一 帰京の札、余白の灯

 朝の一番鈍い鐘がまだ尾を引くうちに、静陰殿の板に新しい札が立った。
 〈今日の帳:太后手記/后印〉
 〈今日の香:沈ごく薄・清二・道一(読書仕様)〉
 〈今日の祓い:和〉
 〈今日の灯:低〉

 “逆賄賂”の回覧は七日×二の覆いを経て、薄い字になった。勝つことばかりが愛ではない――その言葉は板の端で細く光り、静かに宮の呼吸を落ち着かせている。

 「凌殿、太后さまより――手で渡された頁の続きを」

 燕青が竹筒を軽く鳴らし、薄紙包みを差し出した。封には香符の微かな反射。〈沈一・清一・道一〉。祈りと道の間で揺れない配合だ。

 凌は深く息を吸い、香鏡の縁を拭い、一枚目を開いた。

二 手記――母と子の芝居

 ――〈冬。廊に氷の花。景焔は七つ。臣が「人形(ひとがた)の王」と噂するのを、あえて聞かせた〉
 ――〈わたしは冷たく叱った。廊に跪かせ、扇で卓を打つ。扇は壁であり、風。味方の印は、扇骨の欠け。その欠けを、子は指で覚える〉
 ――〈その夜、同じ扇で眠りをあおぐ。香は沈、薄く。子は泣かない。泣けば、噂になる〉
 ――〈「負けるな」ではなく、「負けさせぬ」を選んだ日、臣は「太后、情なし」と呼んだ。情は扇の内、裏板に隠した〉
 ――〈“人形”の噂が敵を寄せた。寄った敵を、棒で囲い、“板”で眠らせた〉
 ――〈景焔は十。真名で呼ぶ者、なし。わたしだけが呼ぶ夜は、短い。昼に伸びる影は、長い〉

 紙はさらさらと指で鳴り、香鏡の反射が端でわずかに揺れた。扇の欠けが、ここにもある。蘭秀の扇骨の欠けと、太后の扇骨の欠け――二つの欠けが、真ん中で触れ合う。

 ――〈“複妃”の言葉は早くからあった。多を作れば、責任は薄まる。子の“孤独”は、濃くなる〉
 ――〈“唯一”を、わたしが嫌いだったと思うか。違う。怖かったのだ。唯一は、狙われる〉
 ――〈だが、“狙われる唯一”が“規格”に変わる日が来るなら。わたしは、その日まで、悪い役を引き受けよう〉

 最後の行の墨は、ほんの少し滲んでいた。涙ではない。湿気だ――と、太后は書いている。湿気の名を、涙と言えない人の字だ。

 凌は頁を閉じた。胸の奥で、割れた誓珠の銀口が、ごく微かに鳴った。

三 太后の間、抱擁

 欄干の内。沈香は薄く長く、扇は膝の上。太后は札を先に見、扇骨を一度鳴らし、凌を目で座らせた。

 「読んだか」

 「はい」

 「恥だよ。母が子に芝居を教える記録など」

 凌は首を振り、礼の姿勢から、そのまま身を乗り出した。禁を承知で、抱きしめた。
 細い肩に、幾つもの陰謀と季節が重なっている。扇の骨が脇で軽く当たり、欠けが手に触れた。

 「……ありがとうございます」

 「規格を作ったのは、おまえだ」

 「いいえ。扇で風を作って、灯を低くして、夜を長く持たせたのは、太后さまです」

 太后は息を吐き、続けて息を吸い、その途中で、涙が零れた。沈香の層を乱さぬ、細い涙だった。

 「勝つことばかりが、愛ではない」

 「はい。――余白を作ること。負けを設計すること。眠りを渡すこと」

 太后は扇を閉じ、袖から小さな匣(はこ)を出した。銀の縁、玉の蓋。匣の上面には、光の帳の格子が、極細の線で彫られている。格子の右上が、わずかに欠けていた。

 「后印だ」

 凌は息を止めた。

四 后印

 匣の蓋が静かに開き、光が一度だけ鳴った。
 印面は、三つの層を持っていた。
 表層――〈后〉の篆字。唯一の「一」が、縦の柱に深く刻まれ、横画は薄い。
 中層――〈沈一・清二・道一〉の香符が銀の微粒で埋め込まれている。
裏層――光の帳の格子。右上の一枡だけが欠け。蘭秀の扇骨の、永遠の記号。

 「男の后。唯一の后。規格の后」

 太后は言い、印を持つ凌の手に自らの手を重ねた。
 「この印は権力ではなく公平に効く。命令のためではなく、規格のために押す。……後宮を“眠る国”の一部へ織り込むために」

 凌は頭を垂れた。
 「――剣は後。棒は輪。后印は規格の印」

 太后の唇が、わずかに笑みに緩んだ。

五 最初の押印――后則(こうそく)

 静陰殿に戻ると、板の前に白紙を用意した。
 〈后則〉――后印で定める、後宮の仕事の規格。

 > 一、後宮は“仕事の場”。礼は眠りのため、仕事は民のため。
 > 二、女官・針子・従者は、家に属さず、職に属す。
 > 三、読み書き・算木・香鏡・帳簿の学びを、希望者に。
 > 四、賃金は板に。昇降は板に。罰は紙で、棒は輪。
 > 五、訴は公開。密告は香符で遅らせる。
 > 六、乳母・抱え女には昼寝の札。眠りを規格に。
 > 七、后印は“公平に”“見えるところで”押す。

 凌は后印を持ち上げ、最初の朱を吸わせ、押した。
 ぱんと小さな音がして、篆字の〈后〉が板の上で生きた。
 香鏡に当てると、中層の香符が淡く返り、裏層の格子の欠けが、朱の濃淡を一箇所だけ変えた。
 “真ん中の寒さ”は消えない。欠けは、記憶として残る。

 御台所の少年が目を輝かせた。「かっこいい!」
 凌は笑い、「重いよ」とだけ答えた。

六 後宮学(こうきゅうがく)

 后則の第二札。
 〈後宮学:開講〉
 女官・針子・従者――呼び名で分けず、学びで並べる。
 昼の第一の鐘から第三の鐘まで。灯は低く、香は清、祓いは和。
 内容は三つの柱。
 言――読み書き、書式、回覧、板の読み方。
 数――算木、秤、食材の歩留まり、賃金の数え方。
手――針の規格、糸の強度、縫い目の密度、香鏡の扱い、簡易の手洗い、傷の祓い。

 「字は怖い。棒より」
 と笑った女は多い。
 凌は頷く。
 「棒は輪。怖さは一瞬。字は長い。だから、一緒にやる」

 絹の反物に香符を微量に押し、染の流れで遅れが出たら、手当をする。
 “遅れ=罪”ではなく、“遅れ=学び”。
 罪の札は薄く、学びの札は太く。
 “逆賄賂”で覚えた太い/薄いの使い分けを、凌は教育の場にも移した。

 昼の第三の鐘が鳴ると、昼寝の札。
 乳母と抱え女には、薄布の覆いが渡され、覆いの端に〈眠〉の字。
 眠りは贅沢ではない。規格だ。
 板に、眠りの時間割が貼られる。

七 公平

 最初の訴は、縫房の古参の女官長から上がった。
 「若い者は字ばかり。針は遅い。給金は同じ。公平ではない」
 凌は后印を持ち、公開の場に座った。
 灯は低く、香は清。
 「公平とは、同じに扱うことではありません。同じに見えるように、違いを板に出すことです」
 賃金の内訳を板に出し、針の規格表を貼り、字の習熟度の札を並べる。
 「今日から段位の札を付けます。針の段位、字の段位。段の数で、銀が少し動く。段は、学びで上がる」

 古参の女官長は、しばらく沈黙してから、頷いた。
「針の目は、数だよ。目の数が段なら、文句はない」
 凌は彼女に講師の札を渡した。
 罰より、委ねだ。
 負けの設計の一部を、仕事に変える。

八 布の遅れ、香の証

 開講三日目、遅れが出た。
 新入りの針子が、御用布に朱の点を落とした。
 噂は速い。
 凌は布を香鏡に当て、裏に仕込んだ香符で“遅れ時間”を測る。
 〈沈一・清二・道一〉の反射の位相で、布が置かれていた場所と時間が見えた。
 犯跡ではなく、署名。
 「――眠りが足りなかった」
 針子は顔を上げ、泣かず、頷いた。
 昼寝の札を増やし、翌日同じ布で、補修を試す。
 補修の段が、彼女にひとつ付いた。
 罪は薄く、学びは太く。

九 景焔の一行、羨望

 禁裏から、一行。
 〈眠れ〉
 凌は笑って板に貼り、后印で隣に押した。
 朱と墨は隣り合い、混じらない。
 夜、景焔がふらりと静陰殿に現れ、板の前で立ち止まる。
 「母を抱いたと聞いた」
 「禁を破りました」
 帝は短く笑い、「我も抱きたい」と言って、凌の肩を抱いた。
 「羨む」
 「余白です」
 「余白は、眠りのためか」
 「愛のためです」
 景焔は腕の力をすこし強めた。「――馬鹿だ」
 凌は目を閉じ、誓珠の破片が胸でわずかに鳴るのを聞いた。

十 后印の噂、歌の変調

 后印が押されるたび、歌が増えた。

 > 后の朱 香の層
 > 欠けの格子は 眠りの枡
 >  太い字細い字 隣り合い
 >  剣は後ろで 棒は輪

 市場にも歌が出た。

 > 女の手 男の后
 > 板で習えば 賃が出る
 >  針の段位は 数で出る
 >  眠りの札で 目が澄む

 歌は拙い。だが、速い。
 規格の周りの空気が、少しずつ柔らかくなる。

十一 古い“権”、新しい“公”

 後宮の古参のうち、ひとりが逆立った。
 「后印だと? わしは二十年、権でやってきた。公は、人を傷つける」

 凌は公開の場に彼女を招き、茶を点ててから言った。
 「公は、人を眠らせるためにあります。権は、人を立たせるためにあります。――いま必要なのは、眠りです」
 后印で押した札を見せ、賃金の内訳、段位の基準、訴の流れを板に並べる。
 古参は腕を組み、しばらく黙ってから、ふっと笑った。
 「わしは立ってばかりで、眠りを忘れておった」
 彼女は自ら「夜番」の札を外し、若い者に渡した。
 “委ね”は、罰よりも長く効く。

十二 看(み)倣(なら)う人々

 宮の外の女たちも、板を見に来た。
 抱え子を背にした女が、後宮学の端に立って言う。
 「字は要らんと思ってた。賃の字は、欲しいと思った」
 凌は笑い、小さな札を渡した。
 〈仮名の板:市の字・賃の字・眠の字〉
 仮名の板は、市にも立ち、子が指でなぞった。
 宰相派が乾いた橋を渡れぬうちに、女たちが板を渡る。

十三 燕青の不器用な誓い

 日暮れ、庭の縁側で、燕青が不意に頭を下げた。
 「凌殿。……女の学びの場、影が見ます」
 「ありがとう」
 「剣ではなく、息で見ます」
 凌は笑った。「君はもう、働きで償う人だよ」
 燕青の耳が、少しだけ赤くなった。

十四 太后の訪れ、涙のあと

 数日後、太后が静陰殿へ来た。
 扇の骨は静かで、沈香は薄く、香の層は清が勝つ。
 太后は後宮学の札と段位の板を見回り、后印の朱に指を触れた。
 「重さは、持てるか」
「分けて持ちます。段と札と歌に」
 太后は頷き、低い声で言った。
 「泣いたのは、恥ではないか」
 「救いです」
 太后は、扇を膝に置いたまま、目を閉じた。
 「景焔は、あの子は、眠れているか」
 「はい。短く、深く」
 太后は「よい」とだけ言い、帰り際に后印の欠けに爪で触れた。
 欠けは、続けるための印だ。

十五 小さな反乱

 後宮学に、反乱が起きた――と言ってもそれは、笑いを伴う小さなものだった。
 若い針子たちが歌を改造し、男の侍従たちに歌わせたのだ。

 > 男の腕 女の針
 > どちらも段で 賃が出る
 >  后の朱には 欠けがある
 >  欠けを抱いて 眠れ、宮

 景焔が通りかかり、立ち止まった。
 「欠けとは」
 針子たちは一斉に凌を見る。
 凌は后印を掲げ、裏の格子を見せた。
 「真ん中は寒い、から」
 景焔は短く笑い、凌の手を取って、指に唇を触れた。
 「馬鹿だ」
 声は、震えていなかった。温かった。

十六 掌握の宣言――力ではなく、公平で

 夕刻、後宮の広場で、凌は后印の前に立った。
 女官・針子・従者。男の侍従も、台所の少年も、みな同じ高さで立つ。
 灯は低く、香は清、祓いは和。
 凌は短く言った。

 「掌握は、力ではなく、公平で行います。
  勝つことは、制度に。
  負けは、人が引き受けます。
  眠りは、みなに。
  后印は、見えるところで押します。
  剣は後ろで眠り、棒は輪になります。」

 后印の朱は、静かに鳴った。
 歌が、自然に出た。

 > 朱と墨 隣り合い
 > 欠けの枡には 眠りを置く
 >  勝ちは板へと 負けは掌へ
 >  剣は後ろで 棒は輪に

 凌は、掌を開いた。力は握りこぶしに宿り、公平は開いた掌に宿る。

十七 “后印の仕事”

 その日から、后印の札は増えた。
 〈昼寝の覆い:紛失の際は罰ではなく再配布〉
 〈香鏡:破損は連座ではなく、修理の段〉
 〈抱え子:病の時は休みの札。欠勤ではない〉
 〈縫房:針目の基準を公開。目が読めれば、誰でも段が上がる〉
 〈訴:顔を隠す幕を設置。声で判じない〉

 罰は薄く、仕事は太い。
 公平は、見えることで初めて力になる。
 後宮の風は、扇ではなく板で吹き、香は祈りだけでなく規格になる。

十八 宰相の最期の薄笑い

 中書省の渡り廊を、宰相がひとりで歩いた。
 笑いは薄く、端が疲れている。
 回廊の板に后印の札が並び、等幅の字が、名を――役を――同じに扱う。
 宰相は立ち止まり、欠けの格子に指を触れず、ただ見た。
 「見えることが、恐れを増す」
 と、誰にともなく呟き、笑いをやめた。

十九 太后の涙、もうひとしずく

 夜、凌は太后の間に呼ばれた。
 沈香は薄く、扇は膝、灯は低く。
 太后は言った。

 「景焔が、眠っている」

 凌は頷いた。
 「はい」

 「泣いてもいいか」

 凌は一瞬、息を止め、次いで微笑んだ。
 「はい」
 太后の目の端に、もうひとしずく。
 それは、恥ではなく、肯だった。
 凌は再び、抱きしめた。
 扇の骨が、肩と肩の間で小さく触れ、欠けが二つ、重なった。

二十 続ける――后印の朱、眠りの墨

 夜更け、静陰殿の板に、凌は最後の札を足した。
 〈今日の帳:后印/後宮学/公平〉
 〈今日の香:清〉
 〈今日の祓い:和〉
 〈今日の灯:低〉

 后印の朱は、板の上で静に乾き、眠りの墨は、字の輪郭を柔らかくする。
 誓珠の破片が胸でほとんど聞こえないほどに鳴り、蘭秀の欠けた扇骨がどこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。

 “唯一は席ではない。規格だ。”
 規格は増える。
 后印、后則、後宮学、段位、眠りの札。
 増えるたび、刃は鈍る。
 鈍った刃の下で、人が学び、働き、眠る。
 勝つことばかりが、愛ではない。
 負けを仕立て、余白を作り、眠りを渡す。
 その全部を、后印の朱と、板の墨で続ける。

 凌は灯を指で低くして、目を閉じた。
 銀口の沈香が、遠い昔の波のようにかすかに鳴った。
 そして静かに、眠った。