真夏の陽は、京の空を一枚の火鉢にした。
壬生を出て西へ、田の匂いが濃くなる。水面は白く光り、空の青を、まるで誰かが不器用に刷毛で塗り残したみたいに、ところどころ落としている。
静は足袋の底に畦のざらりとした感触を拾いながら、繋いだ縄の先にいる若者の背を見ていた。
若者の名は与一(よいち)。まだ頬に少年が残り、目だけがやけに年寄りだった。
縄は細い。引こうと思えば切れる。けれど、彼は引かない。引かないで、ただ歩く。
蓮は槍袋を肩に担ぎ、与一の斜め後ろで時々空を仰いだ。
「水を飲め」
蓮が瓢箪を差し出すと、与一は唇だけで礼を言って、喉の奥で水を転がす。
水は生ぬるい。だが、喉は味を選ばない。選ぶ余裕が、今は誰にもなかった。
護送——と言っても、行き先は牢ではない。
壬生寺の庫裏。田の端で倒れそうな農夫に粥を配る厨房。朝は太鼓、昼は井戸の綱、夜は便所の桶。
彼を生かすための納所(なっしょ)、そして彼が償うための場所。
静が約したのはそれだ。
土方に言えば、たぶん首を縦には振らない。
だから朝一番、総司の咳の間に、静は小声でお願いしたのだ。
生かす剣を選びたい、と。
総司は咳の合間に笑って、団扇の骨で膝をとんと叩いた。
「風の向きは、君に任せます。——ただし、追手が来ます」
「承知」
蓮は短く、ただそれだけ言って、槍袋の紐を締め直した。
追手は元同僚だ。
与一は二番組の下足番から始め、最近は伝令を走っていた。走る足は速いが、息は短い。
先月、池田屋の後始末で、彼は屍の数を数え損ねた。数え損ねたものは、夜に増える。
与一は三夜、眠らなかった。四夜目に、走った。
走った先は家ではない。田の畔で、倒れた。
見つけたのは蓮だ。夜明け前、白んだ空の下で、誰かが水に顔をつけていた。
「死ぬのは、簡単すぎる」
蓮はそのとき、誰にともなく言った。
与一は水から顔を上げ、静を見つけたとき、初めて泣いた。
静はその涙を、ただ見た。
畦は続く。
向こうに、黄色の海がひらけている。
向日葵の畑。
京の周りの村々でも、油を絞るために近年よく植わるようになった。高さは背丈を越え、花は揃って東を向く。午の時を越えてもなお、いくらかの花は東を見続ける。意地の悪い比喩が、静の舌先に浮いて、すぐに溶けた。
向日葵は、生きる意地の花だ。
静は足を止め、陽に焼けた畦の上で一度だけ深く息を吐いた。汗の塩が唇に乗る。
「ここで一度、休みましょう」
与一が頷く。
蓮は槍袋をほどき、柄の根を半ばだけ露出させて畦に水平に置いた。
畦の幅は、槍の長さと同じくらい。
この幅が戦になる時、突くより押すが勝ちだ。蓮の手の内は、そのためにある。
蝉の声は、耳の中で棒のように伸びていた。
風は湿り、草いきれが鼻を刺す。
静は与一の縄を解き、手首の赤い痕に井戸の水を染み込ませた布を当てた。
「痛みますか」
与一は薄く笑った。
「痛い、って言えるうちは、まだ楽です」
「では、痛いと言ってください」
「痛いです」
その返事は、子供のように正直だった。
静は頷き、蓮を見た。
蓮は畦の先、道が曲がる場所を指で示した。
三、二、そして一。
蓮が指を折るたびに、静の胸の鼓動は拍に変わる。
追手。
影の数は四。
顔を知っている。二番組の篠田、三番組から回された冨樫、そして巡査の安次郎と、もう一人、名は若い。
篠田は、羅刹に憧れる顔だ。
彼の剣は速い。速いものは、短い。
静の指先が、鯉口へ自然に滑った。
先に現れたのは安次郎だった。
汗が目尻に溜まり、肩で息をしている。
「与一——戻れ。戻って、詫びろ」
声が裏返った。命令よりも懇願に近い。
与一は喉を鳴らしたが、返事を待たなかったのは篠田の方だ。
篠田は苛々に顔を塗り、刀を抜くより先に言葉を抜いた。
「おい、沖田の“もうひとつ”。そこをどけ」
「こんにちは、篠田さん。暑いですね」
「挨拶は要らん。務めの場で人情を持ち出すな」
「務めの場で、刀を持ち出す前に人情を持ち出すのが、私の務めです」
静のひょうひょうは、汗に濡れても乾いていた。
向日葵畑の入口で、畦は二股に分かれる。
右は川沿いに細く、左は丘へ緩く登る。
静は左を、蓮は右を睨んだ。
押すなら右。
蓮が槍の袋を外し、柄を一気に引き出した。穂先はまだ布で包んである。
突くためではない。
押すためだ。
「与一、下がれ」
静が言い、与一は向日葵の陰へ身を沈めた。
蓮が畦に槍を平行に据え、石突を足の内側で軽く支える。
冨樫が畦の別れ目で剣を抜き、ぬらりと笑った。
「押す槍かよ。男が泣くぞ」
「泣いとけ。お前の涙は、ここでだけ役に立つ」
蓮の肩の筋が、短く鳴った。
冨樫が間合いを詰め、穂先の位置を探る。
穂先は冨樫の目に見える。
だが、石突は目に入らない。
冨樫が踏み込んだ瞬間、蓮の槍は穂先ではなく、石突の円で冨樫の腰骨の手前を押した。
押す、というより、身体の重さで「載せる」。
畦の土は崩れ、冨樫の足が水へ滑る。
「うっ——」
冨樫の膝が落ちた瞬間、蓮は槍を横向きに寝かせ、欄干のように畦の幅をふさぐ。
突かずに押す。
それだけで、人は前に出られない。
畦とは、そういう場所だ。
篠田は正面から来た。
静も正面に出た。
向日葵の背丈が二人の肩を隠し、花の影が頬に斑をつくる。
篠田の刃は、最初から高く、強く、短い息のまま来た。
静は刃で刃を受けず、鍔で鍔を受けた。
鍔迫り合いの音は、蝉の声を割る。
金属の円と円が、夏の真昼に小さな月と月を作る。
「静。お前はいつだって“半歩”だ。半歩引いて、半歩笑う」
篠田の息が熱い。
「半歩退くのは、逃げではありません」
「退くのは負けだ」
「退くは生を繋ぐ術。勝ち負けの外にある歩です」
鍔の円が擦れ、篠田の刃の角度がほんの僅かに外れた。
静はその外れを見逃さず、鞘の腹で篠田の手首を打った。
刃は落ちない。
落ちないが、止まる。
止まった刃は、言葉を待つ。
静はそこで言葉を置いた。
「与一は、戻ります。戻って、働いて、償います」
「償いは死だ。武士なら」
「彼は武士ではありません。生きる方の務めがある」
篠田の眉が寄り、鍔に力が戻った。
汗が鍔に落ち、鉄の匂いが一瞬だけ夏を凌いだ。
安次郎は与一の名を呼び続けていた。
「戻れ、与一! 戻れ!」
与一は向日葵の陰から顔を出し、また引っ込めた。
目だけが、こちらを見た。
その目は、朝の池で水から上げたときと同じ目だった。
静は軽く首を振った。
——まだ、出るな。
蝉の声の帯が、陽の高さを測るように延び縮みする。
冨樫がもう一度立ち上がった。
蓮の槍はなおも突かない。
冨樫は穂先を恐れていない。石突を忘れている。
蓮は冨樫の脛ではなく、足の甲と畦の間を軽く「撫でる」角度で押した。
足は自分の重さを勝手に誤る。
冨樫は勝手に崩れ、勝手に息を吐いた。
「……生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」
蓮の声は低かったが、向日葵の群れは聞いていた。
鍔迫り合いは、会話だ。
篠田の刃が上がれば、静の言葉は下がる。
篠田の息が詰まれば、静の声は通る。
「沖田総司の弟ってだけで、許されると思うな」
「許されません。——だからこそ、選びます」
「何を」
「生かす剣を」
篠田の口角が、皮肉で動いた。
「きれいごとだ」
「きれいごとは、夏に似合います」
「……ふざけるな」
篠田が力で押す。
静は力では返さない。
鍔で受けたまま、足の置き場だけを半枚ずつずらす。
畦の土は崩れやすい。崩れやすい場所で、崩れない角度を選ぶ。
静は崩れない。
篠田は崩れる。
崩れながら、なおも押す。
押すのは、速い。
速いものは、短い。
その時、向日葵の列の向こうから、もう一つ影が駆けてきた。
若い顔。頬に陽焼けの斑。息は粗い。
手には刀ではなく、竹の棒。
棒は、畦には似合う。
若者は棒で蓮の槍を叩こうとした。
蓮は槍を寝かせたまま、石突で棒の腹を受け、とっさに棒の進む方向を「変えた」。
棒は向日葵の茎に当たり、ぱきりと音を立てて折れた。
向日葵は倒れず、ただ首だけを震わせた。
若者の手から棒が抜け、畦に落ちる。
蓮は穂先で若者の肩の手前を押し、前ではなく斜めへ落とした。
落ちる方向を選ばせるのが、押す槍の芸だ。
若者は泥ではなく乾いた畦に膝をつき、目を丸くした。
蓮は言葉を置いた。
「ここから先は、医者の手伝いに回れ。お前の手は、殴るより担ぐ方が役に立つ」
若者は顔を赤くし、やがて頷いた。
頷くのに、勇気はいらない。癖がいる。
癖は今日から始まる。
篠田が静の鍔を強く弾いた。
金属の小さな月がはじけ、蝉の帯の中で星になる。
刃が浅く静の肩をかすめ、浅い熱が走った。
静は痛みを数えず、痛みの形だけを知った。
痛みは知れば、小さくなる。
彼は鍔が離れた瞬間、鞘を高く上げ、篠田の側頭部へ振り下ろす——のではない。
振り下ろす直前で止め、鞘の腹で耳の後ろの空気を「叩いた」。
音は小さく、しかし骨に届く。
篠田の膝が半歩だけ落ちる。
静はさらに一歩、足を詰めた。
刃は向日葵の影に、鞘は陽の下に。
「斬らずに勝つ。それが、私の剣です」
「勝ちじゃねえ。逃がしているだけだ」
「逃がすのは、あなたの怒りです。与一ではありません」
篠田の眼に、怒りの形をしたものが、ほんの一瞬だけ迷いに変わった。
迷いは、風の入口だ。
静はその入口に、言葉を置いた。
「篠田さん。——あなたは与一を『例』にしたい。例は誰かの未来を切ります。今、切るのは彼の未来ではありません。私の、約定です」
「約定?」
「向日葵の約定」
篠田が笑った。
真夏の笑いは乾くのが早い。
「花に誓うのか」
「ええ。花は、嘘をつけません」
静は鍔で刃を受けながら、向日葵の根元に埋められた細い杭を目に入れた。
杭の先に、白い布が結わえてある。
ここは、畑の所有者が「風向き」で灌漑の水を調整するための目印だ。
静は半歩ずれ、鞘の端で白い布を打った。
布が空に跳ね、風の入り方が変わる。
向日葵の列の間を通る風が、藍の匂いを連れて、篠田の頬を撫でた。
汗がその風で冷え、怒りは汗と同じ速さで引いた。
刃の角度が落ちる。
静はそこで、鍔を押し、刃を下げさせ、鞘で篠田の手首をはたいた。
刃が畦の草を切るだけで、誰も切らない。
安次郎が、息を切らしながら言った。
「与一! お前、ほんとに戻るんだな!」
向日葵の影から、与一が一歩、出た。
縄は、もうない。
代わりに、帯が固く結ばれている。
彼は膝をつき、静の前で深く頭を下げた。
土に触れた額の位置に、小さな向日葵の影が落ちる。
静はその影に目をやり、ゆっくりと頷いた。
「戻ります。寺の厨房で、朝から晩まで。——ひまわりの種の油は、秋に絞りましょう。あなたの手で」
与一は顔を上げ、陽に眩み、目を細め、笑ったのか泣いたのか分からない顔でうなずいた。
篠田は刃を収めた。
収める音は、蝉の帯の中で、ひどく人間らしかった。
護送は、再開した。
向日葵の畑を横切るには、畦の曲がりくねりに従うしかない。
蓮は槍を再び布で包み、肩に担いだ。
追手の足は、もう前へ出なかった。
冨樫は泥に座り込み、若者は折れた棒を手に、茫然と花を見ていた。
安次郎は与一の背を軽く叩き、篠田は何も言わず、汗を拭った。
静は、歩いた。
蝉の声は、さっきよりも薄くなった。
風が、よく通る。
畦の切れ目で、蓮がぽつりと言った。
「静。約定ってのは、何だ」
「向日葵は、毎年、東を向いて咲きます。誰かが西を向いても、東を向きます。……与一が迷ったら、ここへ来て、花の向きを見る。私たちも」
「俺もか」
「ええ。あなたは、押す方向を覚えています。——押すべきものを、時々忘れます」
「俺は、忘れてる方が楽に押せる」
「そういうところが、あなたの長所であり、短所です」
蓮は鼻を鳴らして、笑いを半分だけ見せた。
「約定か。……花に誓うのは悪くねえ」
「花は裏切りません」
「人は?」
「人は、裏切る術を覚えています。だから、約定が要るんです」
昼を越え、陽が少しだけ傾いた頃、壬生寺の白い壁が見えた。
与一は足を止め、寺の門前で深く礼をした。
寺の中から、姐さんが走り出てきて、腰に手を当てた。
「来なはれ。粥の米は重いでえ」
「はい」
与一の声は、朝より太かった。
蓮が槍を壁に立てかけ、静は庫裏の前で足袋を直した。
土方が出てくる気配はない。
総司の咳が、奥の方で一度だけ転がり、止まった。
静は襖の端で軽く頭を下げ、声をかけた。
「戻りました」
返ってくるのは、団扇の骨が膝を叩く軽い音。
それで十分だった。
夜。
向日葵畑に、月は上らない。
だが、花の裏に夜風は通う。
篠田は帰路、畦の途中で立ち止まり、花を一つ、見上げた。
誰にも見られていない場所で、彼は小さく笑った。
笑いは、昼より長かった。
冨樫は泥を洗い、若者は折れた棒を寺の薪に変え、安次郎は与一の隣で桶を担いだ。
向日葵は、誰の名も知らない。
知らないまま、東を向いて立つ。
明くる朝。
与一は粥の釜の前に立ち、木杓子を握った。
寺の鐘の音は、昨日より柔らかかった。
蓮は井戸の綱を引き、静は庫裏の陰で風を吸った。
「静」
「はい」
「昨日の鍔迫り合い、きれいだったな」
「ありがとうございます」
「きれいすぎて、少し腹が立った」
「それは困りました」
「困らせとけ、ってお前、前に言ったろ」
「言いました」
蓮は肩で笑い、桶の水を陽に透かした。
水は透明ではない。透明に見えるだけだ。
その曖昧さを、静は嫌いではない。
昼過ぎ、土方が庫裏に現れた。
目の下に影、口元に固い線。
「与一は」
「粥を運んでいます」
土方は頷き、短く言った。
「今度、逃げたら」
「その時は、逃げ道を塞ぎます。——生きて、困らせるために」
土方は静を見て、蓮を見て、短く鼻を鳴らした。
「羅刹は、昼は眠い」
「人も、昼は眠いです」
「起きてろ」
「承知」
羅刹の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
夕方、静は一人で向日葵畑へ向かった。
陽は西に落ち、花はなお東を向く。
畦に腰を下ろし、両手を土に置く。
土は温い。
向日葵の葉の裏を風が撫で、葉脈が音をつくる。
静は袖から細い紙片を取り出した。
『向日葵の約定』
紙には、三つの短い文。
ひとつ、生きること。
ひとつ、働くこと。
ひとつ、迷ったら東を見ること。
紙は誰にも見せない。
向日葵にだけ見せる。
花は読めない。
読めないが、覚える。
畦の向こうで、子どもが走った。
笑い声は、高く、細く、夜に持っていけない。
静は立ち上がり、足袋の埃を払った。
鞘を軽く撫で、刀の重さを確かめる。
重さは変わらない。
変わらないものを、どう使うか。
それが、彼の剣の仕事だ。
壬生へ戻る道で、蓮が追いついた。
槍は袋に収まり、肩は軽い。
「静。向日葵は、来年も東を向くかね」
「向きます。——きっと」
「“きっと”か」
「ええ。“必ず”より、少しだけ強い言葉です」
「お前の言葉は、やっぱり上品に意地が悪い」
「褒め言葉として」
「そればっかりだ」
二人の影は長く、道はまだ熱かった。
空の端に、雲が小さく生まれ、ゆっくりと伸びる。
夏は長い。
長いが、終わる。
終わる前に、約定をひとつ置いておく。
それが、彼らのやり方だった。
夜、与一は布団に倒れ込みながら、小さく言った。
「生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」
昼、蓮が言った言葉を、彼は口の中で繰り返した。
言葉は、時々、水よりも喉を潤す。
明日の朝、また粥を運ぶ。
向日葵の種を干す。
油を搾る秋まで、生きる。
それから先のことは、向日葵に聞けばいい。
向日葵は東を向き、彼はそれを真似る。
真似ることから、始めればいい。
静は縁側に腰をかけ、夜の風を胸に入れた。
兄の咳は、今日は浅い。
土方の足音は、奥で止まった。
蓮の槍は、壁に立てかけて眠っている。
彼は目を細め、闇に溶ける向日葵の姿を想像した。
花は夜でも東を向く。
それで十分だ。
彼は、目を閉じた。
風が通り、約定は胸の底で静かに灯り続ける。
斬るより困らせる方が、案外こたえる。
夏の夜は、その言葉をゆっくりとほどき、また結び直して、明日に渡した。
壬生を出て西へ、田の匂いが濃くなる。水面は白く光り、空の青を、まるで誰かが不器用に刷毛で塗り残したみたいに、ところどころ落としている。
静は足袋の底に畦のざらりとした感触を拾いながら、繋いだ縄の先にいる若者の背を見ていた。
若者の名は与一(よいち)。まだ頬に少年が残り、目だけがやけに年寄りだった。
縄は細い。引こうと思えば切れる。けれど、彼は引かない。引かないで、ただ歩く。
蓮は槍袋を肩に担ぎ、与一の斜め後ろで時々空を仰いだ。
「水を飲め」
蓮が瓢箪を差し出すと、与一は唇だけで礼を言って、喉の奥で水を転がす。
水は生ぬるい。だが、喉は味を選ばない。選ぶ余裕が、今は誰にもなかった。
護送——と言っても、行き先は牢ではない。
壬生寺の庫裏。田の端で倒れそうな農夫に粥を配る厨房。朝は太鼓、昼は井戸の綱、夜は便所の桶。
彼を生かすための納所(なっしょ)、そして彼が償うための場所。
静が約したのはそれだ。
土方に言えば、たぶん首を縦には振らない。
だから朝一番、総司の咳の間に、静は小声でお願いしたのだ。
生かす剣を選びたい、と。
総司は咳の合間に笑って、団扇の骨で膝をとんと叩いた。
「風の向きは、君に任せます。——ただし、追手が来ます」
「承知」
蓮は短く、ただそれだけ言って、槍袋の紐を締め直した。
追手は元同僚だ。
与一は二番組の下足番から始め、最近は伝令を走っていた。走る足は速いが、息は短い。
先月、池田屋の後始末で、彼は屍の数を数え損ねた。数え損ねたものは、夜に増える。
与一は三夜、眠らなかった。四夜目に、走った。
走った先は家ではない。田の畔で、倒れた。
見つけたのは蓮だ。夜明け前、白んだ空の下で、誰かが水に顔をつけていた。
「死ぬのは、簡単すぎる」
蓮はそのとき、誰にともなく言った。
与一は水から顔を上げ、静を見つけたとき、初めて泣いた。
静はその涙を、ただ見た。
畦は続く。
向こうに、黄色の海がひらけている。
向日葵の畑。
京の周りの村々でも、油を絞るために近年よく植わるようになった。高さは背丈を越え、花は揃って東を向く。午の時を越えてもなお、いくらかの花は東を見続ける。意地の悪い比喩が、静の舌先に浮いて、すぐに溶けた。
向日葵は、生きる意地の花だ。
静は足を止め、陽に焼けた畦の上で一度だけ深く息を吐いた。汗の塩が唇に乗る。
「ここで一度、休みましょう」
与一が頷く。
蓮は槍袋をほどき、柄の根を半ばだけ露出させて畦に水平に置いた。
畦の幅は、槍の長さと同じくらい。
この幅が戦になる時、突くより押すが勝ちだ。蓮の手の内は、そのためにある。
蝉の声は、耳の中で棒のように伸びていた。
風は湿り、草いきれが鼻を刺す。
静は与一の縄を解き、手首の赤い痕に井戸の水を染み込ませた布を当てた。
「痛みますか」
与一は薄く笑った。
「痛い、って言えるうちは、まだ楽です」
「では、痛いと言ってください」
「痛いです」
その返事は、子供のように正直だった。
静は頷き、蓮を見た。
蓮は畦の先、道が曲がる場所を指で示した。
三、二、そして一。
蓮が指を折るたびに、静の胸の鼓動は拍に変わる。
追手。
影の数は四。
顔を知っている。二番組の篠田、三番組から回された冨樫、そして巡査の安次郎と、もう一人、名は若い。
篠田は、羅刹に憧れる顔だ。
彼の剣は速い。速いものは、短い。
静の指先が、鯉口へ自然に滑った。
先に現れたのは安次郎だった。
汗が目尻に溜まり、肩で息をしている。
「与一——戻れ。戻って、詫びろ」
声が裏返った。命令よりも懇願に近い。
与一は喉を鳴らしたが、返事を待たなかったのは篠田の方だ。
篠田は苛々に顔を塗り、刀を抜くより先に言葉を抜いた。
「おい、沖田の“もうひとつ”。そこをどけ」
「こんにちは、篠田さん。暑いですね」
「挨拶は要らん。務めの場で人情を持ち出すな」
「務めの場で、刀を持ち出す前に人情を持ち出すのが、私の務めです」
静のひょうひょうは、汗に濡れても乾いていた。
向日葵畑の入口で、畦は二股に分かれる。
右は川沿いに細く、左は丘へ緩く登る。
静は左を、蓮は右を睨んだ。
押すなら右。
蓮が槍の袋を外し、柄を一気に引き出した。穂先はまだ布で包んである。
突くためではない。
押すためだ。
「与一、下がれ」
静が言い、与一は向日葵の陰へ身を沈めた。
蓮が畦に槍を平行に据え、石突を足の内側で軽く支える。
冨樫が畦の別れ目で剣を抜き、ぬらりと笑った。
「押す槍かよ。男が泣くぞ」
「泣いとけ。お前の涙は、ここでだけ役に立つ」
蓮の肩の筋が、短く鳴った。
冨樫が間合いを詰め、穂先の位置を探る。
穂先は冨樫の目に見える。
だが、石突は目に入らない。
冨樫が踏み込んだ瞬間、蓮の槍は穂先ではなく、石突の円で冨樫の腰骨の手前を押した。
押す、というより、身体の重さで「載せる」。
畦の土は崩れ、冨樫の足が水へ滑る。
「うっ——」
冨樫の膝が落ちた瞬間、蓮は槍を横向きに寝かせ、欄干のように畦の幅をふさぐ。
突かずに押す。
それだけで、人は前に出られない。
畦とは、そういう場所だ。
篠田は正面から来た。
静も正面に出た。
向日葵の背丈が二人の肩を隠し、花の影が頬に斑をつくる。
篠田の刃は、最初から高く、強く、短い息のまま来た。
静は刃で刃を受けず、鍔で鍔を受けた。
鍔迫り合いの音は、蝉の声を割る。
金属の円と円が、夏の真昼に小さな月と月を作る。
「静。お前はいつだって“半歩”だ。半歩引いて、半歩笑う」
篠田の息が熱い。
「半歩退くのは、逃げではありません」
「退くのは負けだ」
「退くは生を繋ぐ術。勝ち負けの外にある歩です」
鍔の円が擦れ、篠田の刃の角度がほんの僅かに外れた。
静はその外れを見逃さず、鞘の腹で篠田の手首を打った。
刃は落ちない。
落ちないが、止まる。
止まった刃は、言葉を待つ。
静はそこで言葉を置いた。
「与一は、戻ります。戻って、働いて、償います」
「償いは死だ。武士なら」
「彼は武士ではありません。生きる方の務めがある」
篠田の眉が寄り、鍔に力が戻った。
汗が鍔に落ち、鉄の匂いが一瞬だけ夏を凌いだ。
安次郎は与一の名を呼び続けていた。
「戻れ、与一! 戻れ!」
与一は向日葵の陰から顔を出し、また引っ込めた。
目だけが、こちらを見た。
その目は、朝の池で水から上げたときと同じ目だった。
静は軽く首を振った。
——まだ、出るな。
蝉の声の帯が、陽の高さを測るように延び縮みする。
冨樫がもう一度立ち上がった。
蓮の槍はなおも突かない。
冨樫は穂先を恐れていない。石突を忘れている。
蓮は冨樫の脛ではなく、足の甲と畦の間を軽く「撫でる」角度で押した。
足は自分の重さを勝手に誤る。
冨樫は勝手に崩れ、勝手に息を吐いた。
「……生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」
蓮の声は低かったが、向日葵の群れは聞いていた。
鍔迫り合いは、会話だ。
篠田の刃が上がれば、静の言葉は下がる。
篠田の息が詰まれば、静の声は通る。
「沖田総司の弟ってだけで、許されると思うな」
「許されません。——だからこそ、選びます」
「何を」
「生かす剣を」
篠田の口角が、皮肉で動いた。
「きれいごとだ」
「きれいごとは、夏に似合います」
「……ふざけるな」
篠田が力で押す。
静は力では返さない。
鍔で受けたまま、足の置き場だけを半枚ずつずらす。
畦の土は崩れやすい。崩れやすい場所で、崩れない角度を選ぶ。
静は崩れない。
篠田は崩れる。
崩れながら、なおも押す。
押すのは、速い。
速いものは、短い。
その時、向日葵の列の向こうから、もう一つ影が駆けてきた。
若い顔。頬に陽焼けの斑。息は粗い。
手には刀ではなく、竹の棒。
棒は、畦には似合う。
若者は棒で蓮の槍を叩こうとした。
蓮は槍を寝かせたまま、石突で棒の腹を受け、とっさに棒の進む方向を「変えた」。
棒は向日葵の茎に当たり、ぱきりと音を立てて折れた。
向日葵は倒れず、ただ首だけを震わせた。
若者の手から棒が抜け、畦に落ちる。
蓮は穂先で若者の肩の手前を押し、前ではなく斜めへ落とした。
落ちる方向を選ばせるのが、押す槍の芸だ。
若者は泥ではなく乾いた畦に膝をつき、目を丸くした。
蓮は言葉を置いた。
「ここから先は、医者の手伝いに回れ。お前の手は、殴るより担ぐ方が役に立つ」
若者は顔を赤くし、やがて頷いた。
頷くのに、勇気はいらない。癖がいる。
癖は今日から始まる。
篠田が静の鍔を強く弾いた。
金属の小さな月がはじけ、蝉の帯の中で星になる。
刃が浅く静の肩をかすめ、浅い熱が走った。
静は痛みを数えず、痛みの形だけを知った。
痛みは知れば、小さくなる。
彼は鍔が離れた瞬間、鞘を高く上げ、篠田の側頭部へ振り下ろす——のではない。
振り下ろす直前で止め、鞘の腹で耳の後ろの空気を「叩いた」。
音は小さく、しかし骨に届く。
篠田の膝が半歩だけ落ちる。
静はさらに一歩、足を詰めた。
刃は向日葵の影に、鞘は陽の下に。
「斬らずに勝つ。それが、私の剣です」
「勝ちじゃねえ。逃がしているだけだ」
「逃がすのは、あなたの怒りです。与一ではありません」
篠田の眼に、怒りの形をしたものが、ほんの一瞬だけ迷いに変わった。
迷いは、風の入口だ。
静はその入口に、言葉を置いた。
「篠田さん。——あなたは与一を『例』にしたい。例は誰かの未来を切ります。今、切るのは彼の未来ではありません。私の、約定です」
「約定?」
「向日葵の約定」
篠田が笑った。
真夏の笑いは乾くのが早い。
「花に誓うのか」
「ええ。花は、嘘をつけません」
静は鍔で刃を受けながら、向日葵の根元に埋められた細い杭を目に入れた。
杭の先に、白い布が結わえてある。
ここは、畑の所有者が「風向き」で灌漑の水を調整するための目印だ。
静は半歩ずれ、鞘の端で白い布を打った。
布が空に跳ね、風の入り方が変わる。
向日葵の列の間を通る風が、藍の匂いを連れて、篠田の頬を撫でた。
汗がその風で冷え、怒りは汗と同じ速さで引いた。
刃の角度が落ちる。
静はそこで、鍔を押し、刃を下げさせ、鞘で篠田の手首をはたいた。
刃が畦の草を切るだけで、誰も切らない。
安次郎が、息を切らしながら言った。
「与一! お前、ほんとに戻るんだな!」
向日葵の影から、与一が一歩、出た。
縄は、もうない。
代わりに、帯が固く結ばれている。
彼は膝をつき、静の前で深く頭を下げた。
土に触れた額の位置に、小さな向日葵の影が落ちる。
静はその影に目をやり、ゆっくりと頷いた。
「戻ります。寺の厨房で、朝から晩まで。——ひまわりの種の油は、秋に絞りましょう。あなたの手で」
与一は顔を上げ、陽に眩み、目を細め、笑ったのか泣いたのか分からない顔でうなずいた。
篠田は刃を収めた。
収める音は、蝉の帯の中で、ひどく人間らしかった。
護送は、再開した。
向日葵の畑を横切るには、畦の曲がりくねりに従うしかない。
蓮は槍を再び布で包み、肩に担いだ。
追手の足は、もう前へ出なかった。
冨樫は泥に座り込み、若者は折れた棒を手に、茫然と花を見ていた。
安次郎は与一の背を軽く叩き、篠田は何も言わず、汗を拭った。
静は、歩いた。
蝉の声は、さっきよりも薄くなった。
風が、よく通る。
畦の切れ目で、蓮がぽつりと言った。
「静。約定ってのは、何だ」
「向日葵は、毎年、東を向いて咲きます。誰かが西を向いても、東を向きます。……与一が迷ったら、ここへ来て、花の向きを見る。私たちも」
「俺もか」
「ええ。あなたは、押す方向を覚えています。——押すべきものを、時々忘れます」
「俺は、忘れてる方が楽に押せる」
「そういうところが、あなたの長所であり、短所です」
蓮は鼻を鳴らして、笑いを半分だけ見せた。
「約定か。……花に誓うのは悪くねえ」
「花は裏切りません」
「人は?」
「人は、裏切る術を覚えています。だから、約定が要るんです」
昼を越え、陽が少しだけ傾いた頃、壬生寺の白い壁が見えた。
与一は足を止め、寺の門前で深く礼をした。
寺の中から、姐さんが走り出てきて、腰に手を当てた。
「来なはれ。粥の米は重いでえ」
「はい」
与一の声は、朝より太かった。
蓮が槍を壁に立てかけ、静は庫裏の前で足袋を直した。
土方が出てくる気配はない。
総司の咳が、奥の方で一度だけ転がり、止まった。
静は襖の端で軽く頭を下げ、声をかけた。
「戻りました」
返ってくるのは、団扇の骨が膝を叩く軽い音。
それで十分だった。
夜。
向日葵畑に、月は上らない。
だが、花の裏に夜風は通う。
篠田は帰路、畦の途中で立ち止まり、花を一つ、見上げた。
誰にも見られていない場所で、彼は小さく笑った。
笑いは、昼より長かった。
冨樫は泥を洗い、若者は折れた棒を寺の薪に変え、安次郎は与一の隣で桶を担いだ。
向日葵は、誰の名も知らない。
知らないまま、東を向いて立つ。
明くる朝。
与一は粥の釜の前に立ち、木杓子を握った。
寺の鐘の音は、昨日より柔らかかった。
蓮は井戸の綱を引き、静は庫裏の陰で風を吸った。
「静」
「はい」
「昨日の鍔迫り合い、きれいだったな」
「ありがとうございます」
「きれいすぎて、少し腹が立った」
「それは困りました」
「困らせとけ、ってお前、前に言ったろ」
「言いました」
蓮は肩で笑い、桶の水を陽に透かした。
水は透明ではない。透明に見えるだけだ。
その曖昧さを、静は嫌いではない。
昼過ぎ、土方が庫裏に現れた。
目の下に影、口元に固い線。
「与一は」
「粥を運んでいます」
土方は頷き、短く言った。
「今度、逃げたら」
「その時は、逃げ道を塞ぎます。——生きて、困らせるために」
土方は静を見て、蓮を見て、短く鼻を鳴らした。
「羅刹は、昼は眠い」
「人も、昼は眠いです」
「起きてろ」
「承知」
羅刹の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
夕方、静は一人で向日葵畑へ向かった。
陽は西に落ち、花はなお東を向く。
畦に腰を下ろし、両手を土に置く。
土は温い。
向日葵の葉の裏を風が撫で、葉脈が音をつくる。
静は袖から細い紙片を取り出した。
『向日葵の約定』
紙には、三つの短い文。
ひとつ、生きること。
ひとつ、働くこと。
ひとつ、迷ったら東を見ること。
紙は誰にも見せない。
向日葵にだけ見せる。
花は読めない。
読めないが、覚える。
畦の向こうで、子どもが走った。
笑い声は、高く、細く、夜に持っていけない。
静は立ち上がり、足袋の埃を払った。
鞘を軽く撫で、刀の重さを確かめる。
重さは変わらない。
変わらないものを、どう使うか。
それが、彼の剣の仕事だ。
壬生へ戻る道で、蓮が追いついた。
槍は袋に収まり、肩は軽い。
「静。向日葵は、来年も東を向くかね」
「向きます。——きっと」
「“きっと”か」
「ええ。“必ず”より、少しだけ強い言葉です」
「お前の言葉は、やっぱり上品に意地が悪い」
「褒め言葉として」
「そればっかりだ」
二人の影は長く、道はまだ熱かった。
空の端に、雲が小さく生まれ、ゆっくりと伸びる。
夏は長い。
長いが、終わる。
終わる前に、約定をひとつ置いておく。
それが、彼らのやり方だった。
夜、与一は布団に倒れ込みながら、小さく言った。
「生きて償え。死ぬのは簡単すぎる」
昼、蓮が言った言葉を、彼は口の中で繰り返した。
言葉は、時々、水よりも喉を潤す。
明日の朝、また粥を運ぶ。
向日葵の種を干す。
油を搾る秋まで、生きる。
それから先のことは、向日葵に聞けばいい。
向日葵は東を向き、彼はそれを真似る。
真似ることから、始めればいい。
静は縁側に腰をかけ、夜の風を胸に入れた。
兄の咳は、今日は浅い。
土方の足音は、奥で止まった。
蓮の槍は、壁に立てかけて眠っている。
彼は目を細め、闇に溶ける向日葵の姿を想像した。
花は夜でも東を向く。
それで十分だ。
彼は、目を閉じた。
風が通り、約定は胸の底で静かに灯り続ける。
斬るより困らせる方が、案外こたえる。
夏の夜は、その言葉をゆっくりとほどき、また結び直して、明日に渡した。



