影双譚(かげふたつたん)

 箱館は、風が灯を抱く町だった。海が夜ごと黒い書物のように開き、波の白い行がときどき風でめくれる。波止場の先には、風灯──行灯に風よけの枠をつけたもの──が一定の間隔で置かれ、煤けた障子越しに揺れる火が、氷の縁と縄の毛羽を薄く金に染める。北の港は、潮の匂いと鰊の脂と煤の甘さで息をしている。遠くには函館山が背を丸め、空は低い。噂は、その低い空にくさびのように打ち込まれた。「降伏勧告の使者が、今夜、暗殺される」──誰が流したか分からぬ噂が、雪解け水のように町筋の溝を静かに下る。

 総司は病の床にあるはず、と町の誰もが知っている。だが、来港の噂が先に立った。彼が来るらしい、いや影だけ来るらしい、いや影が来るという噂だけが先に歩くのだという──噂の裾は、風に翻った。静はその裾を指でおさえ、風灯の高さと向きを、昼のうちに幾つも試した。灯が低ければ影が長い。灯が高ければ影は足もとに縮む。高欄も壁もない波止場の空で、影は唯一の壁になる。壁には扉が要る。扉を開け閉めするのは、拍だ。拍は、こちらの息。

 蓮は岸壁の木杭の間に十字槍を寝かせ、横木を帯でゆるく締め、石突に海水を含ませた麻縄を巻いた。湿りは摩擦の味だ。追いすがる足がその横木に気づけば、膝は横へわずかに流れる。流れながらも退ける道は残す。背を見せぬ「退きの道」。退くとは、向きを変えて進むことだ。背を見せず、灯の面を見たまま、別の道に移る。槍は斬らぬまま、道の骨だけを支える。

 港役所の裏手、古い倉が交渉の場所にあてられた。風を避けるには壁が必要だが、壁は耳にもなる。倉の板壁は、風の拍で鳴く。それがこちらの合図にもなる。静は風灯を二つ、倉の脇に異なる高さで結わえ、倉の中から障子の紙越しに影の長さを測った。影は語る。誰の肩が落ち、誰の踵が返るか、どこまでが人で、どこからが噂か。影ほど、噂に似たものはない。噂は人でなしに歩く。影もまた、人でなしに歩く。

 「総司殿の影を通す」と静は口にした。総司はここにはいない。だが、影は来る。影は灯の高さと、歩幅で作れる。団扇の骨で膝を軽く叩く拍に合わせ、倉の壁に映る肩の落ちを、静が借りる。彼女は足指で板目を噛み、総司のいつもの歩幅を「白砂のない板の上」に置き換えた。病の総司が北の果てまで来られる道理はない。だが、影は来る。来る、という噂の方が先に着き、影は後から追いつく。順番を逆にするのが今夜の段取りだ。

 来たのは使者ばかりではない。港に居附(いす)く外国の貿易商の手先、旧幕の残党を気取る若い剣客、そして、条文で首を締めることを生業にする商人顔の男。どれもが夜の港の冷えに肩をすくめ、風灯の光を横目で測る。「灯の高さで、人を選ぶ」と彼らは思っている。灯が高ければ御前、低ければ下役。だが、今夜は逆だ。灯が高いところに静が立ち、低いところに「総司の影」を通す。入れ替わりは告げない。告げず、風で押す。

 倉に入る前、蓮は槍を一度だけ縦に立て、石突で板舗装の薄い隙を軽く押した。押せば、板は覚える。覚えた板は、音をひとつ飲み、もうひとつ返す。返す音は、蓮には道の温度だ。温い道へ退く。冷たい道へ誘う。退くと見せて進む。進むと見せて退く。槍は横に寝ているのに、道は縦に通る。通すのは、拍を持つ者の足だけ。

 交渉の「書き台」は倉の中央に置かれ、上には契約書の下書きが載せられた。紙は厚手の雁皮、表は滑り、裏は粗い。裏の粗さに風が引っかかって唸る。条文は長い。負けの印であるはずの「降伏」という言葉はない。「受諾」「便宜」「保護」「税率」「出入り口」。角が丸く、毒が遠い。毒は条文の中に隠される。隠された毒を刃で探すのは稚い。紙に毒が潜むなら、紙で毒を抜く。白梅の薬湯で毒を割った夜を思い出し、静は紙の「目」を指の腹で探った。

 風灯が鳴る。外の波止場で、風が一度だけ向きを変えた。蓮が横木の端をわずかに起こし、退きの道の角度を変える。総司の「影」は、倉の障子に射す高さを変えた。団扇の骨で欄間の枠を軽く叩き、骨の隙から風を通して火の背伸びを一瞬だけ許す。影が伸びる。伸びると、誰も彼もが「総司が来ている」と信じたがる。信じたところで、彼は病の床。噂だけが歩く。影だけが礼をする。礼の角度は静が担う。肩の落ちは総司の借りもの。借り物を本物のように返すのが今夜の芸だ。

 交渉の席に、取次ぎの町年寄が座り、外商の通詞が端に立つ。旧幕の武士風の男は、帯刀こそしていないが、視線の先に刃を仕込んでいる。使者は、厚い外套の襟を立てたまま、文言に目を落とす。目は疲れている。疲れた目には、灯の高さが効く。静は風灯の脚を一寸、また一寸と上げ下ろしした。上げれば影が縮む。縮んだ影は、人の背丈を奪う。下げれば影が伸びる。伸びれば、肩が落ちて見える。どちらも、総司の「影」に似る。似せて、混ぜる。混ぜて、曖昧にする。

 条文は進む。《港湾施設の共同保全》《米穀と塩の輸送税》《出船帰船の順列》《夜間の船灯(ランプ)》。紙の上の語は、刃ではない。刃でないからこそ、深い傷をつくる。静は条文の行間に息を入れ、紙の目に沿って指を滑らせた。風灯の影が紙に落ちる角度を見定め、影の濃さの山と谷で、文の意味を「一時的」に変える。影の縁は、字の骨を折らない。読めるまま、異なる読みを生む。読みが二つになれば、契約は遅れる。遅れることが、今夜の勝ちだ。

 総司の影は、倉の奥の壁で二つに割れた。ひとつは障子の布目に沿って細く揺れ、もうひとつは板壁の節で丸みを帯びた。静は歩幅を「総司」に合わせ、肩の落ちと踵の返りを借り、半拍だけ違えた。違えた瞬間、影は「ふたり」になり、「ひとり」にまた戻る。見張る若い剣客の眼は、それを追って疲れた。「今、どちらがどちらか」を問い始めた眼は、刃物の眼ではなくなる。刃なら、迷ってはいけない。迷った刃は、夜の港で最も弱い。

 蓮は外で、槍の横木を別の杭へ移し、退路の「絵図」を描き直す。押すのではなく、撫でる。撫でた道は、人の足の裏にだけわかる。「こちら」「まだ」「この高さ」。槍は行灯の脚にも化け、海鼠壁の陰にも化ける。横木を倉の敷居の下でほんの少し浮かせ、板の呼吸を邪魔しないようにしておく。退きの道が息をしている限り、背は見せない。背を見ない相手は、刃を抜かない。抜かねば、夜は紙で終われる。

 使者の袖が紙の端に触れ、雁皮が柔らかく鳴いた。鳴りは短い。静はその短さを拾い、「この行は読む気がない」と知る。読む気のない場所に毒がある。毒は、目に映らない。目に映らないように書かれている。たとえば、《徴発の権》。美しい字で、短く。だが、その四字には「夜間」「任意」「緊急」の背がついている。背を影で隠す。隠された背は、明日以降の誰かの背中を掴む。

 総司は病の影を自分で背負っている。影が倉に先に着いたのは、彼の歩幅が紙の上を歩けるほど軽くなってしまったからかもしれない。咳は、海の音に似ている。喉の奥で小さく波を返し、岸壁の木杭に石突が触れる「コツ」を待つ。蓮が合図で「コツ」を送る。静は、その「コツ」に合わせ、団扇の骨を膝に一度だけ当てる。音は出ない。骨の冷たさだけが、膝の皿で拍になる。拍は、風灯の灯心に伝わり、火はほんの一筋、背伸びをする。影が伸びる。伸びた影が、条文の「徴発」の一画を暗くした。暗くなった画は、今夜は読まれない。読まれないものは、生き延びる。

 外商の男が扇で顎を撫で、「夜間灯火管理」の条で有利を取りにくる。港の灯(ランプ)の高さ、色、数。風灯は行灯の親戚であり、夜の港の目だ。目の高さを取れば、港の背丈を奪える。静はそこで笑った。紙で笑う。笑いは字の間でしか見えない。彼女は「行灯」を「風灯」に書き換え、「風」を総司の影で囲った。「風灯」と書けば、灯は風に従う。風に従う灯の数を数えるのは、風ではなく、こちらだ。風が吹けば灯の高さは変わる。変われば、影は長さを変え、「誰が誰か」が曖昧になる。曖昧な夜には、刃は植わらない。

 旧幕の若侍風の男が、条文の端に指を置いた。その爪は白く、紙の上で小さな音を立てた。「責の所在」という字が、その爪の白で一瞬だけ浮く。静は指先で紙の裏の粗さを撫でた。撫でられた裏は、風を呼ぶ。呼ばれた風が風灯を揺らし、影は男の指の白だけを切り、紙の黒へ落とす。黒は吸う。吸った白は、爪の自信を奪う。自信を奪われた爪は、紙の上で迷う。迷った爪は、武家の爪ではない。

 取次ぎの町年寄が咳払いをひとつ。倉の板が低く返事をした。時間の節だ。節を越える前に、紙に穴をあける。穴といっても刃ではない。風灯の火を使うのでもない。紙の「目」をずらす。雁皮は、湿りに敏い。静は懐から薄い紙を一枚取り出し、契約書の下にそっと差し込んだ。薄い紙は、三椏に楮をひと匙混ぜたもの。表は滑り、裏は吸う。その吸いに、風灯の暖かさが囁くと、紙の目は一箇所だけふやける。ふやけた目は、光を別の方向へ漏らす。漏れた光が条文の「権」の中の「又」の点ひとつを柔らかく消した。消えたものは、生き物だ。点がない「権」は、「券」に似る。券は、道を軽くする。権は、道を重くする。今夜に限って、軽い方がいい。

 総司の影が、障子の桟に一度だけ引っかかった。引っかかりは、入れ替わりの合図だ。静が灯の高低を逆にし、倉の外へ歩いた。その足は、総司の歩幅の借り物。倉の中の影は、総司に見せかけ、倉の外の人は、静である。「どちらがどちらか」を最果ての夜が飲み込み、波の音が同意する。波は人に興味がない。だが、拍には敏感だ。拍と拍の間で、歴史の舞台は小さく裏返る。裏返った舞台の上に、影が立つ。

 蓮は退きの道を倉の北側へ伸ばし直した。北は風が厚い。厚い風に逆らわず、風に押して退く。風に押されて進む。それを、己の意志のように見せる。槍の横木は低く、石突は板の継ぎ目の下で眠っている。眠る槍が支えるのは、退くための勇気だ。背が見えなければ、退きは前進に見える。前進に見せて、刃をさびさせる。さびは、紙より正直だ。

 倉の中で、条文の「夜間」の字が二度、揺れた。揺れの正体は、風灯の高さの違いが生む影の段差だ。段差は読み手に疲れを呼び、疲れは譲歩を呼ぶ。外商の男が通詞に何事か囁き、通詞は日本語で柔らかく別の言い回しを差し出す。言い回しが変わると、条文の骨が動く。骨が動くと、こちらの紙の目が一箇所、笑う。笑った皺は、穴に似ている。穴は、誰にも知られないまま、契約の内側で呼吸を始める。呼吸は、紙を生かす。生きた紙は、刃を飲まない。

 静は倉の外で一度、風灯の火を指の背で撫でた。撫でると火は背伸びをすぐやめ、うつぶせになる。影は短くなり、倉の中の「総司」は背丈を奪われる。「噂の総司」は、つねに変わる。変わることこそ噂の本性だ。噂の背丈をこちらで決める。背丈を変えられる者が、夜を持つ。夜を持つ者は、刃の重さを知っている。知っていて、抜かないで済ませる術を探す。

 交渉が大詰めに近づく。使者は条文の末尾に視線を滑らせ、押印の位置を探る。「締めの句」を読む唇の動きは美しい。美しいものは、隙だ。静は倉の内へ戻り、紙にもう一枚、薄い紙を差し込んだ。今度は棕櫚(しゅろ)の繊維が混ざった薄手。繊維の筋が、雁皮の目と斜めに交差する。交差は、光の「逃げ道」になる。逃げ道がある条文は、捕まえにくい。捕まえにくければ、刃は使われない。捕まえられないまま、夜が明けるのがいちばん良い。

 蓮が外から一度だけ「コツ」を送る。海鼠壁に石突の根で触れ、板が短く返事をする。総司の影は、膝を落として礼をした。礼は、刃の代わりに置いていける唯一の刃だ。使者は押印の朱肉を探り、指先で朱をひと筋、紙に乗せる。朱は息で乾く。息は、紙より先にこちらを濡らす。静は朱に風を当てず、影だけ当てる。影は湿りを嫌う。嫌うのは、朱の輪郭だ。輪郭が嫌われて、朱の端がひとつだけ薄くなる。薄くなった端は、押印の「効き」をほんの少しだけ弱める。弱い押印は、明日、紙の議(はか)りの席で「あの時の灯が足りなかった」と誰かに言わせる。言葉の穴は、刃の傷より長く持つ。

 若侍風の男が倉の外へ一歩踏み出した。踏み出した足は、蓮の横木で横へ流れる。流れながら、男の視線は倉の障子の影に残る「総司」をなお追っている。追う眼に、静は灯の高さで返す。灯が低くなると影は伸び、伸びた影は「総司の癖」を強める。団扇の骨で膝を打つ癖、肩の落ち、踵の返り。若侍の眼は、癖で人を数えたがる。数える棒が長くなったり短くなったりするうち、棒は折れる。折れた棒では、夜の港を歩けない。歩けなければ、刃も抜けない。

 条文の最後に、《不慮の変事の際、各自の安全は各自の責において》という一文があった。安全の責は、誰のものでもない。誰のものでもない責は、刃の柄みたいなものだ。誰かが握ると、刃が出る。誰も握らなければ、柄はただの棒だ。静はその一文の上に影を落とし、影の厚みを変えた。厚く、薄く、また厚く。三度の呼吸で、「各自」の「各」が、ほとんど読めぬほどに薄くなったとき、使者は紙をひっくり返し、裏に添え書きをした。《本条の履行に際しては、天候、風向、灯火の状況により、双方協議の上、適宜調整すること》。天候、風向、灯火──風灯は、条文の中に座った。

 「風灯」。夜の港の目は、紙の中でも目になった。目に入る砂を風が連れてくるのなら、誰かが瞬きをせねばならない。瞬きを決めるのは、灯の高さ。高さを決めるのは風と、こちらの拍。この条があれば、夜ごとに契約は「その夜のもの」になり、刃を呼ぶ器(うつわ)は小さくなる。器が小さければ、血は残らない。

 総司の影が最後に一度、長く伸び、倉の板の節を越えて波の音の中へ溶けた。影の消え方を見ていた者は、誰も彼がここにいなかったとは言えなくなる。影は来た。噂も来た。来たものが仕事をした。人は誰が、とは言えない。言えないまま、紙が夜の主役を務めた。それで十分だ。歴史は舞台の表で光を浴びるが、裏で影が綱を引く。綱の軋みを聞くのは、いつだって少数の耳だけ。

 倉を出ると、風は少し湿りを増していた。蓮は横木を外し、槍を肩に、石突の縄をほどいて海水を絞った。絞った水が板の隙へ落ち、小さな音で凍りかけた。凍りは、夜の署名のようなものだ。朝には読めない。読めない署名こそ、最強の署名かもしれない。背を見せずに退いた道は、見えずに消える。消えるから良い。

 静は風灯の脚を戻し、火の背を指で直した。直すと火は、まるで猫のように背を丸め、眠りに入った。眠る火の前で、彼女は短く息を吐く。紙の裏の筋が指の腹に残り、紙の目が息を吸って膨らんだ記憶がまだ温い。紙は、刃より長く残る。条文の穴は、誰の血も呼ばない。呼ばないのに、人の足取りを変える。変わった足取りが、町の骨になる。

 港の端で、異国船の甲板に遅い灯が揺れ、舷側の鉄が冷たく光った。通詞が鼻を鳴らし、外商の男は肩を竦め、若侍は夜目を持て余した。使者は外套の襟を折り、短く礼をして、紙を懐に収めた。紙は軽い。軽いはずなのに、港の風は少し重さを増した。風の重さは、条文の中で灯を押す。押された灯が、明日の高さを決める。高さが決まれば、影の長さは自ずから決まる。影の長さが決まれば、「誰が誰か」は再び曖昧になる。曖昧なまま、夜は終わる。

 総司の影は、港の端で一度だけ団扇の骨を膝に当てる仕草を見せ、それから完全に消えた。骨は実際にはない。仕草だけだ。仕草の記憶が、見ていた者の頭の中で勝手に音をつくる。作られた音は、昨夜の京の鏡の間の曇りのように、今夜の港の湿りにひと時だけ浮かび、すぐ沈んだ。沈んだ場所を覚えているのは、蓮の石突だけだ。石突は指の皮の中で、退きの道の角度と一緒に眠る。

 港役所の裏に戻る途中、静は一枚の紙片を取り出し、風灯の枠に軽く押し当てた。紙は少し濡れ、透かしが浮いた。透かしは、三本の筋。港、灯、風。彼女はそれを懐に戻し、歩幅を総司の癖から自分のものへ戻した。戻した歩幅は、軽いが遅くはない。遅くはないが、急ぎもしない。急がぬ足は、刃を呼ばない。刃を呼ばない夜は、明日をよく呼ぶ。

 蓮が先に角を曲がり、波止場の影から白い息を一つだけ上げた。白は夜の中で目立ち、すぐに消える。消えるものは、印に向いている。印を残さずに済ますのが今夜の勝ちだ。勝ちは顔を持たない。顔がなければ、歴史はそこに名を書けない。名がなければ、恨みも生まれにくい。生まれにくい夜は、長持ちする。

 家並みの向こうに、薄く朝の色が滲んだ。東の端は灰青、南は墨。北の海は黒。風灯の火は、最後の最後にひとつだけ背伸びをし、己を消す準備に入った。消える火は、賢い。賢い火は、紙の上に焼け焦げを残さない。焦げの穴は、目に見えてしまうからだ。見える穴より、見えない穴。条文の行間に開いた風の穴。そこから明日の風が出入りし、港はその風で生きる。

 誰かが尋ねるだろう。総司は本当に来ていたのか、と。風は答えない。灯も答えない。紙だけが、夜の端に柔らかい皺を残したまま、静かに机の上で眠る。皺は穴ではない。だが、読む者の指を引っかける。引っかかった指は、勢いをなくす。勢いをなくした手は、刃を握り直し、握り直したことを恥じる。恥は、最良の刃こぼれだ。刃こぼれした夜が重なれば、町の骨は太る。

 静は港町の石畳に立ち止まり、風の匂いを嗅いだ。鰊、縄、煤、薄い雪。匂いの層が、紙の目に似ている。層が重なるほど、手応えは柔らかい。柔らかいところに刃を入れるのは、愚かだ。柔らかいところは、押す。押して道を作る。蓮の槍が押す道は、灯の高さで見える。総司の影が押す道は、拍で見える。静が押す道は、紙で見える。三つが夜の下で重なれば、最果てでも入れ替わりは完璧だ。

 港は、やがて明るむ。交渉の紙は机から帳場へ移され、印を受け、封を得る。封の糊は、北の冷えで硬い。硬い糊は、早く剥がれる。剥がれやすい封は、争いに向かない。向かぬ方が良い。箱館の町は、風で灯を持ち、灯で影を持ち、影で人を持つ。人は、紙で夜を持つ。夜は、歴史を裏から持つ。裏の掌の皺に、今夜の穴がひとつだけ残る。その穴から、海霧が朝に出ていく。

 総司の影はもうない。だが、影の仕草を借りた静の肩は、まだ半分だけ落ちていた。それを彼女は意識して戻し、膝の皿を内側から撫でた。返すべき借りを返す仕草だ。蓮は槍袋の紐を結び直し、石突の縄を乾いた布で拭った。拭われた縄から、海の塩が白く粉をふいた。粉は紙の白に似ている。白は紙の勝ち色だ。今夜も白で勝った。血の白ではない。紙の白だ。紙の白は、誰の肩にも乗らない。

 港の端で、遅れて帰る漁の小舟が、風灯の下をくぐった。灯は低く、影は長い。長い影の上を、子どもの足が二つ三つ、短く走った。足跡はすぐに潮に舐められ、消えた。消えた跡が、今夜の道だ。道は、誰にも見えない。見えぬ道で迷わないのは、拍を知っている者だけ。拍は嘘をつかない。今夜も拍は、灯と紙と槍のあいだを往復し、歴史の表に出ずに仕事を終えた。

 噂は、やがて別の噂に押し流される。暗殺は起きなかったらしい、いや、起きかけたが止められたらしい、いや、暗殺そのものが噂で、止められたのは噂の方だったらしい──どれでもいい。どれでもよくなるのが、勝ちだ。勝ちが顔を持たぬ限り、誰も刃を磨く理由がない。理由がなければ、人は紙を読む。紙を読む町は、風の高さで暮らしを決める。暮らしが決まれば、夜は静かに膨らみ、灯はまた背伸びをして眠る。

 箱館の風灯は、朝になっても少しのあいだ揺れ続けた。火が消えた後の揺れは、夜の拍の残り香だ。残り香に、三人はそれぞれ小さく礼を置いた。総司は遠い病舎の窓で、咳をひとつだけ布に沈めた。静は懐の紙片の透かしをもう一度だけ光に透かし、蓮は波止場の板の呼吸を足裏で感じた。仕事は終わった。誰も知らぬところで、影が主役を務めた夜の、正しい終わり方だった。