影双譚(かげふたつたん)

 砲声は、腹の底で鳴った。
 矢野蓮は、伏見の町の板戸の影から半身を出し、夜の色に朱を撒く火線の向こうを見た。風に混じるのは焼けた油の匂い、米蔵の焦げ、酒の甘い煙、濡れ藁の蒸れた湿気。火の粉は雪ほど軽くなく、雨ほど重くない。息を吸うと喉の奥に焦げた粉が張り付き、吐けば舌の先で銅の味がした。

 鳥羽・伏見。敗走の局面。
 退く、の一言で片がつく夜に、退く術を知らぬ者は多い。走るは退くではない。背を見せぬのも退くではない。退くは術だ。生き延びるための、指の角度まで含めた術。
 蓮は柄袋の紐を歯で引き、槍を一息で抜き出す。穂首には布。突くためじゃねえ、押すためだ。
 背後の路地に息の気配。隊旗を巻き、負傷者を担ぐ隊士が三、四。静は先頭で、振り向かない。振り向かないくせに、背中で全部の息を聞いている。それが分かる。総司の浅葱の羽織ではない、静の細い影。
 「静、どっちだ」
 「右手の用水、土蔵の影を借ります。——ここで『一拍』置きますよ、蓮」
 静の声は、砲声より鋭く、火の粉より冷たい。ひょうひょうとした敬語が、混乱の中で針のように通る。

 右手の路地は狭い。土蔵が壁を作り、軒と軒の間に夜風の筒ができている。ここで狭める、が正解だ。
 蓮は路地を一歩で測り、二歩で地図にした。畳三枚半ぶんの幅。人が二人並べばすれ違いに他の一人の肘が当たる。塀の角に切り欠き。足元は井戸水が溢れ、滑りやすい。
 追撃の足音は広い大路の方から近づく。鉄の舌が噛み合う銃の音、肩で揺れる刀の鐺の音。
 蓮は槍を水平に出し、路地口に「十字」を作った。自分の槍と、倒れていた屋台の棒。斜めに掛け、石突を壁に噛ませ、穂先は土蔵の口木に引っかける。
 十字槍。
 刺すための「十字」ではない。封じるための「十字」。
 背を見せずに封鎖線を引く。
 「通れねえよ」
 蓮は笑い、路地の奥へ下がる。振り向かずに、石突だけで背後の足の、踏み出す角度を変えてやる。
 棒の向こうで追撃の影が止まり、舌打ちと罵声が重なる。十字の隙間から覗く刃の先に、火が映って赤い舌を出した。

 静が進路の「道標」になっていた。
 刀は抜かず、鞘の先で暗闇の中に目印を置く。土蔵の白壁に黒い煤(すす)で円を描き、その一部を指で拭って弧にする。弧の切れ目の方向が次の曲がり角。足の遅い隊士にも、目の悪い負傷者にも分かる符丁だ。
 「右、二軒目で左です。——息を合わせますよ」
 「おう」
 蓮は応じ、十字槍を崩して肩に担いだ。封鎖は十分稼いだ。追撃が十字に手間取る音が近づく。棒を押し上げる気配。押すなら押させとけ、棒に頼る腕は次で抜ける。
 蓮は路地の角で槍を縦に立て、石突で水面を撫でた。波紋の音が、後ろの足へ合図を送る。——走るな、歩幅を半歩詰めろ。
 背で聞こえる。静の息が短く、よく通る。「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術です」。
 その言葉は、蓮の槍の芯の鉄と同じ硬さを持っている。

 用水路の上に渡した細い板の橋を越えたところで、広い辻に出る。四方から風が交わる場所。
 そこに、火の門があった。
 酒蔵の梁が崩れ、炎が二本の柱のように立って道を挟み、熱の波が往来を塞ぐ。火は門を作るのが好きだ。通す者と通さぬ者を仕分ける。
 「炎の門……」
 誰かが呟くのが、蓮の後頭部に届く。怯えと畏れの混ざった声。
 静は振り向かず、炎の門に正対して立った。
 「ここを通ります。——二拍で」
 「二拍?」
 「ええ。火は呼吸します」

 火の呼吸。
 炎は吸い、吐く。吸う時は高く、吐く時は低い。熱の山と谷。
 静は炎の縁で一度だけ袖を振り、その風で火の吐く拍を確かめた。
 「今です」
 静が一拍目を足で刻み、蓮が二拍目で十字槍を横に張り出す。板戸の破片を抱えていた隊士が身を縮め、負傷者を担ぐ肩が沈む。
 蓮は十字の横棒で炎の舌を押さえ、縦の槍で熱の壁を切る。切ると言っても、熱に刃は利かない。だが、空気を押し割れば、通る道が生まれる。
 「行け!」
 蓮の声が炎の熱で歪み、耳で刃物のように弾ける。
 静が先に抜け、負傷者、隊旗、最後に蓮。
 炎の門は、息を吐き、また吸った。
 通過——間一髪。
 背の髪の先が焼け、焦げの匂いが一瞬だけ甘くなる。

 抜けた先は、縦に長い町筋。左右の町家の格子に火の赤が映り、遠くで砲声が低く山鳴りする。
 追撃の影が再び伸びる前に、路地の口を封じる必要があった。
 蓮は道の脇に転がる長持ちの蓋を片手で立て、槍と交叉させてまたも十字。
 この十字は「止めて見せる」十字。
 追う足の目に、十字の形は「諦めの形」を刻む。
 そこへ静が鞘の腹で店の軒の看板をひとつ叩いた。
 看板が落ち、打ち掛け格子が開く。
 「こちらへ」
 格子の向こうは店の中庭を抜ける抜け道。町の骨は、こういう夜のために、見えない関節を持っている。
 隊士たちが負傷者を抱えて格子の中へ消える。静は最後に一礼してから、看板を足で転がし、入口の影に置いた。これで外からはただの倒れた木だ。

 蓮は外で十字を解き、肩に担いだ。背中で、追撃の小銃の引き金の息を聞く。湿った火薬の匂い。まだ遠い。
 「蓮、次は……坂です」
 静の声が格子の内から落ちる。
 坂。
 伏見には川へ落ちる坂がある。船宿へ降りる石段。逆落としができる。
 逆落とし。
 守る側が高みから低みに打ち落とす術。退き際のとき、上から下へ「落とす」のは、こちらの意にかなう。

 石段の上に出たとき、風向きが変わった。川からの湿った冷えが火の熱を薄め、煙の層が低く流れる。
 静は石段の上段中央に立ち、鞘口に親指をかけた。
 蓮は石段の左右、手摺の石柱に槍を渡した。槍は長いまま、水平。石突と穂首で石柱を噛ませ、手から放す。
 路地封鎖の十字槍は「動く十字」だった。
 この十字は「置く十字」。
 落ちてくる者の足に、十字は横木となり、前のめりの勢いをそこで「横」に変える。
 蓮はさらに半折りの棒を段の手前に置き、足のつま先がそこにかかるように仕掛ける。踏めば、足は自分の重さを誤る。

 「ここは、私が『道標』になります」
 静はそう言って、抜いた。
 逆落としの刃。
 抜きは短く、落ちは深くない。
 刃は人に触れない。段の面、石の角、手摺の縁にだけ触れて鳴る。金属音の流れが、上がる足の「間」を奪う。
 剣で線を引き、線で道を閉じる。
 はじめに駆け下りてきた敵が、その音の「見えない手」に肩を引かれ、足を縺れさせて倒れ込む。
 倒れた者を蓮の槍の横木が受け、横へ「滑らせる」。
 逆落とし防衛線。
 落ちたい勢いを、横へ流し、生かす。
 殺すより速い術は、案外こっちだ。

 「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術です」
 静の声が、石の段と段の間で響き、波紋のように戻って来る。
 蓮は背で笑った。
 「上品に言いやがる」
 言葉とは裏腹に、胸の中は静まる。言葉が芯にあると、槍はぶれない。
 第二波。
 上から降りてくる影は、今度は警戒している。足を広く取り、横木をまたごうとする。
 蓮は十字の位置を半寸ずらした。
 またぐ足の指先が空(くう)を掴み、体勢がわずかに前へ崩れる。
 そこへ静の刃が石段の面を二度鳴らし、音で「止める」。
 止められた勢いは、もう一歩踏み出さないと自分で倒れる。
 その「もう一歩」を、蓮は槍の柄で斜めに押してやる。
 倒れずに座る——それで十分だ。
 生きて座れ。次の夜に困れ。

 空が一段暗くなった。煙が風を変えたのだ。砲声が遠のき、代わりに火の音が近くなる。
 退く列は順調に流れ、負傷者は船宿の蔵に収まった。川筋に小舟が用意され、先発の隊士が舟を押し出す。
 「蓮、もう一つ、背を頼みます。——道標はここから『火の中』です」
 静は刀を納め、鞘で自ら胸を軽く叩いた。
 火の中。
 町の南の横町は酒屋と油屋が並ぶ。そこを抜ければ、横大路。そこが今夜の集合。
 火の門は一つではない。二つ三つと続く。
 蓮は十字を解き、槍を肩に担ぎ直した。
 「任せろ。俺は振り向かねえ。抑えは全部、槍の尻でやる」
 「ええ。背中を預けます」

 横町の入口に立つと、熱が顔を撫でた。右手の油屋はすでに梁が落ち、左手の酒屋が柱だけの骨に火を纏う。
 道は火で細くなり、空は火で低くなる。
 静は視線だけで歩幅を測り、鞘の先で煙の薄い筋を見つけた。
 「ここを通します。——二列、間を空けず」
 隊士たちが並び、負傷者は肩を絡める。
 蓮は槍を横にし、穂首で低い火を払い、石突で転がる樽を押し返す。
 火の呼吸が強くなる。
 「今!」
 静の声が飛び、列が滑る。
 蓮は最後尾で、槍の尻だけで追ってくる火の粉の渦を押し返す。火も押せば退く。
 火と人の境目。そこに槍はよく利いた。

 途中、路地の口から敵影が二つ三つ覗いた。
 火の光は影を長くし、影は人を臆病にする。
 「来るな。——痛いぞ」
 蓮は振り向かずに言い、槍の尻で路地の石に円を描いた。
 円は境界。
 境界は、弱い心に強い。
 敵影はためらい、足が止まる。
 止まる足に、火が笑いかけ、影が縮む。
 静はその間に、店の暖簾を一枚切り落とし、炎の舌を一瞬だけ幽けくした。暖簾が煙を吸い、白が灰に変わる。
 「進んでください」
 道標は、剣で引く線だけではない。
 落ちる布、倒れる看板、転がる樽、開く格子、閉じる雨戸——全部が矢印になる。

 横大路は、夜になっても広かった。
 広い道は、退きにも、追いにも向く。
 広いほど、退くのは難しい。人は広い場所で自分の足を信じすぎる。
 静はそこで、逆に歩を詰めさせた。
 「半歩。——半歩、私の後ろ」
 蓮は笑い、槍で列の脇を軽く叩く。
 半歩は、呼吸の長さだ。
 半歩短い呼吸は、半歩長い命になる。
 追撃の足音が、横大路の南から広がる。
 蓮は槍を斜めにして、列と追撃の間に透明な壁を作る。
 壁は、槍の線ではない。
 壁は、音だ。
 石突が地を撫でる音、穂首が空気を割る音。音の面が、追う足の意志を鈍らせる。
 「……何だ、こいつら」
 追撃の誰かが吐く。
 蓮は心の中で舌を出した。
 ——こっちは退いてんだ。退くのに上手ぇのは、こっちの方だ。

 広い道の真ん中に、炎の門がもう一度あった。
 今度は両側の店が向かい合わせに燃え、間の空気に熱がたまって、見えない壁になっている。
 静は立ち止まらず、刀を半寸抜いた。
 「蓮」
 「おう」
 「灯の鎖を」
 蓮は視線を上げ、燃え残った軒の灯籠の鎖を見つけた。
 鎖は火で赤くなり、灯は半分壊れてぶら下がっている。
 槍の穂首で鎖を救い上げ、石突で柱を押し、鎖を一拍だけ高く持ち上げた。
 静が半寸抜いた刃で鎖の根元を軽く弾く。
 火花が散り、灯が落ちて転がる。
 灯は落ちると、火の呼吸を乱す。
 乱れた呼吸に、楔を打つように列が滑る。
 炎の門は、こちらがくぐる時だけ、門をやめた。

 退きは、終わりに近いほど難しくなる。
 筋が細く、息が太くなる。
 油小路の先の角で、蓮の足が初めて重く感じた。その重さに、槍の長さが答える。重い足は、軽い石突で支えればいい。
 「槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ」
 蓮は口の中で呟き、笑った。
 ここまで届いた。まだ届く。
 静が、ふと振り返らずに言う。
 「蓮」
 「何だ」
 「今夜、あなたの“盾”は、振り向かずに立派でした」
 「……上品に言うなよ。照れるだろ」
 「褒め言葉として受け取ってください」
 「そればっかだな、お前は」
 笑いは短く、息は長く。
 退くにふさわしい笑い方だ。

 集合の辻に、味方の横隊が影を作って待っていた。目印は倒れた鳥居の笠木、炎で黒く焼け、橋の欄干のように横たわる。
 「こちら!」
 合図の声に、静が刀を納め、鞘で返答するように空を軽く叩いた。
 隊旗が渡され、負傷者が引き取られる。
 蓮は槍を立て、穂先の布を外して水に浸し、煤を拭った。
 布に焦げの匂いが染みる。
 生きた匂いだ。
 死んだ匂いじゃない。

 退き際の美学は、誰かに見せるためのものじゃない。
 自己満足でもない。
 美学は、手の内の形だ。
 蓮は石突を地に置き、肩の力を抜いた。
 遠くで砲声がまたひとつ落ち、夜は火の音だけになっていく。
 静が並んで立ち、袖を少しだけ絞った。汗と水と灰が混じって、黒い線が足元へ落ちる。
 「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術です」
 さっきの言葉を、静はもう一度だけ、今度は誰にも聞こえない声で言った。
 蓮は頷き、石突で地を二度叩いた。
 短い祝砲。
 退き切った合図。

 夜が深むにつれ、火の門はところどころで崩れ、道はまた別の形で開き始めた。
 撤退の列は南へと伸び、後衛の役は別の隊が引き継ぐ。
 蓮は槍袋に柄を収め、肩に掛け直した。
 槍は眠らない。だが、槍を担ぐ肩は眠る。
 静は鞘の腹を布で拭き、鯉口の金具を指先で確かめた。音を立てずに納め、音を立てずに抜く。その稽古は、今夜ほど生きたことはない。

 ふと、風が変わった。
 川の方から、冷えた風。
 煙の層が薄くなり、星の光がひとつだけ覗いた。
 蓮は空を見上げ、指でその光を挟むふりをした。
 「静。……生き残るのは、面倒だな」
 「ええ。面倒です。——だから、礼儀が要ります」
 「礼儀?」
 「退く礼儀。押す礼儀。灯の礼儀。風の礼儀。……そして、困らせる礼儀」
 蓮は鼻で笑い、肩で笑い、やがて素直に笑った。
 「お前の言い方は、やっぱり上品に意地が悪い」
 「褒め言葉として」
 「それだ」

 伏見の夜は、炎の門をいくつもつくり、いくつも壊した。
 門は門の役目を果たし、やがて役目をやめた。
 退く者の背に、炎が祈りのように温かく、時に罰のように熱かった。
 蓮は歩きながら、背でその温度を測り続けた。振り向かない盾として。
 静は前で、道標として、夜風の薄い道を選び続けた。
 その二つが、今夜の美学だった。

 壬生へ戻る道の手前、寺の鐘がひとつだけ鳴った。
 静は立ち止まり、頭を垂れ、耳で鐘の鳴り終わりを見送った。
 蓮は石突で地を軽く叩き、音の余韻を自分の胸に移した。
 「……終わりじゃねえ。続きだ」
 「ええ。続きです」
 退く術は、明日も要る。
 押す術も、明日も要る。
 灯の高さも、風の向きも、明日はまた違う。

 その夜、屯所に戻ると、土方は庭石に座り、火の消えた煙管を指で弄んでいた。
 「退いたな」
 「退きました」
 「斬ったか」
 「斬っていません。——落として、横に流しました」
 土方の口角が、わずかに動いた。
 「美しい話は嫌いだ」
 「必要な話です」
 静が穏やかに言い、土方は鼻を鳴らした。
 総司は廊の陰から現れ、団扇で自分の胸を軽く叩いた。咳は浅く、目は笑っている。
 「風は、君らの方へ吹いていましたね」
 蓮は槍袋を壁に立てかけ、肩から汗が冷えるのを待った。
 「風と火の間でな。……うまく渡った」
 「退くのは、渡ることです」
 静の言葉に、蓮はうなずくしかなかった。

 夜更け。
 槍は壁に、刀は鞘に、それぞれ眠ったふりをする。
 蓮は目を閉じ、炎の門をもう一度だけ心に置いた。
 火の呼吸、十字槍の手触り、石段の音、静の「二拍」。
 それらが、胸の中で薄い紙のように折り重なる。
 折り重なった紙の束は、次の夜のための約束になる。
 ——退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術。
 その約束を、誰に見せるでもなく、彼らは胸の内側にしまった。

 明け方、風は涼しく、灰の匂いは遠のいた。
 蓮は槍を肩に、静は鞘を腰に、それぞれの長さで立ち上がる。
 美学は見せ物ではない。
 だが、見る目に届く夜がある。
 昨夜がそうだった。
 蓮は肩を回し、静は袖を払った。
 退き際にだけ見える景色を、ふたりはもう一度だけ胸で撫で、そして、前を向いた。