影双譚(かげふたつたん)

 夏の盛りの鋭さが少しやわらぎ、光が白砂を鈍く舐める午後、二条城の表庭と裏庭は、どちらも風の筋を別々に持っていた。表は松が風を裂いて陰を落とし、裏は竹が風を集めて簾の裏を撫でる。公儀の使者がこの日、この時刻に城を通り抜けるという風聞は、わざと流された匂いを持っていた。流した者は、風の通り道に針を仕込むつもりでいる。昼餉明けのうたた寝を、水の一滴で破るように。

 表庭の砂紋は朝のうちに掃き直され、松の根元には夏椿の白い花びらが二、三、まだ濡れていた。前庭の真ん中には、使者の輿が休めるための四阿が仮に設えられ、薄い絹の帳が風に持ち上がっては落ちる。遠目には国の威を飾る涼やかさだが、近目には目隠しの代わりにもなる。城門から四阿へ、四阿から二の丸の廊へ、直線で結ばれて見えるものは、実は曲がっている。庭師の手が、意図して道を曲げている。

 裏庭では、苔の光が表とは別の時刻を示していた。水盤の面は浅く、灌木の影がそこへ落ちる角度で、日の傾きを測れる。竹垣の結び目のひとつに、朝の露がまだしがみつき、竹の節のすぐ下で小さな光を忍ばせる。そこは風の始点だ。裏門は、表の格式とは無縁の、働く者のための口。だが、働く口は、刃にも向いている。十字槍の穂が似合うのは、そういう口だ。

 総司は表庭の端、松の幹を背に、薄い団扇を持って立った。団扇の骨で膝を一度叩く癖は、今日は封じてある。封じた代わりに、足指の使い方を変えた。砂の上で足の指を軽く噛ませ、砂のわずかな湿りで滑りを止める。それは本来、静の癖だ。ひと足に八分の力しか載せず、残り二分を指の中に隠す。動けば、白砂は音を出さない。動かずとも、その構えだけで、風の層の薄さを拾う。

 静は裏庭の庵の陰、簾の向こうで団扇を持った。だが、団扇の骨で膝を一度、短く叩いた。乾いた、しかし水の底に響くような音。彼女は今日、その癖を借りた。足指の使い方は、逆に総司の真似をする。足裏の中央に重さを通し、指は砂に触れない。そのための草履の緒の締め方まで、朝のうちに合わせてある。足の構えで見る者を欺く。所作で、個(こ)を崩す。

 「外の目を借りる連中は、癖に頼る」と、静は午(ひる)前の打ち合わせで言った。「顔は化けられる。衣も替わる。だが何かひとつ、判断の棒が欲しくなる。その棒が癖だ。骨を叩く、足指を咬む、袖の畳み方。棒に頼る者は、棒を折られると倒れる」

 総司は頷いた。団扇の骨は軽いが、音の芯は重い。今日はその芯を彼女に渡す。代わりに、静の足を借りる。足で風を読む。風は嘘をつかない。午後の光は、嘘を映す。光で人を見る者の眼は、いずれ眩む。眩む眼を、風が裏から引く。

 蓮は裏門の脇で、十文字槍を組み立てていた。柄は昨日の夜に油を拭っておいたので、手の内に吸いつく。十字の穂は光を嫌う。布で一重に巻き、巻いた布の端に指をかけて、すぐほどけるようにしてある。裏門の戸車の下、土に浅い溝が二筋、古い車輪で刻まれている。そこへ槍の石突を半分埋め、門が半ば以上開かぬように梃子を効かせる。門は「開く」のではなく「噛む」べきだ。噛んだ門は、敵の足を食うが、味方の足は通す。

 表庭の鴬張りの廊は、今日もよく鳴く。鳴くように鳴るのではない。鳴くことを廊が選ぶ。鳴かせない歩き方もある。板の節と節の「間」を踏むと、廊は黙る。今日は黙らせるべきではない。鳴きは、合図の一種だ。だが、合図を声で出すほど稚拙にはしない。鴬が鳴くのは、鳴かせたい相手にだけだ。

 城門が開き、公儀の使者の輿がなだらかに入る。御庭番が左右に散り、槍持ちが象徴のように立つ。表庭の砂が二度、軽く揺れる。総司は団扇の縁で白砂にごく小さな円を描き、指の先で崩す。静は裏庭で、簾の影の砂粒を親指で一つ、つまんだ。耳ではなく、砂で時刻を合わせる。太陽の位置が一筋、松の枝と枝の間を移り、影が四阿の柱を紙一枚ほど逃げる。

 風聞は、裏返すためにある。表に寄る噂の裏側で、矢の準備は裏庭の竹の上で進む。外の野から入る視線は、表庭の使者の動きと総司の所作を追う。癖で識別する瞳が、砂の上の足指に惑う。団扇の骨を叩く音は裏から届き、裏庭に立つ静の膝の骨の上で鳴る。その音を、表の耳が拾うことはない。だが、音の「時間」は共有されている。午の下り。影が短く、目が甘くなる頃合いに。

 最初の矢の影は、光の縁でしか見えない。松の影が少したわみ、白砂の上で鈍い切っ先が短く跳ねた。総司の団扇の骨が、膝ではなく砂を二度だけ叩く。白砂が音を飲む。団扇の布の縁が、日差しの中で一瞬、風と逆にめくれる。それは静だけに見える合図。裏庭の彼女は、足指を噛ませる代わりに、足裏の真ん中で苔を押さえ、身体を半足、陰から陽へ滑らせた。滑らせた刹那、二の丸の屋根の端が、矢の筋を切った。

 矢は、雨のようには来ない。来るときは、風の隙間で来る。隙間は数えることができる。ひとつ目は松の梢の下を、ふたつ目は庭石の頭(かしら)を。みっつ目は四阿の帳の縁を噛む。総司は足指を深く砂に咬み、膝をわずかに解いた。団扇の骨で膝を叩かず、代わりに骨の先で着物の裾を短く撫でる。静の癖を、表の陽光の中で演じる。見張る敵が、それを見分けの棒にするように。

 裏では静が、団扇の骨で膝を一度、打った。乾いた音は簾に吸われ、庵の中の水盆で細い輪を立てた。輪は大きくならず、ただ奥へ向かって消える。彼女は足裏の中央に重さを通し、指を使わずに苔の上を移る。総司の癖。背で簾を押し、草の端をほんのわずか踏む。踏まれた草は、踏まれたことを覚えていない。だが、踏んだ者の膝だけは、その短い記憶を持つ。

 「癖は個体の旗だ」と、蓮は裏門の柱に背をつけ、槍の柄の中ほどに指を掛けたまま思う。「旗は折れる。旗を変えてしまえば、敵は風向きを見失う」裏門の前には、荷車が一台、わざと斜めに置かれていた。車輪の軸が一本、緩んでいる。その緩みを十字槍の横木で受けると、門の下の土がさらにわずかに沈み、戸車はその溝に噛んだ。噛んだ門は、開こうとして自分の力で自分を締める。

 射手は、表と裏、二手に分かれている。表は、庭木の剪定に紛れて矢を放つ。裏は、竹の影の中に伏し、格子の隙から矢の腹を覗かせる。矢の腹に、光は宿らない。宿るのは風の息だけだ。その息を、総司と静は入れ替えた癖で受け流す。総司の足は静の指を持ち、静の膝は総司の骨を鳴らす。見張る眼は、個の棒を失って撹(かく)ぐ乱れる。

 ふいに、表庭の四阿の帳がわずかに跳ね上がった。誰かが内側から風を作ったのだ。使者の輿の中で、家臣の一人が扇を大げさにあおぎ、その風が帳を持ち上げた。表の作法をわきまえた男の無邪気な身振りが、矢の筋をひと筋、狂わせる。総司はその風に、こちらの風を重ねる。団扇を横に切って、砂の上に細い風の道を作る。出来たばかりの風は若い。若い風は、古い矢に勝つ。

 矢の先端が四阿の支柱に触れ、かすかな音を出した。音は鳴子のように響くべきでない。総司は耳を拒む。耳を拒むことで、足指が砂の温度を拾う。砂の奥の水気は、陽に少しだけ煽られている。その揺れに、矢の落ちる筋が重なる。彼はそこで団扇の骨を、初めて膝に一度打った。表の庭の真ん中で。乾いた音は、人には届かぬ高さで、松の梢に吸い込まれた。

 裏では静が、その音に応じて、団扇を逆手に持ち替えた。骨ではなく布の面で、膝の上を撫でる。撫でる音は鳴らない。だが、肌は覚える。膝の上に大地の拍を置く。それは、蓮の槍の石突に伝わる。石突は土を通して低く鳴り、門の枠の隙で振動を返す。返った振動は、槍の横木にかけた蓮の指に、薄い紙一枚ほどの厚みで届く。

 矢は連なっては来ない。散るほどに厄介だ。散らされた矢に対して、散らされた癖を返す。総司は静の足で、裏手へ半身返すように見えて進み、静は総司の膝で、表手へ半歩出るように見えて引く。どちらが正面で、どちらが側面か。その区別が、矢の腹の中で失われる。外から見れば、総司が表を守り、静が裏を支えている。だが、所作だけを追う眼には、互いの体に互いの癖がとり憑いて、名札が剥がれている。

 「癖で識る奴らは、癖が好きだ」と静は口の中で言った。「好きなものに、裏切られる」そのとおり、表の庭の石灯籠の陰から、顔も見せぬ射手が、団扇の骨の一打に合わせて矢を放った。ところが、矢は総司の膝の前の空気を切っただけで、彼には触れない。総司の膝は骨を叩いたが、その骨の持ち主は静であり、骨の呼吸は裏庭の簾の中にある。表の音で裏が動き、裏の息で表が止まる。

 蓮は裏門で、槍を少し寝かせた。寝かせることで、石突の噛みが深くなる。門の蝶番が、その身の中で音の準備をした。音は出ない。だが、出ようとした音の「前」を、蓮の掌が受け取った。門の向こうで、草履の底が土を一度、強く押した。押しに怒りがある。怒りは、足首の柔らかさを奪う。奪われた足首は、十字槍の横木の上で止まる。止めるために置いた横木ではない。噛ませるために置いた横木だ。噛まれた足は、抜けない。

 表庭では、輿の脇を進む総司の肩が一度、わずかに下がった。下がる角度は静のものだ。肩甲骨の滑りが、裾の動きで分かる。その裾の返り方を、石の上の影が受け止めた。影は短い。短い影は、速い。その速さで、矢の影が追いつけない。矢は速さで殺すが、影は速さで救う。総司は団扇を立て、その影をひとつ増やした。影は二つに見え、矢はその間に入り、微妙に逸れた。

 裏庭の庵の脇で、静は足をほんの指三本分、前へ滑らせた。滑らせるというより、砂を移した。足指を使わぬ総司の癖を、苔の上で借りる。指を使わぬ足は、離陸しない鳥のように地に貼りつく。貼りついた身体は、矢を呼ばない。呼ばなかったはずの矢が一筋、竹の隙間から無理に入りかけた。入りかけた矢の腹を、庵の雨樋から垂れた細い水が、偶然に打った。偶然に見えるものは、段取りの延長にある。午下(ひるさが)りの水は、風より遅く、矢より賢い。

 敵は、癖でこちらを識別していた。団扇で膝を打つリズム、扇の開きの角度、足指で砂を噛む深さ。だが、その癖をわざと混ぜられて、頭の中の帳面が破れ始めた。帳面を補うために、矢の数で押そうとする。押そうとしたところで、表と裏の風が交差する。交差の瞬間に、総司と静は、正面と側面を入れ替えた。総司の足が裏へ、静の膝が表へ。矢の腹が、行き先を失う。

 蓮のところへ、二人組が裏門から押し入ろうとした。ひとりは腕の筋が重い。もうひとりは足の運びが軽い。軽い足を前に出させ、重い腕を後ろに置き、重い腕に十字槍の横木を噛ませる。噛んだ瞬間、腕の主は自分の重みで自分を締める。蓮は穂で傷つけない。横木の角で、帯の結び目に軽く力をかける。結び目は自分の重さで締まり、彼は息を短くし、次の矢の風を失う。その隙に、軽い足の方の踝(くるぶし)の前で、地面の小石を爪で起こす。起こされた小石に足指が引っ掛かり、軽い足は軽さを失った。

 表庭の四阿の支柱の陰から、短い笛の音がひとつ走った。笛を吹いた者は、合図のつもりではない。汗を袖で拭った拍子に、腰の笛が鳴っただけだ。だが、その音の高さで、風の筋がわずかに見える。総司はその高さに団扇の骨を合わせ、膝を一度だけ、軽く打つ。音の高低に、矢の高さが引かれる。引かれた矢は、帳の縁を噛み損ね、松の枝葉で羽を少し割られ、腹を見せた。腹を見せた矢は、もう獲物ではない。

 静は裏で、雨落ちの石の光を指で弾いた。弾いた光は、庵の床板にひとつだけ反射を作る。その反射の上を、庭に置かれた箒の竹筋の影が横切る。影の速さは、矢の速さとは別のものだ。別のものを矢に見せると、矢は自分を見失う。射手が見ているのは、癖と影と風だ。そのどれもが、今は裏返っている。

 「入れ替わりは、告げない」と朝に決めた。告げてしまえば、棒を替えたことに気づかれる。告げないまま、棒の方をずらす。そのために、静は総司の足を持ち、総司は静の膝を持ち、蓮は門に自分の重さを預けた。重さは味方だ。軽いものは風に乗るが、重いものは風の下で道になる。

 矢の雨を無力化する、と言うのは簡単だ。実際には、雨にならないようにする。降り出す前に雲の形を変える。表では、松の枝と四阿の柱と輿の縁を結ぶ三角形の内側に、風の「空白」を作る。空白は、矢の足場を奪う。裏では、竹の節の間を走る風の「通路」をわずかに狭め、矢の腹が通れぬ幅にする。通れぬ腹は、矢を矢に戻す。武器である前に、ただの物にする。

 表庭の端で、総司が団扇を一度、開ききった。開ききるのは珍しい。彼はいつも半分、あるいは三分の一しか開かない。癖が、今日は裏返っている。それを見張る眼は、思考の骨を失い、手元の合図にすがる。「今だ」と誰かが言い、矢が三筋、ほぼ同時に来た。三筋のうち一本は高く、一本は低く、一本は読みの高さ。読みの高さのものだけが、危ない。危ない矢は、危ないと思わせる。その思いを、総司は風で殺す。団扇を閉じ、骨の先で砂に線を引き、足指でその線を崩す。崩れた線の上を、矢の影が滑って、位置をずらした。

 裏庭では、静が膝を二度、細く打った。表で総司が打っているかのように。音は竹に吸われ、竹の内側の水が、ひとしずく下へ落ちた。落ちた水は石に当たり、極小の音をつくる。その音に、蓮の手の中の槍の柄がほんの少しだけ、ぬるくなったように感じる。感じは妄りではない。道具は、味方の息の長さを覚える。覚えた道具は、噛むべき時に噛む。

 矢を放つ側は、数に頼りたくなる。頼るものが間違っていると、数は重いだけの石になる。石は投げれば落ちる。落ちるのは簡単だ。落ちさせるのが仕事だ。二条城の午下(ひるさがり)の陽は、矢の影を短くし、落ちる値打ちを低くする。落ちないものの方が、目には残る。総司の団扇、静の膝、蓮の槍の横木。どれも、落ちない。

 矢の筋が弱まり、表庭の空気が少し冷える。冷えたのではない。熱の向きが変わった。四阿の帳の内で、使者が短く咳をし、家臣がそれを隠すように咳をした。咳は音を呼ぶ。呼ばれた音が、鴬張りの廊の方へ逃げる。逃げた音に、庭の砂が応える。砂は、音を飲む。飲んだ音は、表では影になり、裏では水になる。

 蓮の前の二人組は、退くことができず、進むこともできず、ただ息を短くした。短い息は、命令を受ける側の息だ。命令を出す側は、今、表か裏か、どちらかの木陰で見ている。見ている眼は、癖で人を数える。数え間違えるように、静は団扇の骨で膝を三度、打った。総司は足指で砂に半月を描き、そこへ自分の足を半分だけ入れた。見張る眼には、そこに二人の総司がいるように見える。癖の棒は、もう折れている。

 最後の矢が、表庭の松の幹で肩を落とした。肩を落とした矢というのは、矢の命に従わなかった矢だ。命に従わぬものは、もう武器ではない。総司は団扇を閉じ、骨の先で膝を一度だけ、本当に打った。音は短い。短いが、裏の庵の水が、同じ短さで輪をひとつ作った。静は団扇をたたみ、足指を苔に噛ませ、息を長くした。長い息が、裏門の蝶番を撫でる。撫でられた蝶番は、鳴かない。

 使者の輿は表庭を抜け、二の丸の廊へかかる。鴬張りは、鳴いた。鳴いたことは、誰の耳にも届いた。だが、鳴きの由来は、誰にも届かない。鳴いたのは、敵に知らせるためではない。こちらに知らせるためでもない。場が、己の役目を果たした音だ。午下の光は、鳴きの上で、糸のように震えた。

 蓮は十字槍の横木をそっと外し、門の土の溝から石突を抜いた。抜いた跡は、土が自分で埋めた。門は、何もなかった顔で半ば閉じ、半ば開いている。働く口は、働いたことを隠すのがうまい。蓮は槍袋の中へ穂を戻し、手のひらの皮に残った振動を親指でなぞった。振動はもう、ない。ないということが、仕事の終わりだ。

 表庭の端で、総司は団扇を袖へ入れた。入れる動作が、静のいつもの淡白さを持っている。静は裏庭の庵から出、簾を締め、団扇を肩へ挟んだ。その挟み方が、総司の癖に似ている。見張っていた者がこの光景を拾えば、帳面に「入れ替わり」と書くだろう。だが、その帳面に「本物」という欄はない。欄を作ってやる義理は、こちらにはない。

 輿は廊を渡り、二条城の表裏を通り過ぎた。昼の光は、表では白く、裏では青く、どちらでも音が薄い。人の声が戻り、庭師が箒を手にし、鯉が水面で短く口を開ける。風聞は、風に戻る。矢は、物に戻る。癖は、ただの癖に戻る。

 「行こう」と静は小さく言った。彼女の声は、午後の影の長さを知っている。総司は頷き、足指で砂を最後に一度噛ませた。噛ませ方は、もう自分のものに戻っている。蓮は槍袋の紐を結び直し、結び目に重さを少しだけ預けた。それぞれが、それぞれの癖に戻るのは、終わりの印だ。混ぜるために混ぜたものは、混ぜっぱなしにしない。戻すところまでが、段取りだ。

 彼らは振り返らない。表庭の松の枝越しに、誰かの視線がまだあることを知りながら。裏門の土の上に、靴の爪先の跡が浅く残っていることを知りながら。見張る眼は、今日も帳面に何かを書くだろう。その帳面が、今夜にはもう古くなっていることを、見張る眼は知らない。

 風が一度、二条の屋根を撫でた。撫でる風は、名を呼ばない。名を呼ばないから、誰が「本物」かを知らせない。知らせないまま、仕事は終わる。終わったことだけが、確かだ。矢は届かなかった。使者は通った。血は流れない。砂は音を飲み、鴬張りは鳴き、槍は噛んだ。

 城を離れる道すがら、総司は団扇の骨の一本を指で折り曲げ、すぐに戻した。骨は、戻るときにかすかな音を出す。その音が、静の膝の上で鳴った音に似ていた。静は足指の腹で草の茎を撫で、蓮は石突の先で小さな小石を押し、また戻した。戻すということが、今日いちばんの贅沢に思えた。

 外から見えるのは総司、裏に立つのは静。そう見えた者たちは、そう書く。書けば、安心する。安心したものは、古くなる。古くなったものは、砕けやすい。砕けるのは、次の風でいい。今日の風は、もう用を終えた。

 午後の光は、長くも短くもなく、ただ庭の石の輪郭をくっきりさせる。表裏の庭は、形に戻った。人の足は、形を壊さない。歩幅は揃い過ぎず、ずれ過ぎず、音を残さず。入れ替わりの午下(ひるさがり)は、誰のものでもなかった。風のものだった。

 角の茶店の軒で、氷水を割る音がした。音は高く、すぐ消えた。総司は喉の奥の静けさに、小さな礼を置いた。静は膝の骨を一度、軽く撫で、蓮は槍袋を肩にかけ直した。三人は、何も告げず、何も明かさず、ただ去る。背中に、松の匂いと、竹の水気と、土の温みを少しだけ纏って。

 後ろに残る者は、きっと問うだろう。どちらが「本物」か、と。問われた風は、答えない。答えぬことが、答えだからだ。癖はまた、明日も混ぜられる。混ぜられることを知らぬ眼だけが、いつも同じ帳面を信じる。信じる眼を通り過ぎ、次の庭へと、彼らは歩幅を合わせた。拍は、嘘をつかない。だが、拍が教えるのは、名ではない。道だけだ。