影双譚(かげふたつたん)

 壬生寺の朝は、鐘の余韻がいつも長い。薄い靄の層を揺らしながら、音の縁だけが境内の砂を静かに震わせる。
 静は井戸の縁に腰をかけ、桶から柄杓で水を掬い、掌に落とした。冷たさは控えめで、昨夜の湿りをまだ残している。掌を一度こすり合わせて、指先の皮の具合を見る。
 ——今日は「風」を読む。
 兄がそう言ったのは、夜明け前、咳の合間だった。

 総司は庫裏の畳に薄い布団を敷き、上体を半分だけ起こしていた。咳は軽くして、鋭かった。咳の音にも人格があるのだと気づかされるような、こまやかな鋭さ。
 蓮は廊の柱に寄り、槍袋を背にあずけて欠伸を噛み殺す。
「総司さん、無理すんなよ。声に力が乗ってねえ」
 総司は笑って、手を振った。
「無理はしません。風に働いてもらいます。二人には、風の稽古を」
 静は座を正し、軽く頭を下げた。
「兄上、承ります。……本日の『風』は、どちらの方角から?」
「まず、耳。次に袖。最後に、迷い」

 小庭に葦が植えてあった。境内の隅にある池は浅く、雨の後で水が澄むと、泥底の模様が鱗のように見えた。池の縁には短い竹が並び、その向こうに葦の穂。
 総司は床几に腰を下ろし、団扇を膝に置く。足元に咳払いが落ちた。
「静。あの葦の穂に、刀を当てず、風だけで触れてごらんなさい。——切るのではない。揺らすのです」
 蓮が横で口を尖らせる。
「刀で風を作るってことか。やれるか?」
「やらねば、困りますねえ」
 静はひょうひょうと肩をすくめ、鞘口へ指を添える。鯉口は切らない。刃は出さず、鞘のまま歩み出た。
 風は、朝の庭を薄く流れてゆく。柱の影から影へ、土の上から草の上へ、見えない水が移るように。
 静は息を半分、胸に残した。吸い切らず、吐き切らず。喉の奥に薄い余白を用意しておく。
 足を一足半。
 右の踵を砂に触れさせ、左のつま先を葦の向きに合わせる。
 鞘を水平に保ち、腰のひねりで空気を押し、「押した痕跡」を刃先が通るべき線に合わせる。
 葦の穂先が、かすかに震えた。
 静は止まらず、二の手、三の手と「空を撫でる」。鞘の端が空気の薄い層を捉え、流し、置き、回収する。
 風が、葦の髪を梳くように通り抜け、穂は切られずに、しかし確かに「応えた」。

 蓮が鼻で笑った。
「へえ、やるじゃねえか。見てるだけだと何もしてねえように見えるのに、穂だけがしゃんと挨拶してる」
 総司が咳を堪え、掌で胸を押さえながら頷く。
「風は、相手に運んでもらうのが早い。静、お前の鞘は『流れ』を邪魔しなかった。蓮——君はどうする?」
「俺か。長物は風を割るもんだが……」
 蓮は袋から柄を抜き、まずは継手を外さず、長いまま構えた。
 穂先を低く、石突をわずかに上げる。
 静は一歩下がり、彼の右側に風の出口を用意する。
 蓮の槍が、空を《縫った》。
 穂先は葦を避け、二寸手前で留まり、その直前の空気だけが押し流される。その通り道に、静が先ほど置いた「薄い痕跡」が残っていた。
 穂先は痕跡に乗り、葦は二度まばたきして、三度目に細くうなずく。
 総司の眼が笑った。
「二人だと、なおよい。風の入口と出口を間違えなければ、刃はいらない」

 境内の端、木陰から年配の僧が茶を運んできた。器の口に、白い湯気が簾のように揺れる。
「旦那方、喉を湿らせなされ。朝の風は乾きますけえ」
 総司が深く礼をした。
「お手を煩わせました」
 その礼は、病の重みでかすかに揺れる礼だったが、姿勢は崩れなかった。
 静は茶を受け、蓮へ手渡した。
「蓮、熱いのでお気をつけて」
「おう。——総司さん、咳、今日は軽い方か?」
「軽い日は、風を使い、重い日は、黙って風を待つのです」
 総司のゆるい冗談に、蓮が口角だけで笑った。笑いは短く、目の底の心配は消えない。
 静もまた、その心配を正面からは握らない。握りしめると、掌に熱がこもり、風が止まる。

 稽古は段を変えた。
 総司は団扇で自分の袖を一度だけ叩き、その音で合図した。
「次は『影』を踏む。静、お前は私の影に乗り、蓮は影を外へ誘い出す。刃は抜かず、打撃もなし」
 静は眼を細める。
 午前の光は薄く、影はまだ背の方へ短く落ちている。兄の影は、柱の影と重なり、形を定めない。
 ——影に「形」がないなら、風で形を与える。
 静は廊の端に立ち、指先を胸の高さに上げ、軽く円を描く。衣の裾が空を撫で、香の残り香がわずかに揺れた。
 総司は団扇を膝に、袖を少しだけ動かす。呼吸の長さが変わった。
 静はその「息の端」に、足を置いた。
 影は逃げる。
 逃がすのは蓮だ。
 蓮は槍を畳み、柄を二つにし、棒の一本を縁側に置く。
 棒は目印であり、風の堰でもある。
 総司の影が棒の手前で輪郭を得た瞬間、静は足袋の先で影の縁を踏んだ。踏むと言っても、砂を押さえた程度だ。影は砂ではない。だが、人は自分の影を視野のどこかに置いている。
 総司の肩が、ほんの僅かに沈む。
 そこを蓮が、棒の端を持ち上げて「道」を空へ返す。
 影が伸び直る。
 総司の目が笑って、団扇が小さく鳴った。
「上等。——影は形ではなく、心の置き場だ。置き場をいじれば、風は表情を変える」

 総司はそこで咳をひとつ、深くして、きっぱりと止めた。
 静の胸の奥で、焦りのような熱がこめかみへ上がる。
 この朝の稽古は、兄の咳の許す範囲で編まれている。
 それを静は知っている。
 だからこそ、稽古は「無血」でなければならない。
 刃の話をしながら、刃に触れずに終えること。
 それが今日の勝ち筋だ。

 次の段は、紙を使った。
 総司は懐から細長い紙片を取り出し、柱の釘にかける。風鈴の短冊のように、白い紙が朝の風を拾う。
「これは笛の代わりです。拍を作る。——静、紙の『止む』瞬間に、空を切ってください。紙に触れないこと」
「承りました」
 蓮が囁く。
「静、俺は紙の下で空気を押す。見えない手でな」
「お願いします」
 紙は、庭の風に合わせて薄く揺れ続ける。
 揺れ続けるものには、止まる瞬間がある。
 静は呼吸の底に耳を置き、紙の揺れに目を置く。
 揺れの振幅が減衰し、上下の頂点が近づき、止まる「前」が現れる。
 刀はまだ鞘の中。
 鯉口は切らない。
 鞘の先で空気だけを撫でる。
 紙は触れられずに、しかし「撫でられた」ようにわずかな後れを見せ、次の拍を待った。
 総司は団扇で自分の胸を一度軽く叩き、独り言のように言う。
「静の『似ている』は、こういうところだな」
 静の頬に、見えない熱が差す。
 似ていることは利でもあり、負でもある。
 兄の影を武器に使う夜もあれば、影に躓く朝もある。

 蓮は紙の下から、空気を押した。
 棒の端で地面を撫で、すぐに引く。
 押すと言っても、触れない。
 空気の密度が紙の下で微かに厚くなり、紙は「重くなったふり」をする。
 静はそこで一拍、呼吸を遅らせ、鞘の端で上昇気流の縁だけを掬った。
 紙は、それでも切れなかった。
 総司が、眼を細める。
「——よし。次で終いにしましょう。葦の穂を、今度は『刃』で。だが、穂は切らない。風圧だけで、揺らす」

 静はようやく、鯉口に親指をかけた。
 刀の重さは、もう知っている重さだ。
 鞘を押し出し、刃が朝の光に薄く滲む。
 蓮が一歩、横に回り、槍の柄の半分を静の背面の空気に置く。
 背中の空気の形が、わずかに「斜め」になる。
 その斜めは、前の空気に「傾き」を伝える。
 静は腰を回し、刃先を穂の手前で止め、「止めた」刃の周りの空気だけを前へ押す。
 葦の穂が、刃の脅しに応じるようにふるりと震え、しかし切り口は生まれない。
 穂の細い毛が、朝日にわずかな虹をつくった。
 総司は団扇を下ろし、深い呼吸で言う。
「形は似ている。だが、風は各々の背に別々に吹く。静、そのまま覚えておきなさい」

 静は刀を静かに納めた。音を立てない。それは兄の教えであり、自分の流儀でもあった。
 納刀の瞬間、喉の奥が熱くなる。
 「似ている」と言われる度、心のどこかで何かが撓む。
 それは誇りと恐れの綱引きだ。
 ——似ていることに甘えたくない。
 ——似ていることに救われている。
 矛盾した二つの糸が、時々、喉で絡まる。

 稽古を打ち止めにし、三人で鐘楼の影に座った。
 僧が再び茶を持ってきて、今度は梅干を添えた。
「朝の梅は身の毒を出すと申しますけん。どうぞ」
 蓮がありがとうと受け取り、くしゃりと顔をしかめて梅を噛む。
「すっぱ。——総司さん、今日の『風』は、どこまでが稽古で、どこからが戦(いくさ)なんだ?」
「全部が稽古で、全部が戦です」
 総司は穏やかに笑った。
「戦場でも、風は吹きます。逃げる者の背に、追う者の顔に。刀は風を意識しないと、たちまち手の内が濁る。——静、蓮。あなたたちの『連携』は風で繋がっている。言葉より、速い」
 蓮が槍の袋を背に押しつけ、空を見た。
「俺のは形、静のは間、総司さんは風。三つ合わさりゃ、だいたい負けないな」
「だいたい、では困ります」
 静が笑って返すと、蓮は肩で笑い返した。
「お前のそういうとこ、好きだぜ。困らせ方が上品で」
「それは褒め言葉として受け取っておきましょう」

 総司の咳が、そこで少しだけ深くなった。
 静は茶碗を置き、何も言わずに背筋を伸ばす。
 風は、時に呼吸の音を運ぶ。
 今朝の風は、咳の音を軽く包み、寺の屋根の向こうへ流していった。
 「大丈夫」と兄が言う時、静はいつも二つ頷く。言葉に対してひとつ、言葉の奥に対してひとつ。
 今日は、前者の頷きが少し長くなった。

 そこへ、門前から駆け足の音。若い隊士が息を切って現れた。
「報告ッ……! 油小路で揉め事、町人と浪人の小競り合いが大きくなりそうで……!」
 蓮が立ち上がり、袋の口を確かめる。
「行くか」
 静は横目で総司を見た。
 総司はゆっくりと首を横に振る。
「私はここで風を見ています。二人で行きなさい。——血の匂いを濃くしない手で」
「承知」
 静は即座に答え、蓮と目を合わせた。
「蓮、長さは要りません。『畳む』準備を」
「分かってる。今日は『押す』だろ」
「ええ。押して、困らせて、退かせる」

 油小路までの道は、朝の市の支度で人が行き来する。匂いは魚、味噌、湿った藁、馬。
 揉め事の現場は、桶屋の角。桶を蹴って転がしたのか、丸い輪が四散していた。浪人が二人、町人が五六人、どちらも血の匂いはまだ薄い。
 静は足を止め、空を見、風の向きと人の向きを合わせる。
 蓮が穂の根を握り、継手に指をかける。
 槍は、わずかに低く構えられた。

「新選組だ」
 静は声を張らない。だが、通した。
「刀は納めてください。——息を、二拍」
 浪人の片方が鼻で笑い、鞘に手をかける。
 静はその手を見ない。見たら、手を相手にすることになる。
 静は浪人の「影」を見た。
 朝の影は短い。だが、影は常に「どこか」に映っている。
 静は影の縁を踏まず、ただ近くに「居て」やった。
 蓮はその間に、槍の石突で桶の輪をそっと押した。
 輪が少し転がって、人の足元を迷わせる。
 「迷い」は、風の入口だ。
 浪人の肩の力が半分抜けた瞬間、静は鞘の端で空気を押し、声で風を作った。
「朝の喧嘩は、昼の米になりません。——退いてください」
 町人たちの方へ目だけを走らせ、軽く、しかし確かな頷き。
 彼らは、頷きを頷きで返す。
 蓮は槍を畳み、柄を二つにし、一本を腰に、一本を手へ。
 浪人の歩幅が狭くなる。
 狭くなった歩幅の中に、静は「間」を置く。
 鞘を持つ左の手首を、ほんの僅かに外へ返す。
 それだけで、浪人は近づけない。
 近づけない、という事実が、浪人の中の風を濁す。
 蓮は棒で地面を撫でた。
 砂が薄く立ち、浪人の脛の感覚を曇らせる。
 ——ここで、押す。
 静は鞘先で空を押し、蓮は棒で肩甲骨の間の空気を押した。
 浪人たちは、押されたことに気づかないまま、半歩ずつ退いた。
 町人たちは、押されたことに気づかないまま、半歩ずつ、左右へ開いた。
 道が開く。
 風が通る。
 揉め事は、風の通り道から外へ弾かれる。
 「退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術」——蓮が小さく笑って、心の中で言った台詞を、静は耳で拾った気がした。

 浪人たちは剣を抜かずに去り、町人は桶の輪を拾い集め、朝の匂いが戻る。
 静は蓮を見、蓮は静を見返す。
 言葉はいらない。
 風は、まだ背中にいた。
 壬生寺へ戻る道すがら、蓮がぽつりと言った。
「静。……総司さん、今日はどうだ」
「良い風でした。稽古の分だけ、長くなる風です」
「なら、いい」
 蓮の声は短かったが、短い声の中に、さっきの梅干の酸味のような安堵が混ざっていた。

 寺に戻ると、総司は縁側で外を見ていた。
 風鈴のない縁先に、風だけが鳴っている。
 静と蓮が座に戻ると、総司は団扇で一度だけ膝を叩く。
「お帰り。——どうでした?」
「退がりました。刃は要りませんでした」
「よろしい」
 総司は微笑んで、咳を一つ、浅く。
「静」
「はい」
「似ていることは、悪くない。だが、同じ風を背負おうとしてはだめだ。お前の背の風は、お前のものだ」
 静は、目を閉じ、開いた。
「……ええ。剣は似ていても、背負う風は別物ですね」
 その言葉は、静の中でやっと形になった。
 兄の言葉の陰影と、蓮の気配と、朝の葦の虹と、油小路の砂の照りが、一つの線で結ばれる感覚。
 総司は満足そうに目を細め、団扇を伏せた。
「今日の稽古はここまで。——蓮、昼は何にします?」
「腹に風が通ったから、重いのでもいける。けど、総司さんに合わせる」
「では、粥に梅。少しだけ、焼き物を」
 僧が笑いながら「承知」と答え、奥へ引っ込む。

 昼餉の後、静はひとり池の縁に立った。
 葦の穂が、先ほど撫でた風の癖を、まだかすかに身に残している。
 静は鞘に手を置き、深く呼吸をした。
 似ている顔、似ている手の内、似ている歩幅。
 だが、背中の風は別だ。
 兄の背に吹く風は、花の香に似て、今は少しだけ薬の匂いが混じる。
 自分の背に吹く風は、影の温度に似て、時々、灯の熱をひっそりと盗む。
 蓮の背の風は、土と油の匂いで、そこに笑いが混じる。
 三つの風が、同じ方角へ向かう時、たぶん自分たちは負けない。
 だが、風の方角が違う日にも、歩けるようにならなければならない。

 静は池に身を映し、微笑んだ。
 映った顔は兄に似ている。
 けれど、その肩にかかる影は、自分だけの影だった。
 風が、葦の穂を一度だけ撫でた。
 静は軽く礼をし、踵を返す。
 背に、寺の鐘の気配。
 午後の風は、午前よりも少しだけ厚い。
 厚い風は、声をよく運ぶ。
 静はその風に、心の中でひとこと載せた。
 ——生きて、困ってもらいましょう。
 刃は鞘に、気は風に、迷いは影に。
 彼は、兄の影を踏まない歩幅で、縁側へ戻っていった。