川の夜は、墨で書いた文が水に映ったように静かだった。三条小橋の桁の下を、舟灯(ふなあかり)がゆっくり行き交う。絹の袋に包んだ火は、宵の湿りで背を丸め、風の薄い帯にすがって揺れた。対岸の柳は、枝先だけが星をすくい、葉脈の細い銀をひそやかに落とす。川面は、わずかな脈で呼吸している。呼吸の拍(はく)は、ひとの胸の奥の拍より少しだけ長い。長い拍に、短い合図が紛れやすい。今夜の流言は、そこに仕掛けがあると告げていた。
「水の文(ふみ)でやるつもりだ」と、夕刻の段取りで静が言った。「反射の数、滞(とどこお)りの長さ、色の濃淡。舟灯の影を合図にする。川は人の足跡を隠すけれど、合図まで隠すほど気前はよくない。隠すのは、合図の“途中”だけだ」
総司は頷き、欄干の木目を指の腹で撫でる。指に吸いつく樹の温さは、昼の陽が置いていったものだ。「途中をひっくり返す」と彼は言った。「途中に影を混ぜれば、反射読みは、読む前に一度、躓(つまず)く」
三条小橋の上では、夜見の人足が時折、鼻を鳴らしては肩をすくめた。湿りが皮膚に纏わりつく。河岸には、荷綱を巻いた桶、桟橋に結わえつけた小舟、橋脚に寄り添うように浮かぶ筏(いかだ)。橋の板は薄く鳴き、板間の影が水へ長い櫛の歯のように落ちている。敵は、その影と光の間(あわい)を使う。舟灯をわずかに傾け、反射の帯を河岸の目印石に重ねる。たとえば、「二つ長く、ひとつ短く」。あるいは「薄、濃、濃、薄」。水に書いた文は、消えやすく、だからこそ読む者は熱心になる。熱心は、盲目に似る。
静は簪(かんざし)を一度きり指で押し、銀の短い光を河岸の石に返した。返した光は合図ではない。自分の呼吸の拍を、総司に渡す手すさびだ。今夜、橋上に立つ“総司”と河岸に立つ“静”は、時おり入れ替わる。入れ替わるといっても、名を替えるのではない。所作の「癖(くせ)」を替える。団扇(うちわ)の骨で膝を軽く叩く癖、足指で板のささくれを噛む癖、袖の端で風を撫でる癖。癖を交換して、見る者の帳面を破る。敵は「反射読み」を信じる前に、まず「癖読み」で相手を見分けるからだ。
蓮はそのころ、橋の北詰の陰で十文字槍を解いていた。柄は二分割になっており、雇(ほぞ)に雌雄の鉄が嵌(は)めてある。普段は抜かない。だが今夜は、舟と舟の隙間に“押し”を作る必要がある。押すのは、力ではない。角度だ。角度を作るのは、柄の長さと柔らかさ。二本に分けた柄を、舟べりの高さに合わせて十字に組み、綱の上からそっと差し入れる。舟は重い。だが、重いものは小さな角度でよく動く。押して、抜かない。押して、預ける。預けた重みが、舟と舟の狭間を「通路」に変える。
川の上の密書の渡しは、眼に見えると思ってはいけない。見えるのは、いつも「代わり」だ。本物は、紙ではなく、水。紙は水の服を着て運ばれる。舟灯の反射は、その服の裾のひらめきだ。静は水の縁に踵を置き、足指で砂を捻(ひね)って、濡れの下に隠れた小石の感触を拾う。小石は流れの癖を覚えている。今夜の流れは、南から北へ薄く引いている。引きには、途中で“溜(た)め”がある。溜めは、合図に都合がいい。都合の良すぎる場所は、すでに敵のものだ。
総司は橋上で団扇を閉じ、骨だけを細く開いた。骨は音を出さないように、空気の厚みだけを弾く。欄干の縁に骨の影が格子に落ち、その格子が水に二重に映る。映りは遅れる。遅れの一拍が、敵の読みの中に「誤植」を作る。水上のふたつの光と、橋下のひとつの影。数は合っているようで合っていない。敵の帳面に、鉛筆で書かれた数字の「8」が「3」に見えるような、くだらないが致命的な錯覚を挿し込む。
最初の合図は簡単だった。上手(かみて)の待合舟が、舳先(へさき)を川の中央へひと筋だけ出し、油紙を被せた舟灯を半分だけ持ち上げる。水面に縦の細い帯が一本、渡る。対岸の柳の根元、腰を落として座る男が笠の縁を少し傾け、「受けた」の合図。渡る文(ふみ)は、舟板の裏に仕込んだ薄絹に写っている。薄絹は、川の湿りで“透かし”が濃く出る。透かしは印。印がなければ、誰が書いたか誰にもわからない。今夜の密書は、その透かしに価値がある。
「透かしを奪うのではなく、潰す」と静は昼の打合せで言った。「透かしは光の“隙”で出る。隙を、紙で“塞ぐ”。奪えば、追われる。潰せば、困る。困るのは、向こうだ」
総司は笑い、団扇の骨で膝を軽く打ち、そしてすぐ打たない癖に替えた。替え方は雑だが、雑さにも「型」がある。型は、見る者の思い込みに似る。思い込みを飼いならして、餌を少しずつ違う手のひらからやる。そうして「どちらが誰か」を曖昧(あいまい)にしながら、位置を入れ替え続ける。橋上に立つ総司の影が河岸に降り、河岸の静の影が橋上へ伸びる。影と影が、欄干の彫り物の上でいったん薄くなって、川面で濃くなる。その濃さの差で、反射読みは「次の指示」を間違える。
蓮は二つの舟の舷(ふなばた)に、分割した柄をそっと差し込んだ。舟べりに布を一重、巻いてあるのは、人に見せる商いの丁寧のためだ。その布の柔らかさを利用し、柄の端を布越しに“咬(か)ませる”。咬ませて押すと、舟と舟の間に呼吸が生まれる。呼吸は通路になる。通路は、追う足と逃げる手を、意図せず同じ方へ運ぶ。蓮の押しは、舟を動かすためではない。舟と舟の「間」を動かすためだ。間が動けば、人が動く。人が動けば、合図の石はずれる。
夜が深くなるほど、舟灯の明かりは小さく太る。油が冷えて粘り、芯が短くなり、火は息を短くして長く吐く。吐く拍が、敵の読み筋に使われる。総司は拍をひとつ、骨で抜く。抜かれた拍が、格子の影のどこかで失われ、川面に届かない。届かない時の“間”を、静は足の裏で受け取る。足裏に入った間は、次の一歩を半分長くし、半分短くする。その半分と半分の揺らぎが、水の反射に偽の拍を与える。偽の拍は、合図の帯の上に、ただの「揺れ」として紛れる。
敵はあせり始める。彼らの読みは、反射の帯の「位置」と「濃さ」と「間」。だが、橋の影が混ざり、格子の線がずれ、舟と舟の間隔が押され、帯は微妙に太り、薄くなる。蓮が押した通路が、もう一つの“逃げ”を生み、その逃げが敵自身の渡し役を遅らせる。遅れた合図は、次の合図を追い込む。追い込まれた合図は、過ちを生む。過ちは、音になる。舟灯の油皿の縁で、芯が短く擦れて小さな「ジュ」と鳴る。その鳴りで、静は舟灯の腹に油紙が二重に掛けられていることを知る。二重の油紙は、反射の濃淡を増幅するための「濾過」だ。
「濾過を逆に使う」と静は囁いた。総司は欄干の陰で笑い、団扇の骨をもう一度だけ開いた。開いた骨の影が、舟灯の二重の油紙の上に落ちる。その瞬間、油紙の二重は「三重」になり、反射の濃淡が極端に振れる。振れた濃淡は、読み手に「別の合図」と見せる。見せられた読み手は、柳の根元で笠を二度、逆に傾けた。逆の合図は、下手(しもて)の舟に伝わる。伝わった下手の舟が、予定より早く舳先を返す。返した舳先が、蓮の作った通路を塞ぎかけ、蓮は柄をほんの一寸、押し直した。押し直した角度で、舟は“戻され”ず、“滑らされ”る。滑った先に、こちらの通路は開く。
密書を運ぶ者は、人ではない。紙ではない。水だ。だが、紙は水の衣の中にいる。衣を脱がせれば、こちらが持ち帰ることができる。今夜は、脱がせない。脱がせると、追ってくる。追いを呼ぶと、川は騒ぎになる。騒ぎは、紙を破る。紙は破らず、困らせる。困らせるのは、紙で紙を“潰す”ことだ。
静は河岸の石の上で、懐から薄い和紙を取り出した。三椏(みつまた)を多めに、楮(こうぞ)を少し、砧(きぬた)の音が浅い紙。雪舟堂の薬包紙から一枚、余白をもらったものだ。彼女は紙を掌で温め、吐く息で湿りをほんの少し入れ、紙の地合いを“浮かせる”。浮いた地合いは、透かしを食う。紙の「目」の向きが、密書の薄絹の透かしと直角に合わされば、光は乱れる。乱れた光は、透かしを潰す。潰しても、紙は破れない。破れないから、向こうは何が起きたか分からない。わからないから、困る。
総司は橋の上から、静の手元に“拍”で合図を送った。骨で欄干を小さく一打。静は紙の端を、川面のすぐ上の湿(しめ)に当て、湿りを均す。均した紙を、密書の道が通るはずの反射の帯の上に、影として重ねる。重ねるのは、ほんのひと息。光が和紙を通って水に降りるその刹那、透かしの筋が狂い、帯の濃さが「濁り」に変わる。濁りは、読み手には破れかけの文章に見える。破れてはいない。だが、意味が途切れる。途切れれば、向こうは足を止める。
蓮は分割した柄の一本を抜き、別の舟の舷に差し替えた。舷の高さが一寸違うだけで、押しの力の入り方は変わる。変わった押しは、舟と舟の間を“ねじる”。ねじられた間を、密書の衣が通りかけ、通らない。通らない間に、上手の舟が「反射読み」のやり直しを始める。やり直しは、拍を余計に使う。余計な拍は、こちらの偽の拍に食われる。食われると、向こうの帳面の「今日の字配り」が崩れる。字配りの崩れた文は、届けるに値しない。値しないと、送るほうが困る。
「入れ替わるぞ」と、総司の影が言った。声ではない。欄干の上で足の重心を半指だけ外へ寄せ、その寄せが静の足裏に伝わる。静は河岸の石から橋脚の陰へ滑り、総司は橋上から欄干の内側へ体を引く。見る者の目には、橋上の人影が“静”、河岸の影が“総司”に映る。映りの交換は、苛立つ読み手の目をさらに苛立たせる。苛立ちは、合図に雑音を混ぜる。雑音を混ぜた合図は、読みを破綻させるための最良の「味付け」だ。
敵の伝達役は、柳の根元から腰を上げ、橋脚の影の長さを測り直した。測り直す指は、緊張で早い。早い指は、波の遅れを無視する。水は遅れる。遅れの中にこそ、合図のほんとうの「時間」がある。彼らはそれを見失う。見失った時間の隙に、静は第二の紙を用意した。今度は薄い雁皮(がんぴ)。透かしの筋をさらに柔らかく乱すための、わずかに光沢のある紙。彼女は二枚の紙を指の腹で滑らせ、紙と紙の間の空気を整える。空気は、紙の味方だ。空気が味方すると、光は紙の言うことを聞く。
総司は欄干の彫り物の上で団扇をほんの少しだけ開き、骨の影を川面の一角に置いた。置き方は四分の一。置いた影の角に、静の雁皮が乗る。乗った瞬間、舟灯の反射の帯の中に、もうひとつ「帯」が生まれた。帯の重なりは、読みでは「強い意味」を示す。だが、それは偽。偽の強さに引かれて、伝達役は笠を深く傾けた。深く傾けるのは「急げ」の符牒。だが、急ぐと足は雑になる。雑になった足を、蓮の押しが待っている。
柄を間に差したまま、蓮は軽く腰を回した。舟と舟の間の角度が、一瞬だけ変わる。その瞬間、通路はまっすぐではなく、かすかに曲がる。曲がった道に、急ぐ足は弱い。急ぐ足の膝は、舟べりに置かれた縄に触れ、身体は前ではなく横へわずかに流れる。横に流れた身体は、反射の帯の「読み位置」から外れる。外れた読み位置で受け取った合図は、別の意味に変わる。変わった意味は、意味でなくなる。意味でなくなった文は、文であることをやめる。やめてしまえば、夜は静かになる。
上手の待合舟から、焦りの色の濃い灯がひとつ、持ち上げられかけた。油紙の上にさらに薄紙を被せ、色の濃淡を無理に作ろうとする。静はそれを待っていた。雁皮の二枚目を、今度はほんの紙一重、遅らせて重ねる。遅れは、水の遅れに合わせる。水の遅れは、一定ではない。風の向き、舟の揺れ、橋脚の影の太り。その全部を、足の裏と指でまとめて「一拍」にする。その一拍の遅れで、透かしの筋がもう一度、潰れる。潰れた筋は、もはや「印」ではない。印ではない文は、ただの紙の束だ。紙の束は、舟の腹で湿り、重くなる。重い紙は、伝えにくい。伝えにくいものは、伝えない。
「奪わない」の効き目は遅い。遅いが、深い。敵は懐を探る。何も減っていない。文はある。だが、読めない。読めない理由が分からない。分からないから、動きが鈍る。鈍った動きに、こちらは何もしない。何もしないことが、相手の足をさらに遅くする。遅さは、今夜の味方だ。
橋上の総司は、団扇を袖に入れ、足指で板のささくれを軽く噛んだ。噛み方は静のものに似ている。似せるためではない。似せたほうが、敵が勝手に「入れ替わり」の帳面を作るからだ。帳面は、いつか破れる。破れるまで、こちらは帳面を書かない。書かないところにだけ、すべる道がある。
蓮は押しの角度をゆるめ、通路を閉じかけた。閉じかけると、逃げる足は焦る。焦りは、光を見る。光は水に映る。映った光の濃さが、今夜は信用できない。信用できないと知っても、目は光を追う。追って、足を滑らせる。滑った足の先に、蓮の柄の丸みが待っている。丸みは刃でない。刃でないものは、斬らない。斬らないところで、もっとも深い傷がつく。傷は「勘」の上につく。勘が傷つけば、今夜の勝負は等分に割れ、明日はこちらへ転がる。
水の匂いが変わった。上流で誰かが桶を洗ったのだろう。木の渋と灰の薄い匂い。匂いの変化で、静は舟灯の油が替えられたことに気づく。新しい油はよく燃える。よく燃える火は反射の帯を細くする。細い帯は読みやすい。だから、いちばん壊しやすい。静は懐紙の端を水に軽く浸し、指で絞って、紙の「目」をさらに起こした。起きた目は、細い帯を広げる。広がった帯は、読み手の目には「ひとつ増えた」ように映る。一つ増えた帯は、合図の意味をひとつ、ずらす。ずれた意味は、舟の上で言い争いを呼ぶ。言い争いは声。声は、橋脚で丸くなる。丸くなった声は、こちらの耳に届かない。
総司は橋の欄干から、河岸の石へ静かに降りた。降りた影は、橋上へ残る。残った影は、欄干の飾りの上でゆらぎ、川面に二度、落ちる。二度落ちた影の間に、蓮の押した通路が光の帯を変える。変わった帯を、静の紙が潰す。潰された帯は、読み手の指を止める。止まった指は、笠の縁を持ち直す。持ち直しは遅い。遅いところで、夜は息を長くする。
密書の衣—薄絹に織り込まれた透かし—は、今や紙の重なりで息をしづらそうにしている。息を奪ったのは水ではない。紙だ。紙と紙の間の空気だ。空気が味方をすると、光は裏切る。光が裏切ると、読みは破れる。破れた読みは、誰かの顔を険しくし、誰かの指を早くする。早くなった指が、油皿の芯を口惜しげにいじる。芯の傾きは、影の傾きに効く。影の傾きは、蓮の押しに効く。押しの角度が、足の向きを決める。足の向きが、文の行方を決める。行方は、こちらが決める。決めると言っても、触れはしない。触れずに、決める。
「もういい」と、静の背が言った。総司は頷き、橋の上の夜見に聞こえぬほど小さく骨を一打した。蓮は柄を抜き、舟べりの布の皺を指で撫でて伸ばし、押しの跡を消した。消した跡は、誰にも見えない。見えるのは、舟と舟の距離のほんのわずかな「疲れ」だけだ。疲れは、明日の朝、誰かが舟を洗うときに指先で感じる。感じた者は、首を傾げる。傾げるだけでいい。それが今夜の勝ちだ。
敵は「渡した」と信じたい。だが、受け手は「読めない」。読めないものを渡された怒りは、送り手に向く。向け合っているあいだに、夜は終わる。終われば、川はまたただの水になる。水は、何も覚えない。覚えさせるのは人間だ。覚えたものは、いつか忘れる。忘れないのは、紙の折り目だけだ。折り目は、紙の骨である。骨は折らない。折らず、撫でる。撫でて、潰す。
橋上と河岸で、総司と静は最後に一度だけ、位置を入れ替えた。入れ替わりは、告げない。告げない入れ替わりは、川の風の角度のように自然だ。自然に見えるものほど、よく働く。働いたものほど、跡を残さない。残さない夜は、明日、誰のものにもなる。
蓮は分割した柄を雇に戻し、十文字の穂を布で包み、槍袋に収めた。石突は濡れていない。濡れていないのに、川の冷えが金属の芯に入っている。芯の冷えは、肩に載せるとすぐに温まる。温まるのは、自分の血のせいだ。血は、今夜、使わなかった。使わずに済む夜が、いちばんいい。使わずに済む夜のためにこそ、刃は研がれている。
上手の待合舟で、誰かが小さく舌打ちした。舌打ちは水に嫌われ、すぐに丸くなって沈んだ。対岸の柳の根元の読み手は、笠の内側で短く笑い、だが目は笑わなかった。笑いのない目で、彼は薄絹の透かしをもう一度、灯に透かした。透かしは、出ない。出ないのは、盗られたからではない。潰されたからだ。潰されたことに気づくには、紙を知っていなければならない。今夜、紙は、こちらの言い分だけを聞いた。
総司は橋の真ん中で立ち止まり、団扇の骨の一本を指で曲げ、すぐ戻した。戻すときの小さな音は、静にだけ届く高さ。静は河岸の石に足指を軽く噛ませ、紙の端を懐に戻した。紙は乾いている。乾いているのに、川の匂いを抱いている。匂いは、明日の段取りのために良い証となる。証は、他人に見せるためにあるのではない。自分に見せるためにある。自分で確かめた証だけが、次の夜の手を軽くする。
蓮は最後に一度だけ、川面を覗き込んだ。舟灯の反射は、もう合図ではない。ただの光の帯だ。帯は水に溶け、光は星に帰る。星は誰のものでもない。川も、橋も、影も。だが、紙だけは人のものだ。紙は、誰かが手で漉(す)き、干し、折り、書く。書かれたものは、夜に影をつくる。影を均せば、夜は平らになる。今夜、平らにしたのは、灯ではなく、紙だった。
撤収は、音を持たない。橋上の足音は板の間の柔らかい部分だけを選び、河岸の足は砂の湿りに沈む。舟は動かない。動かないように見えて、川は動いている。動いているものの上で、動かないふりをするのが、今夜の勝ち方だった。
帰り道、三条の町はすでに眠りに傾いていた。屋台の骨は解かれ、団子の焦げは石畳に薄く残り、酒の匂いは水の匂いに押し込まれている。静はふと立ち止まり、指の腹に残った紙の湿りを鼻先に寄せた。梅雨の名残のような、淡い湿り。湿りの中に、ほとんど消えかけた油紙の匂い。匂いは、敵の手が何をしたかを、最後にもう一度だけ教える。教えられたことは、次には通用しない。通用しないことを確かめるのが、段取りだ。
「困らせるだけで、いいのか」と、総司が言った。にやりと笑うでもなく、ただ喉の奥で声を転がす。
「困りは深い」と静は答えた。「困ると、彼らは自分たちの紙を疑う。紙を疑う者は、次に紙を粗末にする。粗末にされた紙は、次には味方にならない。味方をなくすのは、いちばん効く」
蓮は肩で槍袋の重みを受け直し、石突の位置を半指だけ前に送った。「押しは、困りと似ている」と彼は言う。「正面から押さない。角度で押す。角度で押されると、人は自分で勝手に横へ行く」
橋の下では、まだ遅い一艘が灯を曳きずっていた。遅れた灯は、もう合図ではない。遅れた分だけ、夜は静かになった。静かな夜は、物をよく映す。映ったものは、紙と影と水だけ。人の顔は、映らない。映らない夜は、よく眠れる。眠れる夜の翌日は、よく働ける。よく働く町では、紙は文になる。文は、昼に読む。夜には、夜の読みがある。今夜の読みは、ここで終わりだ。
三人は、何も明かさず、何も持ち帰らず、ただ歩幅を合わせて橋を離れた。拍は嘘をつかない。拍が教えるのは、名ではない。道だ。道は、水の上にも、紙の上にも、影の中にもある。あることだけを知っていれば、奪わずに済む夜はいくらでも作れる。奪わない夜は、長持ちする。長持ちするものだけが、町の骨になる。
背後で、柳の葉が遅れて鳴った。鳴りは短く、音は軽い。軽い音に、総司は喉の奥で小さく咳をひとつ、溶かした。咳は、もう裏切り者ではない。静は紙の端を指で一度、折って戻し、蓮は槍の柄の継ぎ目を指で撫でた。継(つ)ぎは跡を残さない。残すのは、手のひらの皮に移った薄い湿りだけだ。湿りは、紙の味方。味方がいる夜は、勝ち負けを数えない。数えないまま、朝になる。
そして、朝は来る。川の色は灰の底に青を少し混ぜ、柳は葉の裏に白を抱く。舟灯は袋から外され、芯は冷えて小さくなる。誰かが薄絹を乾かし、誰かが透かしの筋を灯に透かして首を傾げる。透かしは、出ない。出ない理由は、誰にもわからない。わからないままでいい。わからないことが残る町は、よく息をする。息の長い町で、紙はまた、昼に文になる。夜は夜のまま、影の文を水に書き、紙の文で潰す。水と光、紙と影。その対位法が、今夜はうまく奏でられた。奏でられた音は、誰の耳にも残らない。残るのは、紙の折り目と、足の拍だけだ。
「水の文(ふみ)でやるつもりだ」と、夕刻の段取りで静が言った。「反射の数、滞(とどこお)りの長さ、色の濃淡。舟灯の影を合図にする。川は人の足跡を隠すけれど、合図まで隠すほど気前はよくない。隠すのは、合図の“途中”だけだ」
総司は頷き、欄干の木目を指の腹で撫でる。指に吸いつく樹の温さは、昼の陽が置いていったものだ。「途中をひっくり返す」と彼は言った。「途中に影を混ぜれば、反射読みは、読む前に一度、躓(つまず)く」
三条小橋の上では、夜見の人足が時折、鼻を鳴らしては肩をすくめた。湿りが皮膚に纏わりつく。河岸には、荷綱を巻いた桶、桟橋に結わえつけた小舟、橋脚に寄り添うように浮かぶ筏(いかだ)。橋の板は薄く鳴き、板間の影が水へ長い櫛の歯のように落ちている。敵は、その影と光の間(あわい)を使う。舟灯をわずかに傾け、反射の帯を河岸の目印石に重ねる。たとえば、「二つ長く、ひとつ短く」。あるいは「薄、濃、濃、薄」。水に書いた文は、消えやすく、だからこそ読む者は熱心になる。熱心は、盲目に似る。
静は簪(かんざし)を一度きり指で押し、銀の短い光を河岸の石に返した。返した光は合図ではない。自分の呼吸の拍を、総司に渡す手すさびだ。今夜、橋上に立つ“総司”と河岸に立つ“静”は、時おり入れ替わる。入れ替わるといっても、名を替えるのではない。所作の「癖(くせ)」を替える。団扇(うちわ)の骨で膝を軽く叩く癖、足指で板のささくれを噛む癖、袖の端で風を撫でる癖。癖を交換して、見る者の帳面を破る。敵は「反射読み」を信じる前に、まず「癖読み」で相手を見分けるからだ。
蓮はそのころ、橋の北詰の陰で十文字槍を解いていた。柄は二分割になっており、雇(ほぞ)に雌雄の鉄が嵌(は)めてある。普段は抜かない。だが今夜は、舟と舟の隙間に“押し”を作る必要がある。押すのは、力ではない。角度だ。角度を作るのは、柄の長さと柔らかさ。二本に分けた柄を、舟べりの高さに合わせて十字に組み、綱の上からそっと差し入れる。舟は重い。だが、重いものは小さな角度でよく動く。押して、抜かない。押して、預ける。預けた重みが、舟と舟の狭間を「通路」に変える。
川の上の密書の渡しは、眼に見えると思ってはいけない。見えるのは、いつも「代わり」だ。本物は、紙ではなく、水。紙は水の服を着て運ばれる。舟灯の反射は、その服の裾のひらめきだ。静は水の縁に踵を置き、足指で砂を捻(ひね)って、濡れの下に隠れた小石の感触を拾う。小石は流れの癖を覚えている。今夜の流れは、南から北へ薄く引いている。引きには、途中で“溜(た)め”がある。溜めは、合図に都合がいい。都合の良すぎる場所は、すでに敵のものだ。
総司は橋上で団扇を閉じ、骨だけを細く開いた。骨は音を出さないように、空気の厚みだけを弾く。欄干の縁に骨の影が格子に落ち、その格子が水に二重に映る。映りは遅れる。遅れの一拍が、敵の読みの中に「誤植」を作る。水上のふたつの光と、橋下のひとつの影。数は合っているようで合っていない。敵の帳面に、鉛筆で書かれた数字の「8」が「3」に見えるような、くだらないが致命的な錯覚を挿し込む。
最初の合図は簡単だった。上手(かみて)の待合舟が、舳先(へさき)を川の中央へひと筋だけ出し、油紙を被せた舟灯を半分だけ持ち上げる。水面に縦の細い帯が一本、渡る。対岸の柳の根元、腰を落として座る男が笠の縁を少し傾け、「受けた」の合図。渡る文(ふみ)は、舟板の裏に仕込んだ薄絹に写っている。薄絹は、川の湿りで“透かし”が濃く出る。透かしは印。印がなければ、誰が書いたか誰にもわからない。今夜の密書は、その透かしに価値がある。
「透かしを奪うのではなく、潰す」と静は昼の打合せで言った。「透かしは光の“隙”で出る。隙を、紙で“塞ぐ”。奪えば、追われる。潰せば、困る。困るのは、向こうだ」
総司は笑い、団扇の骨で膝を軽く打ち、そしてすぐ打たない癖に替えた。替え方は雑だが、雑さにも「型」がある。型は、見る者の思い込みに似る。思い込みを飼いならして、餌を少しずつ違う手のひらからやる。そうして「どちらが誰か」を曖昧(あいまい)にしながら、位置を入れ替え続ける。橋上に立つ総司の影が河岸に降り、河岸の静の影が橋上へ伸びる。影と影が、欄干の彫り物の上でいったん薄くなって、川面で濃くなる。その濃さの差で、反射読みは「次の指示」を間違える。
蓮は二つの舟の舷(ふなばた)に、分割した柄をそっと差し込んだ。舟べりに布を一重、巻いてあるのは、人に見せる商いの丁寧のためだ。その布の柔らかさを利用し、柄の端を布越しに“咬(か)ませる”。咬ませて押すと、舟と舟の間に呼吸が生まれる。呼吸は通路になる。通路は、追う足と逃げる手を、意図せず同じ方へ運ぶ。蓮の押しは、舟を動かすためではない。舟と舟の「間」を動かすためだ。間が動けば、人が動く。人が動けば、合図の石はずれる。
夜が深くなるほど、舟灯の明かりは小さく太る。油が冷えて粘り、芯が短くなり、火は息を短くして長く吐く。吐く拍が、敵の読み筋に使われる。総司は拍をひとつ、骨で抜く。抜かれた拍が、格子の影のどこかで失われ、川面に届かない。届かない時の“間”を、静は足の裏で受け取る。足裏に入った間は、次の一歩を半分長くし、半分短くする。その半分と半分の揺らぎが、水の反射に偽の拍を与える。偽の拍は、合図の帯の上に、ただの「揺れ」として紛れる。
敵はあせり始める。彼らの読みは、反射の帯の「位置」と「濃さ」と「間」。だが、橋の影が混ざり、格子の線がずれ、舟と舟の間隔が押され、帯は微妙に太り、薄くなる。蓮が押した通路が、もう一つの“逃げ”を生み、その逃げが敵自身の渡し役を遅らせる。遅れた合図は、次の合図を追い込む。追い込まれた合図は、過ちを生む。過ちは、音になる。舟灯の油皿の縁で、芯が短く擦れて小さな「ジュ」と鳴る。その鳴りで、静は舟灯の腹に油紙が二重に掛けられていることを知る。二重の油紙は、反射の濃淡を増幅するための「濾過」だ。
「濾過を逆に使う」と静は囁いた。総司は欄干の陰で笑い、団扇の骨をもう一度だけ開いた。開いた骨の影が、舟灯の二重の油紙の上に落ちる。その瞬間、油紙の二重は「三重」になり、反射の濃淡が極端に振れる。振れた濃淡は、読み手に「別の合図」と見せる。見せられた読み手は、柳の根元で笠を二度、逆に傾けた。逆の合図は、下手(しもて)の舟に伝わる。伝わった下手の舟が、予定より早く舳先を返す。返した舳先が、蓮の作った通路を塞ぎかけ、蓮は柄をほんの一寸、押し直した。押し直した角度で、舟は“戻され”ず、“滑らされ”る。滑った先に、こちらの通路は開く。
密書を運ぶ者は、人ではない。紙ではない。水だ。だが、紙は水の衣の中にいる。衣を脱がせれば、こちらが持ち帰ることができる。今夜は、脱がせない。脱がせると、追ってくる。追いを呼ぶと、川は騒ぎになる。騒ぎは、紙を破る。紙は破らず、困らせる。困らせるのは、紙で紙を“潰す”ことだ。
静は河岸の石の上で、懐から薄い和紙を取り出した。三椏(みつまた)を多めに、楮(こうぞ)を少し、砧(きぬた)の音が浅い紙。雪舟堂の薬包紙から一枚、余白をもらったものだ。彼女は紙を掌で温め、吐く息で湿りをほんの少し入れ、紙の地合いを“浮かせる”。浮いた地合いは、透かしを食う。紙の「目」の向きが、密書の薄絹の透かしと直角に合わされば、光は乱れる。乱れた光は、透かしを潰す。潰しても、紙は破れない。破れないから、向こうは何が起きたか分からない。わからないから、困る。
総司は橋の上から、静の手元に“拍”で合図を送った。骨で欄干を小さく一打。静は紙の端を、川面のすぐ上の湿(しめ)に当て、湿りを均す。均した紙を、密書の道が通るはずの反射の帯の上に、影として重ねる。重ねるのは、ほんのひと息。光が和紙を通って水に降りるその刹那、透かしの筋が狂い、帯の濃さが「濁り」に変わる。濁りは、読み手には破れかけの文章に見える。破れてはいない。だが、意味が途切れる。途切れれば、向こうは足を止める。
蓮は分割した柄の一本を抜き、別の舟の舷に差し替えた。舷の高さが一寸違うだけで、押しの力の入り方は変わる。変わった押しは、舟と舟の間を“ねじる”。ねじられた間を、密書の衣が通りかけ、通らない。通らない間に、上手の舟が「反射読み」のやり直しを始める。やり直しは、拍を余計に使う。余計な拍は、こちらの偽の拍に食われる。食われると、向こうの帳面の「今日の字配り」が崩れる。字配りの崩れた文は、届けるに値しない。値しないと、送るほうが困る。
「入れ替わるぞ」と、総司の影が言った。声ではない。欄干の上で足の重心を半指だけ外へ寄せ、その寄せが静の足裏に伝わる。静は河岸の石から橋脚の陰へ滑り、総司は橋上から欄干の内側へ体を引く。見る者の目には、橋上の人影が“静”、河岸の影が“総司”に映る。映りの交換は、苛立つ読み手の目をさらに苛立たせる。苛立ちは、合図に雑音を混ぜる。雑音を混ぜた合図は、読みを破綻させるための最良の「味付け」だ。
敵の伝達役は、柳の根元から腰を上げ、橋脚の影の長さを測り直した。測り直す指は、緊張で早い。早い指は、波の遅れを無視する。水は遅れる。遅れの中にこそ、合図のほんとうの「時間」がある。彼らはそれを見失う。見失った時間の隙に、静は第二の紙を用意した。今度は薄い雁皮(がんぴ)。透かしの筋をさらに柔らかく乱すための、わずかに光沢のある紙。彼女は二枚の紙を指の腹で滑らせ、紙と紙の間の空気を整える。空気は、紙の味方だ。空気が味方すると、光は紙の言うことを聞く。
総司は欄干の彫り物の上で団扇をほんの少しだけ開き、骨の影を川面の一角に置いた。置き方は四分の一。置いた影の角に、静の雁皮が乗る。乗った瞬間、舟灯の反射の帯の中に、もうひとつ「帯」が生まれた。帯の重なりは、読みでは「強い意味」を示す。だが、それは偽。偽の強さに引かれて、伝達役は笠を深く傾けた。深く傾けるのは「急げ」の符牒。だが、急ぐと足は雑になる。雑になった足を、蓮の押しが待っている。
柄を間に差したまま、蓮は軽く腰を回した。舟と舟の間の角度が、一瞬だけ変わる。その瞬間、通路はまっすぐではなく、かすかに曲がる。曲がった道に、急ぐ足は弱い。急ぐ足の膝は、舟べりに置かれた縄に触れ、身体は前ではなく横へわずかに流れる。横に流れた身体は、反射の帯の「読み位置」から外れる。外れた読み位置で受け取った合図は、別の意味に変わる。変わった意味は、意味でなくなる。意味でなくなった文は、文であることをやめる。やめてしまえば、夜は静かになる。
上手の待合舟から、焦りの色の濃い灯がひとつ、持ち上げられかけた。油紙の上にさらに薄紙を被せ、色の濃淡を無理に作ろうとする。静はそれを待っていた。雁皮の二枚目を、今度はほんの紙一重、遅らせて重ねる。遅れは、水の遅れに合わせる。水の遅れは、一定ではない。風の向き、舟の揺れ、橋脚の影の太り。その全部を、足の裏と指でまとめて「一拍」にする。その一拍の遅れで、透かしの筋がもう一度、潰れる。潰れた筋は、もはや「印」ではない。印ではない文は、ただの紙の束だ。紙の束は、舟の腹で湿り、重くなる。重い紙は、伝えにくい。伝えにくいものは、伝えない。
「奪わない」の効き目は遅い。遅いが、深い。敵は懐を探る。何も減っていない。文はある。だが、読めない。読めない理由が分からない。分からないから、動きが鈍る。鈍った動きに、こちらは何もしない。何もしないことが、相手の足をさらに遅くする。遅さは、今夜の味方だ。
橋上の総司は、団扇を袖に入れ、足指で板のささくれを軽く噛んだ。噛み方は静のものに似ている。似せるためではない。似せたほうが、敵が勝手に「入れ替わり」の帳面を作るからだ。帳面は、いつか破れる。破れるまで、こちらは帳面を書かない。書かないところにだけ、すべる道がある。
蓮は押しの角度をゆるめ、通路を閉じかけた。閉じかけると、逃げる足は焦る。焦りは、光を見る。光は水に映る。映った光の濃さが、今夜は信用できない。信用できないと知っても、目は光を追う。追って、足を滑らせる。滑った足の先に、蓮の柄の丸みが待っている。丸みは刃でない。刃でないものは、斬らない。斬らないところで、もっとも深い傷がつく。傷は「勘」の上につく。勘が傷つけば、今夜の勝負は等分に割れ、明日はこちらへ転がる。
水の匂いが変わった。上流で誰かが桶を洗ったのだろう。木の渋と灰の薄い匂い。匂いの変化で、静は舟灯の油が替えられたことに気づく。新しい油はよく燃える。よく燃える火は反射の帯を細くする。細い帯は読みやすい。だから、いちばん壊しやすい。静は懐紙の端を水に軽く浸し、指で絞って、紙の「目」をさらに起こした。起きた目は、細い帯を広げる。広がった帯は、読み手の目には「ひとつ増えた」ように映る。一つ増えた帯は、合図の意味をひとつ、ずらす。ずれた意味は、舟の上で言い争いを呼ぶ。言い争いは声。声は、橋脚で丸くなる。丸くなった声は、こちらの耳に届かない。
総司は橋の欄干から、河岸の石へ静かに降りた。降りた影は、橋上へ残る。残った影は、欄干の飾りの上でゆらぎ、川面に二度、落ちる。二度落ちた影の間に、蓮の押した通路が光の帯を変える。変わった帯を、静の紙が潰す。潰された帯は、読み手の指を止める。止まった指は、笠の縁を持ち直す。持ち直しは遅い。遅いところで、夜は息を長くする。
密書の衣—薄絹に織り込まれた透かし—は、今や紙の重なりで息をしづらそうにしている。息を奪ったのは水ではない。紙だ。紙と紙の間の空気だ。空気が味方をすると、光は裏切る。光が裏切ると、読みは破れる。破れた読みは、誰かの顔を険しくし、誰かの指を早くする。早くなった指が、油皿の芯を口惜しげにいじる。芯の傾きは、影の傾きに効く。影の傾きは、蓮の押しに効く。押しの角度が、足の向きを決める。足の向きが、文の行方を決める。行方は、こちらが決める。決めると言っても、触れはしない。触れずに、決める。
「もういい」と、静の背が言った。総司は頷き、橋の上の夜見に聞こえぬほど小さく骨を一打した。蓮は柄を抜き、舟べりの布の皺を指で撫でて伸ばし、押しの跡を消した。消した跡は、誰にも見えない。見えるのは、舟と舟の距離のほんのわずかな「疲れ」だけだ。疲れは、明日の朝、誰かが舟を洗うときに指先で感じる。感じた者は、首を傾げる。傾げるだけでいい。それが今夜の勝ちだ。
敵は「渡した」と信じたい。だが、受け手は「読めない」。読めないものを渡された怒りは、送り手に向く。向け合っているあいだに、夜は終わる。終われば、川はまたただの水になる。水は、何も覚えない。覚えさせるのは人間だ。覚えたものは、いつか忘れる。忘れないのは、紙の折り目だけだ。折り目は、紙の骨である。骨は折らない。折らず、撫でる。撫でて、潰す。
橋上と河岸で、総司と静は最後に一度だけ、位置を入れ替えた。入れ替わりは、告げない。告げない入れ替わりは、川の風の角度のように自然だ。自然に見えるものほど、よく働く。働いたものほど、跡を残さない。残さない夜は、明日、誰のものにもなる。
蓮は分割した柄を雇に戻し、十文字の穂を布で包み、槍袋に収めた。石突は濡れていない。濡れていないのに、川の冷えが金属の芯に入っている。芯の冷えは、肩に載せるとすぐに温まる。温まるのは、自分の血のせいだ。血は、今夜、使わなかった。使わずに済む夜が、いちばんいい。使わずに済む夜のためにこそ、刃は研がれている。
上手の待合舟で、誰かが小さく舌打ちした。舌打ちは水に嫌われ、すぐに丸くなって沈んだ。対岸の柳の根元の読み手は、笠の内側で短く笑い、だが目は笑わなかった。笑いのない目で、彼は薄絹の透かしをもう一度、灯に透かした。透かしは、出ない。出ないのは、盗られたからではない。潰されたからだ。潰されたことに気づくには、紙を知っていなければならない。今夜、紙は、こちらの言い分だけを聞いた。
総司は橋の真ん中で立ち止まり、団扇の骨の一本を指で曲げ、すぐ戻した。戻すときの小さな音は、静にだけ届く高さ。静は河岸の石に足指を軽く噛ませ、紙の端を懐に戻した。紙は乾いている。乾いているのに、川の匂いを抱いている。匂いは、明日の段取りのために良い証となる。証は、他人に見せるためにあるのではない。自分に見せるためにある。自分で確かめた証だけが、次の夜の手を軽くする。
蓮は最後に一度だけ、川面を覗き込んだ。舟灯の反射は、もう合図ではない。ただの光の帯だ。帯は水に溶け、光は星に帰る。星は誰のものでもない。川も、橋も、影も。だが、紙だけは人のものだ。紙は、誰かが手で漉(す)き、干し、折り、書く。書かれたものは、夜に影をつくる。影を均せば、夜は平らになる。今夜、平らにしたのは、灯ではなく、紙だった。
撤収は、音を持たない。橋上の足音は板の間の柔らかい部分だけを選び、河岸の足は砂の湿りに沈む。舟は動かない。動かないように見えて、川は動いている。動いているものの上で、動かないふりをするのが、今夜の勝ち方だった。
帰り道、三条の町はすでに眠りに傾いていた。屋台の骨は解かれ、団子の焦げは石畳に薄く残り、酒の匂いは水の匂いに押し込まれている。静はふと立ち止まり、指の腹に残った紙の湿りを鼻先に寄せた。梅雨の名残のような、淡い湿り。湿りの中に、ほとんど消えかけた油紙の匂い。匂いは、敵の手が何をしたかを、最後にもう一度だけ教える。教えられたことは、次には通用しない。通用しないことを確かめるのが、段取りだ。
「困らせるだけで、いいのか」と、総司が言った。にやりと笑うでもなく、ただ喉の奥で声を転がす。
「困りは深い」と静は答えた。「困ると、彼らは自分たちの紙を疑う。紙を疑う者は、次に紙を粗末にする。粗末にされた紙は、次には味方にならない。味方をなくすのは、いちばん効く」
蓮は肩で槍袋の重みを受け直し、石突の位置を半指だけ前に送った。「押しは、困りと似ている」と彼は言う。「正面から押さない。角度で押す。角度で押されると、人は自分で勝手に横へ行く」
橋の下では、まだ遅い一艘が灯を曳きずっていた。遅れた灯は、もう合図ではない。遅れた分だけ、夜は静かになった。静かな夜は、物をよく映す。映ったものは、紙と影と水だけ。人の顔は、映らない。映らない夜は、よく眠れる。眠れる夜の翌日は、よく働ける。よく働く町では、紙は文になる。文は、昼に読む。夜には、夜の読みがある。今夜の読みは、ここで終わりだ。
三人は、何も明かさず、何も持ち帰らず、ただ歩幅を合わせて橋を離れた。拍は嘘をつかない。拍が教えるのは、名ではない。道だ。道は、水の上にも、紙の上にも、影の中にもある。あることだけを知っていれば、奪わずに済む夜はいくらでも作れる。奪わない夜は、長持ちする。長持ちするものだけが、町の骨になる。
背後で、柳の葉が遅れて鳴った。鳴りは短く、音は軽い。軽い音に、総司は喉の奥で小さく咳をひとつ、溶かした。咳は、もう裏切り者ではない。静は紙の端を指で一度、折って戻し、蓮は槍の柄の継ぎ目を指で撫でた。継(つ)ぎは跡を残さない。残すのは、手のひらの皮に移った薄い湿りだけだ。湿りは、紙の味方。味方がいる夜は、勝ち負けを数えない。数えないまま、朝になる。
そして、朝は来る。川の色は灰の底に青を少し混ぜ、柳は葉の裏に白を抱く。舟灯は袋から外され、芯は冷えて小さくなる。誰かが薄絹を乾かし、誰かが透かしの筋を灯に透かして首を傾げる。透かしは、出ない。出ない理由は、誰にもわからない。わからないままでいい。わからないことが残る町は、よく息をする。息の長い町で、紙はまた、昼に文になる。夜は夜のまま、影の文を水に書き、紙の文で潰す。水と光、紙と影。その対位法が、今夜はうまく奏でられた。奏でられた音は、誰の耳にも残らない。残るのは、紙の折り目と、足の拍だけだ。



