい二人には三歳からお世話になっている。そんな二人を心配させるのは不本意だった。
 全速力で走っているので、今度は別の意味で呼吸が乱れて心音が激しくなっていく。

 ——夜九時十五分くらいだから、九時くらいにここに来ればまた会えるかな?

 試験前は極力バイトを入れないようにしていたけれど、少しだけ増やしてみようかなと考えて即座に首を振った。

 ——それはダメ。また倒れたら逆に迷惑をかけてしまう。

 一年生の時に二人の負担を少しでも減らしたくてバイトを頑張りすぎて倒れてしまった経緯があるだけに、これ以上スケジュールを増やす訳にはいかなかった。

 ——コンビニ行くとか理由をつけて、この時間に少しだけ抜け出すくらいなら有りかな?

 それなら良いかもと逡巡する。
 バイトが終わった時はあんなに疲れ果てていたというのに、帰路を辿る足取りまでもが軽くなっていく。それに加え、陰鬱な夜の公園さえも輝いて見えるから不思議だ。

 ——推しが出来るだけでこんなにも世界が変わるんだ。

 クラスの女子生徒たちの気持ちが痛いほど分かってしまい思わず笑う。何なら自分も推し話題に混ざれるかも? と思った自分自身に驚きを隠せなかった。


 ***


 次の日、浮かれ気分で学校へ行くと、隣の席の海堂愁《かいどうしゅう》はもう既に机の上に突っ伏して寝ていた。

 ——まだホームルームも始まっていないんだけど……。

 彼は変人で、ある意味有名だ。
 つい一か月くらい前に転入してきたばかりだけれど、目が隠れるくらいに長い前髪の黒い蓬髪に、野暮ったい分厚い黒縁の眼鏡、黒マスクをしているのもあって顔がほぼ見えない。

 噂では外国人と日本人とのハーフらしい。どこにもその要素がなく、髪の毛も瞳の色も黒色で手足が長いひょろっとした長身だからか、昭和期の文豪作家の印象を受けた。

 見た目は自分と似たような陰キャなのに、どこか漂う空気が違う。それは妙な悪い噂があるのもあって皆一線を引いて接しているのが見て分かるし、自分からも彼に関わった事もなかった。

 数分もしない内に担任の教師が入ってきて、海堂は一度起こされていたもののまたすぐに寝始めた。

 その横でいつも通りノートを取っていく。あまりにも気持ちよさそうに寝ている海堂を見ていると自分まで眠くなってきて、うつらうつらと船を漕いでしまう。眠気を懸命に堪えて欠伸を噛み殺した。

 ——それにしても全ての授業で寝てるとかある意味強者だ。僕には真似できないや。

 海堂にどこか感心しながらもう一度視線を向けたところで、昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。

 持たされた弁当が入ったバッグを手にすると、海堂が勢いよく顔を上げる。

「ご飯……」

 匂いで空腹センサーが作動したらしい。

 ——何それ、可愛い。

 もしかしたらこの人面白いのかもしれないと思って見ていると、レンズ越しに視線が絡んだ。

 ——この顔……。

 また既視感だ。パチクリとお互い何度も瞬きを繰り返す。

「あれ……? あーーっ‼︎ 海堂くんて昨日スケ……「ちょっと村上くん一緒に来てくれる?」……うあっ⁉︎」

 叫んだ言葉を遮られ、物凄い勢いで腕を引かれる形で教室から連れ出される。それなのに、この一瞬で忘れずにちゃっかりと自分の分の昼ごはんが入ったバッグを持っているところが可愛い。

 ——え、僕の推しが尊いんだけど⁉︎

 脳内では一気に花が飛んだ。

 ——いや、そうじゃないだろう。嘘っ、推しじゃん⁉︎ 推しがいた! しかもこんな近くに!

 今度はパニック状態に陥った。

「え、え、え、何で? だって髪色違う! 目の色も……うぐっ」
「あーね、ちょっと黙っててくれない?」

 推しの大きな手で口を塞がれ、次の瞬間には荷物のように腹を抱えられた。

 ——推しが抱えられるサイズで良かった。ありがとう僕の体。

 まさか低身長低体重なのを感謝する日が来るとは思いもしていなかった。

 ——何か良い匂いする! 何で⁉︎ 同じ男子校生だよね⁉︎ それとも僕の嗅覚に推しフィルターでもかかっているのかな?

 ほのかに香るシトラスと後で少し甘めのフローラルな香りが鼻腔をくすぐる。
 連れて行かれたのは屋上へ続く階段の踊り場で、さすがに疲れたのか目の前では推しである海堂が息を切らしていた。

 ——わ、息を切らしててもカッコいい。

 正面からジッと見つめていると、海堂が口を開いた。

「単刀直入に言っていいかな……?」
「あ、はい。何でしょう?」
「オレがスケボーしてるっての黙っててくれない?」

 ——海堂くんてこんな喋り方するんだ。

 話す機会がなかったのもあって、新鮮に感じられた。
 それにしてもボーダーであるのを隠す理由が分からない。恥ずかしい腕前じゃないのは確かだ。

 昨夜スケボーの事を調べまくって動画も色々見た。その中の誰よりも上手かったというのに、訳が分からなくて首を傾げる。

「え、あんなに上手いのに何で?」
「知られたくないから」
「特に込み入った理由がないなら、断っていいかな? 僕は海堂くんを布教したい」
「は? 布教て……何で?」

「スケボーしてる姿めちゃくちゃカッコ良かったし、一瞬で虜にされた! 一番の理由は、昨日きみを見た時からきみが僕の推しになったからかな? あれからスケボーの動画見まくったんだけど、海堂くんが一番上手くてカッコ良かったよ! 僕だけが海堂くんの良さを知ってるってのも唆られるんだけど、どうせならそんな海堂くんのカッコ良さを周りにももっと分かって貰いたい。あと、僕と友達になってください‼︎」

 前のめりになって早口で言葉を紡ぐ。

「……」

 沈黙が流れた。

「あの……眼鏡外してみてもいい?」

 彼の瞳に宿る熱が隠れてしまうのは勿体なく思えて、恐る恐る言葉に変えると戸惑ったように小さく頷かれる。

 両手を伸ばしてその野暮ったい眼鏡をはずし、レンズを覗き込んだ。度は入ってなさそうだったので伊達眼鏡なのだろう。ゆっくり前髪をのけると、カラーコンタクトをしているのが分かって問いかけた。

「眼鏡、ダテだよね。もしかしてこれ黒のカラコン? 昨日見た色が本物なら黒い髪の毛はウィッグかな?」

 こんなに誰かに興味を持ったのも積極的に触れようと思えたのも海堂が初めてだった。
 海堂もまさかこんなゼロ距離で接せられるとは思わなかったのか、一瞬眉間に皺を寄せながらも言った。

「地毛だと黒に染めろって言われるからね。ハーフだって言ってんのに聞いてくれないし、面倒だから中学の時から転校する度にウィッグとカラコンで誤魔化してる。眼鏡とマスクしてたら分からないし」

 ため息をついた後で、海堂がウィッグとマスクを外して見せた。
 緩くウェーブのかかった猫毛っぽいプラチナブロンドの髪の毛が現れて、彼の端正な顔を際立たせる。隠しておくには勿体無いくらいには綺麗な色合いをしていた。

 ——どうしよう。顔が良すぎて直視出来ない。

 本来の瞳の色も見てみたいがさすがに言い出せなかった。ウズウズしながらも正面から見つめて網膜にやきつける。

「教師たちがダメなら校長先生に話してみるとかはダメなの?」
「言ったよ。それでも〝校則だからダメ〟なんだってさ」
「黒色に染めるのだって校則違反の〝染める〟に該当するのに、矛盾しているよね」
「でしょ?」

 その時の記憶を思い出したのかムキになって言った海堂が年相応に幼くて、思わず笑ってしまった。

 ——何だ。話すと意外と普通なんだな。

 今まで人を偏見で見るなと思っていたのに、偏見を持って彼と接していたのは自分だったのだと分かると少し後ろめたくて恥ずかしい気持ちになってしまう。誤魔化すように弁当を広げると中身を覗き込まれた。

「手作り?」
「うん。美咲さんがいつも作ってくれるんだ」
「美咲さん?」
「僕の里親。気持ち的には義理の母親だと思っているよ」

 養子縁組の話は出ていても、まだハッキリと返事はしていない。今は養子でもいいかなと思い始めているところだ。

「義理?」

 質問に「そう」と返事しながら海堂のカバンの中も覗き込む。その中には菓子パンが五つとおにぎりが三個も入っていた。

「そんなに食べるの?」

 買い弁で済ませる人は珍しくない。毎日パンばかりの人もいるくらいだ。なので海堂もそうだとばかり思っていた。

「足りないくらいだよ。うちは金はあっても作る人がいないからね」
「海堂くんとこのお母さんは仕事で忙しいとか?」
「あー、まあ……そんな感じ」
「へえ、そうなんだ」

 推し情報はどんな内容でも嬉しいものである。他愛ない会話をして食べる弁当はいつもより美味しく感じられて、思わず顔が綻んでしまう。

「食べる?」
「オレも食べていいの?」
「いいよ。美咲さん料理上手いんだよ。はい、どうぞ」

 手作りハンバーグを箸で持ち上げて口に寄せると戸惑いもなくかぶりつかれた。

 ——普通にお口アーンしちゃった……。

「美味い!」
「でしょ?」

 弁当のおかずをいくつかお裾分けすると目を輝かせて喜ばれた。弁当を作って持ってきたら食べてくれるかな? と思考を巡らせる。

「てか、海堂くんってのやめない? 愁でいいよ」

 この年になるまで誰かを下の名前で呼び捨てにした試しがなくて、目を見開いたまま凝視した。

 ——呼び捨て……推しを呼び捨てとか難題すぎる。

 しかも他の誰でもない推しに言われたので、身を強張らせて思考回路ごと固まってしまった。

「友達になるんじゃないの?」

 無言のままでいると問われた。

「へ、あ……うん。なる! 友達なりたい! じゃあ、愁……くん」
「呼び捨てオンリーね」
「愁……、て、推しを呼び捨てとか恐れ多いというか、小っ恥ずかしいんだけど⁉︎」

 尊死できる自信しかない。

「じゃあ友達の話もナシで」
「愁て呼ぶ! 呼びます! 呼ばせてください!」
「よろしい。オレも光流でいい?」
「嬉しすぎて死にそう……っ」
「ははっ、光流は大袈裟すぎ。それで決まりね」

 推しは頑固だったけれど、さっきのお口アーンといい下の名前呼びといい、最後の笑顔とくれば、尊すぎて危うく昇天するところだった。

 ——その笑顔は反則です。生きてて良かった。

 心の中で呟いた。



 今日はバイトを入れていないので、学校が終わり次第すぐ帰宅した。
 昨夜から濃密な時間ばかりを過ごしている気がする。疲れてはいるけれど心が晴れているからか気分はとても良かった。

「美咲さん、ただいま」

 玄関の扉を開いて足を踏み入れる。4LDKの二階建ての一軒家が我が家だ。
 パタパタとスリッパの音を響かせて、美咲が小走りで玄関に顔を見せた。

「光流くんおかえりなさい。あら、嬉しそうね。何か良い事でもあったの?」
「うん。僕ね友達が出来たんだ」
「ええっ、そうなの⁉︎ 良かったわね~」

 高校生が口にする話題ではないというのに、美咲は大袈裟なくらいに声を弾ませている。
 友達が出来たとハッキリ公言するのは初めてだからかもしれない。美咲は口元に片手を当てて、まだ驚きに目を瞠っていた。

「ふふ、初めて友達出来ちゃった。あのね、その子ちょっと家庭状況が複雑っぽくてね、手作り弁当を食べた事がないって言うんだ。だから明日僕が弁当を作りたいんだけどダメかな? 材料費とか僕がバイト代で出すよ。あと、メニューとかオススメがあったら教えて欲しいんだけど……」

「もちろんいいわよ! じゃあこれから一緒にお買い物に行かない? 私ったら買い忘れた物があって、ちょうど出かけるとこだったの」
「うん、ありがとう! ちょっとカバン置いてくるね!」

 急いで自部屋に駆け込んでカバンを置くと、すぐにまたリビングに戻る。自分の事のように喜んでくれた美咲と一緒に家を出てスーパーに向かった。


 買い物から帰ってきてからは、美咲と共に夕食を作りながら次の日の弁当に入れるおかずも幾つか小分けにして冷凍していった。

 中身はどうしても同じ物になってしまうけど、明日持っていくのが楽しみで仕方ない。喜んで貰えるのか分からなかったのもあって、弁当箱は自分のものより大きい使い捨てのものにしている。

 興奮し過ぎて眠れそうにないと思っていたのに、自分の意に反して、ものの数分で寝ていたみたいだ。気が付けば朝だった。

 すぐに支度して朝食を摂った後で学校へと向かう。視線を走らせると目当ての人物がいた。

「愁おはよう」
「……はよ」

 恐る恐る声をかけるとちゃんと返ってきたので思わずニヤけてしまう。

 ——耳、赤くなってる。

 マスクとウィッグと眼鏡で隠れて顔は見えないが、恐らく照れているであろう推しが可愛くて微笑ましい。そして相変わらずカッコ良いから堪らない気持ちになる。

「人の顔見てニヤニヤしないでくれない?」
「だって僕の推しが今日も尊いから幸せで幸せで」
「出た。推しとか良く分からないし、やめてくれないかな……」
「それはムリだよ。あの日僕の心は愁に奪われちゃったから」

 キョトンとした表情をされた。

 ——あ、その顔もいい。

「意味……分かんないし」

 そっぽ向いて反対側を向いてしまったが、ほんのりとまだ耳を赤くしているのが分かった。

 ——どうしよう。僕の推しが今日もカッコ可愛いんですけどっ⁉︎

 頭の中が爆発したように目の前が白く飛んだ。


 ***


 目的の昼食まで今日はやけに長く感じられた。やっと出番が来たので「愁、昨日のとこ行こ?」と今日は自分から愁の腕を引く。

「分かった」

 二人揃って移動した。ここは階段の壁が日光を遮っているので、日陰は隙間風が吹いて涼しい。いわゆる穴場というやつだ。

「今日ね、美咲さんに手伝って貰ったんだけど……はいコレ」

 弁当を手渡すと呆けたように見つめられた。

「あ、もしかして手作り弁当とか気持ち悪いかな?」

 ——マズい、気持ちだけ先走っちゃったよ……。

 今更ながら後悔しはじめている。

「これオレの分? 手作りって……え? 食べていいの?」
「愁、作って貰った事ないって言ってたから。でもよくよく考えたら、ごめん……男からの手作り弁当なんて気持ち悪いよね?」

 作るのに必死過ぎてそこまで頭が回ってなかった。やらかしてしまったと思っていると両手でしっかりと弁当を握られた。

「そうじゃない。こんなの初めてで……嬉しい。食べていい?」
「う、うん」

 手早く蓋を開けて割り箸を使い始めた愁を見て、同じように弁当を開く。割り箸を使って口内にミートボールを含んだ愁が弾かれたように顔を上げて「最高」と言いながら目を見開いた。

 弁当を残さず綺麗に食べた後で、愁がカバンを漁って菓子パンを食べ始めた。しかも全て完食している。物凄い食欲だ。

「もしさ……」

 どこか言いづらそうに口を開いた愁が真っ直ぐにコチラに向けて視線を上げる。
 緩い印象を受ける普段の怠慢な動作とは違って、意のままにスケートボードを操っていた時みたいに真剣な眼光にドキリとさせられた。

 ——あ、この表情好き。

 普段とのギャップが堪らなくて、心臓がまた早鐘を打ち出した。

「これからも作って欲しいって言ったら迷惑かな? もちろん負担にならない程度で……。材料費も出すよ」
「僕が作ってきていいの⁉︎」

 逆に驚いてしまった。
 無造作にカバンの奥からいくつかの封筒を出されて、その内の一つを手渡される。

 ——もしかしてお小遣い的な物を封筒に入れたまま持ち歩いているのかな?

 だとすれば封筒の数からして全く手をつけていないのだろう。その内の一つを差し出され、条件反射的に封筒を掴んだ。
 思っていた以上の重みがあって、ギョッとした。カバンを置いて教室移動する事もあるのによく盗まれないなと感心すらしてしまう。

 ——この封筒一つあたりが僕の数ヶ月分のバイト代より多いんじゃ無いかな……。

「うちは金さえ渡しときゃ子どもは喜ぶだろとか思ってるような親でさ。遠足とかの弁当もコンビニの惣菜を詰め替えただけとかなんだよね。だから今日本当に嬉しかった。オレ良く食べるし、これは材料費として貰っといてくれない?」

「え、こんなにたくさん貰えないよ!」
「うーん……どうしようかな」

 首を捻った後で閃いたと言わんばかりに愁が「あ」と口にして言葉を繋いだ。

「美咲さんて人の手間代と負担代も込みで。食材てお金かかるんでしょ? あとはオレのスケボーの練習に付き合ってくれる? ダメ?」

 少し申し訳なさそうにしている推しが尊すぎて眩暈がした。

 ——その頼み方はズルいよ。断るわけない。

 弁当作りは寧ろ嬉しい。願ってもない条件プラス推しの表情にも見事なまでに心臓を撃ち抜かれた。

 陰からコッソリ見るのと堂々と見るのとじゃ全然違うし、推し活を公認されたようなものだった。いや、違う。逆に支援されているような……? 考えていたが、脳内お花畑状態の今の思考回路では考えがうまくまとまらなかった。

「僕頑張ってお弁当作るね!」
「楽しみにしてる」
「任せて!」
 今度は二つ返事で応じた。



 帰宅途中にハッと我に返る。上手い話に乗せられて、嬉しさからつい引き受けてしまったけれどこれで良かったのだろうか? また疑問に駆られ首を捻る。
 凄く嬉しそうに頼まれると照れる反面頑張らないといけない! と責任感が芽生えた。

 ——あれ? 僕もしかして推しに必要とされてる……?

 どこかむず痒い気持ちになってしまう。

 ——いや、ないない。それだけはない。

 自分のおめでたい思考回路を恨めしく思ってしまった。

「美咲さんただいまー」
「お帰りなさい光流くん。あら、今日はどうしたの? もしかしてお弁当気に入って貰えなかった?」

 美咲が心配そうにオロオロしだしたので、否定するように横に首を振ってみせた。

「違う違う、凄く気に入って貰えたの。でね……」

 カバンから封筒を取り出して事態のあらましを説明する。美咲が封筒を開いて中身を確認すると、一万円札が二十枚も入っていた。
 やはり自分のバイト代より遥かに多い。それにこの白い封筒はいくつもあった。総額を考えると胃が痛い。無造作に持ち歩いたり教室に置きっぱなしにしてるのか……。

 ——盗難にあっちゃうよ!

 心の中で叫んだ。

「その子、本当に光流くんにお弁当を作ってきて欲しいのね。それならその気持ちを受け取っておくといいわ。私は頑張って監修するねって伝えておいてくれるかしら?」

「分かった。その子結構大食いだけどどれくらい必要かな? 今日の弁当結構大きいサイズの弁当箱だったのに綺麗に食べ終えて、持ってた菓子パン五個は食べちゃったんだ。ビックリした」

 美咲さんは、ふふっと笑いをこぼすと札束の中から五万円を抜いて残りは封筒に戻す。

「もし材料費が余ったら返すわね。そのお友達のお名前を聞いても良いかしら?」
「へ? うん。海堂愁くんって名前で最近転校してきたばかりなんだ」
「ああ、あの子がそうなのね……」

 美咲の言葉は知っているような響きだった。

「美咲さん、知ってるの?」 
「ええ。海堂グループの会長の息子さんじゃないかしら? 確か同年齢の娘さんもいたはずよ。光流くんが知らないとなると、きっとクラスは違うのね。光流くんが家庭環境複雑って言っていたのも納得だわね」
「同年代……」

 ——そんな事ってあり得るの? もしかして……。

 愁にたっている悪い噂を思い出す。少し言いづらそうに言葉を濁して、美咲は「ええ」とだけ答えた。それからは話を逸らすように買い物バッグに財布を入れてコチラに視線を向けてくる。

「明日からまた作り続けるとなると、栄養が偏らないようにどんな材料を使うかも光流くんに教えておいた方がいいわね。また一緒にお買い物に行く? 何なら今度うちに連れていらっしゃい。滋さんも喜ぶと思うわ。お布団も用意しておくわね」

「いいのっ?」
「もちろんよ。光流くんの初めての仲が良いお友達だもの。私も泊まりに来てくれると嬉しいわ」

 ——友達というか一方的に僕が推し活しているだけなんだけどね。

 それは秘密にして大きく頷いた。