影双譚(かげふたつたん)

 祇園囃子の夜は、音が盾になる。鉦の冴えた一打、太鼓の胴が空気を押し出す拍、笛の高い尾——それらが路地という路地へ薄膜のように張りついて、踏み替えの音も、呼吸の乱れも、だいたい紛れてしまう。
 矢野蓮は、その膜の厚みを指先で確かめるように歩いた。柄袋を肩に担ぎ、祭の幟持ちに紛れ、笑えばただの若い衆にしか見えない。槍は袋に収まっているが、袋は目隠しでしかない。いつでも外せる。いつでも畳める。

 辻斬りは三夜で四件。いずれも町角、灯の笠の下、囃子の「間(ま)」で起きた。切り口は深くない。命を狙い切ってはいない。むしろ恐怖を置いていく傷。襟首を少し削ぐ、袖の内側を裂く、耳殻に浅く線を刻む。
 ——見せしめ、もしくは試し。
 蓮は初見でそう踏んだ。刀の冴えはそこそこ、手は早いが引き際が早すぎる。斬り殺す胆がない、あるいは、殺す必要がない。
 静は紙入れに挟んだ地図へ印を打ち、風を読むように言った。

「三つの角の“間”は、囃子の拍で計れます。太鼓の二拍目から笛が抜ける瞬間、灯の揺れが最小になります。その時に——“来る”。」

 蓮は頷いた。
「じゃあ、迎え討つ側は“形”で勝つ。狭いとこで長物を振る馬鹿はいねえ。俺が畳む」
「お願いします。私は“間”を繋ぎます。……蓮、くれぐれも斬らずに」
 静のひょうひょうとした声は穏やかだが、芯は鉄を思わせる。
「分かってる。生きて困らせる、だろ」

 宵の口、白川の細い流れが灯を千切りながら運ぶ。格子戸の奥、舞妓の笑い声が泡のように上がっては消え、屋台の団子が焼ける匂いに甘酒が混じる。
 囃子は近づき、また遠ざかる。太鼓の胴が一つ、二つと腹に来る。蓮はその二つ目の余韻で、肩の力を抜く。柄袋の口を左手でなぞり、浅く結わえた紐を爪で弾くと、袋は唇を開けた。

 狙いの角は三条の北、小さな社の前。鳥居の影が斜めに路地へのびて、片側は土塀、片側は軒。人の肩が触れ合わないように遠慮して流れるので、どうしても空白ができる。そこは刃が入る。
 静はひとつ手前の角に立ち、風下の囃子を聞いていた。何の気配も纏わない顔で、しかし目だけが灯と影の境目を拾っている。
 ——一拍。二拍。笛が抜ける。
 静が鞘口へ指を添えた。その小さな合図で、蓮は自分の呼吸を底へ落とす。

 最初に角を切ったのは、赤い襷を斜めにかけた魚屋の若造だった。素足に草履、桶の片方が空。帰り道。彼が鳥居の影を踏む——その正面から、影が溶け出す。
 白い手拭で口元を覆い、背は低いが足は早い。刀は脇差、抜き付けが鋭い。
 若造の袖が裂け、細い血が飛ぶ。悲鳴。
 ——早い。
 蓮は一歩で角へ入り、二歩目で柄袋を払い落とした。袋は風呂敷のように地面へ落ち、その中から黒漆の柄が立ち上がる。
 右手で中程を掴み、左手で石突を半握り——柄をひねる。
 乾いた“コリ”という手応えで継手が外れ、槍は二つに割れて手の中に収まる。
 穂首は刀身短く、刺突のための三角。石突は金具を噛ませれば、短い棍に変じる。刃と錘。押すと引く。

 路地は狭い。長いものを振る余地はない。
 蓮は穂首を逆手に持ち替え、脇差の円の内側へ“先に入る”。
 短い金属音が三つ。
 一つ目、穂先の側面で相手の刃を払い、二つ目、石突の輪で手首の筋を打ち、三つ目、足の甲に軽くかけてわずかに体勢を崩す。
 相手の目の奥が驚きで揺れる。
 ——槍なのに、近え。
 蓮は笑った。唇だけ。
「俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ」
 囃子の二拍目、笛が戻る。息が街へ返っていく。
 蓮は追い込まない。脇差の斬り上げを、短い回転で空へ送る。穂首で刃を受け、石突で手首を押し返し、肩と肩が触れるほどの距離で「殺さずに止める」。
 ——そこで、影がほどけた。
 襷の若造の悲鳴に人の流れが揺れ、見物客が道を空ける。斬り手はそれを風と読み、身を翻して塗塀と軒の間へ潜る。
 細い。屈まずには抜けられない。
 蓮が追えば、長物では詰む。
 蓮は一つ息を吐き、穂首と石突を、さらに短く“畳んだ”。
 穂首の根に小柄(こづか)が仕込んである。鯉口を切るように親指で押し出すと、寸の短い刃が掌に収まる。石突の金具は捻じれながらほどけ、内から棒状の鋼が現れる。
 右に刃、左に棒。拳の幅で振り切れる長さ。
 狭さはもはや弱点ではない。
 静が鳥居の影で首を傾け、淡く笑んだ。
「蓮、追い込みます。私は向こうへ回ります。……二拍で」
「任せろ」

 蓮は塗塀と軒の間へ潜り込み、腹這いで二軒分を滑る。地面は藁屑と砂でざらつく。上から桶の水がこぼれ、冷たさが背に線を引く。
 斬り手はその先の小庭で体勢を立て直そうとしていた。衣擦れの音が一度、鋭く止まる。
 蓮は立ち上がりざま、左の棒で相手の脇腹を横に押し、右の小刃で袖の内側——力の原点を、軽く裂く。血管ではない。衣の筋。
 斬り手の腕が、瞬間だけ空を掴む。
 そこを石突の金具の頭で叩いて、力の向きを“変える”。
 斬り手は庭石に肩をぶつけ、脇差を取り落としかける。
 ——追わない。
 蓮は一歩離れ、小刃を逆手から順手に持ち替え、相手の視野の端にだけ刃を置く。
 刃は見せ物ではない。視線を奪う旗だ。
 斬り手は目で刃を追い、足は出口へ向かう。
 出口の角に、静がいる。
 囃子の笛が一度消え、二拍で戻る。その「空白」に合わせて、静の鞘が軽く鳴った。
 カン、と乾いた一音。
 斬り手の足が止まる。鞘で膝の皿を打たれ、落ちるほどではないが、踏み出す勇気を失った。
 静がいつもの声で言う。
「こんばんは。お急ぎですね。……よろしければ、少しだけ、困ってください」
 斬り手は、逃げ道を目で探す。目は嘘をつく。足はもっと正直だ。
 蓮は背後から二歩で詰め、左の棒を肩甲骨の間に当てる。押さない。置く。
 置かれた重さは、逃げる計算を壊す。
 斬り手は唇を噛み、静を斜めに睨む。
「新選組、か」
「ええ。私は沖田静と申します。こちらは蓮。槍ですが、今は短いでしょう?」
 静の笑いは、風鈴に似ている。刺すほどではないが、一定の高さで鳴り続ける感じ。
 蓮は小刃を収め、棒を肩に担いだ。
「終いだ。脇差を拾うな。拾えば骨を折る。拾わなきゃ骨は折らない。選べ」
 斬り手の視線が、地面の鋼に落ちる。迷いの長さは、息の長さとだいたい同じだ。
 彼は拾わなかった。
 静がうなずき、鞘で脇差を遠くへ蹴る。
「では、まずはお話を。……どこで“試し”を習いました?」

 斬り手の肩が一度、強張った。
 それは答えへの道のりの長さを示す合図でもある。
 蓮は棒の頭で肩甲骨の間を軽く叩く。恐怖を増さない程度に、現実に留める程度に。
 彼は言葉を待つのが苦手ではない。槍は、待つ武器でもある。

 人の輪がいつの間にかできていた。見物の女たちが袖で口を隠し、男たちは遠巻きに「おいおい」と囁く。
 祭の夜は、見世物と責めが隣り合う。
 静は人垣に目をやり、穏やかに言った。
「怪我をされた方は向こうの水へ。誰か、手ぬぐいをお願いできますか」
 声は柔らかいが、通る。人の流れがすぐに生まれ、血の匂いが薄まる。
 蓮は斬り手の首筋の汗を見た。冷や汗だ。恐怖の汗は塩気が強く、焦りの汗はすぐ乾く。
 こいつは、焦っている。つまり、時間がある。上に誰かがいる。
「お前、単独じゃねえな」
 蓮が言うと、斬り手の喉がひとつ動いた。
 静が続ける。
「三夜で四件。灯の高さがそれぞれ違うのに、切っ先が灯の影を必ず踏んでいる。自分で灯の位置を変えたなら、あなたは道具持ち。——ですが、あなたの袖には油が少ない。灯を扱っていない」
 静の目は、光の方向を測っているのだろう。
 斬り手は沈黙した。
 蓮は棒を外し、代わりに穂首の小刃を軽く見せて、すぐに柄へ戻す。
 戻す手順は三つ。
 一、棒を逆に回して金具を噛ませる。
 二、穂首の根を柄へ落とし、継手の溝を合わせる。
 三、ひとひねり、音を立てずに締める。
 槍が“戻る”。
 長さが戻った瞬間、斬り手の目が小さく揺れた。
 ——今なら逃げられない。
 そう思わせるために、蓮は戻す。長さは威嚇でもある。
 囃子がふたたび近づいた。笛の尾が長く尾を引く。
 静がそれに合わせて、軽く首を振った。
「灯を動かしたのは、誰です?」

 斬り手は初めて、視線を落とした。地面の砂粒を見つめ、唇を舐め、言った。
「……提灯持ちだ。祇園の外れで臨時に雇われた連中。合図は笛」
「笛」
 静の目に、痛くもない光が走る。
「笛のどこで?」
「太鼓の二拍目で、笛が一度抜ける。そこで灯を滑らす」
 静は小さく笑った。
「ええ、そうでしょうね」
 蓮は肩で息をつき、棒を柄へ戻す途中で手を止めた。
 ——笛、か。
 笛の男はどこにでもいる。提灯持ちも、今夜はどこにでもいる。
 つまり、敵は「そこら中」にいる顔で紛れている。
 蓮は斬り手の襟を掴み、立たせた。
「歩け。笛の“間”で、俺たちの“間”は外さねえ」

 斬り手を挟んで三人で角を出る。人垣が勝手に割れ、誰かが走っていく。新選組の紋を見て、誰もがそれぞれに安心と不安を半分ずつ顔へ載せる。
 白川の橋の手前、提灯が四つ、等間隔で流れてくる夜の川のように並んでいた。持ち手は皆、祭の助っ人の着流し。帯に笛を差している者が二人。
 ——どれだ。
 蓮は目で数え、耳で拾い、足で「間」を測った。
 太鼓の一拍目。二拍目。
 笛が抜ける。
 灯がわずかに滑った。
 滑り幅は半尺。灯の揺れはほんのわずか。けれど、そこに刃の影が入る余地はできる。
 静が、その滑りの“出口”へ一歩を置いた。
 蓮は“入口”へ一歩を置いた。
 二人の間に、斬り手の視線が挟まる。
 笛の男は、抜け目を悟るほど馬鹿ではない。むしろ、賢いのだろう。
 彼は笛を吹いた。
 抜けた先を、すぐに埋める笛。
 囃子は止まらない。
 灯も止まらない。
 止まらなければ、切れ目は見えない——はず、だった。

「笛が止まらないなら、こっちの手を止めよう」
 蓮は囁き、柄の中程を握った。
 槍を“畳まない”。
 代わりに、槍を“寝かせる”。
 地面と平行に、穂先を低く、石突を高く。
 槍は、その姿で道具から“障子”に変わる。
 提灯の列の前に、すうっと横たわる光を遮る線。
 笛の男の目が、一瞬だけその線に吸い寄せられた。
 その一瞬で、静が提灯の足元の縄を足袋で踏む。
 灯が倒れず、しかし動けない“縛り”が生まれる。
 笛の男は笛を止めざるを得ず、息が宙吊りになった。
 ——間が、できた。
 蓮はその間へ穂先を滑らせ、笛の男の帯に挟まれた細い刃物——切り出し小刀を、帯ごと外へ弾き飛ばした。
 金属が石畳に跳ねる乾いた音。
 男の眼が、最初に恐怖で、次に怒りで、最後に諦めで変わる。
「……見てやがったのか」
「見えないもんか。俺の槍は目の高さまで上がらねえが、目線は槍より先に届く」
 蓮は肩で笑い、槍を立てる。
 静は提灯の縄から足を外し、男の前へ出た。
「笛の“止め”を、あなたが持っていたのですね。……帳場はどこです?」

 男は首を振った。三度。
 蓮は石突を地面に軽く打った。
 音は小さいが、祭の喧騒でも骨の中に届く。
 男は目を閉じ、深く息を吐いた。
「油小路のはずれ、材木問屋の裏手。蔵の中に“貼り図”がある。角の灯の高さと、囃子の通り道と、辻の人足の流れが描いてある」
 静が細く息を吸い、目を伏せ、すぐに開いた。
「行きましょう」
 蓮は槍を肩に担ぎ直し、足を半歩広げた。
 “行きましょう”の前の半歩には、だいたい面倒が詰まっている。
 だが、それでいい。槍は面倒を運ぶ道具でもある。

 油小路。材木問屋。裏手の蔵は、大きな板戸に“常の鍵”がかけられている。常の鍵は常の破り方がある。
 静が鍵の鉄を鞘で叩いて、蓮が隙間へ薄い鋼を滑らせる。
 板戸は息を吐くように開いた。
 蔵の中は樹脂の匂い、乾いた木口の匂い、墨の匂いが混じる。
 壁に貼られた紙には、祇園の町筋が綿密に描かれ、灯の高さに赤い印、囃子の通り道に青い線、人足の流れに墨の薄い斜線。
 静は紙に近づき、指で青い線の途中をなぞった。
「ここで笛が“休む”。太鼓の二拍目。……やはり、拍で“間”を作っている」
 蓮は赤い印の間隔を測り、柄の長さを当ててみる。
 半尺の差で、人の肩と肩の隙間が生き物のように動く。
 図は悪くない。よくできている。だからこそ、腹が立つ。
 人を図で扱い、恐怖を点で置く。
 蓮は槍の柄で、紙の端を軽く叩いた。
「頭はどこだ」
 笛の男が、蔵口に縛られて座っている。斬り手も隣に。
 彼は目で合図を送った。蔵の奥の、板の切れ目。
 静が頷き、板の継ぎ目へ鞘先を滑らせる。
 ——そこに、息がある。
 静は息を読める。蓮は息をぶつけられる。

 板がわずかに内側へ引いた。
 隠し戸。
 刹那、細い刃が戸の隙間から飛んだ。
 蓮は石突で打った。
 火花のように響く金属音。刃は蔵の床で弾み、板の脚へ刺さって止まる。
 戸が全開になり、黒衣の男が飛び出した。
 背が高い。足が長い。刀は持たない。手に糸巻きのようなものが見えた。
 ——糸。
 糸で、灯を操る。
 蓮は槍を立てる隙がないのを一瞬で理解し、即座に“畳んだ”。
 継手を外す。
 穂首を逆手、石突を順手。
 男の腕の糸が光を拾って線になる。
 それを棒で払う。糸は強いが、張った瞬間は弱い。
 払う角度は、斜め下。糸の張力が逃げる角度。
 男の顔に驚きが走り、体勢が前に倒れる。
 そこへ穂首の側面で顎を打つ。
 骨の音はしない。皮膚の下の筋が鳴る感触だけが指に伝わる。
 男はよろめき、背を木箱にあずけた。
 糸巻きが床で転がり、細い線が朝靄の蜘蛛の巣のように広がる。
 静が踏み越え、糸を足袋で止めた。
「灯を動かす道具、でしょうか」
「だな。……こいつ、殺す気は最初からねえ」
 蓮は言い、一瞬だけ肩の力を抜いた。
 男の目は、恐怖ではなく、細い悔しさで濡れている。それは、計算を壊された人間の目だ。
 静は軽く頭を下げた。
「生きて、困ってください。帳面と道具はこちらでお預かりします」

 捕縄を持った隊士が二人、蔵口に現れた。
 静は二人に手早く指示を飛ばし、男たちは迷いなく従う。
 蓮は槍を“戻す”。
 一、棒を噛ませ、
 二、穂首を落とし、
 三、ひとひねり。
 音は立たない。夜は、音を許さない。
 槍は、長い姿へ戻った。
 長い姿へ戻ると、肩の位置が定まる。
 肩の位置が定まれば、心臓の高さが定まる。
 心臓の高さが定まれば、“届く”距離が分かる。
 蓮は穂先を床に落とさないよう持ち替え、肩で笑った。
「面倒はだいたい片づいたな」
「ええ。——囃子も、そろそろ終いです」

 蔵を出ると、祇園囃子の尾が夜空へ薄まっていた。太鼓は小さく、笛は遠い。
 路地の向こう、白川に掛かる灯が、いくつか消え、いくつか残る。
 捕らえられた斬り手と笛の男、それから糸の男。三人はそれぞれに違う足取りで歩き、同じ縄で繋がれている。
 人は違うのに、結果は同じ。
 蓮はそれを少し、やりきれない気持ちで見送った。
 静が隣に並んだ。
「蓮。……“畳む”のは、やはり早いですね」
「柄は、長さじゃねえ。長さは飾りだ。大事なのは、届く心臓があるかどうか」
 静が笑う。
「さきほども、似たことを」
「言ったさ。聞こえてただろ」
「ええ。とても、頼もしかったです」

 蓮は頭の後ろで手を組み、空を見た。
 薄い雲が囃子の音を吸い込んで、上へ運んでいく。
 祭は、すぐに終わる。終わったあとが、町の本当の顔だ。
「静」
「はい」
「俺は長い槍を持ってるけどよ、同じだけ短いものも持ってる。今日、少し分かった」
「何でしょう」
「短いものは、相手の中に持っていくもんだ。外へ見せるもんじゃない」
 静は肩をすくめる。
「哲学ですね。では私の番を。……“間”は、私たちの外にあるようで、案外、内側にもあります」
「内側?」
「ええ。呼吸の端、迷いの端、良心の端。相手の内側の“間”に、蓮は届きました。だから斬らずに止められた」
「持ち上げるのがうまいな、お前は」
「事実を述べただけです」
 ひょうひょうとした声に、蓮は鼻を鳴らした。

 町筋を壬生へ向かう道すがら、提灯の灯りが一つ、また一つと消えた。
 静は歩幅を半歩伸ばし、蓮は半歩詰める。
 歩幅が合うと、会話がいらなくなる。
 会話がいらなくなると、祭の余韻がよく聞こえる。
 太鼓の胴の最後の一打。笛の最後の長音。鉦の最後の揺れ。
 夜に溶けていくものは、だいたい美しい。

 壬生寺の前で、蓮は柄袋の口を結び直した。
 結び目は浅く、次に開けるときのために、指一本でほどけるように。
 静が横目で見て、言った。
「明日は雨でしょうか」
「どうだかな。風は湿ってる」
「では、稽古は“風を読む”でしょう。兄が好きな」
「総司さんは、ほんと、風で何でも測るからな」
「ええ。私は“間”で測り、蓮は“形”で測る。兄は“風”で測る。三つあれば、だいたい世界は足ります」
「足りないのは?」
「酒です」
 蓮は笑った。
「じゃあ奢れよ。さっき俺が言っただろ。面倒を運ぶのが俺の仕事だって」
「ええ、承知しました。面倒代として、一合」
「少なっ」
「では二合」
「最初からそう言え」

 門前の灯が、風で一度だけ揺れた。
 蓮はその揺れを目で追い、柄を肩に担ぎ直した。
 長いものは、時に邪魔だ。
 だが、長いものを畳めるなら、長いものは選択肢になる。
 選べる武器は、選べる未来に似ている。
 彼は歩き、静も歩く。
 夜は厚く、しかし軽い。
 祇園囃子の余韻が、まだどこかで鳴っている。
 その「間」の中を、二つの影が、同じ速さで帰っていった。