影双譚(かげふたつたん)

 壬生の町筋から東へ折れ、白川添いの細い路地に、ひっそりとした茶屋がある。看板は小さく、軒に吊るした竹筒からは夕水がぽたり、ぽたりと落ちるばかり。表は粗末な腰掛茶屋、奥に六畳ほどの座敷。名を問えば「月の端」と言う。
 静は軒をくぐる前、袖で軽く風を掬い上げた。白檀と梅の匂い、炒った米の香、そして、鼻の奥で細く尖る油の匂い——灯に継ぎ足した新しい油の鋭さ。
 蓮は反対側の路地へ回り、土塀の外に槍の袋を横たえた。今夜の槍は、見えない。穂先は壁の外から障子の桟に沿わせ、石突で砂をわずかに押し、音もなく「囲む」。包囲は壁の内側ではなく、壁の外で完了する。

「静」
 障子の敷居の下、目に見えぬほどの隙間を通って、かすかな合図が来た。三つ、間をおいて二つ。
 蓮の石突が土を打つ時の震えは、静の足袋の裏で数に変わる。
 ——三と二。入口、裏手、窓。
 静は目をすうっと細め、軒の竹筒の雫が落ちる音と合わさるように、心の中で拍を刻む。二拍目の終いに、敷居をまたいだ。

 座敷には四人いた。角帯をこきっと締めすぎている魚屋の若い衆、碁笥を抱えた旅の文人風、頭巾を目深にかぶった小柄な僧、そして、浅葱の羽織を着た「番頭」。
 女将の「お梅」は腰の曲がりかけた女で、客の顔を見ずに湯を扱う癖がある。茶筅が堅いのか、泡が荒い。
 ——泡の荒さは技の賤しさではない。今夜はわざと、だ。
 静は心中でひとつ頷く。誰かに頼まれている。泡を立てすぎると、香りが割れて甘さが飛ぶ。香りが飛べば、香が立つ者が浮く。

「いらっしゃい」
 お梅の声はやや掠れ、笑いの皺が目尻に寄る。
 静は柔らかく礼をした。
「喉を潤しに参りました。……よろしければ、向こうの座敷で」
「はいはい。狭いけんども、風は通るよってに」
 女将が襖を引き、六畳の座敷へ誘う。脇に細長い床の間があり、竹の花入が低く生けられている。今日の花はヒサカキと薄の穂、わずかに練香の匂い。
 床の間の柱に掛けた半紙には「月在杯底(つきははいのそこにあり)」とある。
 ——茶碗の底に月。題に合わせて、客の顔を映す、か。

 静は座の中央に控えた。膝を運ぶと、畳の目が指を撫でるように細かかった。手入れがいい。
「お梅さん。——支度は、こちらで致しましょう」
「へえ?」
 女将の目が驚き、次いでほっと緩む。
「旦那、茶のお手前ができはるのけ」
「少しかじっております。今夜は私が点て、皆さまに召し上がっていただければ」
 魚屋の若い衆が面白そうに笑い、文人風は目尻を下げ、僧は沈黙、番頭は袖の中で算盤を弄ぶ癖を見せた。
 静は釜の蓋に掌を浮かせ、湯の息を聞く。ふつ、と小さな息が立ち上がる。
 ——湯はよい。
 棗(なつめ)に手を伸ばし、袱紗を捌き、茶杓を抜く。
 茶杓の腹に、わずかな粉の線が残っている。直線ではなく、左へ少し逃げる斜め。
 普通、茶杓は右手で取り、棗の中で右から左へ掬うから、線は右が深く、左が浅くなる。
 目の前の線は逆——左が深い。
 誰かが、左手で「触った」。

 静は袱紗の端で棗の口を払うふりをして、その線にもう一度だけ目を細めた。粉の粒の大きさが揃っていない。茶筅ではない、棚の上の振動でもない。——手の線。
 今夜、座にいる四人のうち、左手で箸を取った者は一人。
 魚屋の若い衆は串を右で払っていた。文人は筆茎のタコが右にある。僧は数珠を右で繰っていた。
 ——番頭。
 番頭は、手ぬぐいで汗を拭うとき、左手で口元を押さえ、右手を袖に隠した。
 奥歯で噛む癖が左に寄り、鼻息も左が強い。
 左利き。
 しかし着ている羽織の紋は江戸の店のもの。関西に長くいる者は、左利きでも箸だけは右に矯(た)められることが多い。矯められていない、ということは——最近まで江戸にいた。
 江戸帰りの番頭。
 香は、麝香の影が薄い。江戸の流行の香ではない。
 ——香りは嘘をつきません。人もまた、ね。
 静の胸の奥で、言葉が静かに沈む。

 静は棗の蓋を右手で取り、左手に受け、膝前に置く。茶杓で二杓、薄茶を掬い、茶碗に落とす。茶杓の腹に粉が薄く残るのを、袱紗で軽く払う。
 茶碗は井戸の水で預かり洗い済み。肌は若く、土は白い。底に、釉薬の溜まりが小さな月のように光る。
 ——月は杯の底。
 柄杓を上げ、湯を一口。
 茶筅通しは短く、泡を立てすぎない。香りを逃がさぬため、泡を潰さず、表面に細かな景色を残す。
 静は最初の一服を自らすすり、口を清める。
 次を、魚屋の若い衆へ回す。
 若い衆は茶碗を受け、二度ほど時計回りに回して、正面を避ける作法のまま、勢いよくすすった。
「うめえもんだな」
 笑う声は素朴で、香の誤魔化しがない。
 次に、文人。指先が長く、茶碗を持つ手の筋が薄い。二度回し、一息、二息、と間を測り、丁寧に口をつける。茶の香りを鼻に通し、喉で一度だけ響かせる。
 ——香りを知っている。
 次は、僧。
 僧は口元の布を少し下ろし、儀礼の一礼をし、小さな息で二度すすった。手は右。喉仏が薄く上下する。
 最後、番頭。
 番頭は茶碗を取り、ほとんど無造作に一度だけ回した。
 回す向きが、左に傾く。
 普通、右手で持てば時計回りに回す。彼は左手で受け、反時計回りに、わずかに。
 さらに、口に運ぶ瞬間、茶碗の正面の「景色」を避けていない。
 ——盲点。
 茶碗の見所を避けるのは茶会の礼。これを踏まえないのは、手練れではない。だが、粗忽でもない。
 「形」を覚えたばかりの者の動き。
 誰に教わった? 江戸の茶の流儀は、京と細部が違う。
 江戸帰りの番頭。左利き。茶杓に残る左の線。
 静の心の中で、薄い線が二つ、三つと結ばれていく。
 蓮の石突が、土の外で一度だけ小さく鳴った。
 窓際——一人、外に待つ影。

「もう一服、点てましょう」
 静は笑って言い、二服目を薄く点てた。今度は香の立ち方を見るため、湯の温度を一度だけ落とす。香りは湯の温度に敏感だ。高すぎれば甘みが死に、低すぎれば青さが立つ。
 湯音はふつ、ともう一段柔らいだ。
 茶杓を棗に戻す。
 ——棗の縁に、粉が新しく付く。
 付く位置は、先ほどの線の上。だが、角度が違う。
 静は茶杓を置き、茶巾を折り直しながら、座の隅、壁際の柱の陰へ目を遣った。
 影が、一つ。
 柱の影の上に、白い粉がひとすじ、極めて細く飛んでいる。
 ——先に誰かが棗を触った時、粉が跳ねた。
 粉の跳ねる線は、棗の口から柱へ向かって左へ走っている。
 座の左手にいちばん近いのは、番頭だ。
 彼は最初に座に入ったとき、茶道具に無関心を装いながら、一度だけ棗の辺りを見た。
 その視線の「薄さ」が不自然だった。
 見るまい、という意志は、見ているのと同じ丈(たけ)だけ濃い。

「香は、いかがです?」
 静は茶を回しながら、穏やかに問いかけた。
 魚屋は「うめえ」と笑い、文人は「若い土だ」と言った。僧は「静か」とだけ。
 番頭は、言葉を選ぶのに半呼吸遅れた。
「……香のことは、ようわかりません」
 静は微笑み、首をすこし傾けた。
「香りは嘘をつきません。人もまた、ね」
 その一言に、番頭の視線が、刹那だけ跳ねた。
 跳ねた方向は、座の外——勝手口。
 蓮の槍がいる方ではない、もう一方。
 ——出口を、まだ信じている。

 静は茶せんを置き、茶碗の底をそっと持ち上げた。月のような釉薬の溜まりが、釜の灯を吸いこんでいる。
「月は杯の底に。……皆さま、湯を足します。三口で」
 三口のうち、二口は香りを運ぶ。最後の一口は、喉に落とすための口。息の長さがそこで測れる。
 番頭の最後の一口は、短い。喉が水を急ぐ。
 静は湯を足し、お梅に目配せして、建水を少しだけ手前へ引いた。間合いを狭め、番頭の足を不自由にする。
 文人風が、何気なく扇子を開いて風を送った。
 扇の香は山桜。——手入れがいい。
 僧は沈黙を保ち、ただ座を整える。
 魚屋は軽く背中を伸ばし、畳の目を見ている。
 それぞれの人の「落ち着く場所」が、香りの流れでわかる。

「さて」
 静は袱紗を折り、棗の蓋を閉め、その蓋の中央に、茶杓の先を軽く当てた。
 蓋の漆面に、茶杓の先でほんのかすかな円形の跡が残る。
 ——これでよい。
 茶杓を横に置き、茶碗を一つ、番頭の前へ滑らせる。
「もし、よければ。——一服、あなたの手で点ててくださいません?」
 座がわずかに揺れた。
 魚屋は「へえ」と目を見開き、文人は興味深げに扇を閉じ、僧は目を伏せる。
 番頭は、一瞬だけ目の奥で躊躇いを光らせ、すぐに消した。
「……よいでしょうか」
「もちろん。親しき仲の、客点てと申しまして」

 番頭は棗の蓋に手を伸ばした。
 左手。
 静は気づかぬふりで、茶筅を進めてやる。
 番頭は茶杓を取り、棗の口から粉を掬う。
 茶杓の動きは覚束ない。だが、手は慣れている——左手の基礎が、動きを支える。
 掬い上げた後、茶杓の腹を棗の縁にわずかに当てて余分な粉を払った。
 そのとき、先ほど蓋の中央に当てた茶杓の円形跡に、別の「擦れ」が重なった。
 ——左から右へ、浅い擦れ。
 静は、蓋の跡の細微を目に焼きつけ、唇の内側で小さく息を抜いた。
 番頭が「左」で茶杓を扱い、これ見よがしでなく自然に「仕草」を挟んだ瞬間。
 左を隠さぬ左。その自信。
 しかし、茶碗の回しは、先ほど右のふり。
 バラバラの礼。
 礼のバラバラは、習いの浅さではない。
 ——二つの師匠。江戸の教えと、京の教え。
 一つは「正当」を装うため、もう一つは「忍び」を足すため。
 誰かが短期間に、番頭へ茶の形を教えた。
 誰だ。
 香、構え、言葉。
 女の手はない。男だ。
 文人風は、教えるならもっと「景色」を愛する教えをする。僧は、茶の飾りを嫌う。
 ——外。
 障子の向こう、壁の外の槍の根元から、乾いた土の香がした。蓮が、石突で砂を撫でて合図を送る。
 外に、もう一人。
 静は番頭の手元へ視線を戻した。
 茶筅の通し。
 番頭は茶筅を垂直に立て、上から下へ漕ぐのみ。左右の撫で付けがない。泡は粗く、香が割れる。
 ——教えた者は、香を知らない。
 香を知らない者が、なぜ茶を教える?
 道具が必要だったのだ。茶の「しかけ」。

「もうよろしい。……お上手です」
 静がそう言い、番頭の茶を受ける。
 茶は若く、まだ粉っぽい甘みが残る。
 静は口にふくみ、香を鼻に返しながら、目を床の間の花へ遣った。
 花入の根元に、細い紙。
 紙の角がほんのわずかに折れ込んでいる。折れ込んだ角には白い粉がつく。
 棗の粉。
 誰かが花の根元に紙を忍ばせるため、棗を持ち出した。
 今夜の目的は、茶会ではなく、花入。
 ——三拍子が揃った。左の線、回しの癖、花の紙。

 静は膝を崩さず、体をわずかに斜めへ滑らせた。
 番頭が茶碗を置く瞬間、静の指が、糸のように細い動きで花入の根元へ伸びる。
 紙を「摘む」のではない。花の足元の空気を一寸押し、紙の一辺を浮かせ、親指の爪で軽く引き込む。
 紙は音もなく静の掌に落ちた。
 裏を見る間はない。
 静は紙を袂の陰に隠し、膝前の茶碗に視線を戻す。
 番頭の喉がひとつ鳴った。
 次の息が、短くなった。

「お梅さん、勝手口に風が」
 静は声を柔らかく、しかし通るように出した。
 女将が驚いて振り向く。
 その一瞬に合わせ、蓮の槍が障子の桟の外で、目に見えぬ「線」を引いた。
 す、と障子が動き、勝手口の外から伸びた影が、槍の柄に触れて止まる。
 外の男がいる。
 番頭の頬が、浅く引きつる。
 ——逃げ道は、どこにもない。

「さて」
 静は膝をただし、袱紗を畳み直し、茶碗を自らの前へ引いた。
「茶はここまで。……お話の席を、次に」
 番頭が笑った。笑ったつもりの顔。鼻筋のわずかな汗を袖で拭い、数珠を持つ僧をちら、と見、文人をかすめ、魚屋へ流し、最後に静へ戻す。
 視線は、泳がない。泳がないふりをする。
 静は微笑んだ。
「左利きの客人。——棗の粉の線は、左から右へ。茶杓の跡は新しく、しかも浅い。今夜、この座に入る前に、一度茶入に触れましたね。花の根元に紙を置くために」
 番頭の肩が硬くなる。
「な、何を——」
「茶碗の回し方は京の礼に似せましたが、反時計回り。江戸帰りの手つきが抜けません。香は江戸の流行を持ち帰っておらず、今日の香はこの座の練香だけ。つまり、あなたは香に興味がない。香に興味のない方が、なぜ茶を? ——誰かが教えたから。短期間で」
 静は、穏やかな声のまま続ける。
「教えた者は、香を知らない。茶筅の撫で付けが抜けて、泡が粗い。香りを壊す点て方です。道具が要るだけだった。——花入の足、紙の角の粉」
 袂から紙を出し、掌に乗せる。
 紙は薄く、墨の薄い文字が走る。
 『明夜 高瀬舟ノ舟入 二ツ目ノ杭 松風』
 合言葉と場所。舟入の杭。松風——今夜の湯音の名を合図に。
 文人が扇を閉じ、僧が瞼を上げ、魚屋が息を呑む。
 番頭は、膝の上の手を握りしめた。
 爪は短い。手の甲に細い古傷がある。
 商いの手ではない。
 ——役者は、ここまで。

「暴れるなら、障子の外へどうぞ。内は茶の間です」
 静の言葉のすぐ後に、蓮の槍が障子の桟をさらに一寸、外へ押しやる音がした。見えないが、そこに「線」がある。
 番頭は、立たなかった。
 座の礼を崩さず、静を見上げた。
「……どうして、俺だと」
「香りは嘘をつきません。人もまた、ね」
 静は、そこで一度だけ微笑を薄くした。
「あなたの羽織は新しい油の匂いがします。道具の油。店の油ではありません。——そして、棗の粉」
 番頭の唇が、わずかに開く。
 次の瞬間、障子の外で短い喚(わめ)きが上がった。
 蓮の槍が、外の男の手首の腱を石突で押さえ、刃を落とさせた音だ。
 静は座の内を乱さず、ただ手をひとつ打った。
 お梅が、合図と心得て、裏口の閂を下ろす。
「お梅さん、表へ——『いつものもの』を」
 女将は頷き、小走りに表へ出て、木札を立てた。
 『本日貸切』
 茶屋の外に、人の流れが自然に避けの道を作る。

 文人風が、静を見て穏やかに頷いた。
「なるほど。茶の作法は『音』から始まるのだな」
 僧は小さく問う。
「その紙、渡す先は?」
「土方さんがよろしいでしょう。舟入の杭は、彼が好きな類いです」
 静が返すと、魚屋が照れくさそうに頭を掻いた。
「俺ぁ何も分からねえけど、旨ぇ茶だったわ」
「ありがとうございます」
 静は礼をし、最後に番頭へ視線を戻した。
「——生きて、困ってください」
 番頭は目を閉じ、一度だけ深く息を吐いた。
 静は、その息に、ほのかな救いの気配を嗅いだ。
 香は嘘をつかない。
 人もまた、嘘をつききれない。

 座が解ける前、静はわずかな時間を置き、棗の蓋をそっと撫でた。蓋の中央の円い跡に重なる細い擦れが、もう一度光を拾う。
 茶杓の跡は些事に見えて、足跡に等しい。
 ——わずかな跡から利き手を割る。
 その一寸の差を、刃で埋める必要は今夜はない。
 刃の代わりに、語を置けばよい。
 静は袱紗を畳み、茶筅を洗い、茶巾を伸ばし、道具を元へ収める。
 ひとつひとつが静謐で、ひとつひとつが証拠を消す動きでもある。
 茶の間は、茶の間に戻る。
 密偵の間ではない。

 外の路地で、蓮が短く笑った。
「静。中は静かだったな」
 障子越しの声は低く、石突が砂をまたひと撫で。
「ええ。……槍は見えませんでした」
「見せなかったからな。見せないで届くのが、一番性に合う」
「お疲れさまでした。外の方は?」
「生きてる。骨は折ってねえ。明日の天気がよけりゃ、痛みは長持ちだ」
「長生きも、痛みも、どちらも『困る』の一種ですね」
「お前、ほんっと上品に意地が悪い」
「褒め言葉として頂いておきます」

 文人と僧と魚屋を送り出し、番頭には別の道から出てもらった。
 出がけに、番頭は静に向かって浅く頭を下げた。
「……香りは、嘘をつかない、か」
「ええ。嘘は風に乗りますが、香りは残ります」
 番頭はその言葉を胸に置くようにして、足を運んだ。
 蓮が外で無言のまま同行し、表へ出たところで、隊士二名に引き渡す。
 女将のお梅は、座を片付けながら鼻で笑った。
「旦那は、茶の座で人を斬らはらへん」
「ええ。斬るより困らせる方が、案外こたえるものです」
「よう言わはる」
 お梅の手は早い。茶巾がきれいに伸び、建水の水は静かに光る。
「お梅さん」
「なんぞ」
「床の、半紙。良い文でした」
「お客の文やしらへんけどな。月は茶碗の底に居るもんや。そやさかい、顔がよう見える」
「お見通しですね」
「そら、歳やさかい」
 お梅は茶杓を撫で、棗を磨き、ふう、と息を吐いた。
「また、おいでやす」
「また参ります」

 外へ出ると、夕餉の支度の煙が遠くの屋根から立ちのぼっていた。白川の水は薄く匂い、風は乾いている。
 蓮が槍袋を担ぎ、肩を回す。
「紙、見せろ」
「どうぞ」
 静は袂から紙を出し、蓮と並んで歩きながら目を通す。
 『明夜 高瀬舟ノ舟入 二ツ目ノ杭 松風』
 蓮が鼻を鳴らした。
「土方さんが好きそうなやつだな。杭を数える仕事、あいつ得意だ」
「ええ。——明夜は、風ではなく、水の音でしょう」
「水の音は、ごまかせねえ」
「香りと同じです」
「人も、同じだな」
「ええ。人もまた、ね」
 二人は顔を見合わせ、ひとつだけ笑った。

 壬生へ帰る道の途上、空は薄い茜に染まり、屋根の端が黒く切り取られる。
 静はふと、茶碗の底の月を思い出した。
 茶碗の月は、飲み干すたび、新しく現れる。
 それは、刃を抜かずとも現れる月だ。
 香りが嘘をつかないように、月もまた、嘘をつかない。
 彼は袖の中で、指を軽く組み、歩幅を半歩だけ広げた。
 兄の影を踏まず、蓮の槍を見せず、香りで勝つ夜。
 ——茶碗の底に、今夜も月。
 静はそれを胸に置き、拍を二つだけ軽く取り、歩き続けた。