影双譚(かげふたつたん)

 会津は、白で呼吸していた。山も田も道も、すべてが粉のような冷えをまとい、音の輪郭だけを残している。雪原の上を渡る風は細く、白い紙片のような日差しが雲の間からときおり落ちる。雪は鳴く。踏まれれば「ギュッ」と、抱かれれば「シン」と、払われれば「サッ」と。ひとつひとつが拍であり、道しるべであり、敵の数でもある。補給線は北へ伸び、馬の吐く白と人の吐く白が交互に空へ昇る。その白の列に、狙う気配がついた。

 雪中行軍の列は、荷駄の鈴を布でくるみ、轍に藁を敷いて音を殺している。凍った用水の上を渡るたび、氷が低く「コオ」と鳴り、音は遠くへ走る。遠くで跳ね返るその鳴りの尾に、見られている感触が乗る。総司は咳を喉の奥で丸め、雪の音で敵の呼吸を読むことにした。雪は嘘をつかない。踏みしめられた拍の間隔が、息の長さを語るからだ。

 「三人、間が不ぞろい。ひとりは吸いが浅い」と、総司は胸の内で数えてみせる。新雪の「ギュッ」は乾いた短音で、踏む者の体重と足裏の面で高さが違う。ひとり、かかとを深く入れる癖。ひとり、つま先で鳴らす癖。もうひとり、雪の皮膚に乗っていく軽い足。軽い足は、焦っている。焦りは、白に弱い。

 静は行軍の側面に立ち、左の袖を雪に濡らしていた。雪払い居合。鞘の小尻(こじり)で雪の端を抉(えぐ)り、抜き際に刃の腹で粉雪を空へ散らす。舞う粉は光を飲み、風の帯で白い屏風になる。白の屏風は、目の奥の「距離感」を壊す。張り詰めた眼ほど、白に迷う。彼女は風向きと地形の皺に合わせて、白を壁に、白を路に、白を落とし穴に変えた。

 蓮は橇(そり)の最後尾、十字槍を肩に、石突で雪面を固め続けていた。固めるといっても、叩きつけない。雪は押されると喜ぶ。軽く、だが確実に面で押し、雪の結び目を作る。結ばれた雪は重みを支える。「押して渡す」橋だ。小用水の黒い口、畦の欠けたところ、風返しの吹き溜まり。石突の丸みで押し、履(は)き古した草鞋の底で均す。三度押して、二度休ませる。休めば、雪は自分で固まる。固まった白は、橋になる。

 敵は足跡で来る。冬の狩人は、足跡に飢える。白の上では、足跡が言葉だ。「誰が」「いま」「どこへ」。兄弟は、その言葉を混ぜる。替え玉の応用。総司と静は、歩幅を入れ替える術を朝から繰り返していた。総司の歩幅の中に静の半歩を混ぜ、静の足型の中に総司の踵の深さを借りる。草鞋の緒の締め方、足袋の指の噛ませ方、踵の返りの角度。互いの癖を少しずつ交換し、大股を小股に、小股を大股に、たまに片膝を雪に落とすふりをして、膝の跡まで借りる。

 蓮はさらに、足跡そのものの型を割った。槍の横木の端で雪面を撫で、踵だけをなぞって増やす。あるいは、石突を細く立ててつま先だけの穴を並べる。見る者が「幼い足」と誤解するように、わざと間隔を短く配して、すぐその上から総司が深い大人の足を重ねて潰す。「子の上に親」。雪は、そういう嘘が好きだ。吹雪けば、嘘だけが残る。

 行軍の列は、やがて雑木林を背にした開けへ出る。白い凪。そこに敵の初手が来た。林の端、黒い幹の陰で雪がひとつ、吐息のように落ちた。次いで「キュ」と細い鳴り。雪弾か、否、硬い笹を撥ねた音。静は白を一枚、上手に立てる。鞘先で雪の表を切り、低く抜き、刃の腹でふわりと空に広げる。広がった粉は、夕光を細く裂いて壁になる。壁の向こうで、足が止まる。止めた足が、次の拍に深く雪へ沈む。沈む音は低い。「重い男がひとり」と、総司は数えて咳を飲む。

 総司の咳は、冬の裏切り者だ。だが今日は、咳が拍になる。喉の奥で丸めた咳を、鞘の小尻に移して雪を軽く叩く。「トン、トン」。二連の拍は「今は待て」の印。蓮は橋を一つ、仕上げにかかった。用水の口。氷の端が脆い。石突で四方から押し、氷の下の白を寄せて噛ませる。槍の横木で踏みしめ、荷駄から外した横木一本を渡し、さらに雪をかぶせる。白の橋は、白に溶ける。渡る者だけが橋を知る。

 敵の合図は、雪の音に混じりながら続いた。追う側は「足跡」を見ているはずなのに、音は「迷い」を告げる。迷いの音は、雪が鳴くときの「余韻」で分かる。踏む音の後ろに、もうひとつ「ため息」のような音が伸びていれば、歩幅が定まっていない。総司はその伸びを聞きとり、荷駄の列の拍を半拍ずらす。ずらした拍を、静の白がかぶせる。白は声を持たない。持たないから、よく伝わる。

 「吹かせるぞ」と、静が目だけで合図する。林の端からの風は弱いが、地吹雪の癖がある。雪面を刃で掃(は)いて、風の向きに沿って帯を描く。帯に帯を重ね、白を重層にする。白は重なるほど、やさしくなる。やさしい壁は、人の目に「行ける」と錯覚を与える。錯覚に入ってくる足を、蓮の押し橋が横へ流す。行けると見せて、行かせない。行かない、と気づかせずに。

 敵の先手二人が白に入った。入ったとたん、足が空を踏み、膝が雪に抱かれた。踏み抜いたのではない。軽い雪の皮に乗ったまま、底の柔らかい層に「ずる」っと滑り落ちたのだ。静はその頭上にさらに白を降らせ、視界を白で満たす。「白払い」は、斬るためでなく、遮るため。払った後に残るのは、静寂だ。静寂は、最上の刃だ。

 総司は、その静寂で呼吸を聞く。雪の鳴りの合間、喉が鳴る。喉の鳴りは、短い者と長い者で音色が違う。短い者の喉は高く、長い者の喉は低い。高い喉が左、低い喉が右。高い喉の男は、膝を深く折る癖。低い喉の男は、肩で呼吸して足が軽い。軽い足は、雪の「皮」を信じる。信じた皮は、裏切る。

 蓮の橋が仕上がる。荷駄が白の上を渡る。橋は見えない。見えない橋ほど、安定する。足音が均され、橇の鈴が布の下で一度だけ笑う。笑いは遠くへ走らない。雪が笑いを飲む。飲まれた笑いの向こうで、ひとつ、矢が白を裂いた。乾いた音。「パキ」。氷の枝が折れるような短い破裂。総司は咳を飲み、鞘尻を雪へ二度。蓮が横木を押し、荷駄の腹を白へ沈めるように通す。矢は白に嫌われ、方向の芯を失った。静の白が、矢羽の音を柔らかく包む。

 敵は足跡を拾い直す。白に残るのは、兄弟が混ぜた歩幅。大股、小股、半歩。踵の深さ、つま先の軽さ。ときどき、左足だけが外を向いている。ときどき、右足の前に小さな足が三つ並ぶ。子が三人、という嘘。吹雪が通れば、子だけが残る。残る嘘を、敵は信じる。信じた者は、どこかで躓く。躓くのは不意ではない。拍のズレで躓く。

 静は白を壁にするだけではなかった。雪を「面」にする。平らな白を、刃の背で軽く撫でる。撫でられた白は、光を返す角度を変える。敵の目の奥に入る「反射の針」を微妙にずらし、目を疲れさせる。疲れた目は、距離感を持てない。距離が持てぬと、狙いの拍が先へ走る。先へ走った拍は、こちらの白で吸われる。白は、軽い重力だ。

 風が変わる。谷から吹き上げる細い風。雪面の鱗が一斉に逆立ち、音がわずかに低くなる。低さは、足にやさしい。やさしいと、人は速くなる。速い者は、橋を見誤る。蓮は石突で「橋の端」を二度押し、橋の「厚み」を増した。厚みは、人の気に伝わる。踏む前から、踏める気がする。踏める気持ちのまま渡れば、落ちない。気持ちが橋だ。橋を押して渡す。雪は、押されて育つ。

 総司の咳が、ついにひとつ漏れた。白の中で短く、「コホ」。敵の耳に届くほどではない。だが雪は、その咳を覚えた。覚えた拍で、静が白を払う。払った白の壁の陰から、総司が半歩を走らせ、斜面の上手へ出た。上手から見れば、敵の足並みは乱れている。足跡は多いのに、音は少ない。少ない音は、足の軽さか、息の短さか。いずれにせよ、白の包囲に気づき始めたのだ。

 包囲といっても、人で囲むのではない。白で囲む。白で囲まれた者は、自分の形を見失う。影がない。輪郭がない。白に光が滲み、滲んだ光の中で、動くことだけが罪になる。動くと、音が出る。音が出ると、総司が数える。数えられた拍は、静の刃の背で雪を払う「タイミング」になる。払われた白は、敵の鼻腔を乾かす。乾いた鼻腔は、息を短くする。短い息は、歩幅を狭める。狭まった歩幅が、蓮の橋の端に引っかかる。

 敵の一人が、白の底で膝を落とした。落とす音は、柔らかい。「ボス」。力が逃げている。そこへ斬り込めば、たやすく血が出る。だが、今夜は白で勝つ。白は血を嫌う。静は刃を寝かせ、雪を斜めにすくい上げて、彼の視界に白い帯を一枚だけ置いた。置かれた白は、まるで「目隠し」のように働き、男の肩から力が抜けた。抜けた肩に、蓮の石突がそっと触れた。触れただけで、男は座った。座るのは負けではない。座らせるのが勝ちだ。

 行軍の列は、雪庇(せっぴ)の陰を縫うように進む。雪庇は風の彫刻。触れれば崩れる。崩れれば、崩れの音が遠くへ走る。総司は咳を奥に押しやり、鞘尻の拍を「しずか」にした。しずかの拍は、白に吸われ、静の掌に移る。掌に乗った拍で、彼女は白を「折る」。雪の面に折り目をつけ、風にそれをなぞらせる。折り目の裏は、白い陰。陰は、敵の足を吸う。吸われた足は、戻れない。戻らぬあいだに、荷駄は渡る。

 敵は、足跡の言葉を疑い始めた。「子どもの足」「女の足」「老人の足」。白の上では、どれも同じ重さで嘘になる。嘘の上に本当の足を重ねたときだけ、重みが正直に鳴る。重いものは、規則を持つ。規則を持つものは、拍がある。拍があるものは、守らねばならぬ道を知っている。道は、橋の上と、白の底と、風の中にある。三つが揃えば、補給線は途切れない。

 静の白払いは、次第に大きな弧を描くようになり、雪の壁は座敷の屏風のように連なっていく。白の屏風の間から見えるのは、蓮の押し橋の白い背。背が動く。動く背は、拍を持つ。拍に合わせて荷駄が渡り、渡った後で白が戻る。戻る白の表を、総司の足が軽く撫でる。撫でた跡は、すぐに風が消す。消された道は、地図から抜け落ちる。抜け落ちた地図では、追えない。

 敵の矢がもう一度だけ来た。音はやはり短い。「パキ」。白の壁がそれを柔らかく受け、落とし、雪面に黒い点だけを残した。黒は、白の中で目立つ。目立つものは、白に嫌われる。嫌われた黒は、風に舐められて、灰に変わる。灰は、雪の年輪。年輪に、今夜の勝ちが一本、加わる。

 最後の渡り口で、蓮は槍の石突を深く押し込み、横木で白を折り、橋を「押して」完成させた。橋は白い。白い橋は、白に隠れる。隠れた橋を、荷駄の馬が嗅いだ。鼻先で白を押し、耳を前へ向け、ひとつ息を吐いて渡る。吐いた白が橋の上に残り、橋は「人の匂い」を覚えた。匂いを覚えた橋は、明日も持つ。

 総司は、咳をひとつ、雪に落とした。落ちた咳の音を雪が包む。包まれた音の上で、静が白をもう一枚、払う。蓮は石突で雪をもう一度だけ押す。三つの動きが、会津の白の中でひとつになった。白の包囲は完成した。包囲の内側には血がない。ないから、白は清いままだ。

 敵は気づく。包まれているのが人でなく白だと。白は、握れぬものだ。掴めぬものに囲まれたとき、人は自分の呼吸を聞く。聞いた呼吸が、短くなる。短い呼吸は、拍を貧しくする。拍が貧しい者は、足が重くなる。重くなった足は、白に抱かれる。抱かれた者は、座る。座る者に刃は向けない。向けないから、白で勝つ。

 行軍は峠の手前で一息入れ、荷を検め、鈴の布を解いて音を確かめた。音は小さく、よく眠っている。眠った音を起こさず、また布で包む。総司は鞘の小尻で雪の端を二度だけ叩き、静に合図を送る。「終い」。静は頷き、刃を拭うでもなく、ただ雪の粉を指で払った。払った白は風に乗り、夕日の白へ戻る。蓮は横木を肩へ、槍袋に穂を納め、石突に付いた白を袖で軽く拭った。拭った白は、袖に残る。残った白は、町へ戻る証だ。

 西の空がわずかに桃色を差し、雪原の白が青へ傾く。白の包囲は景色に溶け、足跡の言葉は半分だけ残る。残った半分の嘘を、風が丁寧に消す。消えたところが、今夜の道。道は、紙にも地図にも書かれない。拍だけが覚えている。拍は、咳にも、雪の鳴りにも、石突の押しにも、白の払いにもある。四つの拍がそろえば、補給は生きる。

 帰り道、総司は喉の奥に小さな温みを感じた。白梅の薬湯の酸が遠い記憶のようにこころの裏でほのり、咳の影を薄くする。静は雪払いの手のひらをゆっくり開き閉じ、白の重みを確かめた。蓮は槍の継ぎ目を指でなぞり、「押して渡す」という言葉の骨を指の皮に移した。三人は、雪の上に足をそろえすぎず、ずらしすぎず、白の拍に合わせて歩いた。

 遠く、犬の声がひとつ、雪に刺さって短く消えた。白は、音を長持ちさせない。長持ちするのは、拍だけだ。拍は嘘をつかない。嘘をつかない拍に従って、白はまた雪を降らせる。降る雪は、敵にも味方にも同じ冷えを与える。同じであることが、いちばん公平だ。公平の中で、白で勝つ。勝ちは顔を持たない。顔のない勝ちは、長続きする。

 峠の向こうに灯がいくつか点り始め、薄い煙が白の上でまっすぐに伸びた。白の柱。柱の足元で、子どもが足跡を並べて遊んでいる。大人の足の間に小さな足。嘘と本当。雪はどちらも受け入れる。受け入れながら、春を待つ。春が来るまで、白は町を守る。白の包囲は、刃を持たない。刃がない包囲が、いちばん強い。三人はそれを知っていて、何も言わず、ただ白の呼吸の中へ消えていった。