夜がほどける前、油小路は名のとおり、石畳の目地に油を流したような鈍い光で濡れていた。霧は、風の運び手を失った綿のように、路地の膝丈から軒の高さまでを淡く満たす。灯がない。月もない。あるのは息と、足の音の遠い影だけ。耳は、目の代わりをさせられ、目は、耳の仕事を欲しがっている。そんな時刻に、連絡役の少年が倒れたと報せが入った。
報せを運んできたのは、町筋の女中で、声の震えは霧の粒より細かかった。「油小路の角で、笛が途切れまして」と、彼女は襟元で結んだ紐を揉みながら言った。目撃はない。霧に包まれ、足音と衣擦れの音だけが、ひとつ余計に増え、ひとつ足りなくなったという。静は短く頷き、総司と視線だけで息を合わせる。蓮は槍袋を肩に掛け、石突の先を布で柔らかく包んだ。
油小路は狭い。壁と壁の隙間が、人ひとりの幅でぎりぎりだ。その狭さが、霧を濃くする。霧は弱者ではない。息を奪い、目を欺き、足を攫う。だが霧には呼吸がない。呼吸があるのは、生き物の側だ。今夜の勝負は、呼吸の合戦になる、と静は見切った。合図に音は使えない。音は霧に散らされ、敵にも届く。だから“拍”を縮める。息の長さで、味方を識る。
総司は喉の奥に走った細い痛みを、舌の付け根で押し込むように殺した。咳は、霧中では裏切り者になる。ひとつの咳で、居場所も、身体の向きも、体力の減りも、全部が露わになる。彼は吐く息を薄く、吸う息を深く、腹の底にしまい込む。稽古場で教わった呼吸とは違う、街での呼吸。音ではなく、空気の重さだけが動く呼吸だ。
蓮は先に、道の“骨”を探る。石突を地に下ろし、わずかに二度、叩く。叩くと言っても、音は出さない。石と石の継ぎ目に、骨のような筋がある。筋は、叩けば指の骨にだけ伝わる微かな返しを返す。蓮は石突に手のひらをかぶせ、返りの震えを抜け目なく拾う。硬い石、少し浮いた石、縁が欠けている石。二度の叩きの間隔を、京間の畳幅に合わせて一定に保つ。その二度が、道しるべになる。霧の中でも、二度叩きの“間”は、味方だけに読める。
連絡役は、町端の薬種屋の息子で、朝ごとに笛を吹いて荷を運ぶ癖がある。笛は目印であり、合図でもある。今朝は、その笛が油小路の角で途切れた。角の先には、寺子屋の裏庭に抜ける細い抜け路がある。霧はそこから上がる。上がる霧は、空気の温度を微かに変える。三人は角を前に、いったん立ち止まり、衣の裾に触れる霧の“重さ”を比べた。重さのわずかな差が、風の向きと人の溜まりを教える。
静が先に、背を壁につけて滑る。総司はその背に自分の背を合わせ、二人は背板のように一本になる。背中合わせの呼吸は、鼓の裏表を打つように、互いの“間”を刻む。静が吸うときに総司が吐き、総司が吸うときに静が吐く。二人の息は、霧の中に見えない橋をかける。橋の長さは“拍”になる。今夜は、その“拍”だけが味方同士を結ぶ縄だ。
角の向こうで、布の擦れる音がした。霧の重さが、その瞬間だけ一段濃くなったように感じられる。誰かが、息を潜めている。息を潜めると、霧の粒が肌に貼りつき、衣の内側に水の指が入る。その冷たさが、神経のどこかで震えになる。震えは音ではないが、息の“破れ”を生む。破れは、呼吸の長さを短くする。静は、その短さを探した。
蓮の二度叩きが、左の足元でひそかに続く。二度の“間”は、人の歩幅の半分より少しだけ短い。短いから、敵が真似をしようとしても、呼吸が先に乱れる。味方だけが持つ歩幅と、味方だけが持つ息の長さ。二つが、霧の中で“地図”になる。蓮は石突を地に置いたまま、握りを半指分ずらし、次の二度を打つ。二度の間が、静と総司の背の間の呼吸にぴたりと重なる。
右手の壁の先、白い布が一瞬、揺れた。霧と同じ色の手拭いだ。その揺れは、合図のように短く二度。だが違う。二度の“間”が、やけに長い。習い覚えた者の二度ではない。総司は静の背の温度で、静もまた総司の背の固さで、その偽の二度を“見抜いた”。二人は、背中の骨で短くやり取りをする。静は肩甲骨を一つ、細く前へ押す。総司はその押しに合わせ、息の終わりを半拍だけ伸ばす。半拍の伸びは、敵にはただの“乱れ”に見える。乱れを見た敵は、前に出たがる。そこを待つ。
霧の中から、一歩の気配。重みが、石の角の一辺に乗る。その一歩は、仕事をする足の一歩ではない。待ち伏せる足の一歩だ。待ち伏せる足は、踏み出す瞬間に重心が遅れる。遅れは刃の遅れだ。総司は遅れを見て、喉の咳を、もう一度飲み込む。飲み込んだ咳は、腹の熱に変わる。熱は、足の裏を柔らかくする。柔らかい足は、霧を踏んでも音を立てない。
「息で識れ」と、昼の段取りのとき静は言った。「目は敵にもある。耳もそうだ。でも、息の長さは、稽古で作った“癖”が出る。私たちの癖は、夜ごと打ち合わせた拍の中にある」
総司は短く頷き、静の言葉の“癖”を、自分の肺でなぞる。静の息は、短く始めて長く終わる。総司の息は、長く始めて短く終わる。二つが背中で重なると、ひとつの長い呼吸になる。霧の中では、その長さだけが“味方の顔”だった。
蓮の槍がそこで働く。穂先は抜かず、石突だけで道の骨に印を刻む。二度。二度。間は息。息は歩幅。歩幅は人。蓮は手の中で槍の重心を指二本分、手前に寄せて、石突の当たりを柔らかくする。柔らかい当たりは、震えだけを残す。震えは霧を伝わらない。伝わるのは足の裏から手の中へ。味方にだけ分かる“地図”が、霧の下に敷かれていく。
角を回る。霧が顔にまとわりつき、鼻腔の奥を濡らす。匂いがない。油の匂いも、土の匂いも、今は霧の水気に沈んでいる。あるのは、衣の糸の古い匂いと、木の皮の湿りの匂い。総司は背中で静の肩の高低を測る。静の肩が半指、下がる。それは「ここで止まる」の合図。総司は同じ半指、肩を上げて返す。返しは「同意」。呼吸の合戦は、言葉を要らない。要るのは、わずかな身体の傾きと、肺の奥の伸び縮みだけ。
足元に、濡れた木片が転がっていた。笛の先端だ。連絡役の笛。折れている。折れ口は、ねじれるように裂けていた。手で乱暴に捻られた跡。争いはあった。だが血はない。血がないことは、救いだ。静は笛の欠片を足の指でそっと遠ざけ、足裏の皮膚に残った木の感触で、折れの新しさを量る。まだ温い。霧も、木も、人も、今朝の温度を持っている。
「右から来る」と、総司の背が言った。言葉ではない。背骨のわずかな緊張が、そう言った。静は頷きで返し、腰を少し落とす。背中合わせの重心が、足指の付け根に移る。右の壁沿いに、息が短い者が一人。短い息は、目の前のことに夢中な息だ。目の前の獲物が見えている息だ。これを先にいなす。いなした先で、長い息の者が束ねる。束ねる者は、合図を持っている。合図は——いま、霧の中で——二度叩きに似せてある。似せてあるが、間が違う。間の違いで、群れの芯が割れる。
蓮の二度が、そこで一度だけ、“間”を引いた。いつもの半歩より、紙一枚分だけ長く。それは「ここから狭い」の合図。狭い場所は、槍ではなく身体で封じる。蓮は石突を地に置き、柄を肩にかけ、背中で路地の幅を半身、塞ぐ。塞ぎ方は、敵の退路を殺すためではない。味方の退きの“滑り”を作るためだ。霧の中では、退くことが前に出るより難しい。退きの道標が先に敷かれていることが、最初の勝ちになる。
右からの短い息が近づく。衣の裾が霧を切り、足裏が石の角を踏む。静は足先だけを半指、前に出した。総司の足先が、その半指に寄り添う。二人の足先が、霧の下で“同じ足”になる。敵の目には、ひとつの足跡しか見えない。ひとつの足跡に、ひとつの身体があると思い込ませる。それが今夜の仕掛けの核だ。総司と静は、今朝の稽古で“総司の歩幅”を共有するよう、歩幅の答え合わせをしてきた。総司の右足の半歩。静の左足の半歩。重ねれば、総司の一歩。敵の目は、霧の向こうの“総司”をひとりと数える。
短息の男が飛び込んだ。飛び込むときの膝の角度で、刃の向きが分かる。刃は下から上へ。石の角で刃の背を滑らせ、勢いで絡め取る型だ。静は膝を少し緩め、総司の背中を押し、同時に総司の左肘が静の背中を押し返す。押し返しは、総司の足を半歩、前へ。静の足は半歩、後ろへ。二人の半歩が同時に動く。霧の薄皮が一枚、風でめくれたかのように、短い間だけ視界が開いた。その刹那、敵の目には“総司”が一人、半歩前へ出ただけに見える。だが実際には前後に二人。前の半歩と後ろの半歩が、ひとつの一歩の影を形作る。
男の刃は、誰にも触れない空気を切り、霧を裂き、勢いを失って自分の足元の石に当たった。金属が石肌を噛む音が、霧を擦った。音は短く、浅い。刃は鈍った。静はその音の浅さを聞き、自分の息を半拍だけ伸ばす。伸びた息は、総司の吸いの終わりと重なる。重なった刹那、二人は互いの肩甲骨で合図を取り、前後の半歩を元に戻す。敵は、ひとりの“総司”が半歩で先を取ったと見誤り、次の追い足を正面へ踏み出す。正面へ踏み出した足の関節が、霧の湿りでわずかに滑る。その滑りが、彼の重心をこぼす。こぼれた重心は、刃の重みを殺し、彼は自分の膝で自分を打った。
「ひとり、右」と、蓮の二度が伝えた。二度の“間”の中に、半指の抑揚を載せる。抑揚は「右の奥に息が長い者」。長息は、待つ息だ。待つ者は合図を持ち、合図を持つ者は退路を計算している。退路を塞げば、合図は自滅に変わる。蓮は路地の中ほどで槍を立て、石突を壁に預け、自分の背で壁の角を塞いだ。敵が退くならば、そこは狭い。狭いところで走る者は、息が乱れて目を曇らせる。
霧の向こうから、擦れるように低い声。「尾、二つ」。芝居茶屋で聞いた合図と同じ型。だが今夜は舞台がない。光源もない。影は霧の中で形を持たない。尾、二つ——それは足音を二つ重ねる合図。だが、二つの“間”が長い。長すぎる。静は総司の背でその長さを測り、「偽」を決める。偽の合図に気づけない者は、偽に従って動く。従う者は、いずれ置き去りにされる。
その置き去りの音が、左の深い霧の中で小さくした。息が急に短くなる。短い息は、驚きの息。驚いたのは、連絡役の少年だった。口が布で塞がれている音。布が霧で湿り、呼吸が浅く速くなる音。静は背の筋で総司に告げ、総司は左の袖を霧に滑らせる。袖の先で、布の結び目に触れ、結び目の“道”を指で辿る。布の結びは、敵の癖が出る。急ぎの結び、見せの結び。今のは、焦りの結び。焦りは、緩む。総司は息の終わりに合わせて、結び目を紙一枚分だけ緩めた。緩んだ布から、少年の鼻に霧の冷たい空気が入る。少年の息が、細く長くなる。長息は、味方の息だ。
右の奥で、長息の首魁が動いた。動きは少ない。少ないが、重い。重い動きは、背で命令をする者の動きだ。命令のための息は、他人の息を縛る。縛る息は、他人の“間”を自分の“間”に合わせようとする。そこに、彼の弱さがある。自分の“間”が乱れると、すぐに怒る。怒りは、呼吸を短くする。短くなった呼吸は、足の裏まで届かない。
「今」と、静の背が言う。総司はそれに合わせ、喉の奥の咳を、別の筋肉で抱え込む。二人は同時に、半歩。総司は前へ、静は後ろへ。二人で“総司の歩幅”を共有する。霧が、その瞬間だけ薄く剥がれた。首魁の目には、ひとりの“総司”が前へ出たようにしか見えない。そのひとりの影に隠れて、静は後ろへ半歩、退いて、少年の背に肩を差し入れた。少年の身体が、霧の中でふっと軽くなり、蓮の二度叩きの“道”へ滑る。滑る道は、もう敷いてある。霧の下で、足の裏が迷わない。
首魁は合図を出した。尾、二つ。やはり間が長い。間の長さに、仲間の短息が合わせられず、右から出た男は足をもつれさせた。もつれた足が、霧で濡れた石の角で滑る。滑った足は、用意していた退きの一歩に踏み込むはずが、踏み込めない。踏み込めない一歩は、身体を捻る。捻った身体の帯が、壁の釘に引っ掛かった。釘は見えない。見えないものに引かれると、人は自分を引く。自分を引けば、息は詰まる。詰まった息に、首魁の怒りが重なる。怒りは、命令を大きくし、合図を乱す。
その乱れが、自滅を呼んだ。首魁は退きの道に、油を撒いていた。霧を速く滑らせ、追手の足を奪うつもりだった。油は夜明け前の冷えで粘り、霧で乳のように白んでいる。目には見えない乳色の薄膜が、石の上にある。彼はその自分の油の上に、己の足を載せた。載せた瞬間、身体は予想より半歩分、前へ走った。半歩のずれ。それが今夜の鍵。彼は半歩の先で、壁に置いた自分の仕掛け縄に肩を打ちつけた。縄は、引けば落ちるように結んである。落ちたのは、木の格子。格子は、頭上ではなく肩口に来た。肩口に来た格子は、刀も槍も関係なく、ただ“重さ”で命令を止める。止まった命令の隙に、仲間の呼吸がばらけた。
蓮の二度が、救いの“間”に変わる。今度の二度は、少しだけ間が長い。長い間は「戻れ」。戻る道は、もう敷いた。蓮は槍を横へ持ち替え、石突を壁と床の角に入れて梃のようにし、狭い路地に滑り台の角度を作る。静はその角度に少年を預け、総司は半歩前に残って、霧の前に“総司の影”を置いた。影は、息の長さでできている。総司の長く始めて短く終わる呼吸が、霧の粒の間に橋を渡す。橋の向こうには、怒りで短い息になった首魁がいる。短い息は橋を渡れない。渡れない者は、声で渡ろうとする。声は霧に吸われ、方向を失う。
「打て」と、誰かが言った。打つべき太鼓はない。あるのは蓮の石突きだけ。だが蓮は打たない。打たず、二度の“間”を指先で刻む。刻んだ間は、味方の踵へ伝わり、踵は迷いなく石の角を踏む。踏むべき角は、もう印されている。印は、震えで残っている。震えに足が重なり、足の間に息が重なる。三人の呼吸が、一本の綱になる。
霧が、ひとひら、薄くなった。東の空の底で、朝の色が指一本分だけ伸びたのだ。光はまだ弱い。だが霧の白は、光に弱い。白は薄くなり、影は濃くなる。濃くなった影の端で、総司と静の半歩がもう一度、同時に動いた。前へ、後ろへ。ひとつの“総司”が、半歩前へ出て、また半歩後ろへ引いたように見える。その一瞬の見誤りで、首魁の狙いは空を掴む。空を掴んだ手は、次の合図を出す。だが、合図を受ける者の呼吸は、もうばらけている。ばらけた呼吸は“間”を失い、二度の偽は、偽のまま霧に沈んだ。
少年の布は完全に外れ、口と鼻に朝の冷たい空気が入った。彼の息が、初めて長くなった。長い息は、味方の息だ。静は少年の背を支え、蓮の敷いた滑りの角度へ、身体を送る。蓮は槍の柄で肩を受け、石突で足の裏の迷いを取る。総司は正面に残り、霧の“前”を守る。前を守ると言っても、刃を抜かない。守るのは、呼吸の“間”だ。敵の息の短さに合わせ、自分の息の半拍を伸ばし、相手の“間”を空振りさせる。空振りは続けば続くほど、身体を重くする。重い身体は、退路の油に気づかない。
首魁はそこで、最後の退きを試みた。油の上で後ろへ跳ぶ。跳ぶはずが、足が半指だけ遅れた。その半指の遅れの間に、彼の肩は自分の落とした格子の角に当たり、格子の端に仕込まれていた小さな鈴が、ひとつ鳴った。鈴の高い音は霧に吸われず、真上へ抜けた。抜けた音が、寺子屋の鐘楼に当たって、朝の鳥の鳴く気配を呼んだ。鳥は鳴かない。だが鳴く気配だけが、霧の上を走る。その気配に、町が、目を覚まし始める。目覚める気配が、今夜の合戦の終わりの鐘になる。
「退く」と、静の背が言う。総司は頷きで返す。退くことは、逃げではない。退くは道を守ること。霧が晴れる刹那、前後の半歩が、ひとつの歩幅に戻る。戻り方までも、稽古で合わせてある。総司の踵が、静の足指の前を過ぎるとき、蓮の二度が道しるべの最後を打った。二度の“間”は、朝の間。朝の間は、夜より少し長い。長い間は、心を落ち着かせる長さだ。少年の息も、その長さにぴたりと合う。三人とひとりの呼吸が、同じ間で往復する。
首魁は格子の重さを肩に受けたまま、怒りで短い息を続けた。短い息は、肺の底に届かない。届かない息は、視界を狭くする。狭い視界では、足元の油しか見えない。油の上で彼はもう一度、跳ぼうとした。跳ぶと、格子の鈴がまた鳴る。鳴りは、町に告げる。町が動けば、彼の退路は消える。自分で自分の逃げ道を削る音。それが自滅の音だった。
誰ひとり、刃を抜かなかった。蓮は槍の石突を最後に一度だけ、硬い石に当てた。音は霧の下へ潜り、道しるべの震えだけを残した。静は少年の肩から手を放す前に、背中に手のひらを当て、呼吸の“間”を長くするよう、無言で教える。総司は喉の奥に残っていた咳を、朝の冷たい空気に溶かして消した。咳は、もう裏切り者ではない。合戦は終わった。
霧が薄い布のように、朝の光に溶けた。油小路の石は、乳色から灰に戻り、壁の板目が、一本一本、筋を取り戻す。寺子屋の門が軋み、猫が一匹、戸の隙間から出てきて、何もなかったかのように毛づくろいを始めた。町は、何も知らない顔で、朝の支度を始める。知っているのは、今朝の呼吸の長さだけだ。
「間に合った」と、蓮が槍を肩にかける位置で言った。言葉は短い。短いが、息は長い。長い息は、今朝の勝ちを確かめる息だ。静は頷き、少年の笛の欠片を拾い上げ、手のひらに乗せる。折れ口の裂けは、もう冷えている。霧の水気が、均一に木に入っている。それは、終わりの印だ。
「総司」と、静が呼ぶ。名を呼ぶ声は、霧の中で聞いた呼吸の“間”の長さをそのまま持っている。総司は静を見る。その目に、重い夜の影はもうない。代わりに、朝の細い光がある。彼は笑わない。笑わない代わりに、肩の力をほんの少しだけ抜く。抜いた肩の下で、肺が、深くひとつ、膨らむ。
「さっきの半歩」と、静。「よかった」
「お前が後ろで受けてくれたからだ」と、総司。声は低いが、喉の乾きはない。咳は朝の空気に置いてきた。「半歩は、ひとりでは半歩だ。二人で、一歩になる」
蓮はふっと笑い、石突で地を軽く撫でる。「道は先に敷くものだ。息も同じだ。先に間を敷けば、足は迷わない」
少年は、二人と一人に囲まれて、まだ細く長い息を続けている。目の縁に霧の水が残っている。それは涙ではない。霧が置いた印だ。彼は笛の欠片を見つめ、やがて小さく頷いた。「朝になってしまった」と、その頷きが言った。声に出さない言葉は、霧の残り香と同じくらい弱いが、真っ直ぐだった。
三人は、油小路の角を離れた。霧は背中でほどけ、朝の光が横から差し込む。町の屋根の瓦が、薄い金属のように冷たく光り、軒下の水桶には小さな波紋が一枚、残っている。風はまだ弱い。弱い風の中で、寺子屋の鐘楼の鈴が、余韻を引く。余韻は、夜の合図の残り香のように、長くも短くもなく、ちょうどよい。
歩き出すと、三人の歩幅が、自然に揃った。揃った歩幅は、昨日までの稽古で合わせたものではない。今朝の霧で合わせたものだ。霧は、敵味方の目を同じように奪ったが、呼吸の長さだけは奪えなかった。呼吸は、人の内側にある。内側にあるものは、外からは盗めない。盗めないものだけが、夜の勝ち負けを決める。
曲がり角の先で、静がふと立ち止まり、振り返る。油小路は、もう白くはない。灰色の石に、細い水の筋が一本、朝の風で揺れた。そこに、二度の“間”が見えた気がした。蓮が刻んだ道しるべ。見えるはずのない震えの道。その上を、さっきの自分たちの足が、迷いなく滑ってきたことを思い返す。背中合わせの呼吸。半歩の共有。首魁の自滅。すべてが“間”で繋がっていた。
「拍は嘘をつかない」と、昨日の夜に言った言葉が、静の耳の奥で薄く鳴る。今朝は、拍ではなく、息だった。だが息も、嘘をつかない。嘘をついたのは、霧と、油と、怒りだけだ。嘘は、最後には嘘を付き手の足をすべらせる。
「行こう」と、総司が言った。「朝は、早足を嫌う」
蓮は槍袋を持ち直し、石突の布を解いて乾かす準備をした。静は笛の欠片を少年の掌に戻し、掌の上で一度、軽く押す。押しは「大丈夫」。少年は頷き、笛の欠片を懐に収めた。
油小路に、朝の足音が増える。魚屋、豆腐屋、薪を担ぐ男。彼らの息は、霧の終わりを告げる長さだ。三人は人の流れに紛れた。紛れることは、消えることではない。紛れることは、次の夜に備えることだ。
背中の温度が、さっきより少しだけ温かい。霧の水気が衣の中に残っているからだけではない。今朝の呼吸の合戦を生きて通った身体の熱が、背骨にゆっくりと広がっているからだ。総司は喉の奥の静けさに、短い感謝を置く。静は肺の奥の長い“間”に、自分の名よりも古い拍の記憶を置く。蓮は手のひらの皮に残る石の震えを、次の道の地図として掌に写す。
町の角をいくつか過ぎたところで、三人はようやく言葉を持った。言葉は、呼吸のあとに来る。呼吸が整ってからの言葉は、短くても長くても、形を持つ。
「無傷で済んだ」と、静。
「おまえの半歩が、俺の咳を置いていってくれた」と、総司。
「二度の“間”を敷けたのは、二人の息が先にあったからだ」と、蓮。
それ以上は、何も要らなかった。朝の光が、屋根の端で細い線になって、少しずつ太っていく。町の音が増え、霧の残り香が薄くなる。油小路は、ただの路地に戻った。
ただの路地に戻ったが、石の中には、今朝刻んだ二度の震えが、まだどこかに残っている気がした。残っている振動は、昼には消える。夜にはまた、別の“間”が刻まれる。そうして町は、目に見えない地図で満ちる。見えない地図を読み合う者たちの合戦は、刃を抜かずに終わることもある。今朝のように。
三人は、その見えない地図の上を、次の角へ向かって歩いた。歩幅は揃っている。揃いは強さではない。揃いは、帰る道を間違えないための“拍”だ。霧がどれほど濃くても、油がどれほど滑っても、拍と息があれば、足は迷わない。今朝、油小路はそれを教えた。町は知らない。だが、知る者には十分だった。
そして、朝が完全に来た。霧は瓦の上の露になり、露は陽に溶け、鳥はようやく鳴き始めた。音は高く、短い。短いが、息は長い。長い息で、一日が始まる。呼吸の合戦は終わり、呼吸の労働が始まる。合戦に勝った者は、労働にも勝つ。そうして、夜はまた来る。来る夜のために、三人は、今朝の半歩を胸の奥に畳んだ。
報せを運んできたのは、町筋の女中で、声の震えは霧の粒より細かかった。「油小路の角で、笛が途切れまして」と、彼女は襟元で結んだ紐を揉みながら言った。目撃はない。霧に包まれ、足音と衣擦れの音だけが、ひとつ余計に増え、ひとつ足りなくなったという。静は短く頷き、総司と視線だけで息を合わせる。蓮は槍袋を肩に掛け、石突の先を布で柔らかく包んだ。
油小路は狭い。壁と壁の隙間が、人ひとりの幅でぎりぎりだ。その狭さが、霧を濃くする。霧は弱者ではない。息を奪い、目を欺き、足を攫う。だが霧には呼吸がない。呼吸があるのは、生き物の側だ。今夜の勝負は、呼吸の合戦になる、と静は見切った。合図に音は使えない。音は霧に散らされ、敵にも届く。だから“拍”を縮める。息の長さで、味方を識る。
総司は喉の奥に走った細い痛みを、舌の付け根で押し込むように殺した。咳は、霧中では裏切り者になる。ひとつの咳で、居場所も、身体の向きも、体力の減りも、全部が露わになる。彼は吐く息を薄く、吸う息を深く、腹の底にしまい込む。稽古場で教わった呼吸とは違う、街での呼吸。音ではなく、空気の重さだけが動く呼吸だ。
蓮は先に、道の“骨”を探る。石突を地に下ろし、わずかに二度、叩く。叩くと言っても、音は出さない。石と石の継ぎ目に、骨のような筋がある。筋は、叩けば指の骨にだけ伝わる微かな返しを返す。蓮は石突に手のひらをかぶせ、返りの震えを抜け目なく拾う。硬い石、少し浮いた石、縁が欠けている石。二度の叩きの間隔を、京間の畳幅に合わせて一定に保つ。その二度が、道しるべになる。霧の中でも、二度叩きの“間”は、味方だけに読める。
連絡役は、町端の薬種屋の息子で、朝ごとに笛を吹いて荷を運ぶ癖がある。笛は目印であり、合図でもある。今朝は、その笛が油小路の角で途切れた。角の先には、寺子屋の裏庭に抜ける細い抜け路がある。霧はそこから上がる。上がる霧は、空気の温度を微かに変える。三人は角を前に、いったん立ち止まり、衣の裾に触れる霧の“重さ”を比べた。重さのわずかな差が、風の向きと人の溜まりを教える。
静が先に、背を壁につけて滑る。総司はその背に自分の背を合わせ、二人は背板のように一本になる。背中合わせの呼吸は、鼓の裏表を打つように、互いの“間”を刻む。静が吸うときに総司が吐き、総司が吸うときに静が吐く。二人の息は、霧の中に見えない橋をかける。橋の長さは“拍”になる。今夜は、その“拍”だけが味方同士を結ぶ縄だ。
角の向こうで、布の擦れる音がした。霧の重さが、その瞬間だけ一段濃くなったように感じられる。誰かが、息を潜めている。息を潜めると、霧の粒が肌に貼りつき、衣の内側に水の指が入る。その冷たさが、神経のどこかで震えになる。震えは音ではないが、息の“破れ”を生む。破れは、呼吸の長さを短くする。静は、その短さを探した。
蓮の二度叩きが、左の足元でひそかに続く。二度の“間”は、人の歩幅の半分より少しだけ短い。短いから、敵が真似をしようとしても、呼吸が先に乱れる。味方だけが持つ歩幅と、味方だけが持つ息の長さ。二つが、霧の中で“地図”になる。蓮は石突を地に置いたまま、握りを半指分ずらし、次の二度を打つ。二度の間が、静と総司の背の間の呼吸にぴたりと重なる。
右手の壁の先、白い布が一瞬、揺れた。霧と同じ色の手拭いだ。その揺れは、合図のように短く二度。だが違う。二度の“間”が、やけに長い。習い覚えた者の二度ではない。総司は静の背の温度で、静もまた総司の背の固さで、その偽の二度を“見抜いた”。二人は、背中の骨で短くやり取りをする。静は肩甲骨を一つ、細く前へ押す。総司はその押しに合わせ、息の終わりを半拍だけ伸ばす。半拍の伸びは、敵にはただの“乱れ”に見える。乱れを見た敵は、前に出たがる。そこを待つ。
霧の中から、一歩の気配。重みが、石の角の一辺に乗る。その一歩は、仕事をする足の一歩ではない。待ち伏せる足の一歩だ。待ち伏せる足は、踏み出す瞬間に重心が遅れる。遅れは刃の遅れだ。総司は遅れを見て、喉の咳を、もう一度飲み込む。飲み込んだ咳は、腹の熱に変わる。熱は、足の裏を柔らかくする。柔らかい足は、霧を踏んでも音を立てない。
「息で識れ」と、昼の段取りのとき静は言った。「目は敵にもある。耳もそうだ。でも、息の長さは、稽古で作った“癖”が出る。私たちの癖は、夜ごと打ち合わせた拍の中にある」
総司は短く頷き、静の言葉の“癖”を、自分の肺でなぞる。静の息は、短く始めて長く終わる。総司の息は、長く始めて短く終わる。二つが背中で重なると、ひとつの長い呼吸になる。霧の中では、その長さだけが“味方の顔”だった。
蓮の槍がそこで働く。穂先は抜かず、石突だけで道の骨に印を刻む。二度。二度。間は息。息は歩幅。歩幅は人。蓮は手の中で槍の重心を指二本分、手前に寄せて、石突の当たりを柔らかくする。柔らかい当たりは、震えだけを残す。震えは霧を伝わらない。伝わるのは足の裏から手の中へ。味方にだけ分かる“地図”が、霧の下に敷かれていく。
角を回る。霧が顔にまとわりつき、鼻腔の奥を濡らす。匂いがない。油の匂いも、土の匂いも、今は霧の水気に沈んでいる。あるのは、衣の糸の古い匂いと、木の皮の湿りの匂い。総司は背中で静の肩の高低を測る。静の肩が半指、下がる。それは「ここで止まる」の合図。総司は同じ半指、肩を上げて返す。返しは「同意」。呼吸の合戦は、言葉を要らない。要るのは、わずかな身体の傾きと、肺の奥の伸び縮みだけ。
足元に、濡れた木片が転がっていた。笛の先端だ。連絡役の笛。折れている。折れ口は、ねじれるように裂けていた。手で乱暴に捻られた跡。争いはあった。だが血はない。血がないことは、救いだ。静は笛の欠片を足の指でそっと遠ざけ、足裏の皮膚に残った木の感触で、折れの新しさを量る。まだ温い。霧も、木も、人も、今朝の温度を持っている。
「右から来る」と、総司の背が言った。言葉ではない。背骨のわずかな緊張が、そう言った。静は頷きで返し、腰を少し落とす。背中合わせの重心が、足指の付け根に移る。右の壁沿いに、息が短い者が一人。短い息は、目の前のことに夢中な息だ。目の前の獲物が見えている息だ。これを先にいなす。いなした先で、長い息の者が束ねる。束ねる者は、合図を持っている。合図は——いま、霧の中で——二度叩きに似せてある。似せてあるが、間が違う。間の違いで、群れの芯が割れる。
蓮の二度が、そこで一度だけ、“間”を引いた。いつもの半歩より、紙一枚分だけ長く。それは「ここから狭い」の合図。狭い場所は、槍ではなく身体で封じる。蓮は石突を地に置き、柄を肩にかけ、背中で路地の幅を半身、塞ぐ。塞ぎ方は、敵の退路を殺すためではない。味方の退きの“滑り”を作るためだ。霧の中では、退くことが前に出るより難しい。退きの道標が先に敷かれていることが、最初の勝ちになる。
右からの短い息が近づく。衣の裾が霧を切り、足裏が石の角を踏む。静は足先だけを半指、前に出した。総司の足先が、その半指に寄り添う。二人の足先が、霧の下で“同じ足”になる。敵の目には、ひとつの足跡しか見えない。ひとつの足跡に、ひとつの身体があると思い込ませる。それが今夜の仕掛けの核だ。総司と静は、今朝の稽古で“総司の歩幅”を共有するよう、歩幅の答え合わせをしてきた。総司の右足の半歩。静の左足の半歩。重ねれば、総司の一歩。敵の目は、霧の向こうの“総司”をひとりと数える。
短息の男が飛び込んだ。飛び込むときの膝の角度で、刃の向きが分かる。刃は下から上へ。石の角で刃の背を滑らせ、勢いで絡め取る型だ。静は膝を少し緩め、総司の背中を押し、同時に総司の左肘が静の背中を押し返す。押し返しは、総司の足を半歩、前へ。静の足は半歩、後ろへ。二人の半歩が同時に動く。霧の薄皮が一枚、風でめくれたかのように、短い間だけ視界が開いた。その刹那、敵の目には“総司”が一人、半歩前へ出ただけに見える。だが実際には前後に二人。前の半歩と後ろの半歩が、ひとつの一歩の影を形作る。
男の刃は、誰にも触れない空気を切り、霧を裂き、勢いを失って自分の足元の石に当たった。金属が石肌を噛む音が、霧を擦った。音は短く、浅い。刃は鈍った。静はその音の浅さを聞き、自分の息を半拍だけ伸ばす。伸びた息は、総司の吸いの終わりと重なる。重なった刹那、二人は互いの肩甲骨で合図を取り、前後の半歩を元に戻す。敵は、ひとりの“総司”が半歩で先を取ったと見誤り、次の追い足を正面へ踏み出す。正面へ踏み出した足の関節が、霧の湿りでわずかに滑る。その滑りが、彼の重心をこぼす。こぼれた重心は、刃の重みを殺し、彼は自分の膝で自分を打った。
「ひとり、右」と、蓮の二度が伝えた。二度の“間”の中に、半指の抑揚を載せる。抑揚は「右の奥に息が長い者」。長息は、待つ息だ。待つ者は合図を持ち、合図を持つ者は退路を計算している。退路を塞げば、合図は自滅に変わる。蓮は路地の中ほどで槍を立て、石突を壁に預け、自分の背で壁の角を塞いだ。敵が退くならば、そこは狭い。狭いところで走る者は、息が乱れて目を曇らせる。
霧の向こうから、擦れるように低い声。「尾、二つ」。芝居茶屋で聞いた合図と同じ型。だが今夜は舞台がない。光源もない。影は霧の中で形を持たない。尾、二つ——それは足音を二つ重ねる合図。だが、二つの“間”が長い。長すぎる。静は総司の背でその長さを測り、「偽」を決める。偽の合図に気づけない者は、偽に従って動く。従う者は、いずれ置き去りにされる。
その置き去りの音が、左の深い霧の中で小さくした。息が急に短くなる。短い息は、驚きの息。驚いたのは、連絡役の少年だった。口が布で塞がれている音。布が霧で湿り、呼吸が浅く速くなる音。静は背の筋で総司に告げ、総司は左の袖を霧に滑らせる。袖の先で、布の結び目に触れ、結び目の“道”を指で辿る。布の結びは、敵の癖が出る。急ぎの結び、見せの結び。今のは、焦りの結び。焦りは、緩む。総司は息の終わりに合わせて、結び目を紙一枚分だけ緩めた。緩んだ布から、少年の鼻に霧の冷たい空気が入る。少年の息が、細く長くなる。長息は、味方の息だ。
右の奥で、長息の首魁が動いた。動きは少ない。少ないが、重い。重い動きは、背で命令をする者の動きだ。命令のための息は、他人の息を縛る。縛る息は、他人の“間”を自分の“間”に合わせようとする。そこに、彼の弱さがある。自分の“間”が乱れると、すぐに怒る。怒りは、呼吸を短くする。短くなった呼吸は、足の裏まで届かない。
「今」と、静の背が言う。総司はそれに合わせ、喉の奥の咳を、別の筋肉で抱え込む。二人は同時に、半歩。総司は前へ、静は後ろへ。二人で“総司の歩幅”を共有する。霧が、その瞬間だけ薄く剥がれた。首魁の目には、ひとりの“総司”が前へ出たようにしか見えない。そのひとりの影に隠れて、静は後ろへ半歩、退いて、少年の背に肩を差し入れた。少年の身体が、霧の中でふっと軽くなり、蓮の二度叩きの“道”へ滑る。滑る道は、もう敷いてある。霧の下で、足の裏が迷わない。
首魁は合図を出した。尾、二つ。やはり間が長い。間の長さに、仲間の短息が合わせられず、右から出た男は足をもつれさせた。もつれた足が、霧で濡れた石の角で滑る。滑った足は、用意していた退きの一歩に踏み込むはずが、踏み込めない。踏み込めない一歩は、身体を捻る。捻った身体の帯が、壁の釘に引っ掛かった。釘は見えない。見えないものに引かれると、人は自分を引く。自分を引けば、息は詰まる。詰まった息に、首魁の怒りが重なる。怒りは、命令を大きくし、合図を乱す。
その乱れが、自滅を呼んだ。首魁は退きの道に、油を撒いていた。霧を速く滑らせ、追手の足を奪うつもりだった。油は夜明け前の冷えで粘り、霧で乳のように白んでいる。目には見えない乳色の薄膜が、石の上にある。彼はその自分の油の上に、己の足を載せた。載せた瞬間、身体は予想より半歩分、前へ走った。半歩のずれ。それが今夜の鍵。彼は半歩の先で、壁に置いた自分の仕掛け縄に肩を打ちつけた。縄は、引けば落ちるように結んである。落ちたのは、木の格子。格子は、頭上ではなく肩口に来た。肩口に来た格子は、刀も槍も関係なく、ただ“重さ”で命令を止める。止まった命令の隙に、仲間の呼吸がばらけた。
蓮の二度が、救いの“間”に変わる。今度の二度は、少しだけ間が長い。長い間は「戻れ」。戻る道は、もう敷いた。蓮は槍を横へ持ち替え、石突を壁と床の角に入れて梃のようにし、狭い路地に滑り台の角度を作る。静はその角度に少年を預け、総司は半歩前に残って、霧の前に“総司の影”を置いた。影は、息の長さでできている。総司の長く始めて短く終わる呼吸が、霧の粒の間に橋を渡す。橋の向こうには、怒りで短い息になった首魁がいる。短い息は橋を渡れない。渡れない者は、声で渡ろうとする。声は霧に吸われ、方向を失う。
「打て」と、誰かが言った。打つべき太鼓はない。あるのは蓮の石突きだけ。だが蓮は打たない。打たず、二度の“間”を指先で刻む。刻んだ間は、味方の踵へ伝わり、踵は迷いなく石の角を踏む。踏むべき角は、もう印されている。印は、震えで残っている。震えに足が重なり、足の間に息が重なる。三人の呼吸が、一本の綱になる。
霧が、ひとひら、薄くなった。東の空の底で、朝の色が指一本分だけ伸びたのだ。光はまだ弱い。だが霧の白は、光に弱い。白は薄くなり、影は濃くなる。濃くなった影の端で、総司と静の半歩がもう一度、同時に動いた。前へ、後ろへ。ひとつの“総司”が、半歩前へ出て、また半歩後ろへ引いたように見える。その一瞬の見誤りで、首魁の狙いは空を掴む。空を掴んだ手は、次の合図を出す。だが、合図を受ける者の呼吸は、もうばらけている。ばらけた呼吸は“間”を失い、二度の偽は、偽のまま霧に沈んだ。
少年の布は完全に外れ、口と鼻に朝の冷たい空気が入った。彼の息が、初めて長くなった。長い息は、味方の息だ。静は少年の背を支え、蓮の敷いた滑りの角度へ、身体を送る。蓮は槍の柄で肩を受け、石突で足の裏の迷いを取る。総司は正面に残り、霧の“前”を守る。前を守ると言っても、刃を抜かない。守るのは、呼吸の“間”だ。敵の息の短さに合わせ、自分の息の半拍を伸ばし、相手の“間”を空振りさせる。空振りは続けば続くほど、身体を重くする。重い身体は、退路の油に気づかない。
首魁はそこで、最後の退きを試みた。油の上で後ろへ跳ぶ。跳ぶはずが、足が半指だけ遅れた。その半指の遅れの間に、彼の肩は自分の落とした格子の角に当たり、格子の端に仕込まれていた小さな鈴が、ひとつ鳴った。鈴の高い音は霧に吸われず、真上へ抜けた。抜けた音が、寺子屋の鐘楼に当たって、朝の鳥の鳴く気配を呼んだ。鳥は鳴かない。だが鳴く気配だけが、霧の上を走る。その気配に、町が、目を覚まし始める。目覚める気配が、今夜の合戦の終わりの鐘になる。
「退く」と、静の背が言う。総司は頷きで返す。退くことは、逃げではない。退くは道を守ること。霧が晴れる刹那、前後の半歩が、ひとつの歩幅に戻る。戻り方までも、稽古で合わせてある。総司の踵が、静の足指の前を過ぎるとき、蓮の二度が道しるべの最後を打った。二度の“間”は、朝の間。朝の間は、夜より少し長い。長い間は、心を落ち着かせる長さだ。少年の息も、その長さにぴたりと合う。三人とひとりの呼吸が、同じ間で往復する。
首魁は格子の重さを肩に受けたまま、怒りで短い息を続けた。短い息は、肺の底に届かない。届かない息は、視界を狭くする。狭い視界では、足元の油しか見えない。油の上で彼はもう一度、跳ぼうとした。跳ぶと、格子の鈴がまた鳴る。鳴りは、町に告げる。町が動けば、彼の退路は消える。自分で自分の逃げ道を削る音。それが自滅の音だった。
誰ひとり、刃を抜かなかった。蓮は槍の石突を最後に一度だけ、硬い石に当てた。音は霧の下へ潜り、道しるべの震えだけを残した。静は少年の肩から手を放す前に、背中に手のひらを当て、呼吸の“間”を長くするよう、無言で教える。総司は喉の奥に残っていた咳を、朝の冷たい空気に溶かして消した。咳は、もう裏切り者ではない。合戦は終わった。
霧が薄い布のように、朝の光に溶けた。油小路の石は、乳色から灰に戻り、壁の板目が、一本一本、筋を取り戻す。寺子屋の門が軋み、猫が一匹、戸の隙間から出てきて、何もなかったかのように毛づくろいを始めた。町は、何も知らない顔で、朝の支度を始める。知っているのは、今朝の呼吸の長さだけだ。
「間に合った」と、蓮が槍を肩にかける位置で言った。言葉は短い。短いが、息は長い。長い息は、今朝の勝ちを確かめる息だ。静は頷き、少年の笛の欠片を拾い上げ、手のひらに乗せる。折れ口の裂けは、もう冷えている。霧の水気が、均一に木に入っている。それは、終わりの印だ。
「総司」と、静が呼ぶ。名を呼ぶ声は、霧の中で聞いた呼吸の“間”の長さをそのまま持っている。総司は静を見る。その目に、重い夜の影はもうない。代わりに、朝の細い光がある。彼は笑わない。笑わない代わりに、肩の力をほんの少しだけ抜く。抜いた肩の下で、肺が、深くひとつ、膨らむ。
「さっきの半歩」と、静。「よかった」
「お前が後ろで受けてくれたからだ」と、総司。声は低いが、喉の乾きはない。咳は朝の空気に置いてきた。「半歩は、ひとりでは半歩だ。二人で、一歩になる」
蓮はふっと笑い、石突で地を軽く撫でる。「道は先に敷くものだ。息も同じだ。先に間を敷けば、足は迷わない」
少年は、二人と一人に囲まれて、まだ細く長い息を続けている。目の縁に霧の水が残っている。それは涙ではない。霧が置いた印だ。彼は笛の欠片を見つめ、やがて小さく頷いた。「朝になってしまった」と、その頷きが言った。声に出さない言葉は、霧の残り香と同じくらい弱いが、真っ直ぐだった。
三人は、油小路の角を離れた。霧は背中でほどけ、朝の光が横から差し込む。町の屋根の瓦が、薄い金属のように冷たく光り、軒下の水桶には小さな波紋が一枚、残っている。風はまだ弱い。弱い風の中で、寺子屋の鐘楼の鈴が、余韻を引く。余韻は、夜の合図の残り香のように、長くも短くもなく、ちょうどよい。
歩き出すと、三人の歩幅が、自然に揃った。揃った歩幅は、昨日までの稽古で合わせたものではない。今朝の霧で合わせたものだ。霧は、敵味方の目を同じように奪ったが、呼吸の長さだけは奪えなかった。呼吸は、人の内側にある。内側にあるものは、外からは盗めない。盗めないものだけが、夜の勝ち負けを決める。
曲がり角の先で、静がふと立ち止まり、振り返る。油小路は、もう白くはない。灰色の石に、細い水の筋が一本、朝の風で揺れた。そこに、二度の“間”が見えた気がした。蓮が刻んだ道しるべ。見えるはずのない震えの道。その上を、さっきの自分たちの足が、迷いなく滑ってきたことを思い返す。背中合わせの呼吸。半歩の共有。首魁の自滅。すべてが“間”で繋がっていた。
「拍は嘘をつかない」と、昨日の夜に言った言葉が、静の耳の奥で薄く鳴る。今朝は、拍ではなく、息だった。だが息も、嘘をつかない。嘘をついたのは、霧と、油と、怒りだけだ。嘘は、最後には嘘を付き手の足をすべらせる。
「行こう」と、総司が言った。「朝は、早足を嫌う」
蓮は槍袋を持ち直し、石突の布を解いて乾かす準備をした。静は笛の欠片を少年の掌に戻し、掌の上で一度、軽く押す。押しは「大丈夫」。少年は頷き、笛の欠片を懐に収めた。
油小路に、朝の足音が増える。魚屋、豆腐屋、薪を担ぐ男。彼らの息は、霧の終わりを告げる長さだ。三人は人の流れに紛れた。紛れることは、消えることではない。紛れることは、次の夜に備えることだ。
背中の温度が、さっきより少しだけ温かい。霧の水気が衣の中に残っているからだけではない。今朝の呼吸の合戦を生きて通った身体の熱が、背骨にゆっくりと広がっているからだ。総司は喉の奥の静けさに、短い感謝を置く。静は肺の奥の長い“間”に、自分の名よりも古い拍の記憶を置く。蓮は手のひらの皮に残る石の震えを、次の道の地図として掌に写す。
町の角をいくつか過ぎたところで、三人はようやく言葉を持った。言葉は、呼吸のあとに来る。呼吸が整ってからの言葉は、短くても長くても、形を持つ。
「無傷で済んだ」と、静。
「おまえの半歩が、俺の咳を置いていってくれた」と、総司。
「二度の“間”を敷けたのは、二人の息が先にあったからだ」と、蓮。
それ以上は、何も要らなかった。朝の光が、屋根の端で細い線になって、少しずつ太っていく。町の音が増え、霧の残り香が薄くなる。油小路は、ただの路地に戻った。
ただの路地に戻ったが、石の中には、今朝刻んだ二度の震えが、まだどこかに残っている気がした。残っている振動は、昼には消える。夜にはまた、別の“間”が刻まれる。そうして町は、目に見えない地図で満ちる。見えない地図を読み合う者たちの合戦は、刃を抜かずに終わることもある。今朝のように。
三人は、その見えない地図の上を、次の角へ向かって歩いた。歩幅は揃っている。揃いは強さではない。揃いは、帰る道を間違えないための“拍”だ。霧がどれほど濃くても、油がどれほど滑っても、拍と息があれば、足は迷わない。今朝、油小路はそれを教えた。町は知らない。だが、知る者には十分だった。
そして、朝が完全に来た。霧は瓦の上の露になり、露は陽に溶け、鳥はようやく鳴き始めた。音は高く、短い。短いが、息は長い。長い息で、一日が始まる。呼吸の合戦は終わり、呼吸の労働が始まる。合戦に勝った者は、労働にも勝つ。そうして、夜はまた来る。来る夜のために、三人は、今朝の半歩を胸の奥に畳んだ。



