流言は、いつだって紙の軽さで広がる。
——今宵、沖田総司、帰路にて斬らるべし。
字は上手すぎず、下手すぎず、匂いは油。紙の端は濡らされて、風で飛ばぬようにしてあった。貼られた場所は木屋町の辻、三条から四条へ下る間の、灯籠の影が交わるところ。紙は夜に似合う。夜は紙を信じやすい。
屯所には夕立の名残の湿りが漂っていた。廊の板は薄く汗をかき、障子紙はわずかに膨らむ。
静は板の間に膝をつき、兄の羽織を手に取った。浅葱。袖を通すと、肩の縫い目が小さく笑った。兄と自分の骨格はほとんど同じだ。鏡の前に立てば、親でも一瞬は迷うだろう。
——だが、歩幅が違う。
ひと足の長さは、骨と癖の和で決まる。兄の歩は「風」に乗って少し伸びる。自分の歩は「間」を測って、少し詰める。
蓮はそれを知っている。
彼は槍袋を肩に担ぎ、静の背から半歩の距離に立って、笑いを歯の内側で転がした。
「顔は瓜二つ、足は別人。……そこを嗅がれるぞ」
「ええ。ですから、嗅がせます。嗅がれてから、離します」
「離す?」
「光で、影の長さを変えるのです」
土方は、廊の端で無言のまま煙草を指で折った。火はつけない。
「好きにやれ。ただし、帰ってこい。総司は出さねえ。お前が出ろ」
「承ります」
総司は柱に寄り、団扇でひとつ、膝を軽く叩いた。咳は浅い。
「静。君の“風”は、今夜は灯の側にあります。……蓮、影の仕事は、君が上手い」
「任せろ。影は長くも短くもできる。棒の届くところならな」
静は微笑み、羽織の襟を整えた。
「兄の影を借りる夜は、私の心がいちばん騒がしい」
言ってみて、胸の内に波が立つのを自分で確かめる。波は、怖れと誓いの混じり合いだ。
木屋町へ向かう道は、雨上がりの石畳が薄く光っていた。高瀬川の水音が板塀の裏で鳴り続け、湿った草の匂いが鼻奥に細い線を引く。
静は兄の歩幅を借りるように、踵とつま先の間隔を半枚伸ばした。肩をわずかに落とし、肘を狭くする。兄は「風」で衣を軽く揺らす。自分は「間」で衣を止める。それを逆さに真似る。
人払いは、最小限。蓮は影の側を走る。屋根の樋の下、軒と軒の間、灯籠の根元。石突で土を撫でて、合図を送る。三つ——二つ——ひとつ。
今宵、通りは祭りではないが、客は“散る祭り”のように小さく集まり、小さく流れる。灯籠の数は多すぎず、少なすぎず。静は灯の位置を目に入れ、影の角度を胸で測った。
最初の刺は、視線だった。
格子越しに酒を舐める男の目。提灯売りの少年の目。道の端に置かれた籠の中の猫の目。
目は嘘をつかない。ただ、言わない。
静は目に礼をし、足に嘘を乗せた。兄の“風”を借りる足。
——真似は似せる手段ではなく、差を際立たせる稽古だ。
差は消えない。消さない。
刺客が嗅ぎ取るべきものを、嗅ぎ取れるように整える。
嗅ぎ取らせる場所は、こちらが選ぶ。
最初の辻。川に近い角。灯籠が二つ、等間隔に立っている。
影は、二本できる。
静は灯籠の手前で、一拍だけ歩を詰め、次の一拍で半歩だけ伸ばした。影は、長くなり、短くなり、長くなる。
屋根の上で、蓮の石突が板を軽く叩いた。——「見ている」。
見ている者は、息が変わる。
薄い息が、ふと濃くなる場所。
それが、刺客の呼吸の輪郭だ。
木屋町三条。川沿いの柳が濡れ、葉が影を細く裂く。
静は柳の下で、兄の咳の模倣をしなかった。
咳は、借りられない。
代わりに、団扇の骨を膝に軽く当てる。音だけを借りる。
足の裏で石畳の目の幅を数えていると、背中に「違和」が寄ってきた。
違和は匂いにも音にも混ざる。
草履の歯が古い音。右の踵が少し高い。呼吸が左に寄っている。
——浮脚(うきあし)。
浮脚は、走る前の足だ。
総司は走る前に息を薄くし、浮脚を消す。
自分は走る前に息を短くし、浮脚を“見せる”。
今夜の“総司”は、浮脚を残した。
刺客は賢い。
「総司」を知っているのは、噂よりも現場だ。
浮脚の一枚で、彼は悟るだろう。
悟る、なら——ここで悟れ。
静は灯籠と灯籠の間に、兄より半歩長い歩を置いた。
影が、予定より長く伸びる。
次の瞬間、背中の空気が「決まる」。
刃が、来る。
音は、風よりも先に皮膚へ届いた。
抜き付けの乾いた音。
刺客は狭い角を選び、左から右へ斜めに切り落として「頸」を狙う気配をまとっていた。
静は半身のまま、鞘の腹で空気を押し、刃の前に「幅」を置いた。
金属は、幅に弱い。
刃は風のように通るのではなく、線のように通る。
線の前に幅を置く。
打つのではない。先に、置く。
刃はそこで、わずかに遅れた。
「偽物だな」
耳の脇で、刺客の声が笑う。
静は笑いで返した。
「本物は、今夜は風の側です」
刺客の腕は軽い。利き手は右、肘の内側に古傷。雨で柔らかくなった畳の匂いが袖に残る。道場の人間だ。
足運びは汚くない。だが、怒りが足と一緒に出てくる。
怒りは、音を重くする。
静は鍔で刃の根元を横に送って、相手の肩を自分の肩と「平行」にした。角度を奪う。
奪った瞬間に、灯が揺れた。
蓮が動いたのだ。
屋根の端から槍の柄が伸び、灯籠の鎖を軽く持ち上げる。
灯は高くなり、影は短くなり、次の刹那には、蓮が鎖を“落とした”。
灯は低くなる。
影が伸びる。
影の長さは、歩幅の嘘をつく。
刺客は嘘を嗅いだ。嗅いで、判断をひとつ間違えた。
「離れた」と思い、詰めた。
そこに、静は「置いて」いた。
鞘の角を、相手の手首の腱に。
刺客の指が「開く」。
刃は、石畳に薄くキスをし、音が夜に飛ぶ。
第二の影が、斜め上から降りた。
屋根から、雨樋を伝って。
静は目だけで追い、身体は追わない。
追うのは蓮。
蓮は屋根から屋根へ移り、石突で降りる影の膝を「止めた」。
止めるのは打つことではない。——道を変えることだ。
膝は前に落ちるつもりだった。蓮は横へ落とさせた。
影は板塀に肩をぶつけ、息で自分の肺を殴り、目の中の光をひとつ落とした。
「顔は、沖田」
最初の刺客が唾を飛ばし、静の目を測る。
「歩きは、違う」
「ええ。兄の歩は風で、私の歩は間です」
「間で斬れるか」
「斬りません」
静は言葉を置きながら、足の置き場を一枚ずつ「掃除」した。
石の目に溜まった雨を、爪先でそっと押し、滑りを消す。
刺客はその「掃除」を見ていない。刃の先だけを見ている。
刃の先は、夜を長くする。
静の鞘は、夜を短くする。
第三の影は、灯の裏で息を殺していた。
——息が薄い。息が薄いのは、怒りではない。
待ちの息。
待ちの息は、蓮が嫌う。
石突が、灯籠の脚に軽く触れ、灯は左右に「微笑む」。
影は、笑いが嫌いだ。
笑いの拍子に、足が出た。
静はその足の「指」に鞘の先を置いた。踏むのではない。置くだけ。
置かれると、足は自分で止まる。止まると、身体は言い訳をする。
言い訳をする身体の胸に、静は言葉を置いた。
「生きて、困ってください」
刺客は三。
刃を完全に落としたのは一。
残る二は、刃を持ち直し、腹で勝つ気を新しくした。
勝つ気は、光に似て反射する。
その光を、灯籠の光で上書きする。
静は灯籠と灯籠の間に入り、身体を「白」に晒した。
顔は兄。肩も兄。
だが、影の長さだけが、兄と違う。
違いを見せたまま、再び偽装する。
蓮の槍が、灯の鎖を持ち上げる。静は灯に近づき、影を短くする。次に、灯から離れて、影を長くする。
刺客の目に映る「総司」の影は、風と間の両方を持った。
目は、迷う。
迷いは、刃の内側に現れる。
静はその内側に、鞘の腹で「広さ」を置いた。
鍔迫り合いは、会話だった。
刺客の息が荒れれば、静の声は静かになり、刺客の手が震えれば、静の視線は暖かくなる。
「お前は総司じゃない。だが、総司の影は持っている」
「ええ。借りました。今夜だけ」
「影が泣くぞ」
「影は、泣いてくれます。涙は私の方から拭います」
言いながら、静は刺客の手首を鞘の角で「三度」叩いた。
一度目は皮膚に、二度目は筋に、三度目は記憶に。
記憶を叩くと、手は自分から開く。
刃は、地面で眠る。
蓮は二人目の膝を「道から外し」、三人目の肩を「壁に寄せ」、槍を長いまま、しかし突かずに押し続けた。
「動くな。動けば、痛い」
痛い、と言われて動くものはいない。
動くものは、動くつもりだった者だけだ。
そのつもりを、蓮は槍で奪った。
槍は奪う道具ではない。——選ばせる道具だ。
前に転ぶか、横に座るか。
彼は今夜、横を選ばせた。
「誰の差し金です」
静は最初の刺客に問うた。
刺客は唇を開きかけ、閉じ、歯で自分の言葉を噛んだ。
噛む音は小さく、だが「紙」の匂いが口からこぼれる。
紙の匂いは、油と墨の交わり。
「紙で命は動かない」と人は言うが、動く。
蓮が石突で地を軽く叩く。
「口を閉じる自由はある。だが、今夜は紙の自由を奪いに来た」
静は灯へ一歩寄り、刺客の顔を白に晒した。
「——帳場の手、ですね」
刺客の眼が、ほんのわずかに泳いだ。泳いだ先は北へ。
「油小路の、材木問屋の奥に座る手」
薄い笑いが刺客の喉に引っ掛かった。
「……お前ら、なんでも見てるな」
「見えないものは臭いで嗅ぐだけです」
蓮は二人の刺客を石突の「円」で座らせ、両の手首を帯で軽く縛った。
静は残る一人の足元に鞘先を置き、彼の息が落ち着くまで待った。
待つ時間は、刃より長い。
長い時間は、人を柔らかくする。
柔らかくなった言葉は、紙に似る。
紙に似た言葉は、火に弱い。——今夜の火は灯籠ひとつで足りる。
「戻りましょう」
静が言うと、蓮は頷き、灯の鎖を指で鳴らした。
灯は本来の高さに戻り、影は夜の規則のもとへ帰る。
歩き出す前、静は灯の根元に貼られた“斬り文”の端を、そっと指で割いた。
紙の繊維が、夜の湿りの中で細く鳴る。
「紙は、彼らの武器です。——なら、紙で困っていただきましょう」
蓮が笑う。
「上品に意地が悪い。好きだぜ、そのやり口」
材木問屋の奥は、夜でも熱かった。板戸の裏の帳場は、昼の熱を溜め込んでいる。
灯の油は新しい。筆は乾いて、毛先が立っている。
机の上に、紙の束。
『沖田総司、今宵帰路にて……』の同類が十枚。行き先だけが違う。
静は一枚一枚をめくり、墨の濃淡を目で撫でた。
濃いのは、今日書いたもの。薄いのは、昼に書いたもの。
筆跡は同じだ。
帳場の手は、静の指の音を聞いていた。
男は三十半ば、指に墨の染み、鼻の横に小さな古い瘡痕。
「商いは、紙で回る。命も、紙で回る。違うか」
男は正面から言った。
静は微笑し、紙を二つに「割いた」。
破り捨てはしない。割って、重ねる。
重ねると、紙は厚くなり、透けない。
「透けないのは、良いですね。——見えない方が、困る」
男の喉がひとつ動いた。
蓮は石突で床を軽く叩き、言葉を落とす。
「生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」
言葉は帳場の木口に染み込み、紙の束の重みを一枚だけ重たくした。
帰路、川風がようやく夜の湿りを薄めた。
静は兄の羽織の襟を外し、肩で風を受けた。
兄の歩幅は脱ぎ、己の歩幅に戻す。
戻すと、心が静かになる。
——借り物は、返すほどに自分が軽くなる。
蓮は屋根から降り、槍袋に柄を収めた。
「影の仕事は、灯が味方だと楽だな」
「灯は、嘘も照らします。——だから、灯の前では上手に嘘をつかないと」
「やっぱり上品に意地が悪い」
「褒め言葉として」
蓮は肩で笑い、石畳に落ちた水を足で払った。
屯所に戻ると、土方はまだ起きていた。
庭石に腰掛け、火をつけていない煙草を指で折り、折り目を爪でなぞる。
「戻ったか」
「はい」
「斬ったか」
「斬っていません。灯で困らせました」
土方は鼻を鳴らし、片方の口角だけで笑った。
「影の稽古は上出来だ」
総司は柱の陰に立ち、団扇を膝に置いて、静を見た。
目は笑い、咳は浅い。
「君の“間”は、灯の側でよく働きますね」
静は礼をした。
「兄の影を借りて、返しました」
総司は頷き、団扇で自分の胸を軽く叩いた。
「影は借り物ではありませんよ。君の影は、君のものです」
静は、その言葉を胸の内で一度“割り”、重ね、厚くした。
透けなくして、しまっておく。
夜半、静は縁側に座り、自分の足袋の裏を撫でた。
石畳の目の幅、灯籠の鎖の長さ、蓮の石突の円、刺客の浮脚の癖。
今夜の夜の帳面は、紙ではなく、足裏に書かれていた。
風が柱の角を撫で、虫が遠くで鳴いた。
静は目を閉じ、胸の奥の波をもう一度確かめた。
騒がしい波は、静かに静かに、岸を作る。
その岸に、今夜の言葉をひとつ置いた。
——兄の影を借りる夜は、私の心がいちばん騒がしい。
その騒ぎに、灯の光をひとすじ落とす。
光は寝床を探し、最後は影に寄り添って眠った。
数日後、木屋町の斬り文は消えた。
紙は紙のまま、蔵に積まれ、日の目を見ない。
材木問屋の帳場の手は、寺の物置で毎朝掃除をし、夜には紙でなく箒を持った。
刺客の三人は、膝の痛みと共に、長い息を覚えた。
蓮は新しい鎖の音を練習し、灯が高く低くなる拍子を身体で覚え、石突の円を少し磨いた。
総司は、咳の合間に団扇の骨で膝を叩く癖を、少しだけ減らした。
静は、兄の羽織を箪笥に戻し、袖の裾を撫でてから、扉を閉じた。
顔が似ていても、背負う風は別。
歩幅が違えば、影の長さも違う。
それで良い。
灯籠の光で影の長さを偽装した夜は、ただの稽古だ。
本当の影は、偽装しない。
それを確かめるように、静は縁側の影に自分の足を一枚、二枚と置いた。
足は、いつも通りの長さで、そこにあった。
そして、夜は、ゆっくりと薄明へほぐれていった。
——今宵、沖田総司、帰路にて斬らるべし。
字は上手すぎず、下手すぎず、匂いは油。紙の端は濡らされて、風で飛ばぬようにしてあった。貼られた場所は木屋町の辻、三条から四条へ下る間の、灯籠の影が交わるところ。紙は夜に似合う。夜は紙を信じやすい。
屯所には夕立の名残の湿りが漂っていた。廊の板は薄く汗をかき、障子紙はわずかに膨らむ。
静は板の間に膝をつき、兄の羽織を手に取った。浅葱。袖を通すと、肩の縫い目が小さく笑った。兄と自分の骨格はほとんど同じだ。鏡の前に立てば、親でも一瞬は迷うだろう。
——だが、歩幅が違う。
ひと足の長さは、骨と癖の和で決まる。兄の歩は「風」に乗って少し伸びる。自分の歩は「間」を測って、少し詰める。
蓮はそれを知っている。
彼は槍袋を肩に担ぎ、静の背から半歩の距離に立って、笑いを歯の内側で転がした。
「顔は瓜二つ、足は別人。……そこを嗅がれるぞ」
「ええ。ですから、嗅がせます。嗅がれてから、離します」
「離す?」
「光で、影の長さを変えるのです」
土方は、廊の端で無言のまま煙草を指で折った。火はつけない。
「好きにやれ。ただし、帰ってこい。総司は出さねえ。お前が出ろ」
「承ります」
総司は柱に寄り、団扇でひとつ、膝を軽く叩いた。咳は浅い。
「静。君の“風”は、今夜は灯の側にあります。……蓮、影の仕事は、君が上手い」
「任せろ。影は長くも短くもできる。棒の届くところならな」
静は微笑み、羽織の襟を整えた。
「兄の影を借りる夜は、私の心がいちばん騒がしい」
言ってみて、胸の内に波が立つのを自分で確かめる。波は、怖れと誓いの混じり合いだ。
木屋町へ向かう道は、雨上がりの石畳が薄く光っていた。高瀬川の水音が板塀の裏で鳴り続け、湿った草の匂いが鼻奥に細い線を引く。
静は兄の歩幅を借りるように、踵とつま先の間隔を半枚伸ばした。肩をわずかに落とし、肘を狭くする。兄は「風」で衣を軽く揺らす。自分は「間」で衣を止める。それを逆さに真似る。
人払いは、最小限。蓮は影の側を走る。屋根の樋の下、軒と軒の間、灯籠の根元。石突で土を撫でて、合図を送る。三つ——二つ——ひとつ。
今宵、通りは祭りではないが、客は“散る祭り”のように小さく集まり、小さく流れる。灯籠の数は多すぎず、少なすぎず。静は灯の位置を目に入れ、影の角度を胸で測った。
最初の刺は、視線だった。
格子越しに酒を舐める男の目。提灯売りの少年の目。道の端に置かれた籠の中の猫の目。
目は嘘をつかない。ただ、言わない。
静は目に礼をし、足に嘘を乗せた。兄の“風”を借りる足。
——真似は似せる手段ではなく、差を際立たせる稽古だ。
差は消えない。消さない。
刺客が嗅ぎ取るべきものを、嗅ぎ取れるように整える。
嗅ぎ取らせる場所は、こちらが選ぶ。
最初の辻。川に近い角。灯籠が二つ、等間隔に立っている。
影は、二本できる。
静は灯籠の手前で、一拍だけ歩を詰め、次の一拍で半歩だけ伸ばした。影は、長くなり、短くなり、長くなる。
屋根の上で、蓮の石突が板を軽く叩いた。——「見ている」。
見ている者は、息が変わる。
薄い息が、ふと濃くなる場所。
それが、刺客の呼吸の輪郭だ。
木屋町三条。川沿いの柳が濡れ、葉が影を細く裂く。
静は柳の下で、兄の咳の模倣をしなかった。
咳は、借りられない。
代わりに、団扇の骨を膝に軽く当てる。音だけを借りる。
足の裏で石畳の目の幅を数えていると、背中に「違和」が寄ってきた。
違和は匂いにも音にも混ざる。
草履の歯が古い音。右の踵が少し高い。呼吸が左に寄っている。
——浮脚(うきあし)。
浮脚は、走る前の足だ。
総司は走る前に息を薄くし、浮脚を消す。
自分は走る前に息を短くし、浮脚を“見せる”。
今夜の“総司”は、浮脚を残した。
刺客は賢い。
「総司」を知っているのは、噂よりも現場だ。
浮脚の一枚で、彼は悟るだろう。
悟る、なら——ここで悟れ。
静は灯籠と灯籠の間に、兄より半歩長い歩を置いた。
影が、予定より長く伸びる。
次の瞬間、背中の空気が「決まる」。
刃が、来る。
音は、風よりも先に皮膚へ届いた。
抜き付けの乾いた音。
刺客は狭い角を選び、左から右へ斜めに切り落として「頸」を狙う気配をまとっていた。
静は半身のまま、鞘の腹で空気を押し、刃の前に「幅」を置いた。
金属は、幅に弱い。
刃は風のように通るのではなく、線のように通る。
線の前に幅を置く。
打つのではない。先に、置く。
刃はそこで、わずかに遅れた。
「偽物だな」
耳の脇で、刺客の声が笑う。
静は笑いで返した。
「本物は、今夜は風の側です」
刺客の腕は軽い。利き手は右、肘の内側に古傷。雨で柔らかくなった畳の匂いが袖に残る。道場の人間だ。
足運びは汚くない。だが、怒りが足と一緒に出てくる。
怒りは、音を重くする。
静は鍔で刃の根元を横に送って、相手の肩を自分の肩と「平行」にした。角度を奪う。
奪った瞬間に、灯が揺れた。
蓮が動いたのだ。
屋根の端から槍の柄が伸び、灯籠の鎖を軽く持ち上げる。
灯は高くなり、影は短くなり、次の刹那には、蓮が鎖を“落とした”。
灯は低くなる。
影が伸びる。
影の長さは、歩幅の嘘をつく。
刺客は嘘を嗅いだ。嗅いで、判断をひとつ間違えた。
「離れた」と思い、詰めた。
そこに、静は「置いて」いた。
鞘の角を、相手の手首の腱に。
刺客の指が「開く」。
刃は、石畳に薄くキスをし、音が夜に飛ぶ。
第二の影が、斜め上から降りた。
屋根から、雨樋を伝って。
静は目だけで追い、身体は追わない。
追うのは蓮。
蓮は屋根から屋根へ移り、石突で降りる影の膝を「止めた」。
止めるのは打つことではない。——道を変えることだ。
膝は前に落ちるつもりだった。蓮は横へ落とさせた。
影は板塀に肩をぶつけ、息で自分の肺を殴り、目の中の光をひとつ落とした。
「顔は、沖田」
最初の刺客が唾を飛ばし、静の目を測る。
「歩きは、違う」
「ええ。兄の歩は風で、私の歩は間です」
「間で斬れるか」
「斬りません」
静は言葉を置きながら、足の置き場を一枚ずつ「掃除」した。
石の目に溜まった雨を、爪先でそっと押し、滑りを消す。
刺客はその「掃除」を見ていない。刃の先だけを見ている。
刃の先は、夜を長くする。
静の鞘は、夜を短くする。
第三の影は、灯の裏で息を殺していた。
——息が薄い。息が薄いのは、怒りではない。
待ちの息。
待ちの息は、蓮が嫌う。
石突が、灯籠の脚に軽く触れ、灯は左右に「微笑む」。
影は、笑いが嫌いだ。
笑いの拍子に、足が出た。
静はその足の「指」に鞘の先を置いた。踏むのではない。置くだけ。
置かれると、足は自分で止まる。止まると、身体は言い訳をする。
言い訳をする身体の胸に、静は言葉を置いた。
「生きて、困ってください」
刺客は三。
刃を完全に落としたのは一。
残る二は、刃を持ち直し、腹で勝つ気を新しくした。
勝つ気は、光に似て反射する。
その光を、灯籠の光で上書きする。
静は灯籠と灯籠の間に入り、身体を「白」に晒した。
顔は兄。肩も兄。
だが、影の長さだけが、兄と違う。
違いを見せたまま、再び偽装する。
蓮の槍が、灯の鎖を持ち上げる。静は灯に近づき、影を短くする。次に、灯から離れて、影を長くする。
刺客の目に映る「総司」の影は、風と間の両方を持った。
目は、迷う。
迷いは、刃の内側に現れる。
静はその内側に、鞘の腹で「広さ」を置いた。
鍔迫り合いは、会話だった。
刺客の息が荒れれば、静の声は静かになり、刺客の手が震えれば、静の視線は暖かくなる。
「お前は総司じゃない。だが、総司の影は持っている」
「ええ。借りました。今夜だけ」
「影が泣くぞ」
「影は、泣いてくれます。涙は私の方から拭います」
言いながら、静は刺客の手首を鞘の角で「三度」叩いた。
一度目は皮膚に、二度目は筋に、三度目は記憶に。
記憶を叩くと、手は自分から開く。
刃は、地面で眠る。
蓮は二人目の膝を「道から外し」、三人目の肩を「壁に寄せ」、槍を長いまま、しかし突かずに押し続けた。
「動くな。動けば、痛い」
痛い、と言われて動くものはいない。
動くものは、動くつもりだった者だけだ。
そのつもりを、蓮は槍で奪った。
槍は奪う道具ではない。——選ばせる道具だ。
前に転ぶか、横に座るか。
彼は今夜、横を選ばせた。
「誰の差し金です」
静は最初の刺客に問うた。
刺客は唇を開きかけ、閉じ、歯で自分の言葉を噛んだ。
噛む音は小さく、だが「紙」の匂いが口からこぼれる。
紙の匂いは、油と墨の交わり。
「紙で命は動かない」と人は言うが、動く。
蓮が石突で地を軽く叩く。
「口を閉じる自由はある。だが、今夜は紙の自由を奪いに来た」
静は灯へ一歩寄り、刺客の顔を白に晒した。
「——帳場の手、ですね」
刺客の眼が、ほんのわずかに泳いだ。泳いだ先は北へ。
「油小路の、材木問屋の奥に座る手」
薄い笑いが刺客の喉に引っ掛かった。
「……お前ら、なんでも見てるな」
「見えないものは臭いで嗅ぐだけです」
蓮は二人の刺客を石突の「円」で座らせ、両の手首を帯で軽く縛った。
静は残る一人の足元に鞘先を置き、彼の息が落ち着くまで待った。
待つ時間は、刃より長い。
長い時間は、人を柔らかくする。
柔らかくなった言葉は、紙に似る。
紙に似た言葉は、火に弱い。——今夜の火は灯籠ひとつで足りる。
「戻りましょう」
静が言うと、蓮は頷き、灯の鎖を指で鳴らした。
灯は本来の高さに戻り、影は夜の規則のもとへ帰る。
歩き出す前、静は灯の根元に貼られた“斬り文”の端を、そっと指で割いた。
紙の繊維が、夜の湿りの中で細く鳴る。
「紙は、彼らの武器です。——なら、紙で困っていただきましょう」
蓮が笑う。
「上品に意地が悪い。好きだぜ、そのやり口」
材木問屋の奥は、夜でも熱かった。板戸の裏の帳場は、昼の熱を溜め込んでいる。
灯の油は新しい。筆は乾いて、毛先が立っている。
机の上に、紙の束。
『沖田総司、今宵帰路にて……』の同類が十枚。行き先だけが違う。
静は一枚一枚をめくり、墨の濃淡を目で撫でた。
濃いのは、今日書いたもの。薄いのは、昼に書いたもの。
筆跡は同じだ。
帳場の手は、静の指の音を聞いていた。
男は三十半ば、指に墨の染み、鼻の横に小さな古い瘡痕。
「商いは、紙で回る。命も、紙で回る。違うか」
男は正面から言った。
静は微笑し、紙を二つに「割いた」。
破り捨てはしない。割って、重ねる。
重ねると、紙は厚くなり、透けない。
「透けないのは、良いですね。——見えない方が、困る」
男の喉がひとつ動いた。
蓮は石突で床を軽く叩き、言葉を落とす。
「生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」
言葉は帳場の木口に染み込み、紙の束の重みを一枚だけ重たくした。
帰路、川風がようやく夜の湿りを薄めた。
静は兄の羽織の襟を外し、肩で風を受けた。
兄の歩幅は脱ぎ、己の歩幅に戻す。
戻すと、心が静かになる。
——借り物は、返すほどに自分が軽くなる。
蓮は屋根から降り、槍袋に柄を収めた。
「影の仕事は、灯が味方だと楽だな」
「灯は、嘘も照らします。——だから、灯の前では上手に嘘をつかないと」
「やっぱり上品に意地が悪い」
「褒め言葉として」
蓮は肩で笑い、石畳に落ちた水を足で払った。
屯所に戻ると、土方はまだ起きていた。
庭石に腰掛け、火をつけていない煙草を指で折り、折り目を爪でなぞる。
「戻ったか」
「はい」
「斬ったか」
「斬っていません。灯で困らせました」
土方は鼻を鳴らし、片方の口角だけで笑った。
「影の稽古は上出来だ」
総司は柱の陰に立ち、団扇を膝に置いて、静を見た。
目は笑い、咳は浅い。
「君の“間”は、灯の側でよく働きますね」
静は礼をした。
「兄の影を借りて、返しました」
総司は頷き、団扇で自分の胸を軽く叩いた。
「影は借り物ではありませんよ。君の影は、君のものです」
静は、その言葉を胸の内で一度“割り”、重ね、厚くした。
透けなくして、しまっておく。
夜半、静は縁側に座り、自分の足袋の裏を撫でた。
石畳の目の幅、灯籠の鎖の長さ、蓮の石突の円、刺客の浮脚の癖。
今夜の夜の帳面は、紙ではなく、足裏に書かれていた。
風が柱の角を撫で、虫が遠くで鳴いた。
静は目を閉じ、胸の奥の波をもう一度確かめた。
騒がしい波は、静かに静かに、岸を作る。
その岸に、今夜の言葉をひとつ置いた。
——兄の影を借りる夜は、私の心がいちばん騒がしい。
その騒ぎに、灯の光をひとすじ落とす。
光は寝床を探し、最後は影に寄り添って眠った。
数日後、木屋町の斬り文は消えた。
紙は紙のまま、蔵に積まれ、日の目を見ない。
材木問屋の帳場の手は、寺の物置で毎朝掃除をし、夜には紙でなく箒を持った。
刺客の三人は、膝の痛みと共に、長い息を覚えた。
蓮は新しい鎖の音を練習し、灯が高く低くなる拍子を身体で覚え、石突の円を少し磨いた。
総司は、咳の合間に団扇の骨で膝を叩く癖を、少しだけ減らした。
静は、兄の羽織を箪笥に戻し、袖の裾を撫でてから、扉を閉じた。
顔が似ていても、背負う風は別。
歩幅が違えば、影の長さも違う。
それで良い。
灯籠の光で影の長さを偽装した夜は、ただの稽古だ。
本当の影は、偽装しない。
それを確かめるように、静は縁側の影に自分の足を一枚、二枚と置いた。
足は、いつも通りの長さで、そこにあった。
そして、夜は、ゆっくりと薄明へほぐれていった。



