影双譚(かげふたつたん)

 雪の夜は、音が嘘をつく。
 矢野蓮は、三条大橋の板の目に最初の足を置いたとき、足裏に吸い付くような湿りと、雪が音を飲み込む感触を確かめた。川面から吹き上がる風は浅く、冷たさだけをきっぱり運んでくる。下手に力むと足は滑る、下を意識しすぎると目線が落ちる。橋は戦場に向いていない。だからこそ、誰かが戦場に選ぶ。

 橋の袂、石灯籠の柱に、血色の墨で「斬奸状」が二枚、竹釘で打ち止められていた。
 一枚は「新選組狼藉を討つ」と、もう一枚は「沖田を斬る」。
 字は上手すぎず、下手すぎず、真似た手つき。挑発のための「ちょうどよさ」。風に揺れぬよう雪が端に載せてあり、その重石が紙の端をたわませている。

「雪で重し、とは、用意がよろしい」
 静が、ひょうひょうと笑いながら言った。冬の息が白を引き、顔の半分ほどで消える。
「書きぶりも香りも、芝居がかっています。蓮、足をお確かめください。板の端、少し氷っています」

「見りゃ分かる。俺は落ちるのが嫌いだ」
 蓮は柄袋の口を一度解き、右腰で結び直した。槍は、長い。長いものは、雪で鈍る。
 ——なら、雪も味方につける。
 袋の縁を肩で少し揉み、布に雪片をわざと付かせる。濡れ布は音を黙らせる。柄の根に指を滑らせ、継手の固さを一度確かめた。

 橋の中央あたりに、人影がひとつ、欄干にもたれていた。笠は浅く、蓑は薄い。いかにも寒いのに、寒くない風を装っている。右手は袖の中、左手は欄干。
 雪は、その肩にだけ積もっていなかった。
 ——風上に立っているから、というだけじゃない。
 蓮は斜めから目を細めた。肩に雪が積もらないのは、動いているか、熱を持っているからだ。緊張の熱、焦りの熱、あるいは、仕込みの熱。

「お出ましのようです」
 静が橋へ上がる前、斬奸状に指を添え、竹釘の角度を撫でる。
 竹は固い。だが、軽い。抜けば風が紙を攫う。
 静は釘を抜かなかった。代わりに紙の縁に軽く息を吹き、雪の重石の形を見た。
「紙の角、濡らしてありますね。風で飛ばぬよう。誘い——間違いありません」

「誘いなら乗る。乗って叩く。いつもどおりだ」
 蓮は袋から柄を引き、穂先にわざと薄雪を乗せた。美意識ではない。白い穂先は、白い夜に消える。黒は目立ち、白は埋もれる。
 穂先を低く、石突をわずかに上げる。その角度で、欄干の高さを測る。欄干は、足場にもなる。——なるが、滑る。雪が乗っていればなおのことだ。
 息をひとつ吐く。白が薄く、風へ溶ける。吐息の輪郭、その幅、その消え方。
 ——今日は、息で勝つ夜だ。

 橋上の影が、こちらを向いた。笠の庇の下、目は細く、口は隠れている。ちょうど、挑発されたい顔を作るのが上手いやつの目だ。
「新選組か。狼の群」
 声は、低く細く、風の筋に合わせて落ちる。
 静が、ひとつ礼をした。
「お寒い夜ですね。紙を濡らすのに、手が冷えたでしょう」
「すぐに温めてやる」
 影は袖の中で音を鳴らした。鯉口の小さな、乾いた音。
 蓮の背で、静がほとんど聞こえぬ声で言う。
「——『抜き』は弱い。音が早い。息が、追いついていない」
「つまり、押し勝てる」
「ええ。ですが、橋の中央で押すと、下が落ちます。左右に『受け』を作ってください。私は『白』を用います」

 白。
 静の「白」は、雪の白であり、鞘走りの白だ。
 蓮はうなずき、欄干の柱の間隔をざっと数えた。三歩で柱、三歩で柱。足の幅で、板の縁の凹凸を拾い、滑る場所と滑らぬ場所の地図を頭に描く。
 ——押すなら、斜め。
 正面の押し合いは、雪が邪魔をする。斜めの押し合いは、雪が味方をする。
 欄干を、足にする。
 軽く踵を浮かせ、石突を欄干の縁に置く。たわみを感じるほど押しつけない。木は硬いが、冷えた木は脆い。頼り過ぎれば折れる。頼らなければ、助けてくれる。

 静が一歩前へ出た。
 雪の薄膜が足袋に巻く。静の歩は、影のように板の目へ馴染む。
 鞘口に親指がかかる——が、切らない。まだだ。
 静は斬奸状の前に立ち、紙の角の雪を指で払った。
 白が、宙に舞う。
 舞う白は、風の形を見せる。
 ——風は、斜めに走っている。橋の端から端へ、弓なりに。
 蓮は穂先の白をその弓なりに合わせ、石突で欄干の冷たさを測り直した。

 影が、抜いた。
 抜きは早い。だが、早いものは短い。息が短いのだ。
 刃が出るより先に、白い息が濃く膨らんだ。
 それは「今」の印だ。
 静の鞘走りが重なる。
 白を払う。
 雪の薄皮が鞘の腹で弾け、空に白線を描く。その白が、相手の目に差した。
 蓮は欄干に足を置いた。
 足は滑らない。雪を噛む角度が、さっきの確認で分かっている。
 欄干の上で身を斜めにひねり、槍を寝かせた角度から起こし——
 「息が見える。今だ、俺が押す!」
 声と同時、穂先は白い夜の同色に紛れ、斜めに走った。
 狙いは胸ではない。喉でもない。肩の前——鎖骨の下、厚着の布を押し割るが、骨は外す位置。
 突かずに、「刺さらない突き」で押す。
 穂首の三角は、雪をまとって丸みを帯び、布に噛み、身の重さを道に変える。
 相手の体が半歩、勝手に下がる。
 橋の板がギシ、と短く鳴った。

 刃が、上から来た。
 相手は斜めに退きながら、斬り下ろす。
 退き斬りは、見た目が良い。だが、足と息が合っていないと、斬先が死ぬ。
 静の白が、そこへ重なる。
 今度は、刀だ。
 抜きは一寸。
 刃はほとんど出ていない。
 だが、鞘の腹から出た白い筋が、斬先の前に「壁」を作る。
 雪払い居合。
 刃で雪を払うのではない。刃を出した瞬間に、鞘の内の冷えと外の冷えの差で生まれる微かな風と、鞘の腹の白で相手の眼を遮る。
 斬先が、わずかに止まる。
 止まる、という事実が、相手の胸の中の風を乱す。
 乱れた風に、蓮は穂先を二寸だけ深く滑らせ、すぐに抜いた。
 押すための突きは、「抜き」が命だ。
 遅い抜きは、殺しになる。早い抜きは、困らせになる。
 蓮は困らせる。

 相手の肩が落ち、膝が震え、足の指が橋の板を掴む。
 掴む足は、滑る。
 蓮は穂先を下げ、石突を欄干から外し、逆に欄干を背にする角度で押し返した。
 雪が、穂首からふわりと落ちて、相手の目の前で小さく弾けた。
 その白に紛れて、静が紙へ指を伸ばす。
 斬奸状の竹釘を、逆手で軽く捻り、紙だけをふっと外す。
 紙は風に乗り、川へ行く。
 挑発の言葉は、川の黒に吸い込まれた。

 「退きなさい」
 静の声は淡いが、橋の上でよく通る。
 相手の唇が、寒さとは別の震えで薄く震えた。
「……狼は、退かぬと聞いた」
「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術です。あなたがご存知ないだけ」
 静は鞘を戻し、刃を完全に納めた。音は立てない。
 相手の喉で、ごくりと音がした。
 雪の夜は、そういう音だけをやけに遠くまで持って行く。

 蓮は槍を立て、穂先を雪に一度だけ触れさせ、白を新しくした。
 相手の肩布がずり落ち、押し痕のところに赤がにじむ。深くはない。骨は折れていない。明日の天気が良ければ、痛みは長く続く。
「生きて、困ってけ」
 蓮はぼそりと言い、穂先で相手の脇差を遠くへ払い飛ばした。
 橋の支柱の影で、人の気配が一つ動く。
 蓮は目を動かさない。
 静も動かさない。
 ——下だ。
 橋の下、枕木の陰。足跡は雪で消える、と思い込んでいるやつの動き。
 蓮は欄干に石突を軽く当て、木が返す鈍い音の高さを測った。
 空洞の高さ、木の厚み。
 ——ここからなら、下へ届く。
 斜めの突きは、上へも下へも往く。

「蓮、左へ二寸、お願いします」
 静の声で、蓮は二寸足をずらし、欄干の柱の間に穂先を通した。
 雪が穂先で沈黙する。
 息がひとつ、下から漏れた。白い煙は見えない。見えない白は、橋の陰に溜まる。
 ——いる。
 蓮は穂先を、空気に乗せるように滑らせ、木と木の隙間から黒い影の肩を「押す」。
 押しただけで、影は声を飲んで尻をついた。
 橋の下の雪がざらりと鳴り、人が二人、三人と這い出す音。
 蓮は穂先を引き、石突を欄干に再び置き、体の重さを橋に預けた。預け過ぎない。木は助けてくれる。

 橋の上の相手は、もはや斬る気がほどけている。
 静が近づき、肩布を整えてやるふりで、袖の内側を見た。
「油の匂いが弱い。道具持ちではありませんね。あなたは『見せる』役」
 相手は目を伏せた。
「橋の下の方々——『見て』動く役。よくある分担です」
 静の言葉は、淡々と、雪と同じ速度で落ちる。
 見物人は少ない。雪が降り出す前に帰ったのだろう。足の早い連中は寒がりだ。足の遅い連中は、こんな夜にも野次馬をする。今夜は、足の遅い連中も帰った。
 橋の上には、三人と、雪。
 橋の下には、二人か三人と、もっと雪。
 そして、鴨川の黒が、動かない。

「投げるぞ、蓮」
 静が欄干から身を少し乗り出し、橋の下の影へ、竹釘を一つ、ひらりと投げた。
 投げた、といっても、狙ったのは影じゃない。影の前の雪面だ。
 竹釘は雪に刺さり、こつ、と小さく鳴った。
 それで十分だ。
 影は顔を上げた。顔を上げた人間は、首筋を無防備にする。
 蓮は石突で欄干を離れ、柄の中程を握り直し、欄干を足場に二歩目を置いた。
 斜めの突き。
 欄干を踏む足は、滑らない。
 穂先は、橋の下の空気を切り、影の首筋の二寸手前で止まる。
 止める突きは、難しい。
 だが、止める方が、相手の内側は揺れる。
 影は両手を上げた。雪がその掌に乗り、冷たさに震えて人間に戻る。

 終い、だった。
 橋の上の相手は刀を地に置き、橋の下の影は雪を払いながら這い出した。
 静は斬奸状の残りの一枚も外し、紙の文字を一度だけ目で撫でる。
「書き手は、商いの手。帳場の指。……押さえるべきは、下ではなく奥ですね」
「奥?」
「橋の北詰の町屋。今夜開けているのは少ない。灯の油が新しい家が一つ。——あそこです」
 静の顎が、薄暗い軒先を指した。雪の膜の向こうに、ひとつだけ、灯が『新しい黄色』を帯びている。古い油の黄色は鈍い。新しい灯は、雪に負けない。

「行くか」
「行きましょう。蓮、長いままで」
「了解」

 三条大橋を渡り切るまでに、雪は一段と細かくなった。空気の粒が小さくなると、音はさらに鈍くなる。足音は消え、呼吸だけが残る。
 蓮はその呼吸を数えた。自分の呼吸、静の呼吸、前を行く二人の影の呼吸。逃げ足の息は短く、追い足の息は長い。
 町屋の格子戸の内側から、別の呼吸。
 ——隠れている。
 静は格子に手をかけず、指で空気を撫でた。
「開けていただけますか。寒いのは、お嫌いでしょう」
 中で、紙が擦れる音。帳簿を隠す音。
 格子が半分だけ開いた。
 灯の向こうに、墨で黒くなった指先。商いの手。
「——どちらさんで」
「夜回りです。紙を濡らした方に、お目にかかりたく」
 静の声が、灯の油を落ち着かせるように柔らかい。
 蓮は槍を横に寝かせ、穂先を格子の下の土間に置いた。凶器ではなく、杖に見せる。
 格子がさらに開き、男が一歩出た。
 雪はその肩にだけ積もっていない。
 肩の熱。——最初の影と同じ、緊張の熱だ。

「何の用です」
「紙に、お名前を記すのは無粋でしょう。代わりに、こちらに記しましょう。『本日、生きて困ること』を」
 静の笑いは、雪より白い。
 男は瞬きを二つ。視線が穂先に落ち、すぐに静に戻る。
「……何を、困るという」
「今夜の『芝居』の支度を、明日からやめていただく。灯の油の勘定、笛の手当、橋の管理人への小遣い。全部、紙で回る。紙を止めるのは、あなただけができる」
 男は喉を鳴らし、目尻を引きつらせた。
 雪の夜、喉の音は遠くへ行く。
 蓮は槍を立て、穂首をそっと土間から外に戻した。
 穂先に積もっていた雪が、灯の前で一度だけ光った。
 白は、武にも、証にもなる。

 男はやがて、手を下ろした。
「……分かった。分かった。明日、橋の紙は剥がす。もうやらん。金も払わん。——それでいいか」
「ええ。ただし、もう一つ」
 静は、格子の向こうの帳場を指で示した。
「筆をお貸しください。『謝り状』を書きます。宛ては、桶屋と魚屋。昨夜、袖を裂かれた方々に。——あなたの字で」
 男は顔を上げ、次に顔を伏せ、最後に渋々うなずいた。
 墨の匂いが濃くなり、紙の上で毛筆が雪のような音を立てる。
 蓮は戸口で雪を払った。払う手つきは、大袈裟にはしない。雪は、落としすぎると寒さを連れ込む。少し残すのが、冬の作法だ。

 書き終えた紙を、静は丁寧に折り、男に渡した。
「明日、これを持って行ってください。謝るのは、勇気です。——生きていれば、できます」
 男は紙を懐に入れ、深く頭を下げ……かけて、途中で止めた。
 雪の夜は、礼の途中を正直にする。
 静はさらに頭を下げ、先に礼を終えた。
 蓮は槍を肩に担ぎ、外へ出る。雪は静かに降り続け、橋は白を増している。
 戻る道すがら、静がぽつりと言った。
「蓮、さきほどの『息』、よく見えましたね」
「ああ。寒い夜は、みんな正直になる。息も、音も、迷いも。見えねえもんが見える」
「私も、よく見えました。——だから、刃は要りませんでした」
「要らない方が、俺は好きだ」
「存じております」

 三条大橋に戻ると、風向きがわずかに変わっていた。川上からの筋が細くなり、川下からの冷えが広がっている。
 静は橋の中央に立ち、川を見下ろした。
 さっき川へ落とした斬奸状は、もう見えない。紙は水を含めば沈む。言葉も、そういうことがある。
 蓮は欄干に手を置き、木の冷たさを掌に集めた。
「欄干がなきゃ、さっきの突きは通らなかった」
「欄干に助けられましたね。——橋は、渡るためにありますが、縋るためにもあります」
「縋る、ね」
「退くためにも」
「退くのは、逃げじゃねえ」
「ええ。生を繋ぐ術です」

 雪は、なおも降る。
 静は鞘の腹で軽く白を払い、蓮は穂先に白を載せる。
 白を払うと、刃の気配が生まれる。白を載せると、刃の位置が消える。
 二つは、よく釣り合う。
 蓮は肩で笑った。
「静。……俺たち、白で勝ったな」
「ええ。白は強い色です」
「黒も強いがな」
「黒は、責めに向きます。今夜は、白の番」

 橋の向こうから、犬の遠吠え。雪を切るような高い音。
 蓮は首を回し、肩の筋をほどいた。
 戦いが終わった夜は、身体が自分に戻ってくる。
 静が息をひとつ吐く。白が短く、すぐに消える。
「帰りましょう。——兄が、梅を用意している気がします」
「梅か。酸っぱいやつだろ」
「ええ。酸味は、生の味です」

 壬生へ戻る途中、鴨川の黒がひときわ深く見えた。
 蓮は橋の板を踏んだ足裏の記憶を、もう一度だけ反芻した。欄干の角度、板の目の湿り、雪の重み、相手の息の濃さ。
 すべてが一瞬に寄り集まり、たった一言に凝縮される瞬間——
 息が見える。今だ、俺が押す。
 それは、言葉より先に動いた身体の内側で、音のない叫びだった。
 身体が動き、白が走り、刃が止まり、生が残った。
 その順番が、今夜は正しかった。

 壬生寺の門前に着くころ、雪はさらに細く、しかし止む気配はない。
 門の灯が白を背にぼんやりと浮かび、寺の屋根の線は、白と黒の間に沈む。
 庫裏の灯の前に、総司が立っていた。
 咳は、浅い。息は、白。
 静が歩を速め、頭を下げる。
「戻りました」
「お帰りなさい。——橋の風は、どうでした?」
「白で、よく見えました」
 総司は笑って、ひとつ咳をし、それを掌で軽く受け止めた。
「よろしい。では、梅を」
「図星でした」
「風は、だいたい当たります」
 蓮は肩で笑い、槍袋の紐を解いた。
 穂先の雪が、玄関のたたきに小さく落ちる。
 白が消えていく。
 だが、白で勝った夜の白は、しばらく胸に残る。
 胸の白は、梅の酸っぱさと一緒に、喉を通っていった。

 夜半、雪音はさらに小さくなる。
 布団の中で、蓮は目を閉じ、欄干の角度を指先でなぞるように思い返した。
 欄干は高すぎず、低すぎず、二歩で踏める。
 橋は渡るためにあり、縋るためにもあり、押すためにもあった。
 そして、退くためにも。
 眠りに落ちる前、蓮は薄く笑って、胸の中でだけ同じ言葉を繰り返した。
 ——息が見える。今だ、俺が押す。
 雪の白が、瞼の裏で静かにほどけ、黒に紛れていった。