夕餉の湯気が町の背骨から立ちのぼる時刻、祇園御所南の芝居茶屋は、雨に濡れた油紙のような光を纏っていた。暖簾は薄く煤け、格子戸の奥に揺れる行灯の橙が、すでに“影芝居”の夜を約束している。三味線の糸を張りなおす音が、猫の背を撫でるように低く座敷を渡り、客のざわめきは酒の香りに溶けた。表の通りには人力車が二度、車輪をきしませて止まり、乗り子が客の袖をさりげなく引く。芝居は道具、道具は口。今夜は舞台の外が舞台でもある。
総司は観客席の片隅、柱の陰に体を預けて座っていた。襦袢の袖口を少し長めにし、髪の結いを気持ち低くして、口元には細い扇。身なりは町人、目は剣士。視線だけが、表の火消し桶の水面のように揺らぎを許さぬ。膝の上の扇子で一度、軽く座布団を叩いた。乾いた“拍”が一つ。耳で受け取る者と、壁越しの床で拾う者にだけ伝わる約束の音。
楽屋。静は黒子の衣をまとい、面箱の蓋を少し開けた。中には影絵用の紙形が並ぶ。将軍の姿、浪士の姿、そして、だれにも似ていない、空っぽの影。静は唇の内側で、浅く二度息を切る。口の形だけで“拍”を返す。楽屋壁の薄板は、振動をよく運ぶ。板の僅かな震えを指先で拾い、静は自分の心拍に重ねて、今日の夜の順序を確かめた。
裏手の狭い路地では、蓮が十文字槍を分解していた。柄は二つに割り、穂は布で包んで帯の裏に噛ませる。短柄を二本。一本は戸口に斜めに打ち、もう一本は狭間の格子に楔のように突っ込む。狭間は茶屋にしては奇妙に多かった。背の低い覗き窓が三つ、ひとつは路地に面し、ひとつは板塀の向こうの空き地に向き、もうひとつは隣家の土間に口を開ける。どれも、人の影を測るにはうってつけの“目”だ。蓮は短柄を押し込み、布縄で締め、風の通り道を変えた。風は灯りを押し、灯りは影を伸ばす。影は人の判断を遅らせる。戦はそこから始まる。
「合図は影だ。だが影は光の奴隷だ」と、昼の打ち合わせで静は言った。「だから光を攫う。攫った光で、向こうの手を遅らせる」
「拍は?」と総司。
「拍は、私たちのもの。影は嘘をつくが、拍は嘘をつかない」
蓮はその会話を思い出しながら、手の中の木の温みを確かめた。槍を短く持つ。重さの中心が手の内に集まり、狭間に押し当てた木口から、さざ波のように板塀の内部へ軋みが伝う。あたりは一雨来た後の湿りで、木が少し膨れている。楔は効く。力のかかり具合を確かめてから、蓮は路地の曲がり角、響きが集まる場所に半膝で腰を落とした。ここで音を拾う。ここで音を止める。もしも間者が狭間に耳を寄せれば、そこにあるのは静かな木の鼓動だけ。蓮の呼吸は、舞台の鼓に合わせて、ひそかに長く短く整う。
開演の拍子木が三つ、乾いて鳴った。座敷の空気は一呼吸、吸い込まれて止まり、次の瞬間には笑いと囁きに解ける。影絵は幕の内側に設えられた薄紙に、後ろから灯を当てて投影される趣向で、今夜の題目は「御所南の狐」。狐は人に化け、人は狐に化かされ、最後に人と狐の影が重なって、ひとつの形になる。謡い手の細い声が、春の柳の枝のように揺れて、観客の耳に絡まる。
総司は扇の骨で座布団を、短く一拍。静は楽屋で、面箱の蓋を二度、軽く叩き返した。二人の拍は、幕間の太鼓の“二連”までの下合わせ。太鼓が二つ続けて打たれた瞬間が、包囲の合図だ。太鼓は芝居の節目の印でもあるが、今夜はもっと別の節目を切る。人が人に化け、人が影に化ける、その境目の刻み。
芝居は進む。狐は御所の南に住む茶屋女に化け、浪士をからかい、浪士はからかわれたふりをしながら、別の浪士に目配せを送る。舞台の陰では、黒子が紙形の狐の尾をすばやく揺らし、灯の前の小さな切り替え板を滑らせ、影の長さをわずかに変える。その切り替え板こそ、今夜の“鍵”だった。切り替え板の蝶番は、蓮が昼間のうちに調べ、静が夜のうちに締め直した。少し硬い。動きは滑らかではないが、硬さは予期せぬ瞬間の“遅れ”を作る。遅れは判断を狂わせる。判断の狂いは、刃先よりも深く相手を縛る。
客席の奥、提灯の陰に、組紐で印を結んだ男が三人、肩を寄せ合って座っていた。手にする盃は空、目の表は笑い、裏は氷。芝居にかこつけて、彼らはこれからの“務め”を確認する。舞台の狐が尾を三度振れば“始め”、狐が一度だけ尾を強く叩きつければ“やめ”。合図は影に仕込まれている。彼らの背後に座る別の男は、笑い声を押し殺して咳払いをし、襟の内側に忍ばせた札をそっと指でなぞった。札には名がある。名は風の中で呼ばれる。風は壁の狭間から出入りする。狭間の向こうに、蓮の短柄が軽く鳴った。鳴って、止んだ。
楽屋では静が黒子の面を外し、別の面箱を開いた。箱の底に、白粉で薄く色を乗せた“総司”の顔がある。額の生え際、目の細い切っ先、口角の癖。そのすべてを、静は指の腹でなぞるように見た。鏡に映る自分の顔に、今夜だけは他人の筋を重ねる。面は面だ、顔は顔だ。だが身のこなしは、面より強く人を欺く。静は衣をほんの少しだけ着付け直し、刀の柄巻に薄紙を一枚巻き足した。紙が指の腹に合図を返す。指は、いざというときに、紙のざらりで“拍”を覚える。
総司は観客席で、逆に“静”の真似をしていた。髪の遊び毛を少し長く頬に垂らし、喉仏を襟の影に沈め、眼差しを普段より半歩、遠くに置く。静の眼は、刺すのではなく、流す。流す眼で、総司は男たちの肩の筋、手の甲の筋を見た。焼けていない。刀を常に握る者の手ではない。だが袖は重く、帯は少し下がり、歩幅は狭い。重さを隠し、動きで見せる。仕込みは懐。刃は懐より重いものを抱えさせると、動きが狭くなる。狭い動きは、長い影を好む。影は長さで相手の足を縛る。彼らは影に頼る。頼るものは奪われると、崩れる。
幕間が近づく。囃子の調子が一段、高くなる。狐の尾は二度、舞台の端を掃いた。それが彼らの合図のうちの“試し”だ。客席の男たちは身体をわずかに起こし、盃の底を指でなぞる。総司は扇で座布団を短く一拍。静は楽屋で、今度は床の釘を指でコツと叩く。釘は乾いた音を返し、そのすぐ後、別の乾いた音が路地の曲がり角から返った。蓮だ。三つの乾いた音は、ひとつに聞こえるように設計されている。三つの場所にいる三人が、同じ“拍”を共有する。あらかじめ割った呼吸が、同じ桶の水を揺らす。
幕間の太鼓が、二つ、続けて鳴った。
その一打目で、蓮は立ち上がり、裏戸を短柄で内から押し上げた。戸の戸車がわずかに浮き、敷居に噛み、戸は半分だけ開いたところで止まった。人ひとりが横向きにやっと通れるほど。だが通る者は体を捻る。捻れば帯の重みがズレ、仕込みは腰に当たって鈍い音を立てる。その隙間に蓮はもう一本の短柄を差し込み、梃にして押さえた。戸は“開く”のではなく、“噛む”。噛む戸は、噛まれた者の動きを喰う。蓮は呼吸を一度長く吐き、気配を薄くした。
二打目で、静は舞台に上がった。上がった瞬間、素足の裏で床板の僅かな反りを拾い、体の重心を半足前に置く。白粉の面は総司。だが歩幅は静。軽い、しかし躊躇のない踏み出し。客席の前列には、総司——に見える“静”の姿を目で追う者がいた。あの凪いだ眼は、総司のものではない。だが、誰もそこまで見抜かない。舞台という遠さは、人の正体から匂いを奪う。
総司は観客席で、静の名を背負う。扇を畳み、袖に隠した小さな輪灯を指先で弾く。輪灯は古い道具屋から手に入れた旅用の小さな灯りで、仄かな光を楊枝一本分だけ漏らす。その光を膝で遮り、足首で滑らす。膝の影が、床に落ちる影の流れを僅かに撓ませる。舞台の影絵に仕込まれた切り替え板と、客席の薄い光。二つの光が合わさると、影はとたんに“混ざる”。混ざった影は、尾の本数を数えさせない。狐は一尾か二尾か。浪士の影は刀を抜いたのか、折ったのか。判断は遅れ、遅れは手を鈍らせる。
楽屋口から忍び込もうとした一人が、戸の“噛み”に肩を取られた。蓮は音を立てず、その肩の力点に短柄の端をあてがい、押し返す。押し返された男は狭間に背を打ち、息を一つ落とす。その落ちた息は、廊下に敷かれた糠の上にふっと白く広がり、消えた。蓮はそのまま男の帯に指を引っ掛け、壁の柱の角に滑らせて止める。結び目を引き解きも結び直しもせずに、ただ“引っ掛ける”。引っ掛けられた帯は、自らの重みで締まる。男は動けない。目だけが驚きと怒りで大きくなり、口は半開きで無音。蓮は首を傾け、男にだけ聞こえる低さで言う。
「今夜は、静かにしていてください」
舞台上。静は“総司”として、狐を追い詰める“ふり”をした。追い詰められた狐の影が、灯の位置をずらすたびに長くなったり短くなったりする。静は足音を床の節に合わせて薄く打ち、刀の鞘尻で床を短く二度、小さく叩く。叩く音は囃子に溶ける。囃子の鼓が応える。応え方で“包囲の向き”が決まる。鼓の返しは、今は右二、左一。右手の狭間はもう噛んである。左手はまだ。総司の膝の輪灯が、その合図に合わせて膝から足首に移り、客席の空気をわずかに温めて、影に“尾”を二つ生ませる。
その“尾”を合図と見た客席の男の一人が、立ち上がり、袖の中の物を掌に敷いた。袖が重く落ち、帯の結び目がわずかに左へ寄る。総司は扇の骨で座布団を一拍叩き、立ち上がる男の影に膝の輪灯の光を斜めに差し込んだ。影は伸びる。伸びた影は隣の男の肩口に重なり、隣の男は自分の肩を払うようにして体を捻る。その捻りで、帯の中の重みが脇腹を打ち、男は苦い顔をした。短い痛みは長い動きを止める。止まった隙に、蓮が裏の廊下で戸を一枚、滑らせて“逃げ道”を壁に変えた。
楽屋の奥で、仕込みの灯を持った黒子が、いつもより半拍、遅く灯を引いた。灯の遅れは影の遅れ。影の遅れは人の遅れ。刺客の“今”は、舞台の“今”から半拍遅れてズレる。そのズレに乗じて、静は舞台の端から端までを、舞台らしくない歩幅で渡った。観客には芸の一つに見え、刺客には“距離の嘘”に見える。距離の嘘は刀の届きの嘘。届くと思うときには届かず、届かぬと思うときには届く。だが静と総司の刀は、今夜はどちらも鞘にある。届くのは、音。届かぬのは、血。
「太鼓、二連」
囁きのように、囃子方の背中が言葉を覚え、腕が覚え、皮に力が降りる。二つの低い鼓動が座敷の空気を底から震わせた。総司はその震えが膝に来る前に輪灯を消し、扇を開き、息をひとつ長く吐いた。吐いた息は、観客の笑いに紛れて消える。その消える刹那、静の足は舞台のセンに乗り、腰の重さをひとつ落とす。落とした重さは床を走り、楽屋の板を震わせ、蓮の足の裏へ届く。蓮はその震えを受けて、最後の狭間に差していた短柄を返し、格子をひとつ“倒した”。倒れた格子は音を立てず、斜めに立ち、戸と壁の間に梁のように渡る。廊下は、ここで行き止まりになった。
舞台では、影絵の光源——油の少ない行灯——が、黒子の手から“滑った”。滑った、ように見えた。実際には滑らせた。行灯は床の上を柔らかく転がり、光は舞台の白い幕を斜めに舐め、影の足元を長く引き伸ばす。長さを狂わされた刺客——観客の三人組——は、思わず腰を落とし、身体を低く構えた。低く構えた瞬間、彼らの頭の上に、舞台装置の幕棒が“降りた”。落ちるのではなく、降りる。人が持ち、人の力で降り、降りた棒は、頭ではなく肩の後ろに当たる。肩の後ろは、自分では見えない。見えない場所に当てられる力は、抵抗を諦めさせる。彼らは動きを中断し、思わず視線を舞台に戻した。舞台では“総司”が、狐の尾を二度、扇で払う。二度はやめの合図。だがそれは芝居の合図。今夜の合図は、別の場所にある。
楽屋口に縛められた男が、最初のうめきを洩らした。蓮は男の口元に指を立て、静かに首を振る。路地からの風が一度、逆に吹いた。蓮が狭間に差した短柄が、風に少し鳴る。鳴りは音ではなく、木の内側の呼吸だ。蓮はその鳴りに自分の呼吸を合わせ、男の目が落ち着くのを待つ。落ち着いた目は、恐れの奥に“理解”を宿す。理解は敵を弱くしも強くもしない。ただ、血の流れを少し、遅くする。今夜はそれで十分だ。
総司は客席の静として、立ち上がった。立つときの膝の角度、足の運び。静ならこうする、という“答え”を、総司は刀の稽古で覚えたように体で再現する。体が再現すると、他人の眼は“見たことのある誰か”をそこに見る。席を外し、廊下に出て、柱の陰で一度だけ扇を畳み直す。畳む音が一拍。廊下の奥から、同じ高さで一拍。静だ。二人の拍は、ここで初めて“本当に”重なった。
楽屋を抜ける細い通りに、藍の絣をまとった女中が二人、桶を運び出してきた。桶には水。水は重く、女中の肩は少し前に出ている。静は女中の横を擦れ、桶の持ち手に指をそっとあてがった。水が少し揺れ、桶の縁からほんの一滴、床に落ちる。落ちる音は、ない。水は木に飲まれる。その瞬間、静は心の中で言葉を置いた。
(一滴もこぼさない。血は)
舞台の終幕。狐は人に戻り、人は影を脱ぎ、影はただの黒い紙に戻る。観客は笑い、手を叩く。手の音は多く、雑で、しかし温かい。その温かさの隙間に、短く二度、別の音が響いた。拍子木ではない。扇の骨でもない。床柱の節が鳴る、細い“拍”。総司と静が、最後の合図を交わしたのだ。
舞台袖から“総司”が一礼し、面を外した。白粉の下から現れたのは、静の素顔だった。客席の前列で、静——に見えた“総司”が、扇を静かに閉じ、立ち上がる。その動きに、近くの者が「あれ」と息を呑んだ。だが息はすぐに掌の拍手に紛れた。入れ替えはすでに終わっている。舞台と客席の間で、影と影が衣を交換し、名を交換し、歩幅を交換した。
裏手の路地で、蓮は短柄を抜き、狭間から布縄を解いた。木は自分の元の形に帰り、風はまた、通るべきところを通る。さきほど帯を引っ掛けた男の結び目も、蓮が軽く指を触れるだけで、するりと元に戻った。男は覚えのない眠りから覚めたような顔で、まばたきをした。蓮は視線で戸口を示した。男は何も言わず、何もせず、ただ自分の足で廊下を戻る。戻った先には、まだ笑いの余韻があった。余韻は人を柔らかくする。柔らかくなった心には、刃は要らない。
静と総司は、表の暖簾の陰で再び合流した。二人は互いの顔を、面ではなく眼で確かめる。静の眼が、総司の眼の奥の緊張を、小さく解く。総司の口元が、静の口元の固さを、わずかに緩める。言葉は要らない。だが一言だけ、静が言った。
「影は嘘をつく。でも拍は、嘘をつかない」
総司は頷いた。蓮が路地の角から現れ、短柄を帯に戻す。三人は一度、同じ方角を見た。御所の南の空は、雨の名残りで鈍く光り、遠くの塔の影が薄く夜に溶けている。茶屋からはまだ、人の笑いが漏れ続ける。笑いは夜の油だ。油が切れた行灯は消えるが、笑いはすぐには消えない。消えぬものがある夜に、刃は無粋だ。
「行こう」と総司が言う。「影が戻らぬうちに」
三人は長い路地を抜け、細い橋を渡り、石畳の角で一度だけ振り返った。茶屋の襖が半ば閉まり、舞台の白い幕が巻き取られるのが見えた。白い幕の裏には、黒い紙が束になって吊るされている。紙は軽い。だが、動かす光と合わせると、人の心を動かすほどの重みを持つ。今夜、その重みは刃を封じた。封じたのは技ではなく、段取りと拍だった。
御所南の夜風が、三人の袖をひとつ撫でた。その風に混じって、遠くで太鼓がふたつ、間を空けて鳴った。祭か、稽古か、あるいは誰かの合図か。三人は足を止めない。止めないまま、互いの歩幅をさりげなく合わせる。拍は歩幅でも打てる。歩幅が揃えば、戦いはたいてい、始まる前に終わる。
やがて、祇園の灯が背中で小さくなり、御所の黒い樹影が前方で厚みを増す。曲がり角に差しかかったところで、静がふいに足を緩めた。耳に、さっきとは違う拍が入った。木ではない。石でもない。遠いどこかで、乾いた紙が二度、擦れた音。総司も蓮も、同じ瞬間にその音を拾った。三人は同時に、何も言わず、足の拍だけで返す。乾いた返しの拍が、夜の底に落ちていく。落ちた拍は、数息ののち、別の方向から、静かな響きで戻ってきた。
見えない誰かが、今夜の結果を受け取り、次の夜を組もうとしている。
静は短く笑った。その笑いは、影の端を少しだけ明るくした。総司は肩の力を抜き、蓮は帯の位置を指先で確かめる。三人は、ほどけた影の中へ消える。影は背中で揺れ、夜の拍子に合わせて伸びたり縮んだりした。だがどれだけ伸び縮みしようとも、その歩幅は、三つの足の間で、ずれることがない。
血が一滴も流れなかった夜は、旨い酒のあと味のように長く残る。祇園御所南の芝居茶屋では、明日の準備の音がもう始まっていた。紙を切る音、糸を張る音、灯に油をさす音。それらすべての基に、目に見えぬ“拍”があることを、町の誰もが知っているわけではない。だが、知っている者たちは今夜もまた、手のひらの中で小さくその拍を刻み、戦わぬ術を磨いている。
三人は、戦わぬために戦う。影を動かし、光を攫い、音を置く。そうして、笑いの灯りを消さない。そのためだけに。
夜は、深くもなく浅くもなく、三人の背の高さにちょうど合っていた。
総司は観客席の片隅、柱の陰に体を預けて座っていた。襦袢の袖口を少し長めにし、髪の結いを気持ち低くして、口元には細い扇。身なりは町人、目は剣士。視線だけが、表の火消し桶の水面のように揺らぎを許さぬ。膝の上の扇子で一度、軽く座布団を叩いた。乾いた“拍”が一つ。耳で受け取る者と、壁越しの床で拾う者にだけ伝わる約束の音。
楽屋。静は黒子の衣をまとい、面箱の蓋を少し開けた。中には影絵用の紙形が並ぶ。将軍の姿、浪士の姿、そして、だれにも似ていない、空っぽの影。静は唇の内側で、浅く二度息を切る。口の形だけで“拍”を返す。楽屋壁の薄板は、振動をよく運ぶ。板の僅かな震えを指先で拾い、静は自分の心拍に重ねて、今日の夜の順序を確かめた。
裏手の狭い路地では、蓮が十文字槍を分解していた。柄は二つに割り、穂は布で包んで帯の裏に噛ませる。短柄を二本。一本は戸口に斜めに打ち、もう一本は狭間の格子に楔のように突っ込む。狭間は茶屋にしては奇妙に多かった。背の低い覗き窓が三つ、ひとつは路地に面し、ひとつは板塀の向こうの空き地に向き、もうひとつは隣家の土間に口を開ける。どれも、人の影を測るにはうってつけの“目”だ。蓮は短柄を押し込み、布縄で締め、風の通り道を変えた。風は灯りを押し、灯りは影を伸ばす。影は人の判断を遅らせる。戦はそこから始まる。
「合図は影だ。だが影は光の奴隷だ」と、昼の打ち合わせで静は言った。「だから光を攫う。攫った光で、向こうの手を遅らせる」
「拍は?」と総司。
「拍は、私たちのもの。影は嘘をつくが、拍は嘘をつかない」
蓮はその会話を思い出しながら、手の中の木の温みを確かめた。槍を短く持つ。重さの中心が手の内に集まり、狭間に押し当てた木口から、さざ波のように板塀の内部へ軋みが伝う。あたりは一雨来た後の湿りで、木が少し膨れている。楔は効く。力のかかり具合を確かめてから、蓮は路地の曲がり角、響きが集まる場所に半膝で腰を落とした。ここで音を拾う。ここで音を止める。もしも間者が狭間に耳を寄せれば、そこにあるのは静かな木の鼓動だけ。蓮の呼吸は、舞台の鼓に合わせて、ひそかに長く短く整う。
開演の拍子木が三つ、乾いて鳴った。座敷の空気は一呼吸、吸い込まれて止まり、次の瞬間には笑いと囁きに解ける。影絵は幕の内側に設えられた薄紙に、後ろから灯を当てて投影される趣向で、今夜の題目は「御所南の狐」。狐は人に化け、人は狐に化かされ、最後に人と狐の影が重なって、ひとつの形になる。謡い手の細い声が、春の柳の枝のように揺れて、観客の耳に絡まる。
総司は扇の骨で座布団を、短く一拍。静は楽屋で、面箱の蓋を二度、軽く叩き返した。二人の拍は、幕間の太鼓の“二連”までの下合わせ。太鼓が二つ続けて打たれた瞬間が、包囲の合図だ。太鼓は芝居の節目の印でもあるが、今夜はもっと別の節目を切る。人が人に化け、人が影に化ける、その境目の刻み。
芝居は進む。狐は御所の南に住む茶屋女に化け、浪士をからかい、浪士はからかわれたふりをしながら、別の浪士に目配せを送る。舞台の陰では、黒子が紙形の狐の尾をすばやく揺らし、灯の前の小さな切り替え板を滑らせ、影の長さをわずかに変える。その切り替え板こそ、今夜の“鍵”だった。切り替え板の蝶番は、蓮が昼間のうちに調べ、静が夜のうちに締め直した。少し硬い。動きは滑らかではないが、硬さは予期せぬ瞬間の“遅れ”を作る。遅れは判断を狂わせる。判断の狂いは、刃先よりも深く相手を縛る。
客席の奥、提灯の陰に、組紐で印を結んだ男が三人、肩を寄せ合って座っていた。手にする盃は空、目の表は笑い、裏は氷。芝居にかこつけて、彼らはこれからの“務め”を確認する。舞台の狐が尾を三度振れば“始め”、狐が一度だけ尾を強く叩きつければ“やめ”。合図は影に仕込まれている。彼らの背後に座る別の男は、笑い声を押し殺して咳払いをし、襟の内側に忍ばせた札をそっと指でなぞった。札には名がある。名は風の中で呼ばれる。風は壁の狭間から出入りする。狭間の向こうに、蓮の短柄が軽く鳴った。鳴って、止んだ。
楽屋では静が黒子の面を外し、別の面箱を開いた。箱の底に、白粉で薄く色を乗せた“総司”の顔がある。額の生え際、目の細い切っ先、口角の癖。そのすべてを、静は指の腹でなぞるように見た。鏡に映る自分の顔に、今夜だけは他人の筋を重ねる。面は面だ、顔は顔だ。だが身のこなしは、面より強く人を欺く。静は衣をほんの少しだけ着付け直し、刀の柄巻に薄紙を一枚巻き足した。紙が指の腹に合図を返す。指は、いざというときに、紙のざらりで“拍”を覚える。
総司は観客席で、逆に“静”の真似をしていた。髪の遊び毛を少し長く頬に垂らし、喉仏を襟の影に沈め、眼差しを普段より半歩、遠くに置く。静の眼は、刺すのではなく、流す。流す眼で、総司は男たちの肩の筋、手の甲の筋を見た。焼けていない。刀を常に握る者の手ではない。だが袖は重く、帯は少し下がり、歩幅は狭い。重さを隠し、動きで見せる。仕込みは懐。刃は懐より重いものを抱えさせると、動きが狭くなる。狭い動きは、長い影を好む。影は長さで相手の足を縛る。彼らは影に頼る。頼るものは奪われると、崩れる。
幕間が近づく。囃子の調子が一段、高くなる。狐の尾は二度、舞台の端を掃いた。それが彼らの合図のうちの“試し”だ。客席の男たちは身体をわずかに起こし、盃の底を指でなぞる。総司は扇で座布団を短く一拍。静は楽屋で、今度は床の釘を指でコツと叩く。釘は乾いた音を返し、そのすぐ後、別の乾いた音が路地の曲がり角から返った。蓮だ。三つの乾いた音は、ひとつに聞こえるように設計されている。三つの場所にいる三人が、同じ“拍”を共有する。あらかじめ割った呼吸が、同じ桶の水を揺らす。
幕間の太鼓が、二つ、続けて鳴った。
その一打目で、蓮は立ち上がり、裏戸を短柄で内から押し上げた。戸の戸車がわずかに浮き、敷居に噛み、戸は半分だけ開いたところで止まった。人ひとりが横向きにやっと通れるほど。だが通る者は体を捻る。捻れば帯の重みがズレ、仕込みは腰に当たって鈍い音を立てる。その隙間に蓮はもう一本の短柄を差し込み、梃にして押さえた。戸は“開く”のではなく、“噛む”。噛む戸は、噛まれた者の動きを喰う。蓮は呼吸を一度長く吐き、気配を薄くした。
二打目で、静は舞台に上がった。上がった瞬間、素足の裏で床板の僅かな反りを拾い、体の重心を半足前に置く。白粉の面は総司。だが歩幅は静。軽い、しかし躊躇のない踏み出し。客席の前列には、総司——に見える“静”の姿を目で追う者がいた。あの凪いだ眼は、総司のものではない。だが、誰もそこまで見抜かない。舞台という遠さは、人の正体から匂いを奪う。
総司は観客席で、静の名を背負う。扇を畳み、袖に隠した小さな輪灯を指先で弾く。輪灯は古い道具屋から手に入れた旅用の小さな灯りで、仄かな光を楊枝一本分だけ漏らす。その光を膝で遮り、足首で滑らす。膝の影が、床に落ちる影の流れを僅かに撓ませる。舞台の影絵に仕込まれた切り替え板と、客席の薄い光。二つの光が合わさると、影はとたんに“混ざる”。混ざった影は、尾の本数を数えさせない。狐は一尾か二尾か。浪士の影は刀を抜いたのか、折ったのか。判断は遅れ、遅れは手を鈍らせる。
楽屋口から忍び込もうとした一人が、戸の“噛み”に肩を取られた。蓮は音を立てず、その肩の力点に短柄の端をあてがい、押し返す。押し返された男は狭間に背を打ち、息を一つ落とす。その落ちた息は、廊下に敷かれた糠の上にふっと白く広がり、消えた。蓮はそのまま男の帯に指を引っ掛け、壁の柱の角に滑らせて止める。結び目を引き解きも結び直しもせずに、ただ“引っ掛ける”。引っ掛けられた帯は、自らの重みで締まる。男は動けない。目だけが驚きと怒りで大きくなり、口は半開きで無音。蓮は首を傾け、男にだけ聞こえる低さで言う。
「今夜は、静かにしていてください」
舞台上。静は“総司”として、狐を追い詰める“ふり”をした。追い詰められた狐の影が、灯の位置をずらすたびに長くなったり短くなったりする。静は足音を床の節に合わせて薄く打ち、刀の鞘尻で床を短く二度、小さく叩く。叩く音は囃子に溶ける。囃子の鼓が応える。応え方で“包囲の向き”が決まる。鼓の返しは、今は右二、左一。右手の狭間はもう噛んである。左手はまだ。総司の膝の輪灯が、その合図に合わせて膝から足首に移り、客席の空気をわずかに温めて、影に“尾”を二つ生ませる。
その“尾”を合図と見た客席の男の一人が、立ち上がり、袖の中の物を掌に敷いた。袖が重く落ち、帯の結び目がわずかに左へ寄る。総司は扇の骨で座布団を一拍叩き、立ち上がる男の影に膝の輪灯の光を斜めに差し込んだ。影は伸びる。伸びた影は隣の男の肩口に重なり、隣の男は自分の肩を払うようにして体を捻る。その捻りで、帯の中の重みが脇腹を打ち、男は苦い顔をした。短い痛みは長い動きを止める。止まった隙に、蓮が裏の廊下で戸を一枚、滑らせて“逃げ道”を壁に変えた。
楽屋の奥で、仕込みの灯を持った黒子が、いつもより半拍、遅く灯を引いた。灯の遅れは影の遅れ。影の遅れは人の遅れ。刺客の“今”は、舞台の“今”から半拍遅れてズレる。そのズレに乗じて、静は舞台の端から端までを、舞台らしくない歩幅で渡った。観客には芸の一つに見え、刺客には“距離の嘘”に見える。距離の嘘は刀の届きの嘘。届くと思うときには届かず、届かぬと思うときには届く。だが静と総司の刀は、今夜はどちらも鞘にある。届くのは、音。届かぬのは、血。
「太鼓、二連」
囁きのように、囃子方の背中が言葉を覚え、腕が覚え、皮に力が降りる。二つの低い鼓動が座敷の空気を底から震わせた。総司はその震えが膝に来る前に輪灯を消し、扇を開き、息をひとつ長く吐いた。吐いた息は、観客の笑いに紛れて消える。その消える刹那、静の足は舞台のセンに乗り、腰の重さをひとつ落とす。落とした重さは床を走り、楽屋の板を震わせ、蓮の足の裏へ届く。蓮はその震えを受けて、最後の狭間に差していた短柄を返し、格子をひとつ“倒した”。倒れた格子は音を立てず、斜めに立ち、戸と壁の間に梁のように渡る。廊下は、ここで行き止まりになった。
舞台では、影絵の光源——油の少ない行灯——が、黒子の手から“滑った”。滑った、ように見えた。実際には滑らせた。行灯は床の上を柔らかく転がり、光は舞台の白い幕を斜めに舐め、影の足元を長く引き伸ばす。長さを狂わされた刺客——観客の三人組——は、思わず腰を落とし、身体を低く構えた。低く構えた瞬間、彼らの頭の上に、舞台装置の幕棒が“降りた”。落ちるのではなく、降りる。人が持ち、人の力で降り、降りた棒は、頭ではなく肩の後ろに当たる。肩の後ろは、自分では見えない。見えない場所に当てられる力は、抵抗を諦めさせる。彼らは動きを中断し、思わず視線を舞台に戻した。舞台では“総司”が、狐の尾を二度、扇で払う。二度はやめの合図。だがそれは芝居の合図。今夜の合図は、別の場所にある。
楽屋口に縛められた男が、最初のうめきを洩らした。蓮は男の口元に指を立て、静かに首を振る。路地からの風が一度、逆に吹いた。蓮が狭間に差した短柄が、風に少し鳴る。鳴りは音ではなく、木の内側の呼吸だ。蓮はその鳴りに自分の呼吸を合わせ、男の目が落ち着くのを待つ。落ち着いた目は、恐れの奥に“理解”を宿す。理解は敵を弱くしも強くもしない。ただ、血の流れを少し、遅くする。今夜はそれで十分だ。
総司は客席の静として、立ち上がった。立つときの膝の角度、足の運び。静ならこうする、という“答え”を、総司は刀の稽古で覚えたように体で再現する。体が再現すると、他人の眼は“見たことのある誰か”をそこに見る。席を外し、廊下に出て、柱の陰で一度だけ扇を畳み直す。畳む音が一拍。廊下の奥から、同じ高さで一拍。静だ。二人の拍は、ここで初めて“本当に”重なった。
楽屋を抜ける細い通りに、藍の絣をまとった女中が二人、桶を運び出してきた。桶には水。水は重く、女中の肩は少し前に出ている。静は女中の横を擦れ、桶の持ち手に指をそっとあてがった。水が少し揺れ、桶の縁からほんの一滴、床に落ちる。落ちる音は、ない。水は木に飲まれる。その瞬間、静は心の中で言葉を置いた。
(一滴もこぼさない。血は)
舞台の終幕。狐は人に戻り、人は影を脱ぎ、影はただの黒い紙に戻る。観客は笑い、手を叩く。手の音は多く、雑で、しかし温かい。その温かさの隙間に、短く二度、別の音が響いた。拍子木ではない。扇の骨でもない。床柱の節が鳴る、細い“拍”。総司と静が、最後の合図を交わしたのだ。
舞台袖から“総司”が一礼し、面を外した。白粉の下から現れたのは、静の素顔だった。客席の前列で、静——に見えた“総司”が、扇を静かに閉じ、立ち上がる。その動きに、近くの者が「あれ」と息を呑んだ。だが息はすぐに掌の拍手に紛れた。入れ替えはすでに終わっている。舞台と客席の間で、影と影が衣を交換し、名を交換し、歩幅を交換した。
裏手の路地で、蓮は短柄を抜き、狭間から布縄を解いた。木は自分の元の形に帰り、風はまた、通るべきところを通る。さきほど帯を引っ掛けた男の結び目も、蓮が軽く指を触れるだけで、するりと元に戻った。男は覚えのない眠りから覚めたような顔で、まばたきをした。蓮は視線で戸口を示した。男は何も言わず、何もせず、ただ自分の足で廊下を戻る。戻った先には、まだ笑いの余韻があった。余韻は人を柔らかくする。柔らかくなった心には、刃は要らない。
静と総司は、表の暖簾の陰で再び合流した。二人は互いの顔を、面ではなく眼で確かめる。静の眼が、総司の眼の奥の緊張を、小さく解く。総司の口元が、静の口元の固さを、わずかに緩める。言葉は要らない。だが一言だけ、静が言った。
「影は嘘をつく。でも拍は、嘘をつかない」
総司は頷いた。蓮が路地の角から現れ、短柄を帯に戻す。三人は一度、同じ方角を見た。御所の南の空は、雨の名残りで鈍く光り、遠くの塔の影が薄く夜に溶けている。茶屋からはまだ、人の笑いが漏れ続ける。笑いは夜の油だ。油が切れた行灯は消えるが、笑いはすぐには消えない。消えぬものがある夜に、刃は無粋だ。
「行こう」と総司が言う。「影が戻らぬうちに」
三人は長い路地を抜け、細い橋を渡り、石畳の角で一度だけ振り返った。茶屋の襖が半ば閉まり、舞台の白い幕が巻き取られるのが見えた。白い幕の裏には、黒い紙が束になって吊るされている。紙は軽い。だが、動かす光と合わせると、人の心を動かすほどの重みを持つ。今夜、その重みは刃を封じた。封じたのは技ではなく、段取りと拍だった。
御所南の夜風が、三人の袖をひとつ撫でた。その風に混じって、遠くで太鼓がふたつ、間を空けて鳴った。祭か、稽古か、あるいは誰かの合図か。三人は足を止めない。止めないまま、互いの歩幅をさりげなく合わせる。拍は歩幅でも打てる。歩幅が揃えば、戦いはたいてい、始まる前に終わる。
やがて、祇園の灯が背中で小さくなり、御所の黒い樹影が前方で厚みを増す。曲がり角に差しかかったところで、静がふいに足を緩めた。耳に、さっきとは違う拍が入った。木ではない。石でもない。遠いどこかで、乾いた紙が二度、擦れた音。総司も蓮も、同じ瞬間にその音を拾った。三人は同時に、何も言わず、足の拍だけで返す。乾いた返しの拍が、夜の底に落ちていく。落ちた拍は、数息ののち、別の方向から、静かな響きで戻ってきた。
見えない誰かが、今夜の結果を受け取り、次の夜を組もうとしている。
静は短く笑った。その笑いは、影の端を少しだけ明るくした。総司は肩の力を抜き、蓮は帯の位置を指先で確かめる。三人は、ほどけた影の中へ消える。影は背中で揺れ、夜の拍子に合わせて伸びたり縮んだりした。だがどれだけ伸び縮みしようとも、その歩幅は、三つの足の間で、ずれることがない。
血が一滴も流れなかった夜は、旨い酒のあと味のように長く残る。祇園御所南の芝居茶屋では、明日の準備の音がもう始まっていた。紙を切る音、糸を張る音、灯に油をさす音。それらすべての基に、目に見えぬ“拍”があることを、町の誰もが知っているわけではない。だが、知っている者たちは今夜もまた、手のひらの中で小さくその拍を刻み、戦わぬ術を磨いている。
三人は、戦わぬために戦う。影を動かし、光を攫い、音を置く。そうして、笑いの灯りを消さない。そのためだけに。
夜は、深くもなく浅くもなく、三人の背の高さにちょうど合っていた。



