影双譚(かげふたつたん)

 天満宮の境内から川風が立ち上がり、橋の欄干に吊るされた竹の鈴が、乾いた舌で夏の端を舐めた。空は澄んで高く、雲は裂いた白布の端のように薄く伸び、陽はまだ柔らかい。町は祝祭のざわめきでふくらみ、屋台の味噌の匂い、飴の甘さ、焼いた団子の焦げが風に混ざる。紙鳶(かみだこ)競べの幟は紅白に揺れ、子どもらの笑いが空の底に小さな泡のように弾けていた。

 天満の空は広い。大川の水面が光を返し、屋根の鰭がその光を飲み込む。鳶の糸は細い線で空を縫い、色紙は魚の鱗のように陽を跳ね返す。六角、角凧、江戸奴、摺絵の役者顔、誇らしげな家名の墨書。風は正面からではなく、川と町の境で屈折していた。午の前、東南の底風と、川面から上がる返し風。その二つが、空の中に見えない層を作る。層の境は、紙一枚ほどの薄い斜面。そこを越えられるか越えられないかが、鳶の勝敗を分ける。

 総司は袖を軽くたくし上げ、子どもらの輪の外に立って空を見上げた。目を細める癖を捨て、瞼の奥で光を泳がせ、影の動きで風を測る。喉の奥では咳がひとつ、潜んでいた。だが今は押し込む。咳は空を乱す。音は糸の心を解かせる。総司は胸の内で息の長さを量り、呼吸と風の拍(はく)を重ねた。

 静は境内の横手、張見世の背に寄り、鳶の糸の「糸口」を見ていた。糸口は、指皮の褪せた男たちの爪で黒光りしている。人は競べの日には手の脂を拭き、糸を乾かす。なのに、ある糸だけは、指を滑らせた後に墨でもない、煤の薄い粉が爪の月に残った。油紙に火を食わせる、灯火の煙の匂い。ほんの微かな煤。静は自らの指の腹に、その粉の軽さを移し、掌の皺に埋めて確かめた。糸口の煤。火付けの影。

 「油紙が混じってる」と静は内に言葉を置いた。油引きの和紙は、光りの鈍さにわずかに違いが出る。陽に透かすと、影が柔らかく、輪郭が滲む。普通の美濃紙の張りは風を受けると音を立てるが、油紙は湿った舌のようにざらりとした音で風を舐める。そのざわめきがひとつ、混ざっている。狙いは風下。倉の棟。蔵の屋根に乗せる火。祝祭に紛れた火付けの計画。

 蓮は屋根筋を選び取る目で町を見渡し、槍袋から十文字の穂を抜かず、石突に布を堅く巻き直した。石突の重みの位置を指先で探り、瓦の鰭に糸を押し付けたときに切る“押し切り”の角度を、今の風に合わせて決める。屋根は繋がっている。梁と梁、桁と桁、屋根と屋根。その連なりを走れば、一本の糸の影は、瓦の目地に沿って見える。蓮は唇の裏側で二度、息を切り、足裏に重さを落とした。走る準備の足だ。

 この町の鳶師(とびし)は、火消と同じ字を背負う。火を消すために高みに立ち、火を読むために風を読む。だが、同じ文字がいつも同じ働きをするとは限らない。鳶の群れの中に、火を起こすために風を読む顔がある。静は顔ではなく手を見た。手は嘘をつきにくい。勝負に浮かれた手、稽古の手、油の手。油の手は、爪の周りに光を帯びる。灯芯を扱う人間の皮膚は、匂いを持つ。

 総司は子どもらの間に足を入れ、笑いを一本、声に乗せた。「もっと上げろ。空の色が変わるところまで。ほら、竹骨に風を通してやるんだ」わざと軽口を叩き、輪の中心をずらす。彼の声は柔らかいが、言葉の端にリズムがある。上げる、と言うたびに子どもは糸を放し、鳶は層の境に触れる。触れて震えた鳶は、ひとつ上の風を掴む。掴み損ねてもよい。大勢で一斉に“上げ過ぎさせる”のが狙いだ。空の同じ層に、色も形も違う影を重ねる。影は地に落ち、眼を惑わせる。地上で影を目印に火の軌道を測る者の計算を、底から崩す。

 「上げ過ぎたら落ちるぞ」と誰かの父親が笑い、子どもらは笑い返して糸をさらに繰り出した。糸巻きの円は早く、掌の皮は熱を帯び、汗が脂を混ぜて滑りを良くする。空の上、鳶の骨はきしみ、紙は鳴き、影はぶ厚く重って黒い陣を作る。その陣に、ひとつの鈍い光が紛れた。油紙の艶。静は、その艶の方角へ、目を解かずに指先だけを動かした。簪の銀が、陽を一度だけ返す。合図ではない。風の注連縄に結び目がひとつ多いときに見える光。誰の目にも見えるが、誰も気にしない光。

 静の視線の先、河岸の上手に陣取った鳶師一団の中に、頭領の顔があった。額が広く、眉に油が乗り、口元の笑いは薄い。袖に差した名札には、墨で大きく「沖田」とある。静はその字を見て、総司の袖口に差した紙片を思い浮かべた。昨夜、天満の路地の灯の下で、二人は名札を交換した。競べの寄付札の名義を逆にし、手元の札だけを無言で入れ替えた。名を名のままにしない。入れ替わりは告げない。風だけを告げる。

 油紙鳶は、形こそ六角の普通の装いをしているが、片方の角の内側に細い竹筒が仕込まれている。竹筒には火薬ではなく、炭化させた布—火口(ほくち)が詰められ、太い燐寸頭ほどの火がゆっくり進む。風に煽られぬよう、筒の口には和紙が二重に貼られ、糊に油を混ぜてある。糸には細く煤が移り、握れば爪の白に線が残る。火口が燃え尽きたとき、軽い炭片が落ちる設計だ。落ちる先は、風下の蔵の樋。そこに溜まった枯れ葉に火が着く。祭りの喧噪の中で、火の出を遅らせれば、誰も最初の一滴を見ない。

 静はその仕掛けを、煤の軽さと紙鳶の鳴きで読み切った。鳴きの芯が湿っている。普通の紙なら、骨の節が風にこすれて翅音を立てるが、油紙は音の根が重い。重い音は、風の薄い層で遅れて響く。響きの遅れと糸口の煤。それで足りる。風は嘘をつかない。紙と糸が、風の言い分を小さく漏らす。

 総司は輪の中心をさらに前へ押し、子どもらの鳶の高さを揃える。彼らに勝たせるためではない。影を揃えるためだ。影が揃えば、地上で影を目印に鳶を操る者が、自分の鳶の影を見失う。陽は昇り、影は短くなろうとしていたが、まだ十分長い。屋根の上の影を南へ走らせるには、今がいちばんいい。

 蓮は一方で、屋根から屋根へと渡り歩いた。瓦の目地のリズムを足の裏に覚え込み、梁の鳴りで家の骨格を読む。石突を瓦の鰭に斜めに押し当て、張った糸を押し切るのは、刀で斬るより静かで早い。押し切る瞬間、糸が石突と瓦の間で息を止め、次に細い破裂のように弾ける。音は風に紛れ、切れた糸だけが空で弛む。蓮は手に伝わる糸の震えで、切ったのが“どの鳶”かを把握する。重い震えは油紙、軽い震えは薄紙。さらに重いのは竹筒のせい。狙うべきは、重い。

 鳶師の頭領は、袖の「沖田」の名札を誇示するように掲げ、周りの男たちに笑いかけた。「見物だぜ、沖田。鉄火場で鳶を見るのははじめてか?」総司—の名札をつけた静は、群れの脇で無言のまま、その声の湿り具合を測った。声は乾いていない。油に塗れた声だ。自信の色は、風の読み違いから来ることもある。読み違いは、音に余計な艶を乗せる。

 その頭領の背後で、別の男が糸巻きに変わった握り方をした。普通は掌で丸を作って回すところを、彼は三本の指で摘み、糸を少し立てて巻く。糸を立てると、指の中で糸が擦れて煤が溜まる。指先の黒は、ひとの目は見落とすが、風は見落とさない。静は自らの爪の月に残った煤の線を、そこに重ねた。

 「もっと上げろ、もっと」と総司は子らを焚きつけながら、輪の外の空を斜めに見た。風の層は、いま二筋、低いところで絡み合っている。上の層に逃げた鳶は一瞬、浮くように止まり、次に川風で南東へ押される。その押しの角度に、油紙鳶がとらわれるように見えた。いい。影を重ねる密度が増せば、地上の目は狂う。風上の鳶を“天井”にして、下の風を淀ませる。淀みは、思い描いた軌道を鈍らせる。

 蓮の足は、町家の棟から味噌蔵の棟へと移った。蔵の屋根は重い瓦で、棟瓦に用心の鈍い苔が張りついている。苔は滑りやすい。だが、瓦の舌に乗せれば足は止まる。蓮は槍の石突で棟の角を探り、糸の影を待つ。影は一息遅れて瓦を過ぎる。遅れの半拍に合わせ、石突を押し当てる。細い鳴きが瓦の間で切れて、糸は落ちた。油紙の重い震え—手が痺れるような鈍さ—が石突から腕に伝わる。ひとつ、落ちた。

 空の奥、高く上げ過ぎた子どもらの鳶が、互いの影を地に重ね、地上の男たちの目を乱した。影を追っていた者は、自分の影の行方を見失い、腕の回しに遅れが出る。遅れは糸に伝わり、鳶の高度がじわりと落ちる。落ちるはずのない層で落ちる鳶は、風の“階段”を踏み損ねた印。そこへ油紙鳶が入ると、想定の道筋が崩れる。崩れた道は、切り取れる。

 頭領はそれでも笑っていた。袖の「沖田」を高く掲げ、勝利の名を先に呼ぶ。「沖田ァ、見ておけよ。風は斬れねえ」名札に集まる視線。彼の視界は名札の縁で狭まり、風の層の変化が眼から遠のく。静はその狭窄を冷ややかに受け止め、呼吸の長さを一つ、伸ばした。伸ばした息は、喉の奥に溜めていた咳を溶かす総司の息と、空の見えないところで重なる。

 そのとき、川上の方からひと筋、風が細く速く滑り込んだ。橋の下をくぐった風が、石垣の温みで膨らんで、空へ飛び上がる。空の層の角度が紙一枚、変わった。静は簪を指の腹で押し、光をいちど短く返す。合図ではない。風読みの指が、たまたまそう動いた。総司はそれを見ずに、しかし同じ瞬間、子どもらへ声を投げた。「もう一丁、上げ過ぎてみろ!」

 輪の中の糸巻きが一斉に唸った。糸が空へ音を残しながら走り、鳶の骨が層の上へ出る。上へ出た鳶の影が、下の層の影と重なり、地上の影は黒い沼のようになった。油紙鳶を地上の影で操っていた男は、影を失い、糸の張りでしか方角を測れなくなる。張りは嘘をつく。風は糸を引き、糸は手を騙す。男の腕に怒りの癖が出る。怒りは腕を固くし、手首の遊びを殺す。遊びのない糸は、鳶の腹を上に向ける。

 蓮はその腹の白を、棟瓦の隙間で捉え、石突を深く押しつけた。糸が瓦の角に悲鳴を残して切れ、油紙鳶は音もなく斜めに落ちた。落ち切らず、空の薄い層に捕まって、漂う。漂う先は、川。川面の水は冷たく、油紙の火を舐めれば、すすの匂いだけを残す。細い煙がひと筋、陽に溶けた。誰も気づかないほどの小ささで。

 頭領は、笑いを引っ込め、袖の名札を握りしめた。「沖田を出せ」と彼は言った。その声は、風を知らぬ直線で地面を叩いた。静は名札をつけた袖—“総司”—のまま、目を上げた。「沖田はそこにいる」と、頭領は指さした。その指の先には、子どもらに囲まれて、笑っている“静”—名札は「沖田」ではなく、別の名—がいる。総司は笑いの形のまま、その指を見なかった。風を見ていた。子どもの鳶が今まさに「天井」を越えて落ちかけ、影が一瞬、ほどけるのを。影がほどけると、地上の男の腕が迷う。迷う腕は、傍の男の肩に触れ、肩は怒りで上がる。上がった肩が、名札の紐を引く。名札が袖から外れ、地に落ちる。落ちる名が、風に乗らないことを、誰も覚えていない。

 「沖田という名は、風に関係がない」と静は言葉を持たずに言った。名は相手の目を束ねる紐であり、風を束ねる紐ではない。昨夜、名札を交換したとき、二人はその紐を切ったのだ。入れ替えを告げない。告げるのは風だけ。風は言葉を持たず、影と紙で話す。だから、風を読む者だけが、その話を聞ける。

 頭領は怒りで顔を濡らし、足を半歩、前に出した。半歩の角度が悪い。風下へ向かって、体を開いた。開いた体は、風の噛みつきを受け、次の言葉を舌の奥に押し戻す。「火は?」と誰かが背で聞いた。その誰かの手の爪の月は黒く、指の腹に煤がわずかに光った。静はその光を見ている。総司は見ない。蓮は屋根の上で、もう一本の重い糸を押し切りにかかっている。押し切る瞬間、空の奥で鳶がひとつ、紙魚のように斜めに走り、水の上に折れて消えた。

 祭りは続く。太鼓の囃子が、風の層に乗って上へ行き、鈴の音が下へ返る。子どもらは勝ち負けを笑い合い、母親は団子を小さく切って子の口へ運ぶ。火は出ない。蔵の棟は乾いたまま、陽だけを溜めている。油紙の火口は川に沈み、小さな泡をひとつ吐いて暗くなった。蓮は屋根の端に座り、石突の布をゆるめて汗を拭った。汗は塩の味が強い。目に入るとしみる。その痛みで、今の風の層の薄さをもう一度確かめる。

 頭領はなおも「沖田」を求めた。袖から名札を外し、掲げ、群衆の目をそこへ集める。だが、その名札は今朝、ただの紙切れだ。昨夜の入れ替えで、名と人の紐は切られている。総司—沖田と書かれた札を付けた静—が動かないのを見て、頭領はさらに苛つく。苛立ちは腕を硬くし、腕の硬さは糸を荒くする。荒い糸は、風の弱いところで鳶を叩く。叩かれた鳶は腹を見せ、石突を待つ身になる。蓮はその瞬間を逃さない。

 「風は斬れない、と言ったな」と総司は、子らの輪の向こうで、声を低くした。誰にも届かない声。自分の胸に向けた声。「斬らないで済ませるのが、いちばんいい」彼は咳をひとつ、静かに胸の奥でほどき、呼吸を長くした。長い呼吸は、子どもらの糸の手に落ち着きを移す。落ち着いた手は、上げ過ぎた鳶をきれいに引き戻す。引き戻された鳶の影が、地の黒い沼から離れ、地上の男たちの目がやっと自分の影を見つける。だが、遅い。

 静は頭領の顔から視線を外し、風上の端にいる、煤の爪の男の手元を見た。彼はまだ合図を待っている。火は落ちない。影は戻らない。合図のできない指は、迷いを生む。迷いは人を捕まえる紐だ。静は一歩、風上に滑り、男の横に立った。何も言わない。男の爪の黒を見せるだけ。爪の黒は男の目に入り、男は自分の指を見る。見ると、煤が見える。煤が見えると、指が震える。震えた指では、糸は操れない。操れない糸は、ただの線だ。線は風に従うしかない。

 「やめろ」と頭領は言った。誰に向けた言葉か、自分でも分かっていない。やめるべきは火付け。やめるべきは名で相手を縛ること。やめるべきは、風を見ないこと。だが彼の口から出る「やめろ」は、空を叩いて砕けた。風は言葉を運ばず、鳶の紙だけを運ぶ。紙は軽い。軽いものは、風の言い分に従う。

 蓮は最後の一本の重い糸を、屋根の鰭で押し切った。油紙鳶の腹は空の薄い層に沈み、ふわりと川へ吸い込まれた。水が小さく笑い、泡がひとつ割れた。終わり。火はどこにも出ていない。蔵は白く、影は黒く、町の味噌は無事で、団子の焦げは甘い。

 頭領は名札を握ったまま、手を下ろした。掌に汗が集まり、墨が少し滲んだ。その滲みを、静は見た。墨の滲みは、名を支える紙の弱さの印だ。紙は湿れば、墨の線が崩れる。名は湿れば、輪郭が薄くなる。風は湿りを運ぶ。名を薄くするのは、風だ。風は敵味方の名を知らない。知っているのは、層の角度と、紙の鳴きだけだ。

 「祭りを続けろ」と総司は輪の外で言った。今度の声は、子どもらの耳に届く声。子どもらは笑って、一歩、空へ走った。鳶はまた、色の競べに戻る。空に浮かぶ絵が、風に優しく揉まれ、糸は歌を取り戻す。石突の布を解いた蓮は屋根から跳び降り、静かに地へ着いた。足裏が地の硬さを思い出し、膝が短く曲がって伸びた。静は簪を外し、名札を袖から抜いた。名札の紙は薄く、風にひとつ、鳴った。

 頭領は人の輪の外に退き、誰にも見えぬところで名札を握り潰した。墨は汗でより滲み、指に黒が移る。その黒が、静の爪の月に残っていた煤の線と同じ色であることに、彼は気づかない。気づけばよかった。気づけば、風の言い分が少しだけ分かったかもしれない。

 静は総司の袖の名札を差し出し、無言で目を合わした。総司は頷き、名札を受け取って懐にしまい、何もつけなかった。名は、今朝の空には要らない。風だけで足りる。蓮は石突の布を洗う水を桶に求め、井戸端で老婆に一礼した。老婆は何も聞かず、水を差し出した。水は冷たく、布の油をよく剥いだ。

 太鼓が短く三つ、祝の拍を打つ。拍は風に乗り、空の層に吸われて、どこかへ消える。消えるが、確かに鳴った。風は嘘をつかない。鳴ったものは鳴った。鳴らなかったものは鳴らなかった。火が鳴らなかった朝。紙が鳴いて、風が笑って、名が滲んだだけの朝。

 総司は喉の奥の静けさに指を当て、咳を一つ、空に解いた。もう裏切り者ではない咳。静は指の腹についた煤を井戸水で落とし、爪の月が白く戻るのを見た。蓮は石突を乾いた布で拭き、槍袋に戻した。石突の先に残るわずかな黒は、水を含むと透明になり、布の目の中に消えた。

 祭りの終わりは、始まりより静かだ。人の足は疲れ、声は低くなる。空の鳶は少なくなり、最後に残った青の六角が、高い層でゆっくりと回っていた。風はそれを落とさず、持ち上げもしない。ただ、そこにいることを許す。許しというのは、風の得意な仕事だ。人は得意ではない。だから、人は風に倣えばいい。

 「入れ替わりは、告げないままでよかった」と静が言った。彼女の声は、午下がりの影のように短く、しかし涼しかった。

 「告げなくても、風が全部知らせてくれる」と総司は応じた。彼の目は、遠くの水面の光ではなく、近くの子どもの笑いに向いていた。笑いは軽い。軽いものは、よく風に乗る。

 蓮は屋根筋を見上げ、町の連なりをもう一度、目に入れた。棟から棟へ、梁から梁へ。自分が走った道は、もう風の中に溶け、見えなくなっている。見えない道がいい。見えない道だけが、火の出ない朝へ人を連れていく。

 帰り道、三人は天満宮の裏の涼しい小径に入った。欅の葉が陽を刻み、地に落ちた影は薄い格子を作る。影の格子は、名の格子よりもやわらかい。柔らかいものは、壊れない。壊れないものの上だけを、今日の足で、ゆっくりと踏んだ。

 川風は、昼には少し強さを増した。屋根の端で鳩が二羽、羽音で風の厚みを測り、またどこかへ行った。天満の紙鳶競べは、今年も大団円。だが、誰も知らない小さな勝ちが、空の層の片隅で起きていた。火が起きなかったこと。それだけが、風がもたらしたほんとうの祝だった。

 頭領はひとり、川岸に立っていた。袖の名札は捨てられ、指先の黒は水でこすっても落ちない。黒は爪の月に残り、そこだけ夜の端が居座る。風が来る。風は、何も言わない。言わないが、頬を叩く。叩かれて、彼は少しだけ顔を背けた。背けた顔の横で、遠くの屋根に残った鳶が、ひとつ、紙の舌で風を舐めた。その舐め方が、美しかった。

 「風だけで勝つ」と静は、誰にも聞こえぬほど小さく口にした。言葉は消えた。だが、消えた後に残るものがある。風の層の角度。糸口の煤の軽さ。名札の紙の薄さ。子どもの笑いの長さ。槍の石突の痺れ。そういう、手と目と耳の奥に残るものだけが、明日の段取りになる。

 総司は、懐から名札を取り出し、紙の角を指で一度、折った。折り目は浅い。浅い折り目は、風が当たるとすぐに戻る。戻る紙でいい。名は戻ればいい。戻らないのは、火の気だけでいい。彼は折り目を戻し、紙を袖に戻さず、橋の欄干にそっと置いた。紙は風に鳴り、欄干の影の中に静かに伏せた。

 蓮は石突の布を井戸の横で絞り、布から落ちる水の粒が石に跳ねる音を、いちど数えた。数は拍であり、拍は歩幅であり、歩幅は道だ。今日の道は、見えないまま終わった。見えないままで、よかった。見えないのに確かだったのは、風がそう決めたからだ。

 天満の紙鳶は、残りの色を少しずつ空から降ろし、糸巻きの円は遅くなり、子どもらの手は夕餉の湯気を恋しがるように冷える。空は青さを深め、川はその青を借り、屋根は青を拒む。拒まれても、風は青を運ぶ。運び続ける。風は働き者だ。人が思うよりずっと。

 帰り道の角で、静はふと立ち止まり、指の腹を鼻先に寄せた。煤の匂いは、もうない。代わりに、団子の砂糖が焦げる甘さと、井戸の水の鉄の匂いがあった。それで十分だと、彼女は思った。名は置いた。煤は洗った。風は読んだ。結果は出た。誰も焼けず、誰も斬らず、誰も名を呼ばれず。風だけが、働いた。

 総司は咳のことを忘れていた。忘れていたからこそ、胸が軽い。軽い胸で、彼は明日の風を想像した。層は変わる。角度は変わる。だが、糸口の煤は同じ軽さで指に残るだろう。残らせぬように、今夜は油紙の匂いを嗅いで眠ろうか、と彼はひとつだけ冗談を胸の内で言った。誰にも言わず、風にだけ笑ってもらうために。

 蓮は最後に一度だけ、空を仰いだ。空は、何も返さない。返さないが、許す。許すから、今日も走れた。明日も走れる。屋根筋は風の筋で、槍の筋は道の筋だ。筋は揃えるものではなく、揃ってしまうもの。三人の筋が、今日、揃ってしまった。その偶然のような必然を、蓮は掌の皮の痺れで確かめた。

 夕暮れがゆっくりと町を包み、鈴の音が遠くなった。屋台が片づけの拍子木を鳴らし、鳶の骨が袋にしまわれ、糸巻きが竹籠に収まる。地は今日も、水を飲み、火を飲まずに済んだ。明日もそうであるように、と誰も口に出して言わない願いが、風の層のどこかに細く結ばれた。

 入れ替わりは、誰も知らない。風だけが知っている。風は口がない。だから、噛みつかない。だから、今日の勝ちは、長く残る。紙の鳴きと、糸の軽さと、爪の月の白さとともに。