白梅の蕾が、霜を小さく噛んだ朝だった。京は澄んで、音の輪郭が鋭い。町医者・雪舟堂の暖簾はまだ半ばの高さで、薬研の歯が一度、空を噛む音が路地へ漏れていた。白梅の香りは甘いというより、骨の内側を冷やす。湯気に混ざれば、熱の輪郭がかえって見える。静はその香りを、茶の間の畳に低く座って受け止めた。点前の用意は、いつもより丁寧だ。炭の置き目、羽箒の払う順、柄杓の水を切る角度。すべてをほんの紙一枚ぶん遅くする。遅れを作るのは、香りを割るためだ。香は層を持つ。上に逃げる薄い層、真ん中でたゆたう層、畳に落ちる重い層。それらを時間で分ける。
彼女の前に置かれたのは、医師から密かに託された薬包紙ひとつ。白くて薄い、しかし、耳に僅かな茶色が混じる。三椏(みつまた)に少しだけ楮(こうぞ)を混ぜた紙。折りは、雪舟堂がいつも使う折り目ではない。角の返しが鋭すぎる。別の手が入っている。薬包を解かず、まず香を聞く。静は茶碗の白湯の湯気を低く引き寄せ、薬包紙の表面をわずかに温めた。紙の中の粉末が、熱に押されてひとしずく嗅ぎ取れる距離まで出てくる。最初に立つのは甘い。桂皮と丁字。掩(おお)い香。掩いの底に、土を焦がしたような、芯のない苦さ。附子(ぶし)。烏頭(うず)。山中の寒さを乾かして丸めた毒根の匂い。しかも、よく晒した上物ではない。湿りが残って、辛味が若い。混ぜた者は急いでいる。
「茶の湯で毒を見るのは、香の順序を探すこと」と、静はひとりごつ。点前の手は止めない。茶筅を打つ音は、毒の粒子を乱さないように軽く、しかし拍は崩さず。白梅を浮かべた白湯の表面に、微かな影が走った。香りが、二度、段を降りた合図だ。附子の下に、ほとんど見えないほどの薄い薬味—山椒の粉が混ざっている。舌先を麻痺で欺く古い手。香りを割って見せれば、欺きは隠れる場所を失う。
その茶室から半町離れた雪舟堂の診療所では、総司が子らに「風の稽古」をつけていた。稽古といっても、刀ではない。座敷の障子をほんの指一つ開け、風鈴の紐を長く垂らし、子どもにそれを「鳴らさずに通る」ことを教える。息の置き場所を変える。足の裏の重みを、半歩ごとに指と踵のあいだに往復させる。袖の布で空気を押さぬこと。笑いを吸って、吐くときに笑いを返すこと。子らは笑って、しかし真剣に、それぞれの呼吸を整える。風鈴は鳴らない。鳴らさないことを遊びにして、風の癖を体に移す。これは遊びであり、隣の調剤台の秤の音を紛らせるためでもある。
秤は黙っているようで、よく喋る。雪舟堂の調剤台に据えられた天秤は、皿の縁に磨り減った艶があり、古い錘(おもり)の底には指の油の輪が重なっている。総司は子らの「風の稽古」の合間に、視線だけで秤の癖を拾っていた。五匁の錘は、側面の「五」の刻みの上にごく薄い鉄粉が残る。削った跡。底面は布で磨いてあるが、角の一つがわずかに甘い。六分が「消えて」いる。六分。附子を混ぜるとき、ひと匙の六分で効きが変わる。誰がこれを触ったか。雪舟堂の医師ではない。彼は真っ直ぐに秤を扱う。他所が持ち込んだ錘か、あるいは、錘を入れ替える「指」の持ち主が別にいる。
診療所の縁側には、白梅の枝が一尺ほどの高さで活けてある。蕾は白磁の珠のようで、まだ開き切らない。総司はその香りを胸の奥に通し、咳の影を深いところに押しやった。咳は敵を呼ぶ。今は子に風を教える口実で、調剤台の秤に敵の名前を喋らせる。錘の箱の蓋の裏に、指で触ったときの油が、たしかに「温い」癖を残す。温い指の主は、朝の冷えを知らぬ場所から来る。庫裏か、井戸の近く。水の匂いを帯びぬ指。
冬の陽が傾き、白梅の影が畳の端で細く伸びる頃、雪舟堂の医師から書付が届いた。薬包紙の裏に、短い文字がある。《附子、圧。山椒で掩う。供給・伏見唐薬種屋/帳面上は桂皮厚し》。その紙を静は茶の間で受け、点前の最後の湯を捨て、その湯で紙の端を湿らせた。湿らせると、紙の繊維はもう一段、声を持つ。三椏の繊維の間に、細い黒い繊維が混じっている。棕櫚(しゅろ)。包装の機(はた)の癖だ。伏見の唐薬種屋が使う裁断台の刃の傷と合う。紙で辿る指の道筋が、また一本つながる。
往復書簡の形は、手紙というより、紙の癖で行き交う。静は白梅の茶の湯で香を割り、紙で毒の系統を定め、総司は秤の癖で黒幕の指の温度を測る。蓮は、その二人の間の空気を繋ぐために、雪舟堂裏手の井戸に手を入れた。釣瓶(つるべ)は古く、桶の縁は幾度も縄で擦れて丸くなり、滑車の車輪の真ん中には、乾いた油が薄く固まっている。蓮はその油を布で拭い、車輪の軸にわずかに蜜蝋を足した。軽すぎず、重すぎず。「押す」ために「引く」。これが仕掛けの骨だ。
井戸の滑車は、普通は「引けば上がる」。だが、縄を二度回しにして道を変え、隣家の塀の裏に据えた竹の腕木に縄を通せば、「引く」が「押す」に変わる。人が逃げるときの肩の高さで門が「押される」ように。蓮は縄の通り道を屋根裏の垂木で隠し、門の蝶番の「遊び」を測った。遊びの狭い門は、押せば、二寸だけ素直に開く。素直な二寸が、逃げる者の脚の向きを変える。それだけで、路地は曲がる。
その日の夕刻、雪舟堂にひとりの男が現れた。衣は地味、帯は新しい、白粉の匂いを嫌う短い鼻。薬引きの顔だが、目が布に寄りすぎる。薬包紙の白を見る目ではなく、帳面の黒を見る目。彼は診療所の庭先で子らの稽古を見て笑い、「風を教える医者とは、珍妙な」と言った。総司は笑って受けず、風鈴を指さした。「鳴らすのは簡単。鳴らさぬのは難しい。薬も同じでしょう」男は笑い、しかし指先が動いた。錘の箱に行く人差し指。指腹は乾いた紙の粉で白い。唐薬種屋の倉に長くいる指ではない。帳場の指だ。
往復書簡の次は、静から医師へ。《附子は若い。加減の手が雑。帳に桂皮厚し—帳を厚く見せる遊び。秤の「五」に削り。錘の出所、伏見ではなく壬生の鋳物師》。その紙は、茶の席の懐紙に薄く墨で書かれ、裏に白梅の花粉がわずかに付いていた。医師はそれを薬箪笥の底に忍ばせ、患者の脈を取るふりで、診脈の間に紙を読む。彼の手は震えない。震えれば、毒の重みがバレる。震えない手で、震える錘を掴み、震えない声で、「今日は白梅の薬湯を出しましょう」と言う。梅肉を少し、白湯で溶き、舌の上に酸の薄い縁を作る。酸は舌に正直だ。附子の痺れは酸に弱い。毒を見てはっきり顔を変えることなく、医師は白梅の影で毒の顔を洗う。
総司は診療所の奥の調剤台で、秤の皿の揺れが止まる瞬間の音を聞く。止まる音は高くない。だが、止まるときの「前」の無音の長さが、錘の底の角の甘さを語る。五匁は、実は四匁六分。誰かが軽くしている。軽くすれば、毒は一匙多くなる。多くなるのは、医師の手ではない。黒幕の「帳面」の都合に合わせた手だ。帳面の黒は、薬包紙の白より強い。だが、白は光る。白の光で、黒の線を見えなくする方法を、静は知っている。紙の折り目。包み方。薬包紙の「耳」が語ること。
蓮は裏の井戸に戻り、縄の張りを確かめる。「押す」仕掛けは、逃げる者の力を借りる。借りるのは、振り向かぬ肩の筋を通る線。逃げる者は、門を避けて角を曲がろうとして、逆に門の奥へ押し込まれる。押されると、角の先に置いた樽が倒れ、小さな音を路地に撒く。撒かれた音は、総司の耳に届く。耳に届いた音で、子らの稽古は終いになる。風鈴が最後に一度、鳴る。鳴って、止む。止んだ時の「間」を、総司は拾う。
夜、雪舟堂で三人は短く段取りを合わせた。鴨居に掛けた白梅の枝が、夜気を抱いて香りを強める。静は点前の手のまま、紙の話をした。「薬包紙は三椏に楮。裁断は伏見の唐薬。だが、帳の紙は壬生の簀(す)—縦糸が太く、墨の吸いが粗い。帳面を改める手は、商いの手で、薬の手ではない」総司は頷き、秤の話を重ねる。「五の錘が軽い。箱の蝶番の癖も新しい。錘を持ち込んだのは、今日の男のような『帳場の指』だ」蓮は縄の図を畳に描き、押す角度、曲げる角、転がす樽の置き目を指で示した。
翌朝、京の空は冷たく晴れ、白梅は昨日より気持ちよく開いた。雪舟堂の前で、薬引きの男が再び現れた。今日は袖に薄い香を付けている。附子の若い辛味を、香で掩うつもりだ。香の下に、また別の香—白檀—が薄くある。帳場の香。指は紙を触り、舌は茶を知らぬ。総司は子らを庭に出し、風の稽古に見せかけて男の視界を糸で満たす。風鈴の紐は白、梅の蕾も白、薬包紙も白。白で目を潰す。
静は茶の間で、白梅の薬湯を支度する。白湯に梅肉少し、生姜をほんの細く、葛を指先ほど。湯気を鼻腔に通し、香りの層をまた割る。附子は熱でよく香る。若い附子は、桂皮と丁字で掩っても、香の縁に粗さが残る。粗さの周りに浅い酸—梅—を置けば、粗さの輪郭が浮く。浮いた輪郭は、嗅いだ者の瞳孔に短い「迷い」を作る。迷う目は足を鈍らせる。鈍った足で、蓮の縄の角度に向かう。
医師は診療所で、いつもの患者の脈を取りながら、裏で帳面を開いた。帳面には、桂皮の仕入れが異様に太い字で重ねられ、丁字が薄く、附子は「別記」とある。別記の紙は剥がせるように薄い糊で留めてあり、剥がした跡に小さな剃刀の毛—鋼の微粉—が光る。壬生の鋳物師の印が、帳面の隅に押されていた。秤の錘を作る家の印だ。医師は白梅の香りのある白湯をすすり、胆を固めた。斬られてはならないのは、手ではない。紙を斬る刃を、鈍らせることだ。
昼過ぎ、男は患者の列が切れた隙に、帳場に滑り込んできた。白梅の枝に目をやり、笑って、「景気の良い香りですな」と言う。総司は笑いを返し、指で風鈴の紐を軽く押え、鳴らさずに離した。「香は、香りの方から働く。働いてしまえば、騙しは効かない」男は笑わず、秤の箱の蓋をつまんだ。蓋の蝶番は新しい。新しい蝶番は、軋む前に音を飲む。飲んだ音が、総司の耳の内側で膨らむ。彼は子らに声をかけた。「庭の梅に触るな。梅は目で飲め」
静は茶の間から帳場へ白湯を運び、男の前に置いた。「白梅の薬湯です。冬は、咽の働きが鈍るから」男は笑い、湯気をやり過ごし、手を伸ばした。指の腹に紙の粉が白い。湯気の縁で、指先が一瞬、止まった。附子の若い辛味が鼻を刺したのだ。香で掩っても、白梅の酸は掩いを剥がす。男の目の縁が、瞬き一つ分、迷う。その迷いの丁度その瞬間、蓮が裏の縄を引いた。引いて、押す。門の奥の腕木が、人の肩の高さで柔らかく押し出され、裏庭の角がひとつ、曲がる。逃げ道が、二寸、変わった。
医師は帳面を静かに閉じ、薬包紙の束を取り上げる。束の中から、折り目の角度が異なる包みを三つ抜いた。折り目の「耳」の角度が三分ほど鋭い。伏見の唐薬の裁断刃の癖。包みを解くと、中から白い粉に紛れて黒い点が見つかった。炭化した布—火口—の微片。附子を燻したときの残り。帳面と紙、香と秤、刃と布。すべての線が、同じところに合う。
男は湯を飲むふりで口に運び、机の下で錘の箱に手を伸ばした。総司の手が先に、箱の蓋に触れた。蓋は開かない。蝶番の脚に、いつのまにか紙片が挟まっていた。紙片には、「五→四・六」と墨で薄く。男の目が、白湯の湯気の向こうで狭くなる。狭くなった瞬間、静が低い声で言った。「帳を見ましょうか」
「帳は、医のものでは」と男が笑おうとした口は、笑い切らなかった。医師が帳を差し出し、薬包紙を並べたからだ。帳の桂皮の太字、丁字の薄字、附子の別記。薬包紙の折り目の角度、紙の繊維、棕櫚の筋、焼いた布の黒。秤の錘の底の甘さ、壬生の鋳物師の印。白梅の香りの酸に、附子の若さが浮かび、桂皮の掩いが薄まる時間。すべてが紙の上に並べられた。斬るに及ばず。紙が斬る。紙の裁きだ。
「この町医者の手を斬れば、附子を斬り損ねる」と総司が言った。声は低く、風鈴を鳴らさない。「手は、ここで人を救う。斬るべきは、帳の線だ。線を斬れば、紙が犯人を縛る」男は逃げようとし、膝で畳を蹴った。蹴った足は、裏庭の角で二寸曲げられた路地に向かうように仕込まれている。蓮の縄が押した二寸。門が肩を撫で、男は自分で自分の逃走を狭めた。狭い逃げ道の先で、樽が倒れ、音が路地に広がり、近所の目が風のように集まる。
静は紙を重ね、印の場所に指を置いた。「壬生の鋳物師・宗七の印。伏見の唐薬・利八の裁断癖。雪舟堂の折り目ではない耳。帳の桂皮の太字—高い仕入れは偽り。附子の別記—別の帳で計算。あなたの袖の香—帳場の木の香」指はどれも、斬らずに、しかし確実に、男の逃げ場を紙の上で狭めた。男は紙の上で足を取られ、現で足を取られ、膝が畳の目に沈む。
医師は長く息を吐き、白梅の薬湯を自分でひと口すすった。酸の輪郭が舌に広がり、静かに咽に収まる。「私は、斬られずに済むのですか」と、彼は誰にともなく言った。「手は必要です」と静。「誰かの脈に、春を探す手ですから」総司は頷き、咳の影をさらに奥へ押しやった。咳は、白梅の酸に和らいでいる。梅は、冬の咳の敵ではない。味方だ。
蓮は縄の張りをほどき、滑車の油を指で確かめた。蜜蝋は、まだ呼吸している。押す仕掛けは、二寸、世界を曲げただけだ。二寸で足りた。足りさせる段取りが、紙の裁きには要る。縄を外し、井戸の釣瓶をもとの高さに戻す。戻すことが、仕掛けの礼儀だ。仕掛けは跡を残さず、紙だけが残る。
その夜、往復書簡は最後の一通になった。医師から静へ。《手は残りました。患者は待ちます。附子は紙で縛れました。白梅の薬湯の配合、教えてください》。静は茶の間で懐紙をひろげ、短く返す。《湯八、梅肉一、葛少々、生姜ひとかけ。息は長く。拍は短く。香を割るまで、湯気を待つ》。総司はその紙を横から見て笑い、「風の稽古にも効く」と言った。子らは翌日、白梅の匂いのする座敷で、風鈴を鳴らさずに走る遊びをまた覚えるだろう。
紙の裁きは、刀より穏やかだが、最も効く。手を斬らず、指を折らず、息を詰めず、しかし逃がさない。白梅の枝は翌朝、やっと一輪を開いた。白は白のまま、しかし、香りの底に微かな蜜の色を持った。診療所の秤は、正しい重みを取り戻し、錘の箱の蝶番は油の匂いだけを残して静かになった。壬生の宗七は、鋳物師の名にかけて錘の面を改め、伏見の利八は、裁断刃を研ぎ直して「耳」を常の角度に戻した。帳場の男は、紙で縛られて奉行所の下へ送られた。奉行は紙しか見ない。紙がすべてを語るからだ。
静は茶の湯の片付けをしながら、白梅の薬湯を少しだけ自分に注いだ。点前で香りを割る手は、刀よりも長持ちする。香の層のように、段取りは重なり、誰の手にも渡る。総司は風の稽古で子らの笑いを拾い、風鈴は鳴らず、しかし、誰の耳にも風が通る。蓮は井戸の縄を最後にもう一度、手のひらで撫で、指の皮の浅い痺れを次の仕掛けの地図に写した。
白梅の影が畳の端で短く揺れ、湯の表面に、きれいな輪が一つだけ立った。輪はすぐに消えた。消えたが、手の中に、温みだけが残った。紙の裁きは、温い。温いもので縛られた者は、二度と同じ手を使わない。冷たい刃では、そうはならない。医師の手は、翌日また、誰かの脈に春を探す。総司の咳は白梅に溶け、静の点前は毒の香りを割り、蓮の縄は見えない二寸を曲げ続ける。穏やかで、しかし、確かなことだけが積もる。
往復書簡は、その後も時折、薬包紙や懐紙の裏に短く続いた。薬の名、紙の名、風の名。書かれるのは、斬らずに済ませるための段取りばかりだ。白梅の季節が終わっても、紙は春を覚えている。紙に書かれた拍は嘘をつかない。紙の折り目は道であり、秤の癖は声であり、井戸の縄は風である。三つが揃えば、刀はいらない。
京の空は高く、白梅は遅れて咲く枝を二つ三つ残し、雪舟堂の暖簾は昼の風に少しだけ揺れた。揺れた拍が、午後の「間」にぴたりと合う。合ったところで、三人はそれぞれの歩幅で町へ散る。紙の裁きが終わった日ほど、刀の鞘は軽い。軽い鞘の中で、鉄は眠る。眠らせておける日が続くようにと、誰も言葉にせず、白梅の香りの中で、ただ息を長くした。
彼女の前に置かれたのは、医師から密かに託された薬包紙ひとつ。白くて薄い、しかし、耳に僅かな茶色が混じる。三椏(みつまた)に少しだけ楮(こうぞ)を混ぜた紙。折りは、雪舟堂がいつも使う折り目ではない。角の返しが鋭すぎる。別の手が入っている。薬包を解かず、まず香を聞く。静は茶碗の白湯の湯気を低く引き寄せ、薬包紙の表面をわずかに温めた。紙の中の粉末が、熱に押されてひとしずく嗅ぎ取れる距離まで出てくる。最初に立つのは甘い。桂皮と丁字。掩(おお)い香。掩いの底に、土を焦がしたような、芯のない苦さ。附子(ぶし)。烏頭(うず)。山中の寒さを乾かして丸めた毒根の匂い。しかも、よく晒した上物ではない。湿りが残って、辛味が若い。混ぜた者は急いでいる。
「茶の湯で毒を見るのは、香の順序を探すこと」と、静はひとりごつ。点前の手は止めない。茶筅を打つ音は、毒の粒子を乱さないように軽く、しかし拍は崩さず。白梅を浮かべた白湯の表面に、微かな影が走った。香りが、二度、段を降りた合図だ。附子の下に、ほとんど見えないほどの薄い薬味—山椒の粉が混ざっている。舌先を麻痺で欺く古い手。香りを割って見せれば、欺きは隠れる場所を失う。
その茶室から半町離れた雪舟堂の診療所では、総司が子らに「風の稽古」をつけていた。稽古といっても、刀ではない。座敷の障子をほんの指一つ開け、風鈴の紐を長く垂らし、子どもにそれを「鳴らさずに通る」ことを教える。息の置き場所を変える。足の裏の重みを、半歩ごとに指と踵のあいだに往復させる。袖の布で空気を押さぬこと。笑いを吸って、吐くときに笑いを返すこと。子らは笑って、しかし真剣に、それぞれの呼吸を整える。風鈴は鳴らない。鳴らさないことを遊びにして、風の癖を体に移す。これは遊びであり、隣の調剤台の秤の音を紛らせるためでもある。
秤は黙っているようで、よく喋る。雪舟堂の調剤台に据えられた天秤は、皿の縁に磨り減った艶があり、古い錘(おもり)の底には指の油の輪が重なっている。総司は子らの「風の稽古」の合間に、視線だけで秤の癖を拾っていた。五匁の錘は、側面の「五」の刻みの上にごく薄い鉄粉が残る。削った跡。底面は布で磨いてあるが、角の一つがわずかに甘い。六分が「消えて」いる。六分。附子を混ぜるとき、ひと匙の六分で効きが変わる。誰がこれを触ったか。雪舟堂の医師ではない。彼は真っ直ぐに秤を扱う。他所が持ち込んだ錘か、あるいは、錘を入れ替える「指」の持ち主が別にいる。
診療所の縁側には、白梅の枝が一尺ほどの高さで活けてある。蕾は白磁の珠のようで、まだ開き切らない。総司はその香りを胸の奥に通し、咳の影を深いところに押しやった。咳は敵を呼ぶ。今は子に風を教える口実で、調剤台の秤に敵の名前を喋らせる。錘の箱の蓋の裏に、指で触ったときの油が、たしかに「温い」癖を残す。温い指の主は、朝の冷えを知らぬ場所から来る。庫裏か、井戸の近く。水の匂いを帯びぬ指。
冬の陽が傾き、白梅の影が畳の端で細く伸びる頃、雪舟堂の医師から書付が届いた。薬包紙の裏に、短い文字がある。《附子、圧。山椒で掩う。供給・伏見唐薬種屋/帳面上は桂皮厚し》。その紙を静は茶の間で受け、点前の最後の湯を捨て、その湯で紙の端を湿らせた。湿らせると、紙の繊維はもう一段、声を持つ。三椏の繊維の間に、細い黒い繊維が混じっている。棕櫚(しゅろ)。包装の機(はた)の癖だ。伏見の唐薬種屋が使う裁断台の刃の傷と合う。紙で辿る指の道筋が、また一本つながる。
往復書簡の形は、手紙というより、紙の癖で行き交う。静は白梅の茶の湯で香を割り、紙で毒の系統を定め、総司は秤の癖で黒幕の指の温度を測る。蓮は、その二人の間の空気を繋ぐために、雪舟堂裏手の井戸に手を入れた。釣瓶(つるべ)は古く、桶の縁は幾度も縄で擦れて丸くなり、滑車の車輪の真ん中には、乾いた油が薄く固まっている。蓮はその油を布で拭い、車輪の軸にわずかに蜜蝋を足した。軽すぎず、重すぎず。「押す」ために「引く」。これが仕掛けの骨だ。
井戸の滑車は、普通は「引けば上がる」。だが、縄を二度回しにして道を変え、隣家の塀の裏に据えた竹の腕木に縄を通せば、「引く」が「押す」に変わる。人が逃げるときの肩の高さで門が「押される」ように。蓮は縄の通り道を屋根裏の垂木で隠し、門の蝶番の「遊び」を測った。遊びの狭い門は、押せば、二寸だけ素直に開く。素直な二寸が、逃げる者の脚の向きを変える。それだけで、路地は曲がる。
その日の夕刻、雪舟堂にひとりの男が現れた。衣は地味、帯は新しい、白粉の匂いを嫌う短い鼻。薬引きの顔だが、目が布に寄りすぎる。薬包紙の白を見る目ではなく、帳面の黒を見る目。彼は診療所の庭先で子らの稽古を見て笑い、「風を教える医者とは、珍妙な」と言った。総司は笑って受けず、風鈴を指さした。「鳴らすのは簡単。鳴らさぬのは難しい。薬も同じでしょう」男は笑い、しかし指先が動いた。錘の箱に行く人差し指。指腹は乾いた紙の粉で白い。唐薬種屋の倉に長くいる指ではない。帳場の指だ。
往復書簡の次は、静から医師へ。《附子は若い。加減の手が雑。帳に桂皮厚し—帳を厚く見せる遊び。秤の「五」に削り。錘の出所、伏見ではなく壬生の鋳物師》。その紙は、茶の席の懐紙に薄く墨で書かれ、裏に白梅の花粉がわずかに付いていた。医師はそれを薬箪笥の底に忍ばせ、患者の脈を取るふりで、診脈の間に紙を読む。彼の手は震えない。震えれば、毒の重みがバレる。震えない手で、震える錘を掴み、震えない声で、「今日は白梅の薬湯を出しましょう」と言う。梅肉を少し、白湯で溶き、舌の上に酸の薄い縁を作る。酸は舌に正直だ。附子の痺れは酸に弱い。毒を見てはっきり顔を変えることなく、医師は白梅の影で毒の顔を洗う。
総司は診療所の奥の調剤台で、秤の皿の揺れが止まる瞬間の音を聞く。止まる音は高くない。だが、止まるときの「前」の無音の長さが、錘の底の角の甘さを語る。五匁は、実は四匁六分。誰かが軽くしている。軽くすれば、毒は一匙多くなる。多くなるのは、医師の手ではない。黒幕の「帳面」の都合に合わせた手だ。帳面の黒は、薬包紙の白より強い。だが、白は光る。白の光で、黒の線を見えなくする方法を、静は知っている。紙の折り目。包み方。薬包紙の「耳」が語ること。
蓮は裏の井戸に戻り、縄の張りを確かめる。「押す」仕掛けは、逃げる者の力を借りる。借りるのは、振り向かぬ肩の筋を通る線。逃げる者は、門を避けて角を曲がろうとして、逆に門の奥へ押し込まれる。押されると、角の先に置いた樽が倒れ、小さな音を路地に撒く。撒かれた音は、総司の耳に届く。耳に届いた音で、子らの稽古は終いになる。風鈴が最後に一度、鳴る。鳴って、止む。止んだ時の「間」を、総司は拾う。
夜、雪舟堂で三人は短く段取りを合わせた。鴨居に掛けた白梅の枝が、夜気を抱いて香りを強める。静は点前の手のまま、紙の話をした。「薬包紙は三椏に楮。裁断は伏見の唐薬。だが、帳の紙は壬生の簀(す)—縦糸が太く、墨の吸いが粗い。帳面を改める手は、商いの手で、薬の手ではない」総司は頷き、秤の話を重ねる。「五の錘が軽い。箱の蝶番の癖も新しい。錘を持ち込んだのは、今日の男のような『帳場の指』だ」蓮は縄の図を畳に描き、押す角度、曲げる角、転がす樽の置き目を指で示した。
翌朝、京の空は冷たく晴れ、白梅は昨日より気持ちよく開いた。雪舟堂の前で、薬引きの男が再び現れた。今日は袖に薄い香を付けている。附子の若い辛味を、香で掩うつもりだ。香の下に、また別の香—白檀—が薄くある。帳場の香。指は紙を触り、舌は茶を知らぬ。総司は子らを庭に出し、風の稽古に見せかけて男の視界を糸で満たす。風鈴の紐は白、梅の蕾も白、薬包紙も白。白で目を潰す。
静は茶の間で、白梅の薬湯を支度する。白湯に梅肉少し、生姜をほんの細く、葛を指先ほど。湯気を鼻腔に通し、香りの層をまた割る。附子は熱でよく香る。若い附子は、桂皮と丁字で掩っても、香の縁に粗さが残る。粗さの周りに浅い酸—梅—を置けば、粗さの輪郭が浮く。浮いた輪郭は、嗅いだ者の瞳孔に短い「迷い」を作る。迷う目は足を鈍らせる。鈍った足で、蓮の縄の角度に向かう。
医師は診療所で、いつもの患者の脈を取りながら、裏で帳面を開いた。帳面には、桂皮の仕入れが異様に太い字で重ねられ、丁字が薄く、附子は「別記」とある。別記の紙は剥がせるように薄い糊で留めてあり、剥がした跡に小さな剃刀の毛—鋼の微粉—が光る。壬生の鋳物師の印が、帳面の隅に押されていた。秤の錘を作る家の印だ。医師は白梅の香りのある白湯をすすり、胆を固めた。斬られてはならないのは、手ではない。紙を斬る刃を、鈍らせることだ。
昼過ぎ、男は患者の列が切れた隙に、帳場に滑り込んできた。白梅の枝に目をやり、笑って、「景気の良い香りですな」と言う。総司は笑いを返し、指で風鈴の紐を軽く押え、鳴らさずに離した。「香は、香りの方から働く。働いてしまえば、騙しは効かない」男は笑わず、秤の箱の蓋をつまんだ。蓋の蝶番は新しい。新しい蝶番は、軋む前に音を飲む。飲んだ音が、総司の耳の内側で膨らむ。彼は子らに声をかけた。「庭の梅に触るな。梅は目で飲め」
静は茶の間から帳場へ白湯を運び、男の前に置いた。「白梅の薬湯です。冬は、咽の働きが鈍るから」男は笑い、湯気をやり過ごし、手を伸ばした。指の腹に紙の粉が白い。湯気の縁で、指先が一瞬、止まった。附子の若い辛味が鼻を刺したのだ。香で掩っても、白梅の酸は掩いを剥がす。男の目の縁が、瞬き一つ分、迷う。その迷いの丁度その瞬間、蓮が裏の縄を引いた。引いて、押す。門の奥の腕木が、人の肩の高さで柔らかく押し出され、裏庭の角がひとつ、曲がる。逃げ道が、二寸、変わった。
医師は帳面を静かに閉じ、薬包紙の束を取り上げる。束の中から、折り目の角度が異なる包みを三つ抜いた。折り目の「耳」の角度が三分ほど鋭い。伏見の唐薬の裁断刃の癖。包みを解くと、中から白い粉に紛れて黒い点が見つかった。炭化した布—火口—の微片。附子を燻したときの残り。帳面と紙、香と秤、刃と布。すべての線が、同じところに合う。
男は湯を飲むふりで口に運び、机の下で錘の箱に手を伸ばした。総司の手が先に、箱の蓋に触れた。蓋は開かない。蝶番の脚に、いつのまにか紙片が挟まっていた。紙片には、「五→四・六」と墨で薄く。男の目が、白湯の湯気の向こうで狭くなる。狭くなった瞬間、静が低い声で言った。「帳を見ましょうか」
「帳は、医のものでは」と男が笑おうとした口は、笑い切らなかった。医師が帳を差し出し、薬包紙を並べたからだ。帳の桂皮の太字、丁字の薄字、附子の別記。薬包紙の折り目の角度、紙の繊維、棕櫚の筋、焼いた布の黒。秤の錘の底の甘さ、壬生の鋳物師の印。白梅の香りの酸に、附子の若さが浮かび、桂皮の掩いが薄まる時間。すべてが紙の上に並べられた。斬るに及ばず。紙が斬る。紙の裁きだ。
「この町医者の手を斬れば、附子を斬り損ねる」と総司が言った。声は低く、風鈴を鳴らさない。「手は、ここで人を救う。斬るべきは、帳の線だ。線を斬れば、紙が犯人を縛る」男は逃げようとし、膝で畳を蹴った。蹴った足は、裏庭の角で二寸曲げられた路地に向かうように仕込まれている。蓮の縄が押した二寸。門が肩を撫で、男は自分で自分の逃走を狭めた。狭い逃げ道の先で、樽が倒れ、音が路地に広がり、近所の目が風のように集まる。
静は紙を重ね、印の場所に指を置いた。「壬生の鋳物師・宗七の印。伏見の唐薬・利八の裁断癖。雪舟堂の折り目ではない耳。帳の桂皮の太字—高い仕入れは偽り。附子の別記—別の帳で計算。あなたの袖の香—帳場の木の香」指はどれも、斬らずに、しかし確実に、男の逃げ場を紙の上で狭めた。男は紙の上で足を取られ、現で足を取られ、膝が畳の目に沈む。
医師は長く息を吐き、白梅の薬湯を自分でひと口すすった。酸の輪郭が舌に広がり、静かに咽に収まる。「私は、斬られずに済むのですか」と、彼は誰にともなく言った。「手は必要です」と静。「誰かの脈に、春を探す手ですから」総司は頷き、咳の影をさらに奥へ押しやった。咳は、白梅の酸に和らいでいる。梅は、冬の咳の敵ではない。味方だ。
蓮は縄の張りをほどき、滑車の油を指で確かめた。蜜蝋は、まだ呼吸している。押す仕掛けは、二寸、世界を曲げただけだ。二寸で足りた。足りさせる段取りが、紙の裁きには要る。縄を外し、井戸の釣瓶をもとの高さに戻す。戻すことが、仕掛けの礼儀だ。仕掛けは跡を残さず、紙だけが残る。
その夜、往復書簡は最後の一通になった。医師から静へ。《手は残りました。患者は待ちます。附子は紙で縛れました。白梅の薬湯の配合、教えてください》。静は茶の間で懐紙をひろげ、短く返す。《湯八、梅肉一、葛少々、生姜ひとかけ。息は長く。拍は短く。香を割るまで、湯気を待つ》。総司はその紙を横から見て笑い、「風の稽古にも効く」と言った。子らは翌日、白梅の匂いのする座敷で、風鈴を鳴らさずに走る遊びをまた覚えるだろう。
紙の裁きは、刀より穏やかだが、最も効く。手を斬らず、指を折らず、息を詰めず、しかし逃がさない。白梅の枝は翌朝、やっと一輪を開いた。白は白のまま、しかし、香りの底に微かな蜜の色を持った。診療所の秤は、正しい重みを取り戻し、錘の箱の蝶番は油の匂いだけを残して静かになった。壬生の宗七は、鋳物師の名にかけて錘の面を改め、伏見の利八は、裁断刃を研ぎ直して「耳」を常の角度に戻した。帳場の男は、紙で縛られて奉行所の下へ送られた。奉行は紙しか見ない。紙がすべてを語るからだ。
静は茶の湯の片付けをしながら、白梅の薬湯を少しだけ自分に注いだ。点前で香りを割る手は、刀よりも長持ちする。香の層のように、段取りは重なり、誰の手にも渡る。総司は風の稽古で子らの笑いを拾い、風鈴は鳴らず、しかし、誰の耳にも風が通る。蓮は井戸の縄を最後にもう一度、手のひらで撫で、指の皮の浅い痺れを次の仕掛けの地図に写した。
白梅の影が畳の端で短く揺れ、湯の表面に、きれいな輪が一つだけ立った。輪はすぐに消えた。消えたが、手の中に、温みだけが残った。紙の裁きは、温い。温いもので縛られた者は、二度と同じ手を使わない。冷たい刃では、そうはならない。医師の手は、翌日また、誰かの脈に春を探す。総司の咳は白梅に溶け、静の点前は毒の香りを割り、蓮の縄は見えない二寸を曲げ続ける。穏やかで、しかし、確かなことだけが積もる。
往復書簡は、その後も時折、薬包紙や懐紙の裏に短く続いた。薬の名、紙の名、風の名。書かれるのは、斬らずに済ませるための段取りばかりだ。白梅の季節が終わっても、紙は春を覚えている。紙に書かれた拍は嘘をつかない。紙の折り目は道であり、秤の癖は声であり、井戸の縄は風である。三つが揃えば、刀はいらない。
京の空は高く、白梅は遅れて咲く枝を二つ三つ残し、雪舟堂の暖簾は昼の風に少しだけ揺れた。揺れた拍が、午後の「間」にぴたりと合う。合ったところで、三人はそれぞれの歩幅で町へ散る。紙の裁きが終わった日ほど、刀の鞘は軽い。軽い鞘の中で、鉄は眠る。眠らせておける日が続くようにと、誰も言葉にせず、白梅の香りの中で、ただ息を長くした。



