一 帰京の札、余白の灯
朝の一番鈍い鐘がまだ尾を引くうちに、静陰殿の板に新しい札が立った。
〈今日の帳:太后手記/后印〉
〈今日の香:沈ごく薄・清二・道一(読書仕様)〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
“逆賄賂”の回覧は七日×二の覆いを経て、薄い字になった。勝つことばかりが愛ではない――その言葉は板の端で細く光り、静かに宮の呼吸を落ち着かせている。
「凌殿、太后さまより――手で渡された頁の続きを」
燕青が竹筒を軽く鳴らし、薄紙包みを差し出した。封には香符の微かな反射。〈沈一・清一・道一〉。祈りと道の間で揺れない配合だ。
凌は深く息を吸い、香鏡の縁を拭い、一枚目を開いた。
二 手記――母と子の芝居
――〈冬。廊に氷の花。景焔は七つ。臣が「人形(ひとがた)の王」と噂するのを、あえて聞かせた〉
――〈わたしは冷たく叱った。廊に跪かせ、扇で卓を打つ。扇は壁であり、風。味方の印は、扇骨の欠け。その欠けを、子は指で覚える〉
――〈その夜、同じ扇で眠りをあおぐ。香は沈、薄く。子は泣かない。泣けば、噂になる〉
――〈「負けるな」ではなく、「負けさせぬ」を選んだ日、臣は「太后、情なし」と呼んだ。情は扇の内、裏板に隠した〉
――〈“人形”の噂が敵を寄せた。寄った敵を、棒で囲い、“板”で眠らせた〉
――〈景焔は十。真名で呼ぶ者、なし。わたしだけが呼ぶ夜は、短い。昼に伸びる影は、長い〉
紙はさらさらと指で鳴り、香鏡の反射が端でわずかに揺れた。扇の欠けが、ここにもある。蘭秀の扇骨の欠けと、太后の扇骨の欠け――二つの欠けが、真ん中で触れ合う。
――〈“複妃”の言葉は早くからあった。多を作れば、責任は薄まる。子の“孤独”は、濃くなる〉
――〈“唯一”を、わたしが嫌いだったと思うか。違う。怖かったのだ。唯一は、狙われる〉
――〈だが、“狙われる唯一”が“規格”に変わる日が来るなら。わたしは、その日まで、悪い役を引き受けよう〉
最後の行の墨は、ほんの少し滲んでいた。涙ではない。湿気だ――と、太后は書いている。湿気の名を、涙と言えない人の字だ。
凌は頁を閉じた。胸の奥で、割れた誓珠の銀口が、ごく微かに鳴った。
三 太后の間、抱擁
欄干の内。沈香は薄く長く、扇は膝の上。太后は札を先に見、扇骨を一度鳴らし、凌を目で座らせた。
「読んだか」
「はい」
「恥だよ。母が子に芝居を教える記録など」
凌は首を振り、礼の姿勢から、そのまま身を乗り出した。禁を承知で、抱きしめた。
細い肩に、幾つもの陰謀と季節が重なっている。扇の骨が脇で軽く当たり、欠けが手に触れた。
「……ありがとうございます」
「規格を作ったのは、おまえだ」
「いいえ。扇で風を作って、灯を低くして、夜を長く持たせたのは、太后さまです」
太后は息を吐き、続けて息を吸い、その途中で、涙が零れた。沈香の層を乱さぬ、細い涙だった。
「勝つことばかりが、愛ではない」
「はい。――余白を作ること。負けを設計すること。眠りを渡すこと」
太后は扇を閉じ、袖から小さな匣(はこ)を出した。銀の縁、玉の蓋。匣の上面には、光の帳の格子が、極細の線で彫られている。格子の右上が、わずかに欠けていた。
「后印だ」
凌は息を止めた。
四 后印
匣の蓋が静かに開き、光が一度だけ鳴った。
印面は、三つの層を持っていた。
表層――〈后〉の篆字。唯一の「一」が、縦の柱に深く刻まれ、横画は薄い。
中層――〈沈一・清二・道一〉の香符が銀の微粒で埋め込まれている。
裏層――光の帳の格子。右上の一枡だけが欠け。蘭秀の扇骨の、永遠の記号。
「男の后。唯一の后。規格の后」
太后は言い、印を持つ凌の手に自らの手を重ねた。
「この印は権力ではなく公平に効く。命令のためではなく、規格のために押す。……後宮を“眠る国”の一部へ織り込むために」
凌は頭を垂れた。
「――剣は後。棒は輪。后印は規格の印」
太后の唇が、わずかに笑みに緩んだ。
五 最初の押印――后則(こうそく)
静陰殿に戻ると、板の前に白紙を用意した。
〈后則〉――后印で定める、後宮の仕事の規格。
> 一、後宮は“仕事の場”。礼は眠りのため、仕事は民のため。
> 二、女官・針子・従者は、家に属さず、職に属す。
> 三、読み書き・算木・香鏡・帳簿の学びを、希望者に。
> 四、賃金は板に。昇降は板に。罰は紙で、棒は輪。
> 五、訴は公開。密告は香符で遅らせる。
> 六、乳母・抱え女には昼寝の札。眠りを規格に。
> 七、后印は“公平に”“見えるところで”押す。
凌は后印を持ち上げ、最初の朱を吸わせ、押した。
ぱんと小さな音がして、篆字の〈后〉が板の上で生きた。
香鏡に当てると、中層の香符が淡く返り、裏層の格子の欠けが、朱の濃淡を一箇所だけ変えた。
“真ん中の寒さ”は消えない。欠けは、記憶として残る。
御台所の少年が目を輝かせた。「かっこいい!」
凌は笑い、「重いよ」とだけ答えた。
六 後宮学(こうきゅうがく)
后則の第二札。
〈後宮学:開講〉
女官・針子・従者――呼び名で分けず、学びで並べる。
昼の第一の鐘から第三の鐘まで。灯は低く、香は清、祓いは和。
内容は三つの柱。
言――読み書き、書式、回覧、板の読み方。
数――算木、秤、食材の歩留まり、賃金の数え方。
手――針の規格、糸の強度、縫い目の密度、香鏡の扱い、簡易の手洗い、傷の祓い。
「字は怖い。棒より」
と笑った女は多い。
凌は頷く。
「棒は輪。怖さは一瞬。字は長い。だから、一緒にやる」
絹の反物に香符を微量に押し、染の流れで遅れが出たら、手当をする。
“遅れ=罪”ではなく、“遅れ=学び”。
罪の札は薄く、学びの札は太く。
“逆賄賂”で覚えた太い/薄いの使い分けを、凌は教育の場にも移した。
昼の第三の鐘が鳴ると、昼寝の札。
乳母と抱え女には、薄布の覆いが渡され、覆いの端に〈眠〉の字。
眠りは贅沢ではない。規格だ。
板に、眠りの時間割が貼られる。
七 公平
最初の訴は、縫房の古参の女官長から上がった。
「若い者は字ばかり。針は遅い。給金は同じ。公平ではない」
凌は后印を持ち、公開の場に座った。
灯は低く、香は清。
「公平とは、同じに扱うことではありません。同じに見えるように、違いを板に出すことです」
賃金の内訳を板に出し、針の規格表を貼り、字の習熟度の札を並べる。
「今日から段位の札を付けます。針の段位、字の段位。段の数で、銀が少し動く。段は、学びで上がる」
古参の女官長は、しばらく沈黙してから、頷いた。
「針の目は、数だよ。目の数が段なら、文句はない」
凌は彼女に講師の札を渡した。
罰より、委ねだ。
負けの設計の一部を、仕事に変える。
八 布の遅れ、香の証
開講三日目、遅れが出た。
新入りの針子が、御用布に朱の点を落とした。
噂は速い。
凌は布を香鏡に当て、裏に仕込んだ香符で“遅れ時間”を測る。
〈沈一・清二・道一〉の反射の位相で、布が置かれていた場所と時間が見えた。
犯跡ではなく、署名。
「――眠りが足りなかった」
針子は顔を上げ、泣かず、頷いた。
昼寝の札を増やし、翌日同じ布で、補修を試す。
補修の段が、彼女にひとつ付いた。
罪は薄く、学びは太く。
九 景焔の一行、羨望
禁裏から、一行。
〈眠れ〉
凌は笑って板に貼り、后印で隣に押した。
朱と墨は隣り合い、混じらない。
夜、景焔がふらりと静陰殿に現れ、板の前で立ち止まる。
「母を抱いたと聞いた」
「禁を破りました」
帝は短く笑い、「我も抱きたい」と言って、凌の肩を抱いた。
「羨む」
「余白です」
「余白は、眠りのためか」
「愛のためです」
景焔は腕の力をすこし強めた。「――馬鹿だ」
凌は目を閉じ、誓珠の破片が胸でわずかに鳴るのを聞いた。
十 后印の噂、歌の変調
后印が押されるたび、歌が増えた。
> 后の朱 香の層
> 欠けの格子は 眠りの枡
> 太い字細い字 隣り合い
> 剣は後ろで 棒は輪
市場にも歌が出た。
> 女の手 男の后
> 板で習えば 賃が出る
> 針の段位は 数で出る
> 眠りの札で 目が澄む
歌は拙い。だが、速い。
規格の周りの空気が、少しずつ柔らかくなる。
十一 古い“権”、新しい“公”
後宮の古参のうち、ひとりが逆立った。
「后印だと? わしは二十年、権でやってきた。公は、人を傷つける」
凌は公開の場に彼女を招き、茶を点ててから言った。
「公は、人を眠らせるためにあります。権は、人を立たせるためにあります。――いま必要なのは、眠りです」
后印で押した札を見せ、賃金の内訳、段位の基準、訴の流れを板に並べる。
古参は腕を組み、しばらく黙ってから、ふっと笑った。
「わしは立ってばかりで、眠りを忘れておった」
彼女は自ら「夜番」の札を外し、若い者に渡した。
“委ね”は、罰よりも長く効く。
十二 看(み)倣(なら)う人々
宮の外の女たちも、板を見に来た。
抱え子を背にした女が、後宮学の端に立って言う。
「字は要らんと思ってた。賃の字は、欲しいと思った」
凌は笑い、小さな札を渡した。
〈仮名の板:市の字・賃の字・眠の字〉
仮名の板は、市にも立ち、子が指でなぞった。
宰相派が乾いた橋を渡れぬうちに、女たちが板を渡る。
十三 燕青の不器用な誓い
日暮れ、庭の縁側で、燕青が不意に頭を下げた。
「凌殿。……女の学びの場、影が見ます」
「ありがとう」
「剣ではなく、息で見ます」
凌は笑った。「君はもう、働きで償う人だよ」
燕青の耳が、少しだけ赤くなった。
十四 太后の訪れ、涙のあと
数日後、太后が静陰殿へ来た。
扇の骨は静かで、沈香は薄く、香の層は清が勝つ。
太后は後宮学の札と段位の板を見回り、后印の朱に指を触れた。
「重さは、持てるか」
「分けて持ちます。段と札と歌に」
太后は頷き、低い声で言った。
「泣いたのは、恥ではないか」
「救いです」
太后は、扇を膝に置いたまま、目を閉じた。
「景焔は、あの子は、眠れているか」
「はい。短く、深く」
太后は「よい」とだけ言い、帰り際に后印の欠けに爪で触れた。
欠けは、続けるための印だ。
十五 小さな反乱
後宮学に、反乱が起きた――と言ってもそれは、笑いを伴う小さなものだった。
若い針子たちが歌を改造し、男の侍従たちに歌わせたのだ。
> 男の腕 女の針
> どちらも段で 賃が出る
> 后の朱には 欠けがある
> 欠けを抱いて 眠れ、宮
景焔が通りかかり、立ち止まった。
「欠けとは」
針子たちは一斉に凌を見る。
凌は后印を掲げ、裏の格子を見せた。
「真ん中は寒い、から」
景焔は短く笑い、凌の手を取って、指に唇を触れた。
「馬鹿だ」
声は、震えていなかった。温かった。
十六 掌握の宣言――力ではなく、公平で
夕刻、後宮の広場で、凌は后印の前に立った。
女官・針子・従者。男の侍従も、台所の少年も、みな同じ高さで立つ。
灯は低く、香は清、祓いは和。
凌は短く言った。
「掌握は、力ではなく、公平で行います。
勝つことは、制度に。
負けは、人が引き受けます。
眠りは、みなに。
后印は、見えるところで押します。
剣は後ろで眠り、棒は輪になります。」
后印の朱は、静かに鳴った。
歌が、自然に出た。
> 朱と墨 隣り合い
> 欠けの枡には 眠りを置く
> 勝ちは板へと 負けは掌へ
> 剣は後ろで 棒は輪に
凌は、掌を開いた。力は握りこぶしに宿り、公平は開いた掌に宿る。
十七 “后印の仕事”
その日から、后印の札は増えた。
〈昼寝の覆い:紛失の際は罰ではなく再配布〉
〈香鏡:破損は連座ではなく、修理の段〉
〈抱え子:病の時は休みの札。欠勤ではない〉
〈縫房:針目の基準を公開。目が読めれば、誰でも段が上がる〉
〈訴:顔を隠す幕を設置。声で判じない〉
罰は薄く、仕事は太い。
公平は、見えることで初めて力になる。
後宮の風は、扇ではなく板で吹き、香は祈りだけでなく規格になる。
十八 宰相の最期の薄笑い
中書省の渡り廊を、宰相がひとりで歩いた。
笑いは薄く、端が疲れている。
回廊の板に后印の札が並び、等幅の字が、名を――役を――同じに扱う。
宰相は立ち止まり、欠けの格子に指を触れず、ただ見た。
「見えることが、恐れを増す」
と、誰にともなく呟き、笑いをやめた。
十九 太后の涙、もうひとしずく
夜、凌は太后の間に呼ばれた。
沈香は薄く、扇は膝、灯は低く。
太后は言った。
「景焔が、眠っている」
凌は頷いた。
「はい」
「泣いてもいいか」
凌は一瞬、息を止め、次いで微笑んだ。
「はい」
太后の目の端に、もうひとしずく。
それは、恥ではなく、肯だった。
凌は再び、抱きしめた。
扇の骨が、肩と肩の間で小さく触れ、欠けが二つ、重なった。
二十 続ける――后印の朱、眠りの墨
夜更け、静陰殿の板に、凌は最後の札を足した。
〈今日の帳:后印/後宮学/公平〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
后印の朱は、板の上で静に乾き、眠りの墨は、字の輪郭を柔らかくする。
誓珠の破片が胸でほとんど聞こえないほどに鳴り、蘭秀の欠けた扇骨がどこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。
“唯一は席ではない。規格だ。”
規格は増える。
后印、后則、後宮学、段位、眠りの札。
増えるたび、刃は鈍る。
鈍った刃の下で、人が学び、働き、眠る。
勝つことばかりが、愛ではない。
負けを仕立て、余白を作り、眠りを渡す。
その全部を、后印の朱と、板の墨で続ける。
凌は灯を指で低くして、目を閉じた。
銀口の沈香が、遠い昔の波のようにかすかに鳴った。
そして静かに、眠った。
朝の一番鈍い鐘がまだ尾を引くうちに、静陰殿の板に新しい札が立った。
〈今日の帳:太后手記/后印〉
〈今日の香:沈ごく薄・清二・道一(読書仕様)〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
“逆賄賂”の回覧は七日×二の覆いを経て、薄い字になった。勝つことばかりが愛ではない――その言葉は板の端で細く光り、静かに宮の呼吸を落ち着かせている。
「凌殿、太后さまより――手で渡された頁の続きを」
燕青が竹筒を軽く鳴らし、薄紙包みを差し出した。封には香符の微かな反射。〈沈一・清一・道一〉。祈りと道の間で揺れない配合だ。
凌は深く息を吸い、香鏡の縁を拭い、一枚目を開いた。
二 手記――母と子の芝居
――〈冬。廊に氷の花。景焔は七つ。臣が「人形(ひとがた)の王」と噂するのを、あえて聞かせた〉
――〈わたしは冷たく叱った。廊に跪かせ、扇で卓を打つ。扇は壁であり、風。味方の印は、扇骨の欠け。その欠けを、子は指で覚える〉
――〈その夜、同じ扇で眠りをあおぐ。香は沈、薄く。子は泣かない。泣けば、噂になる〉
――〈「負けるな」ではなく、「負けさせぬ」を選んだ日、臣は「太后、情なし」と呼んだ。情は扇の内、裏板に隠した〉
――〈“人形”の噂が敵を寄せた。寄った敵を、棒で囲い、“板”で眠らせた〉
――〈景焔は十。真名で呼ぶ者、なし。わたしだけが呼ぶ夜は、短い。昼に伸びる影は、長い〉
紙はさらさらと指で鳴り、香鏡の反射が端でわずかに揺れた。扇の欠けが、ここにもある。蘭秀の扇骨の欠けと、太后の扇骨の欠け――二つの欠けが、真ん中で触れ合う。
――〈“複妃”の言葉は早くからあった。多を作れば、責任は薄まる。子の“孤独”は、濃くなる〉
――〈“唯一”を、わたしが嫌いだったと思うか。違う。怖かったのだ。唯一は、狙われる〉
――〈だが、“狙われる唯一”が“規格”に変わる日が来るなら。わたしは、その日まで、悪い役を引き受けよう〉
最後の行の墨は、ほんの少し滲んでいた。涙ではない。湿気だ――と、太后は書いている。湿気の名を、涙と言えない人の字だ。
凌は頁を閉じた。胸の奥で、割れた誓珠の銀口が、ごく微かに鳴った。
三 太后の間、抱擁
欄干の内。沈香は薄く長く、扇は膝の上。太后は札を先に見、扇骨を一度鳴らし、凌を目で座らせた。
「読んだか」
「はい」
「恥だよ。母が子に芝居を教える記録など」
凌は首を振り、礼の姿勢から、そのまま身を乗り出した。禁を承知で、抱きしめた。
細い肩に、幾つもの陰謀と季節が重なっている。扇の骨が脇で軽く当たり、欠けが手に触れた。
「……ありがとうございます」
「規格を作ったのは、おまえだ」
「いいえ。扇で風を作って、灯を低くして、夜を長く持たせたのは、太后さまです」
太后は息を吐き、続けて息を吸い、その途中で、涙が零れた。沈香の層を乱さぬ、細い涙だった。
「勝つことばかりが、愛ではない」
「はい。――余白を作ること。負けを設計すること。眠りを渡すこと」
太后は扇を閉じ、袖から小さな匣(はこ)を出した。銀の縁、玉の蓋。匣の上面には、光の帳の格子が、極細の線で彫られている。格子の右上が、わずかに欠けていた。
「后印だ」
凌は息を止めた。
四 后印
匣の蓋が静かに開き、光が一度だけ鳴った。
印面は、三つの層を持っていた。
表層――〈后〉の篆字。唯一の「一」が、縦の柱に深く刻まれ、横画は薄い。
中層――〈沈一・清二・道一〉の香符が銀の微粒で埋め込まれている。
裏層――光の帳の格子。右上の一枡だけが欠け。蘭秀の扇骨の、永遠の記号。
「男の后。唯一の后。規格の后」
太后は言い、印を持つ凌の手に自らの手を重ねた。
「この印は権力ではなく公平に効く。命令のためではなく、規格のために押す。……後宮を“眠る国”の一部へ織り込むために」
凌は頭を垂れた。
「――剣は後。棒は輪。后印は規格の印」
太后の唇が、わずかに笑みに緩んだ。
五 最初の押印――后則(こうそく)
静陰殿に戻ると、板の前に白紙を用意した。
〈后則〉――后印で定める、後宮の仕事の規格。
> 一、後宮は“仕事の場”。礼は眠りのため、仕事は民のため。
> 二、女官・針子・従者は、家に属さず、職に属す。
> 三、読み書き・算木・香鏡・帳簿の学びを、希望者に。
> 四、賃金は板に。昇降は板に。罰は紙で、棒は輪。
> 五、訴は公開。密告は香符で遅らせる。
> 六、乳母・抱え女には昼寝の札。眠りを規格に。
> 七、后印は“公平に”“見えるところで”押す。
凌は后印を持ち上げ、最初の朱を吸わせ、押した。
ぱんと小さな音がして、篆字の〈后〉が板の上で生きた。
香鏡に当てると、中層の香符が淡く返り、裏層の格子の欠けが、朱の濃淡を一箇所だけ変えた。
“真ん中の寒さ”は消えない。欠けは、記憶として残る。
御台所の少年が目を輝かせた。「かっこいい!」
凌は笑い、「重いよ」とだけ答えた。
六 後宮学(こうきゅうがく)
后則の第二札。
〈後宮学:開講〉
女官・針子・従者――呼び名で分けず、学びで並べる。
昼の第一の鐘から第三の鐘まで。灯は低く、香は清、祓いは和。
内容は三つの柱。
言――読み書き、書式、回覧、板の読み方。
数――算木、秤、食材の歩留まり、賃金の数え方。
手――針の規格、糸の強度、縫い目の密度、香鏡の扱い、簡易の手洗い、傷の祓い。
「字は怖い。棒より」
と笑った女は多い。
凌は頷く。
「棒は輪。怖さは一瞬。字は長い。だから、一緒にやる」
絹の反物に香符を微量に押し、染の流れで遅れが出たら、手当をする。
“遅れ=罪”ではなく、“遅れ=学び”。
罪の札は薄く、学びの札は太く。
“逆賄賂”で覚えた太い/薄いの使い分けを、凌は教育の場にも移した。
昼の第三の鐘が鳴ると、昼寝の札。
乳母と抱え女には、薄布の覆いが渡され、覆いの端に〈眠〉の字。
眠りは贅沢ではない。規格だ。
板に、眠りの時間割が貼られる。
七 公平
最初の訴は、縫房の古参の女官長から上がった。
「若い者は字ばかり。針は遅い。給金は同じ。公平ではない」
凌は后印を持ち、公開の場に座った。
灯は低く、香は清。
「公平とは、同じに扱うことではありません。同じに見えるように、違いを板に出すことです」
賃金の内訳を板に出し、針の規格表を貼り、字の習熟度の札を並べる。
「今日から段位の札を付けます。針の段位、字の段位。段の数で、銀が少し動く。段は、学びで上がる」
古参の女官長は、しばらく沈黙してから、頷いた。
「針の目は、数だよ。目の数が段なら、文句はない」
凌は彼女に講師の札を渡した。
罰より、委ねだ。
負けの設計の一部を、仕事に変える。
八 布の遅れ、香の証
開講三日目、遅れが出た。
新入りの針子が、御用布に朱の点を落とした。
噂は速い。
凌は布を香鏡に当て、裏に仕込んだ香符で“遅れ時間”を測る。
〈沈一・清二・道一〉の反射の位相で、布が置かれていた場所と時間が見えた。
犯跡ではなく、署名。
「――眠りが足りなかった」
針子は顔を上げ、泣かず、頷いた。
昼寝の札を増やし、翌日同じ布で、補修を試す。
補修の段が、彼女にひとつ付いた。
罪は薄く、学びは太く。
九 景焔の一行、羨望
禁裏から、一行。
〈眠れ〉
凌は笑って板に貼り、后印で隣に押した。
朱と墨は隣り合い、混じらない。
夜、景焔がふらりと静陰殿に現れ、板の前で立ち止まる。
「母を抱いたと聞いた」
「禁を破りました」
帝は短く笑い、「我も抱きたい」と言って、凌の肩を抱いた。
「羨む」
「余白です」
「余白は、眠りのためか」
「愛のためです」
景焔は腕の力をすこし強めた。「――馬鹿だ」
凌は目を閉じ、誓珠の破片が胸でわずかに鳴るのを聞いた。
十 后印の噂、歌の変調
后印が押されるたび、歌が増えた。
> 后の朱 香の層
> 欠けの格子は 眠りの枡
> 太い字細い字 隣り合い
> 剣は後ろで 棒は輪
市場にも歌が出た。
> 女の手 男の后
> 板で習えば 賃が出る
> 針の段位は 数で出る
> 眠りの札で 目が澄む
歌は拙い。だが、速い。
規格の周りの空気が、少しずつ柔らかくなる。
十一 古い“権”、新しい“公”
後宮の古参のうち、ひとりが逆立った。
「后印だと? わしは二十年、権でやってきた。公は、人を傷つける」
凌は公開の場に彼女を招き、茶を点ててから言った。
「公は、人を眠らせるためにあります。権は、人を立たせるためにあります。――いま必要なのは、眠りです」
后印で押した札を見せ、賃金の内訳、段位の基準、訴の流れを板に並べる。
古参は腕を組み、しばらく黙ってから、ふっと笑った。
「わしは立ってばかりで、眠りを忘れておった」
彼女は自ら「夜番」の札を外し、若い者に渡した。
“委ね”は、罰よりも長く効く。
十二 看(み)倣(なら)う人々
宮の外の女たちも、板を見に来た。
抱え子を背にした女が、後宮学の端に立って言う。
「字は要らんと思ってた。賃の字は、欲しいと思った」
凌は笑い、小さな札を渡した。
〈仮名の板:市の字・賃の字・眠の字〉
仮名の板は、市にも立ち、子が指でなぞった。
宰相派が乾いた橋を渡れぬうちに、女たちが板を渡る。
十三 燕青の不器用な誓い
日暮れ、庭の縁側で、燕青が不意に頭を下げた。
「凌殿。……女の学びの場、影が見ます」
「ありがとう」
「剣ではなく、息で見ます」
凌は笑った。「君はもう、働きで償う人だよ」
燕青の耳が、少しだけ赤くなった。
十四 太后の訪れ、涙のあと
数日後、太后が静陰殿へ来た。
扇の骨は静かで、沈香は薄く、香の層は清が勝つ。
太后は後宮学の札と段位の板を見回り、后印の朱に指を触れた。
「重さは、持てるか」
「分けて持ちます。段と札と歌に」
太后は頷き、低い声で言った。
「泣いたのは、恥ではないか」
「救いです」
太后は、扇を膝に置いたまま、目を閉じた。
「景焔は、あの子は、眠れているか」
「はい。短く、深く」
太后は「よい」とだけ言い、帰り際に后印の欠けに爪で触れた。
欠けは、続けるための印だ。
十五 小さな反乱
後宮学に、反乱が起きた――と言ってもそれは、笑いを伴う小さなものだった。
若い針子たちが歌を改造し、男の侍従たちに歌わせたのだ。
> 男の腕 女の針
> どちらも段で 賃が出る
> 后の朱には 欠けがある
> 欠けを抱いて 眠れ、宮
景焔が通りかかり、立ち止まった。
「欠けとは」
針子たちは一斉に凌を見る。
凌は后印を掲げ、裏の格子を見せた。
「真ん中は寒い、から」
景焔は短く笑い、凌の手を取って、指に唇を触れた。
「馬鹿だ」
声は、震えていなかった。温かった。
十六 掌握の宣言――力ではなく、公平で
夕刻、後宮の広場で、凌は后印の前に立った。
女官・針子・従者。男の侍従も、台所の少年も、みな同じ高さで立つ。
灯は低く、香は清、祓いは和。
凌は短く言った。
「掌握は、力ではなく、公平で行います。
勝つことは、制度に。
負けは、人が引き受けます。
眠りは、みなに。
后印は、見えるところで押します。
剣は後ろで眠り、棒は輪になります。」
后印の朱は、静かに鳴った。
歌が、自然に出た。
> 朱と墨 隣り合い
> 欠けの枡には 眠りを置く
> 勝ちは板へと 負けは掌へ
> 剣は後ろで 棒は輪に
凌は、掌を開いた。力は握りこぶしに宿り、公平は開いた掌に宿る。
十七 “后印の仕事”
その日から、后印の札は増えた。
〈昼寝の覆い:紛失の際は罰ではなく再配布〉
〈香鏡:破損は連座ではなく、修理の段〉
〈抱え子:病の時は休みの札。欠勤ではない〉
〈縫房:針目の基準を公開。目が読めれば、誰でも段が上がる〉
〈訴:顔を隠す幕を設置。声で判じない〉
罰は薄く、仕事は太い。
公平は、見えることで初めて力になる。
後宮の風は、扇ではなく板で吹き、香は祈りだけでなく規格になる。
十八 宰相の最期の薄笑い
中書省の渡り廊を、宰相がひとりで歩いた。
笑いは薄く、端が疲れている。
回廊の板に后印の札が並び、等幅の字が、名を――役を――同じに扱う。
宰相は立ち止まり、欠けの格子に指を触れず、ただ見た。
「見えることが、恐れを増す」
と、誰にともなく呟き、笑いをやめた。
十九 太后の涙、もうひとしずく
夜、凌は太后の間に呼ばれた。
沈香は薄く、扇は膝、灯は低く。
太后は言った。
「景焔が、眠っている」
凌は頷いた。
「はい」
「泣いてもいいか」
凌は一瞬、息を止め、次いで微笑んだ。
「はい」
太后の目の端に、もうひとしずく。
それは、恥ではなく、肯だった。
凌は再び、抱きしめた。
扇の骨が、肩と肩の間で小さく触れ、欠けが二つ、重なった。
二十 続ける――后印の朱、眠りの墨
夜更け、静陰殿の板に、凌は最後の札を足した。
〈今日の帳:后印/後宮学/公平〉
〈今日の香:清〉
〈今日の祓い:和〉
〈今日の灯:低〉
后印の朱は、板の上で静に乾き、眠りの墨は、字の輪郭を柔らかくする。
誓珠の破片が胸でほとんど聞こえないほどに鳴り、蘭秀の欠けた扇骨がどこかの風の角で小さく触れ合い、太后の沈香は祈りに戻り、景焔の一行が眠れと言う。
“唯一は席ではない。規格だ。”
規格は増える。
后印、后則、後宮学、段位、眠りの札。
増えるたび、刃は鈍る。
鈍った刃の下で、人が学び、働き、眠る。
勝つことばかりが、愛ではない。
負けを仕立て、余白を作り、眠りを渡す。
その全部を、后印の朱と、板の墨で続ける。
凌は灯を指で低くして、目を閉じた。
銀口の沈香が、遠い昔の波のようにかすかに鳴った。
そして静かに、眠った。



