一 蓮視点:遅い現場の呼吸
雨が、壬生の長屋の瓦を叩いていた。音は細く、だがしつこい。夕餉前の屯所は湿りを吸って重たく、畳の目に染み込んだ汗と油の匂いがじわりと浮く。
矢野蓮は、土間から土足のまま井戸端へ回り、柄袋を縁側に立てかけた。袋の口に付いた泥を指でこそげ落とす。その指に、ひとつ、硬い震えが伝わった。遠くの道場。声が荒い。
「借りが返せねえなら、指を落とせ!」
誰かが怒鳴る。若い。血の匂いはまだない。だが、こういう声はいつだって血の匂いへ続く。
蓮は息を低く吐いて、廊下を抜けた。雨の白い襞を背に、道場の戸をくぐると、濡れた土の匂いの中に、乾いた金属音が残るばかり。
道場の真ん中で、小柄な隊士が土下座していた。袖は泥。顔は青い。周りを四人が囲む。最年長の顔は膨れて、眉間の筋が固い。
年長格が脇差の鞘で畳を叩いた。
「組の金を借りて、私利に回した。利を踏み倒す気か」
小柄なのは田口という。江州出。腕は遅いが足は早い。足の早い奴は、大抵、心が遅い。
田口は顔を上げずに言った。
「返します。返すまでの間、待ってくだせえ……仕事も行きます」
「待つ? 俺らの取立は、待つほどやさしくねえんだ」
囲む四人のうちのひとりが、口元だけで笑った。名は北島。最近、土方の側用で走りがちだが、今は誰の用も受けていない顔だ。
蓮は、入口の柱に背を預け、声をかけた。
「何の芝居だ」
四人の視線が一斉に寄る。北島の笑いが、少しだけ薄くなった。
「矢野さん。……隊の内のことです」
「内のことは、余計に見せ物にするな。畳が泣く」
畳は、本当に泣く。血より先に、靴の泥に。蓮はそういう湿りを知っている。
彼は畳縁の上に足を置かず、脇に立った。
「金はどうした」
田口は額を畳に擦りつけた。
「母の薬代に……金貸しに手を出してしまって……組の米代を一時、回そうと。利を返すあてが飛んじまって」
北島が鼻で笑った。
「金貸し? ……こいつは、組の内の金に手を付けたんだ。罪が二つある」
畳の縁に、ひとすじ、雨の靴跡。蓮はそれを見ただけで、誰がここまで土足で上がったかをだいたい知った。北島だ。
「二つのうち、どっちから殴る気だ」
「両方だよ」
北島は鞘を肩で担ぎ直し、田口の脇腹へ軽く、しかし速く打った。乾いた音。田口がうめく。
蓮は、一歩だけ進み、槍の石突で畳を小さく叩いた。
「やめろ」
「命令か?」
「お願いだ。ここで血の匂いを増やすな。腹が減る」
笑いが起きるはずのところで、笑いは起きなかった。雨が笑いを吸い取る夜がある。
そこで、奥からゆっくりと足音。足音は軽く、咳は浅い。
沖田総司が、柱の陰に立った。袖口で口元を抑え、眼を笑わせる。
「蓮。そこは、お願いではなく、提案にしましょう」
「承知」
土方歳三の姿はない。別の用で出ているのだろう。隊の空気が、少しだけ勝手に荒れる。そういう時に限って、誰かが「裁き」を名乗る。
総司は田口に近づき、膝を折って目線を合わせた。
「田口。今、どこに借りがある?」
「……村はずれの桶屋に。あの、内のも外のも、気が付いたら」
「利の取り手は?」
田口は黙る。
沈黙の厚みを測るより早く、蓮は空気の匂いで察した。
——内にもいる。
総司は頷いた。
「わかりました。今夜、この件は外に出さない。——静」
呼ばれて、静が縁側の白い雨を背に入ってきた。表情はいつもどおり、ひょうひょう。
「はい、兄上」
「二人で行きなさい。桶屋、そして内。刃は使わずに、夜のうちに『困らせて』戻ること。明け方までに。……土方さんが戻る前にね」
蓮は口角を上げた。
「なるほど。羅刹が戻る前に、人のやり方で、か」
総司の視線が穏やかに笑い、雨音がひとつ大きくなった。
桶屋は、屯所から少し離れた角にある。雨の日は仕事が少ないから、帳場が動く。
桶屋の裏手に回ると、湿った木の匂いと樽の胴の匂いが混ざる。
蓮は槍の袋をあけ、柄に手を添える。
静は戸口に耳を寄せ、息を一回分だけ置いた。
「中に、三。ひとりは寝かけ、ふたりは金を数えています。……おや、油の匂いが内の香です」
「内の香?」
「見覚えの香。——北島の部屋で嗅いだ匂いに似ております」
蓮は短く鼻を鳴らし、指で三つの拍を切った。
最初の拍で戸を開け、二拍目で石突を床に打ち、三拍目で言葉を置く。
「夜回りだ。手を止めろ」
湿った灯が揺れ、帳場の向こうで二人が振り向く。ひとりは桶屋の主人らしき顔、もうひとりは見覚えのある肩幅——北島だ。
蓮は北島の脛を見た。白い足袋の内側に、硬い筋が浮く。走る足だ。
北島が立ち上がり、鞘に手をやる瞬間。
蓮は槍を畳まない。長いまま、石突で床を打ち、次の拍で、石突を横に薙いで北島の脛を正確に打った。
硬い骨の直前、筋の張りに音が走る。
「ぐっ——」
北島の足が崩れ、身体が机にぶつかり、銭箱が鳴る。
静は机の端を指で押さえ、銭の転がりを止めた。笑う。
「夜に錢が転ぶ音は、近所の犬が覚えます。——うるさいので、おやめください」
桶屋の主人が怯え、両手を上げる。
「わ、悪いことをするつもりじゃあ……ええ、その、少しだけ利を……」
「少しだけ、の線は、貸す側が勝手に引くものですか?」
静が歩をひとつ。
蓮は槍の先で銭箱を遠くへ払った。銭は床に散らばらず、壁と箱の間に収まるように、角度を選ぶ。
北島が脛を押さえてうずくまる。歯をむく。
「……隊の内のことを外でやるのは、誰の差し金だ」
蓮は穂先を寝かせ、北島の肩の手前に置いた。押すための距離だ。
「自分の頭で考えたか? それとも、誰かが『速い裁き』を欲しがったか」
北島は唇を噛み、何も言わない。沈黙の中に、雨の音が深くなる。
静は棚の端に目をやり、塗りの薄い小箱を開けた。中に、短い紙片。
『連判 利一割五分 月末 印』
内の名が二つ、見える。北島と、もうひとり。
「もうひと方も、呼びましょう。——蓮、お願いします」
「了解」
蓮は北島の襟を取って、雨の戸口まで引いた。脛は打てば走れない。走れない男は、だいたい口が軽い。
北島は最初、吠えた。次に、黙り込んだ。最後に、小声で名前を出した。
「村瀬……」
村瀬は会計の補助をしている。紙の扱いが速く、数字の行き来を好む。
「紙の匂いは、雨でよく立ちます」
静のひょうひょうが勝つ夜。蓮は雨の中を駆け、屯所の納屋の別間に村瀬が潜んでいるのを見つけた。
村瀬は逃げようとした。逃げる足は確かに速かった。
だが、濡れた土の上での速さは、槍の石突に負ける。
蓮は村瀬の足首を狙わず、脛の前脛骨の少し外側を軽く叩いた。
「——うっ」
村瀬の膝が泥に落ち、体重が前へ流れて、腕で支えた掌が泥を吸う。
「俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ。脛は心臓まで届く合図だって知っとけ」
言い捨てて、村瀬を引きずり、桶屋へ戻る。
桶屋の座敷に四人が揃った。北島、村瀬、桶屋の主人、田口。
静は灯をひとつ落とし、声をやわらかくした。
「では、『裁き』の席にしましょう。——刃は抜きません。ですが、心は斬れます」
蓮が槍の柄を壁に立て、石突を畳に置いた。重さの半分を畳に預け、逃げる足の前に無言の線を引く。
静は、田口に目を向けた。
「田口。あなたは、内の米代を回した。母上の薬代のために。——罪です。ですが、事情は消えません」
田口は鼻水を袖で拭い、うなずいた。
「……すんません」
「謝る相手は、まずあなた自身です」
静の声はひょうひょうだが、芯は固い。
蓮は北島に言葉を落とした。
「お前は、速く殴る。『羅刹』の真似がしたかったか。速い裁きは、気持ちがいい。だがな、現場は遅い。遅いから生き延びるんだ」
北島は歯を見せ、笑っていない目で蓮を睨んだ。
静は村瀬へ視線を移した。
「村瀬。紙の速さは毒になります。あなたの筆は利の線を太らせ、返す側の息を細らせた。——紙は、紙で斬れます」
雨は弱くなり、代わりに桶の水の匂いが強くなる。静は膝を正し、掌を膝に置いた。
「二つの道がある。粛清か、赦し。——私たちは、第三の道を選びます」
北島が鼻で笑った。
「第三?」
「はい。生かして困らせる道です。斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」
田口が顔をあげる。村瀬の喉がひく、と鳴り、桶屋の主人は膝を寄せた。
蓮は肩で笑い、槍を持ち直した。
「困らせる、の具体がないと分からねえ連中だ。静、言ってやれ」
静は数を刻むように、箇条を置いていった。
「第一。——北島と村瀬。お二人は『金』の仕事からいったん外れます。帳場に近づかない。これから三十日、日の出前の寺掃除と、夜回りの後始末。人の目の前で、毎日一度、頭を下げる」
北島が唇を曲げる。
「見せしめか」
「『見せ』は薬になります。あなた方に。——第二。桶屋のご主人。田口から受け取った利は、元に足して返していただきます。半分は今日、半分は十日後。できない場合、あなたの店の桶を、内で一年買いません」
桶屋の主人の顔色が変わる。利より怖いのは、客を失うことだ。
「第三。田口。あなたは内の米代を『借りた』のですから、返す算段を皆の前で示しなさい。母上の薬は、隊で一時立て替えます。ただし、その分は働いて返す。——働き先は、寺の厨房。お粥を五十人分、毎朝」
田口の目から、水と区別のつかないものが落ちた。
蓮は槍の石突で畳を軽く叩いた。
「逃げ場がねえ仕組みだ。逃げねえなら、生きられる」
村瀬が低く言った。
「……誰が、こんな裁きを許す」
「副長ですと、問答無用で斬られます」
静は微笑んだ。
「ですが今夜は、兄が任せました。明け方までに『困らせて』戻れ、と。——間に合わせます」
「副長が戻ってひっくり返したら?」
「明け方までに、皆に『見せ』ます。見せた裁きは、簡単にはひっくり返りません」
桶屋の座敷での取り決めは、小一時間で形になった。蓮は北島を支え、村瀬の足元に布を巻き、田口に寺への道のりを教え、桶屋の主人には紙に署名をさせた。
紙は二通。ひとつは隊の蔵へ、ひとつは寺へ。
「紙で縛るのは好きじゃねえが、今夜は紙が味方だ」
蓮は紙を懐に入れ、雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
屯所に戻る頃、雨は上がっていた。空気は軽く、畳はまだ重い。
道場に人が集まり始めていた。噂は速い。隊の噂は、血と同じ速さで走る。
土方はまだ戻らない。総司は柱に寄って立ち、咳をひとつ、受け止めて微笑んだ。
「蓮。——遅い、いい顔だ」
「遅い現場の顔ってやつだ」
静が隣に並び、柔らかく頭を下げた。
「これより、見せます」
二 静視点:心を斬る座敷
道場の板は、よく磨かれていた。夜の空気がまだ湿りを残す中、油の匂いは薄く、古い木の匂いが勝っている。
静は板の中央に座した。ひざの前に白い紙二枚。ひとつは桶屋の返済の約定、ひとつは田口の働きの約定。
列をなす隊士たちの顔は、怒り、好奇心、不信、嘲り、安心、いくつもの表情を重ねていた。
静は、ひとつ息を置き、喉の奥で間を作った。
「今夜、『裁き』があります。——刃は抜きません」
ざわめきが起こる前に、蓮の石突が板をひとつ叩いた。音は短く、よく通る。
静は続けた。
「田口。前へ」
田口が出る。顔は薄く腫れ、目の縁は赤い。
「あなたは米代を借り、母上の薬代に当てました。罪です。ですが、事情は消えません。——これが返しの算段です」
静は紙を掲げ、内容を読み上げる。寺の厨房での働き、隊内の雑務、返済の期日。
「北島、村瀬。前へ」
ふたりが出る。北島は脛に布、村瀬は足首に布。
「あなた方は内と外を混ぜ、利を取り、人の息を細らせました。——これは『困らせる』約定です」
寺掃除、夜回りの後始末、帳場からの離隔、頭を下げる回数を紙に書いた。
「見せしめか」
誰かが小さく吐き捨てる。
静は微笑んだ。
「見せるのは、恥ではなく、回復です。人前で毎日同じ所作を積めば、人は変わります。——羅刹の速さで斬れば、変わる機会は消えます」
そこへ、戸口が開き、土が軽く鳴った。
土方歳三が、雨上がりの夜の匂いを連れて入ってきた。眼は冷たく、頬はこわばり、口元は笑っていない。
静は立って礼をする。
「副長。——今夜の『裁き』を、始めました」
土方は板の中央に進み、紙をひったくり、目を走らせた。
「赦すのか」
声は低い。
静は首を横に振った。
「赦してはおりません。——困らせます」
隊士の列がひやりと揺れた。
土方は紙を静に返し、蓮を見た。
「脛か」
「ええ。走れねえように。頭が冷える」
「甘い」
「辛ぇのは風邪だけでいい」
蓮の口の利き方は相変わらず粗い。だが今夜は、粗さが必要だった。粗さは、羅刹の前で人を守る盾にもなる。
土方は静を見た。
「お前の『風』の稽古を、ここでやるつもりか」
「はい。人の息を折らずに、息を変える稽古です」
静は膝を折り、土方に紙を再び差し出した。
「副長。ひとつだけ、直に『見せ』たいことがあります」
土方の眉がわずかに動いた。
静は立ち上がり、北島と村瀬の前に歩む。
「二人とも、ここに」
二人が立つ。
静は刀に手をかけた。
鯉口を切らず、鞘を握る。
「——刃は使いません。ですが、身体に覚えてもらいます」
北島が、わずかに身構えた。
静は正面から近づかず、半身で入り、鞘の中の刀身を半寸だけ押し出して、そのまま鞘ごと北島の肩へ「ぶつけた」。
金具が骨に当たる寸前で止め、衝撃は筋に伝える。
「っ——」
北島の身体から力が抜け、膝が板を探す。
次に、村瀬。
静は鞘の先で村瀬の胸骨の上を軽く叩き、その直後に鞘の腹で広く押す。
打つのではない。押す。
息が詰まる。人は息が詰まると、次の息の入り方を知る。
村瀬は咳をひとつ、出した。
「痛めつけではありません。——覚えるために痛むのです」
静は刀を納めた。音は出さない。
土方はじっと見ていた。
その眼は羅刹だ。だが、羅刹は、人の痛みを見ないふりができない鬼だ。
土方は蓮の槍を顎で示した。
「石突の角度は」
「骨は避けた。筋で止めた。明日には歩ける。……逃げるには十分遅い」
「遅いのは、お前の得意だ」
「現場は遅い」
ふたりのやり取りは短く、しかし深い水の底で交わる。
土方は最後に紙を手に取り、皆の前で高く掲げた。
「見たな。——これは、俺が責を負う。やってみろ」
静は礼を深くした。
朝までに「見せる」ことは、これで果たした。
だが、まだ終わりではない。
夜半過ぎ、道場を出た静と蓮は、寺へ向かった。田口が厨房に向かう背を見届け、桶屋の主人が約定の半分を抱えるのを確認し、戻る途上、静は蓮に言った。
「羅刹と人、という言葉があります。——副長はどちらでしょう」
蓮は鼻で笑った。
「羅刹は人の裏返しだ。人がいなきゃ、羅刹は立てねえ。俺らが人でいるほど、あの人は羅刹でいてくれる」
「うまい表現ですね」
「お前ほどじゃねえ」
静はひょうひょうと肩をすくめ、風を胸に入れた。夜風は冷たく、だがよく通る。
明け方、寺の鐘が靄の中で短く鳴った。
田口は厨房の前に立ち、姐さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
姐さんは木杓子を腰に当て、田口の額を指で弾いた。
「頭を下げるのは一度だけでええ。明日からは、手を動かし。口は閉じなはれ」
蓮はそのやりとりを見て、笑いをこらえた。静は目を細め、喉の奥で息を一度、撫でるだけにした。
屯所に戻ると、土方は庭の石に腰掛け、煙草を持っていた。火はつけていない。咳をしないためだろう。
静は立って礼をし、蓮は肩で挨拶した。
「終わりました」
土方は頷き、煙草を指で折った。
「明日から、見せろ」
「毎朝、寺に頭を下げ、夜は隊の便所を洗い、桶屋は銭を返す。——見れば、みな納得します」
「納得しない奴もいる」
「その方々には、さらに『困って』いただきます」
静は微笑んだ。
土方は立ち上がり、背伸びをして、夜明けの青に肩を向けた。
「羅刹は、朝が嫌いだ。人でやるなら、朝に強くなれ」
その日から、見せる「裁き」は毎朝毎夜、続いた。
寺の井戸端で田口が水を担ぎ、隊の便所で北島が黙々と桶を洗い、村瀬が紙を触らずに砂を掃いた。
最初の三日は、見物が多かった。笑う者もいた。野次る者もいた。
四日目から、笑う声は減った。野次る声も減った。
七日目、田口は粥をこぼさなくなり、北島は桶を持ち替える手の筋が柔らかくなり、村瀬は砂の撒き方を覚え、紙を持っていた手の癖が消えた。
十日目、桶屋の主人は約定の半分を返しに来た。顔に疲れが刻まれていたが、目は濁っていなかった。
土方は、道場の戸口から黙って見ていた。
総司は、柱の陰で、咳の深さを一つ浅くした。
蓮は、夜回りのあと、いつものように槍を洗った。石突の角に、あの夜の脛の手応えがまだ薄く残っている気がした。
静は、鞘の腹を布で磨いた。鞘でぶつけた時の微妙な感触は、刀より正確に心へ届く。
ある晩、村瀬が静の前に立った。
「……俺は、いつまで困ればいい」
静はひょうひょうと笑った。
「困らなくなるまで、です。——困るのを、自分で選べるようになったら終い」
「終いの印は」
「自分の息です。息が長く、静かに入る日が来ます」
村瀬はしばらく黙り、深く吸って、浅く吐いた。
「まだだな」
「ええ。まだです」
北島は、最初、目を合わせなかった。
五日目、目が合った。
七日目、口の端が歪まなくなった。
十日目、雨が降った。
雨の日の掃除は最も堪える。
北島は泥に滑り、尻餅をついた。
蓮が通りかかって、石突を差し出した。
「立て」
北島は石突を掴み、立った。
「……俺は、羅刹になれねえな」
蓮は鼻を鳴らした。
「羅刹の目の前で人でいられたら、それで十分だ」
北島は小さく笑い、初めて頭を下げた。
人に下げる頭は、重い。だが、一度下げると、次からは軽くなる。
田口の母が寺へ運ばれてきた日、姐さんが静に耳打ちした。
「薬が効いてる。もう大丈夫や」
静は深く礼をした。
道場にそのことを伝えると、誰かが小さく手を叩いた。
土方は叩かない。蓮は叩かない。総司は叩かない。
叩いたのは、若い隊士たちだった。
翌朝、田口は粥桶を運ぶ時、少しだけ背を伸ばした。
月替わり。
土方が道場で短く言った。
「帳場の仕事に戻したい奴がいる。——村瀬だ」
ざわめき。
土方は手で静めた。
「紙は毒になる。だが、薬にもなる。毒にも薬にもならねえのは、紙を触る手だ。……村瀬、手を出せ」
村瀬は出した。掌は、砂で磨かれて薄く固くなっていた。墨の黒はついていない。
「紙は、明日から一日二枚だけ触れ。残りは砂を触れ」
村瀬は深く頭を下げた。
静はひとつ頷き、蓮は石突で床を二度だけ叩いた。
短い祝砲だ。
夜、縁側で風を吸いながら、静は蓮に言った。
「第三の道は、いつも狭いですね」
「狭いから、踏み外さねえ。広い道は走るやつが多い。転ぶやつも多い」
「羅刹の速さに、人の遅さで対抗するのは、骨が折れます」
「骨が折れるのは、お前の手じゃねえか」
「鞘で済ませていますから、骨までは」
蓮が笑った。
「上品な意地の悪さも、骨のうちだな」
「褒め言葉として」
「いつもその返しだ」
ふたりのやり取りを、総司が廊の端で聞いていた。
総司は咳をひとつ、内側に押し込み、目だけで笑った。
「静、蓮。——羅刹は必要です。人も必要です。必要を取り違えないように」
「はい、兄上」
蓮は身を乗り出した。
「総司さん。必要ってのは、どっちが上だ」
「風の向き次第です」
総司の答えは相変わらず軽く、深い。
その夜、寺の鐘は遠く、月は薄く、風はよく通った。
やがて、桶屋の返済は終わり、田口の母は寺から帰った。村瀬は紙を二枚から三枚へ増やし、北島は便所掃除の手を他の者に教え始めた。
便所がきれいだと、足の早い奴が転ぶのが減る。
そんな小さな効き目が、隊に少しだけ均(なら)しを生んだ。
半年後、別の揉め事が起きた時、誰かが口にした。
「羅刹で行くか、人で行くか」
蓮は答えた。
「三つ目もある」
静は笑って、紙と鞘を用意した。
その夜、静は独り、道場の板の上に座り、鞘を膝に置いた。
鞘の腹の手触りは、雨の夜と同じ。
彼は鞘に軽く額を当て、目を閉じた。
「斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」
言葉は声にならず、風に溶けた。
羅刹と人の境目は、いつだって風が撫でていく。
その撫で方を、彼らはこれからも、遅く、しかし確かに、覚えていくのだ。
雨が、壬生の長屋の瓦を叩いていた。音は細く、だがしつこい。夕餉前の屯所は湿りを吸って重たく、畳の目に染み込んだ汗と油の匂いがじわりと浮く。
矢野蓮は、土間から土足のまま井戸端へ回り、柄袋を縁側に立てかけた。袋の口に付いた泥を指でこそげ落とす。その指に、ひとつ、硬い震えが伝わった。遠くの道場。声が荒い。
「借りが返せねえなら、指を落とせ!」
誰かが怒鳴る。若い。血の匂いはまだない。だが、こういう声はいつだって血の匂いへ続く。
蓮は息を低く吐いて、廊下を抜けた。雨の白い襞を背に、道場の戸をくぐると、濡れた土の匂いの中に、乾いた金属音が残るばかり。
道場の真ん中で、小柄な隊士が土下座していた。袖は泥。顔は青い。周りを四人が囲む。最年長の顔は膨れて、眉間の筋が固い。
年長格が脇差の鞘で畳を叩いた。
「組の金を借りて、私利に回した。利を踏み倒す気か」
小柄なのは田口という。江州出。腕は遅いが足は早い。足の早い奴は、大抵、心が遅い。
田口は顔を上げずに言った。
「返します。返すまでの間、待ってくだせえ……仕事も行きます」
「待つ? 俺らの取立は、待つほどやさしくねえんだ」
囲む四人のうちのひとりが、口元だけで笑った。名は北島。最近、土方の側用で走りがちだが、今は誰の用も受けていない顔だ。
蓮は、入口の柱に背を預け、声をかけた。
「何の芝居だ」
四人の視線が一斉に寄る。北島の笑いが、少しだけ薄くなった。
「矢野さん。……隊の内のことです」
「内のことは、余計に見せ物にするな。畳が泣く」
畳は、本当に泣く。血より先に、靴の泥に。蓮はそういう湿りを知っている。
彼は畳縁の上に足を置かず、脇に立った。
「金はどうした」
田口は額を畳に擦りつけた。
「母の薬代に……金貸しに手を出してしまって……組の米代を一時、回そうと。利を返すあてが飛んじまって」
北島が鼻で笑った。
「金貸し? ……こいつは、組の内の金に手を付けたんだ。罪が二つある」
畳の縁に、ひとすじ、雨の靴跡。蓮はそれを見ただけで、誰がここまで土足で上がったかをだいたい知った。北島だ。
「二つのうち、どっちから殴る気だ」
「両方だよ」
北島は鞘を肩で担ぎ直し、田口の脇腹へ軽く、しかし速く打った。乾いた音。田口がうめく。
蓮は、一歩だけ進み、槍の石突で畳を小さく叩いた。
「やめろ」
「命令か?」
「お願いだ。ここで血の匂いを増やすな。腹が減る」
笑いが起きるはずのところで、笑いは起きなかった。雨が笑いを吸い取る夜がある。
そこで、奥からゆっくりと足音。足音は軽く、咳は浅い。
沖田総司が、柱の陰に立った。袖口で口元を抑え、眼を笑わせる。
「蓮。そこは、お願いではなく、提案にしましょう」
「承知」
土方歳三の姿はない。別の用で出ているのだろう。隊の空気が、少しだけ勝手に荒れる。そういう時に限って、誰かが「裁き」を名乗る。
総司は田口に近づき、膝を折って目線を合わせた。
「田口。今、どこに借りがある?」
「……村はずれの桶屋に。あの、内のも外のも、気が付いたら」
「利の取り手は?」
田口は黙る。
沈黙の厚みを測るより早く、蓮は空気の匂いで察した。
——内にもいる。
総司は頷いた。
「わかりました。今夜、この件は外に出さない。——静」
呼ばれて、静が縁側の白い雨を背に入ってきた。表情はいつもどおり、ひょうひょう。
「はい、兄上」
「二人で行きなさい。桶屋、そして内。刃は使わずに、夜のうちに『困らせて』戻ること。明け方までに。……土方さんが戻る前にね」
蓮は口角を上げた。
「なるほど。羅刹が戻る前に、人のやり方で、か」
総司の視線が穏やかに笑い、雨音がひとつ大きくなった。
桶屋は、屯所から少し離れた角にある。雨の日は仕事が少ないから、帳場が動く。
桶屋の裏手に回ると、湿った木の匂いと樽の胴の匂いが混ざる。
蓮は槍の袋をあけ、柄に手を添える。
静は戸口に耳を寄せ、息を一回分だけ置いた。
「中に、三。ひとりは寝かけ、ふたりは金を数えています。……おや、油の匂いが内の香です」
「内の香?」
「見覚えの香。——北島の部屋で嗅いだ匂いに似ております」
蓮は短く鼻を鳴らし、指で三つの拍を切った。
最初の拍で戸を開け、二拍目で石突を床に打ち、三拍目で言葉を置く。
「夜回りだ。手を止めろ」
湿った灯が揺れ、帳場の向こうで二人が振り向く。ひとりは桶屋の主人らしき顔、もうひとりは見覚えのある肩幅——北島だ。
蓮は北島の脛を見た。白い足袋の内側に、硬い筋が浮く。走る足だ。
北島が立ち上がり、鞘に手をやる瞬間。
蓮は槍を畳まない。長いまま、石突で床を打ち、次の拍で、石突を横に薙いで北島の脛を正確に打った。
硬い骨の直前、筋の張りに音が走る。
「ぐっ——」
北島の足が崩れ、身体が机にぶつかり、銭箱が鳴る。
静は机の端を指で押さえ、銭の転がりを止めた。笑う。
「夜に錢が転ぶ音は、近所の犬が覚えます。——うるさいので、おやめください」
桶屋の主人が怯え、両手を上げる。
「わ、悪いことをするつもりじゃあ……ええ、その、少しだけ利を……」
「少しだけ、の線は、貸す側が勝手に引くものですか?」
静が歩をひとつ。
蓮は槍の先で銭箱を遠くへ払った。銭は床に散らばらず、壁と箱の間に収まるように、角度を選ぶ。
北島が脛を押さえてうずくまる。歯をむく。
「……隊の内のことを外でやるのは、誰の差し金だ」
蓮は穂先を寝かせ、北島の肩の手前に置いた。押すための距離だ。
「自分の頭で考えたか? それとも、誰かが『速い裁き』を欲しがったか」
北島は唇を噛み、何も言わない。沈黙の中に、雨の音が深くなる。
静は棚の端に目をやり、塗りの薄い小箱を開けた。中に、短い紙片。
『連判 利一割五分 月末 印』
内の名が二つ、見える。北島と、もうひとり。
「もうひと方も、呼びましょう。——蓮、お願いします」
「了解」
蓮は北島の襟を取って、雨の戸口まで引いた。脛は打てば走れない。走れない男は、だいたい口が軽い。
北島は最初、吠えた。次に、黙り込んだ。最後に、小声で名前を出した。
「村瀬……」
村瀬は会計の補助をしている。紙の扱いが速く、数字の行き来を好む。
「紙の匂いは、雨でよく立ちます」
静のひょうひょうが勝つ夜。蓮は雨の中を駆け、屯所の納屋の別間に村瀬が潜んでいるのを見つけた。
村瀬は逃げようとした。逃げる足は確かに速かった。
だが、濡れた土の上での速さは、槍の石突に負ける。
蓮は村瀬の足首を狙わず、脛の前脛骨の少し外側を軽く叩いた。
「——うっ」
村瀬の膝が泥に落ち、体重が前へ流れて、腕で支えた掌が泥を吸う。
「俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ。脛は心臓まで届く合図だって知っとけ」
言い捨てて、村瀬を引きずり、桶屋へ戻る。
桶屋の座敷に四人が揃った。北島、村瀬、桶屋の主人、田口。
静は灯をひとつ落とし、声をやわらかくした。
「では、『裁き』の席にしましょう。——刃は抜きません。ですが、心は斬れます」
蓮が槍の柄を壁に立て、石突を畳に置いた。重さの半分を畳に預け、逃げる足の前に無言の線を引く。
静は、田口に目を向けた。
「田口。あなたは、内の米代を回した。母上の薬代のために。——罪です。ですが、事情は消えません」
田口は鼻水を袖で拭い、うなずいた。
「……すんません」
「謝る相手は、まずあなた自身です」
静の声はひょうひょうだが、芯は固い。
蓮は北島に言葉を落とした。
「お前は、速く殴る。『羅刹』の真似がしたかったか。速い裁きは、気持ちがいい。だがな、現場は遅い。遅いから生き延びるんだ」
北島は歯を見せ、笑っていない目で蓮を睨んだ。
静は村瀬へ視線を移した。
「村瀬。紙の速さは毒になります。あなたの筆は利の線を太らせ、返す側の息を細らせた。——紙は、紙で斬れます」
雨は弱くなり、代わりに桶の水の匂いが強くなる。静は膝を正し、掌を膝に置いた。
「二つの道がある。粛清か、赦し。——私たちは、第三の道を選びます」
北島が鼻で笑った。
「第三?」
「はい。生かして困らせる道です。斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」
田口が顔をあげる。村瀬の喉がひく、と鳴り、桶屋の主人は膝を寄せた。
蓮は肩で笑い、槍を持ち直した。
「困らせる、の具体がないと分からねえ連中だ。静、言ってやれ」
静は数を刻むように、箇条を置いていった。
「第一。——北島と村瀬。お二人は『金』の仕事からいったん外れます。帳場に近づかない。これから三十日、日の出前の寺掃除と、夜回りの後始末。人の目の前で、毎日一度、頭を下げる」
北島が唇を曲げる。
「見せしめか」
「『見せ』は薬になります。あなた方に。——第二。桶屋のご主人。田口から受け取った利は、元に足して返していただきます。半分は今日、半分は十日後。できない場合、あなたの店の桶を、内で一年買いません」
桶屋の主人の顔色が変わる。利より怖いのは、客を失うことだ。
「第三。田口。あなたは内の米代を『借りた』のですから、返す算段を皆の前で示しなさい。母上の薬は、隊で一時立て替えます。ただし、その分は働いて返す。——働き先は、寺の厨房。お粥を五十人分、毎朝」
田口の目から、水と区別のつかないものが落ちた。
蓮は槍の石突で畳を軽く叩いた。
「逃げ場がねえ仕組みだ。逃げねえなら、生きられる」
村瀬が低く言った。
「……誰が、こんな裁きを許す」
「副長ですと、問答無用で斬られます」
静は微笑んだ。
「ですが今夜は、兄が任せました。明け方までに『困らせて』戻れ、と。——間に合わせます」
「副長が戻ってひっくり返したら?」
「明け方までに、皆に『見せ』ます。見せた裁きは、簡単にはひっくり返りません」
桶屋の座敷での取り決めは、小一時間で形になった。蓮は北島を支え、村瀬の足元に布を巻き、田口に寺への道のりを教え、桶屋の主人には紙に署名をさせた。
紙は二通。ひとつは隊の蔵へ、ひとつは寺へ。
「紙で縛るのは好きじゃねえが、今夜は紙が味方だ」
蓮は紙を懐に入れ、雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。
屯所に戻る頃、雨は上がっていた。空気は軽く、畳はまだ重い。
道場に人が集まり始めていた。噂は速い。隊の噂は、血と同じ速さで走る。
土方はまだ戻らない。総司は柱に寄って立ち、咳をひとつ、受け止めて微笑んだ。
「蓮。——遅い、いい顔だ」
「遅い現場の顔ってやつだ」
静が隣に並び、柔らかく頭を下げた。
「これより、見せます」
二 静視点:心を斬る座敷
道場の板は、よく磨かれていた。夜の空気がまだ湿りを残す中、油の匂いは薄く、古い木の匂いが勝っている。
静は板の中央に座した。ひざの前に白い紙二枚。ひとつは桶屋の返済の約定、ひとつは田口の働きの約定。
列をなす隊士たちの顔は、怒り、好奇心、不信、嘲り、安心、いくつもの表情を重ねていた。
静は、ひとつ息を置き、喉の奥で間を作った。
「今夜、『裁き』があります。——刃は抜きません」
ざわめきが起こる前に、蓮の石突が板をひとつ叩いた。音は短く、よく通る。
静は続けた。
「田口。前へ」
田口が出る。顔は薄く腫れ、目の縁は赤い。
「あなたは米代を借り、母上の薬代に当てました。罪です。ですが、事情は消えません。——これが返しの算段です」
静は紙を掲げ、内容を読み上げる。寺の厨房での働き、隊内の雑務、返済の期日。
「北島、村瀬。前へ」
ふたりが出る。北島は脛に布、村瀬は足首に布。
「あなた方は内と外を混ぜ、利を取り、人の息を細らせました。——これは『困らせる』約定です」
寺掃除、夜回りの後始末、帳場からの離隔、頭を下げる回数を紙に書いた。
「見せしめか」
誰かが小さく吐き捨てる。
静は微笑んだ。
「見せるのは、恥ではなく、回復です。人前で毎日同じ所作を積めば、人は変わります。——羅刹の速さで斬れば、変わる機会は消えます」
そこへ、戸口が開き、土が軽く鳴った。
土方歳三が、雨上がりの夜の匂いを連れて入ってきた。眼は冷たく、頬はこわばり、口元は笑っていない。
静は立って礼をする。
「副長。——今夜の『裁き』を、始めました」
土方は板の中央に進み、紙をひったくり、目を走らせた。
「赦すのか」
声は低い。
静は首を横に振った。
「赦してはおりません。——困らせます」
隊士の列がひやりと揺れた。
土方は紙を静に返し、蓮を見た。
「脛か」
「ええ。走れねえように。頭が冷える」
「甘い」
「辛ぇのは風邪だけでいい」
蓮の口の利き方は相変わらず粗い。だが今夜は、粗さが必要だった。粗さは、羅刹の前で人を守る盾にもなる。
土方は静を見た。
「お前の『風』の稽古を、ここでやるつもりか」
「はい。人の息を折らずに、息を変える稽古です」
静は膝を折り、土方に紙を再び差し出した。
「副長。ひとつだけ、直に『見せ』たいことがあります」
土方の眉がわずかに動いた。
静は立ち上がり、北島と村瀬の前に歩む。
「二人とも、ここに」
二人が立つ。
静は刀に手をかけた。
鯉口を切らず、鞘を握る。
「——刃は使いません。ですが、身体に覚えてもらいます」
北島が、わずかに身構えた。
静は正面から近づかず、半身で入り、鞘の中の刀身を半寸だけ押し出して、そのまま鞘ごと北島の肩へ「ぶつけた」。
金具が骨に当たる寸前で止め、衝撃は筋に伝える。
「っ——」
北島の身体から力が抜け、膝が板を探す。
次に、村瀬。
静は鞘の先で村瀬の胸骨の上を軽く叩き、その直後に鞘の腹で広く押す。
打つのではない。押す。
息が詰まる。人は息が詰まると、次の息の入り方を知る。
村瀬は咳をひとつ、出した。
「痛めつけではありません。——覚えるために痛むのです」
静は刀を納めた。音は出さない。
土方はじっと見ていた。
その眼は羅刹だ。だが、羅刹は、人の痛みを見ないふりができない鬼だ。
土方は蓮の槍を顎で示した。
「石突の角度は」
「骨は避けた。筋で止めた。明日には歩ける。……逃げるには十分遅い」
「遅いのは、お前の得意だ」
「現場は遅い」
ふたりのやり取りは短く、しかし深い水の底で交わる。
土方は最後に紙を手に取り、皆の前で高く掲げた。
「見たな。——これは、俺が責を負う。やってみろ」
静は礼を深くした。
朝までに「見せる」ことは、これで果たした。
だが、まだ終わりではない。
夜半過ぎ、道場を出た静と蓮は、寺へ向かった。田口が厨房に向かう背を見届け、桶屋の主人が約定の半分を抱えるのを確認し、戻る途上、静は蓮に言った。
「羅刹と人、という言葉があります。——副長はどちらでしょう」
蓮は鼻で笑った。
「羅刹は人の裏返しだ。人がいなきゃ、羅刹は立てねえ。俺らが人でいるほど、あの人は羅刹でいてくれる」
「うまい表現ですね」
「お前ほどじゃねえ」
静はひょうひょうと肩をすくめ、風を胸に入れた。夜風は冷たく、だがよく通る。
明け方、寺の鐘が靄の中で短く鳴った。
田口は厨房の前に立ち、姐さんに頭を下げた。
「よろしくお願いします」
姐さんは木杓子を腰に当て、田口の額を指で弾いた。
「頭を下げるのは一度だけでええ。明日からは、手を動かし。口は閉じなはれ」
蓮はそのやりとりを見て、笑いをこらえた。静は目を細め、喉の奥で息を一度、撫でるだけにした。
屯所に戻ると、土方は庭の石に腰掛け、煙草を持っていた。火はつけていない。咳をしないためだろう。
静は立って礼をし、蓮は肩で挨拶した。
「終わりました」
土方は頷き、煙草を指で折った。
「明日から、見せろ」
「毎朝、寺に頭を下げ、夜は隊の便所を洗い、桶屋は銭を返す。——見れば、みな納得します」
「納得しない奴もいる」
「その方々には、さらに『困って』いただきます」
静は微笑んだ。
土方は立ち上がり、背伸びをして、夜明けの青に肩を向けた。
「羅刹は、朝が嫌いだ。人でやるなら、朝に強くなれ」
その日から、見せる「裁き」は毎朝毎夜、続いた。
寺の井戸端で田口が水を担ぎ、隊の便所で北島が黙々と桶を洗い、村瀬が紙を触らずに砂を掃いた。
最初の三日は、見物が多かった。笑う者もいた。野次る者もいた。
四日目から、笑う声は減った。野次る声も減った。
七日目、田口は粥をこぼさなくなり、北島は桶を持ち替える手の筋が柔らかくなり、村瀬は砂の撒き方を覚え、紙を持っていた手の癖が消えた。
十日目、桶屋の主人は約定の半分を返しに来た。顔に疲れが刻まれていたが、目は濁っていなかった。
土方は、道場の戸口から黙って見ていた。
総司は、柱の陰で、咳の深さを一つ浅くした。
蓮は、夜回りのあと、いつものように槍を洗った。石突の角に、あの夜の脛の手応えがまだ薄く残っている気がした。
静は、鞘の腹を布で磨いた。鞘でぶつけた時の微妙な感触は、刀より正確に心へ届く。
ある晩、村瀬が静の前に立った。
「……俺は、いつまで困ればいい」
静はひょうひょうと笑った。
「困らなくなるまで、です。——困るのを、自分で選べるようになったら終い」
「終いの印は」
「自分の息です。息が長く、静かに入る日が来ます」
村瀬はしばらく黙り、深く吸って、浅く吐いた。
「まだだな」
「ええ。まだです」
北島は、最初、目を合わせなかった。
五日目、目が合った。
七日目、口の端が歪まなくなった。
十日目、雨が降った。
雨の日の掃除は最も堪える。
北島は泥に滑り、尻餅をついた。
蓮が通りかかって、石突を差し出した。
「立て」
北島は石突を掴み、立った。
「……俺は、羅刹になれねえな」
蓮は鼻を鳴らした。
「羅刹の目の前で人でいられたら、それで十分だ」
北島は小さく笑い、初めて頭を下げた。
人に下げる頭は、重い。だが、一度下げると、次からは軽くなる。
田口の母が寺へ運ばれてきた日、姐さんが静に耳打ちした。
「薬が効いてる。もう大丈夫や」
静は深く礼をした。
道場にそのことを伝えると、誰かが小さく手を叩いた。
土方は叩かない。蓮は叩かない。総司は叩かない。
叩いたのは、若い隊士たちだった。
翌朝、田口は粥桶を運ぶ時、少しだけ背を伸ばした。
月替わり。
土方が道場で短く言った。
「帳場の仕事に戻したい奴がいる。——村瀬だ」
ざわめき。
土方は手で静めた。
「紙は毒になる。だが、薬にもなる。毒にも薬にもならねえのは、紙を触る手だ。……村瀬、手を出せ」
村瀬は出した。掌は、砂で磨かれて薄く固くなっていた。墨の黒はついていない。
「紙は、明日から一日二枚だけ触れ。残りは砂を触れ」
村瀬は深く頭を下げた。
静はひとつ頷き、蓮は石突で床を二度だけ叩いた。
短い祝砲だ。
夜、縁側で風を吸いながら、静は蓮に言った。
「第三の道は、いつも狭いですね」
「狭いから、踏み外さねえ。広い道は走るやつが多い。転ぶやつも多い」
「羅刹の速さに、人の遅さで対抗するのは、骨が折れます」
「骨が折れるのは、お前の手じゃねえか」
「鞘で済ませていますから、骨までは」
蓮が笑った。
「上品な意地の悪さも、骨のうちだな」
「褒め言葉として」
「いつもその返しだ」
ふたりのやり取りを、総司が廊の端で聞いていた。
総司は咳をひとつ、内側に押し込み、目だけで笑った。
「静、蓮。——羅刹は必要です。人も必要です。必要を取り違えないように」
「はい、兄上」
蓮は身を乗り出した。
「総司さん。必要ってのは、どっちが上だ」
「風の向き次第です」
総司の答えは相変わらず軽く、深い。
その夜、寺の鐘は遠く、月は薄く、風はよく通った。
やがて、桶屋の返済は終わり、田口の母は寺から帰った。村瀬は紙を二枚から三枚へ増やし、北島は便所掃除の手を他の者に教え始めた。
便所がきれいだと、足の早い奴が転ぶのが減る。
そんな小さな効き目が、隊に少しだけ均(なら)しを生んだ。
半年後、別の揉め事が起きた時、誰かが口にした。
「羅刹で行くか、人で行くか」
蓮は答えた。
「三つ目もある」
静は笑って、紙と鞘を用意した。
その夜、静は独り、道場の板の上に座り、鞘を膝に置いた。
鞘の腹の手触りは、雨の夜と同じ。
彼は鞘に軽く額を当て、目を閉じた。
「斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」
言葉は声にならず、風に溶けた。
羅刹と人の境目は、いつだって風が撫でていく。
その撫で方を、彼らはこれからも、遅く、しかし確かに、覚えていくのだ。



