雨上がりの京は、湿り気を含んだ灯がやわらかく滲む。祇園の横町を抜ける風が、油の匂いと藁の匂いを順に運んだ。
静は草履の緒を軽く指で整え、足裏に木の感触を確かめる。息を一本、細く吐く。風の向き、灯の高さ、足音の速さ——すべてが「間合い」に変換されるのを、体の奥で確かめた。
今夜の“表”は近藤・土方が担う。池田屋の表口はざわめきの極みになる。静と蓮の任は“裏”。逃げ道を塞ぎ、できれば策を回す頭を生け捕る。
宿の裏手に回り込む細道には、酒蔵へ通じる勝手口があると密偵は言った。静は軒の端を見上げる。板戸の上に吊るされた灯籠がゆらりと揺れ、金具が小さく乾いた音を鳴らした。
「静」
背後で蓮が低く呼ぶ。槍は袋から半分だけ覗き、石突が夜露を弾いた。
「合図が来たら、一気にいく。裏木戸は俺が割る。お前は酒蔵へ滑り込め」
「はい、蓮。——割る際は、二拍子目でお願いできますか。私がひとつ、息をさきに置いておきたいので」
静は肩だけで笑った。ひょうひょうとした声音に、蓮は短く鼻を鳴らす。
「了解。……それと、顔を見せるのはお前の役目だ。兄貴に似てる顔だ。賭ける価値はある」
「似てる、というのは便利な悪事です。私の良心はいつも困っています」
「困らせとけ。後で俺が酒を奢る」
表の方から、遠雷のような、しかし確かな殺気のうねりが近づいてくる。表口での突入が始まったのだ。歓声と悲鳴の境目のような叫び声が一つ上がる。
静は首をわずかに傾け、風の音に耳を澄ませる。蔵の板の向こう側——二歩、いや三歩先に人の気配。低い囁きと、布擦れ。逃がしの準備に違いない。
「行くぞ」
蓮の囁きと同時に、裏木戸が石突で跳ね上がる。木戸と柱の間に入った楔が砕け、音は短く鋭く、直後に静の足が影に吸い込まれた。
酒蔵の空気は生ぬるい酒気と木の匂いに満ちている。樽の列がつくる闇の柱の間を、静の足運びは水面を滑るように進む。
今夜の静は刺すために来たのではない。逃げ道を塞ぎ、喉元に冷たい言葉を置くために来た。斬らずに勝つ——そう決めた時の身体は、なぜか軽い。
樽と樽の隙間を抜け、梁に吊られた小さな灯りの下に影が二つ、三つ。短い裃に野暮ったい町人風の装い。声だけは良く回る。
——裏手は押さえたと聞いたぞ。
——表が騒がしい。早う出ろ。
——道はこっちや。
静は、その場で一度だけ深く頭を垂れた。礼をするふりをして、足運びを切り替える。灯りの手前、一足一刀の外。居合の鯉口がわずかに鳴る。
「こんばんは。私、新選組でございます」
柔らかい声が、酒蔵についた埃の粒まで撫でるように行き渡った。
男たちがぴたりと固まる。灯が静の顔を照らす。
その瞬間、誰かが舌打ちして吐いた。
「沖田——ッ!」
顔が似ている。静は知っている。その事実は刃より速く、噂より強い。
男たちの視線が一斉に静へ集まった瞬間、蓮が戸口を塞ぐように滑り込み、槍を横に構えた。蔵内で長物は不利——それでも蓮は穂先を寝かせ、逆手に持ち替える。柄は短く、突きは一間。
「逆手一間突き」。間詰めでこそ活きる、蓮の裏技だ。
最初の男が飛びかかる。短刀。
静は鯉口を切り、しかし抜かない。鞘を握った左の肩をわずかに前に出し、刀身を半寸だけ押し出す。鯉口の金具が相手の手首を打ち、短刀の軌道が逸れる。
右の手の内を返し、そのまま柄頭で相手の顎を打つ——乾いた音。男は樽に背をぶつけ、肩から崩れた。
「おや、失礼。痛かったでしょうか。……ご安心を、致命ではありません」
静の言葉に、二人目が怯んだ。そこで蓮の槍がすり抜ける。
穂先は胸を狙わない。脇の下——筋肉の薄いところに軽く刺す。血は出るが、死なない。男は悲鳴を噛み殺し、膝が折れる。
「寝てろ。命は拾ってやる」
蔵の奥から、もう一つの気配。
静は灯の位置を確かめた。梁から吊られた灯の揺れは、外の風より内の動きに敏感だ。誰かが梯子を降りる気配。地上ではない。——上に、間がある。
静は木箱に足をかけ、音を立てずに身を持ち上げる。梁の上は埃が薄く、つい先ほど通った跡が一本、走っている。
そこへ——
表からの怒声が、蔵の板壁を震わせた。短く鋭い金属音。近藤の太い声、土方の短い指示が重なる。表は表で火花が散っている。
揺れた灯の影が一瞬だけ長く伸び、梁の上の男の袖を舐めた。静はそこへ指先で風を置く。鞘から、刀身が風より静かに滑った。
抜いたことすら音にならない。居合の初太刀は空を斬らず、灯の紐を斬った。灯は落ちかける瞬間に炎を吐き、すぐさま静の指が陰を作って風を断った。火は消え、闇が落ちる。
落ちた灯の鈍い音に驚いた梁上の男が、体勢を崩す。木粉がぱっと舞う。
静は鞘で梁を叩き、男の足を外させた。梁から落ちた男は背から樽の上に落ち、息を吐き切る。
「蓮、二」
「了解。三は?」
「まだ、いますよ。上に」
静が囁くと同時に、蔵のさらに奥、戸袋の裏から布の擦れる音。
逃げ道だ。勝手口のさらに裏、路地へ抜ける腰高の戸。そこを使うには、酒樽を二つ、横へ動かす必要がある。
蓮が槍の石突で床を軽く打つ。合図。
静は樽の縁へ掌を置く。樽は満ち、重い。ひとりで動かすのは骨だ。普通なら。
「重いのは、難です」
静はひょうひょうと呟いて、樽と床の間に座布団ほどの隙間を作った。木片を楔のように差し込む。てこの腕を変えれば、重さは性質を変える。
蓮の槍の柄が、そこに差し込まれる。二人で息を合わせる。
——引く。
樽が鳴く。
——止める。
楔がすべり込む。
——押す。
床板がわずかに軋む。
動いた。
腰高の戸の前に、影がひとつ。影は短い。小柄。だがその手にある包みは、身体の割にいささか大きい。
包みの端から、薄い紙の匂い。書付か。名簿か。
静は樽の影に身を半分隠し、声をかけた。
「そこの方。——危ないですよ」
影がびくりと揺れ、包みを抱え直す。
「来るな!」
幼い声ではない。女の声でもない。声帯に砂が混じったような、煙草と夜更かしの付き合いが長い声。
「足を引いた方がよろしい。戸板の釘が、外れております」
静が半歩、影に寄せる。
影は躊躇なく戸を蹴った。
戸は内側に倒れ、外気が流れ込む。夜の冷気。路地。
——そこへ、蓮の槍が横に走った。
槍は突くものだが、横に走らせれば、それは欄干にもなる。戸口の高さに穂先を通し、影の鳩尾の手前でぴたりと止める。
影は立ち上がりきれず、腹を槍に乗せるように折り曲がった。
「ぅ、げっ……」
胃の中のものを吐き出すより前に、息が止まる。
静はそこで初めて抜いた刀を見せる。刀身は灯を失い、ただの線にしか見えない。
彼は笑ってみせた。
「私、沖田静と申します。兄は総司。どちらでも斬れてしまうのが難でして」
影が息を呑む。その一瞬で、包みが床に落ちた。蓮が槍の石突で包みを押さえる。
「……持ってくぜ。中身は後で御用だ」
影はなおも目を泳がせ、戸口の外をうかがった。路地の暗がりの先に、別の影が二つ。
挟みだ。
静は右足だけを半歩、外へ滑らせる。闇の中の足運びを見たことがある者には、たぶんそれだけで十分に伝わる。
刃が、来る前に。
彼は鞘を上段に振り上げ、板戸の残骸を叩く。大きく、しかし意味のない音。
外の影が一瞬たじろいだ。
そのたじろぎの分だけ、蓮の槍が前に出た。石突が路地の土を鳴らし、穂先が正面を牽制する。
「おーい。今なら、逃げたい奴は右に回れよ。左は死ぬ」
軽口。だが嘘は混じっていない。左手側には土方の隊が詰める路。右は行き止まり。逃げられないが、死にはしない。
影たちは、右へ流れた。
静は、目の前の小柄な影に向き直る。
「では、あなたは残ってください。お話を伺いたい」
小柄な影は、ようやく静の目を真正面から見た。そこで初めて、静はその目が「敵方の兵」ではなく、「策を回す者」の目であると理解した。
逃げ足より先に考えが動く。だから足が遅い。
この手合いは、刃より言葉が効く。
「名乗りは不要です。ですが、帳面は必要です。それと、裏で繋がる名も」
静は刀を鞘へおさめた。
“音を立てずに抜いた刀は、音を立てずにおさめる”。それが、彼の流儀だった。
——表で、歓声が一段と高くなった。斬り結びの波は峠を越えつつある。
蓮が包みを開き、薄い紙束をぱらぱらと捲る。
「金の流れ、宿の手配先、武器の搬入……。やるじゃねえか、坊や」
小柄な影は唇を噛み、沈黙する。かすかに震える喉。
静は、その震えを責めない。
代わりに、きっぱりと言った。
「生きて、困ってください」
影の目が揺れる。
静はその視線を真っ直ぐ受け止めた。ひょうひょうとした顔の奥で、熱のようなものが小さく灯る。
「斬るより困らせる方が、案外こたえるものです。……ね、蓮」
「同感。死ぬのは簡単すぎる」
蓮が槍の柄で軽く床を叩くと、蔵の外から二名、隊士が飛び込んできた。
「裏、確保」
「こっち、三。生け捕り一、紙束一」
手筈どおり、引き渡しが済む。
蓮が槍の穂先に輪っかを嵌め、穂を布で包む。狭所での血の匂いは避けた方がよい。
静は蔵の入口で軽く首を回し、肩の重さを確認した。体はまだまだ動く。
——表へ、行くか。
表へ出ると、雨上がりの石畳に灯の粒が散らばっていた。池田屋の表口は破られ、戸障子は割れ、廊へ転がる下駄や刀の鞘が転戦の痕を示す。
静は足音を柔らかくして、廊下を抜けた。
客座敷では、数名が取り押さえられ、袖が破られ、畳の縁に血が点々。
その中央に、兄がいた。
沖田総司。
咳をひとつ、ひどく軽く。袖口で口元を押さえ、その眼だけは澄み切っている。
静と目が合う。
総司は、わずかに首を傾げ、笑った。
「遅いじゃないですか、静」
ひょうひょうとした声が兄にも似ている。だが花の香りが違う。
「おや、兄上。表はお忙しそうでしたので、裏で困らせておりました」
静が礼を軽くすると、総司の視線が静の後ろ、蓮へ滑る。
「槍、よく働いたでしょう」
「当たり前だ。俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ」
蓮が肩で笑い、槍の柄を軽く叩く。
総司が一度、笑って、軽く咳込んだ。
「……大丈夫です」
静はその言葉の先を取らず、ただ頷いた。兄がそう言った時は、本当に大丈夫な時と大丈夫でない時がある。だが今は、言葉の方を支えるべきだ。
土方が帳面を受け取りに寄ってきた。
「裏はどうだ」
「逃げ道は塞ぎました。策を回す者と思しき一名、生け捕り。帳面は蓮が」
蓮が紙束を差し出す。土方の目が刃のように細くなる。
「上等だ。——お前ら、よくやった」
褒め言葉は短い。だが隊士はそれで十分に動ける。
戦の熱が引いていくのに合わせて、夜風がひやりと肌を撫でた。
廊の端で、静は一度だけ外を見た。
祇園町の灯の群れが遠くで揺れている。花街の音が、現(うつつ)と夢の境目のように薄く響く。
自分がここにいること。兄と並び、蓮がいること。
似ている顔を武器にすること。
それが、時にどれほど残酷で、どれほど効率的か。静は知っている。
似ている顔であればこそ、敵は怯み、味方は迷う。
それでも静は、今夜を選んだ。斬らずに勝つ夜を。
帰途、石畳に雨が戻り始めた。粒は細く、夜の匂いを洗うほどではない。
「静」
蓮が隣に並ぶ。槍は布に包まれ、音を立てない。
「裏、楽しかったか?」
静は肩をすくめる。
「楽しい、というよりは……そうですね、作法の良い勝負でした。相手にも、私たちにも」
「作法ねえ。お前は茶席でも人を追い詰められそうだ」
「茶杓の跡は嘘をつきませんから」
蓮が笑い、雨が少しだけ強くなる。
「さっきの台詞、よかったぞ」
「どれでしょう」
「『どちらでも斬れてしまうのが難でして』ってやつ。敵の顔色が変わった」
静は小さく、ひょうひょうと笑った。
「困りますねえ。私の良心が、また」
「困らせとけよ。生かして困らせる、だろ」
「ええ。生きて、困ってもらいましょう」
二人は壬生へ向かって歩く。夜は、先ほどまでの刃のきらめきを吸い込んで、しっとりと落ち着きを取り戻しつつある。
ふと、静は歩幅を半歩だけ広げてみた。兄と自分の歩幅の違いを思い出す。
兄の歩は舞のように軽やかで、静の歩は影のように薄い。
どちらも同じ速さで、違う場所へ到る。
壬生寺の鐘が、雨に濡れた空気を震わせた。
静は振り返らない。
彼には、同行者がいる。
槍の穂先を布で包む男は、常に背後を守る盾であり、同時に前を穿つ刃でもある。
退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術。
今夜、生かして困らせた者たちを、明日もまた生かして困らせるために、二人は歩く。
京の路地に、二本の影が並ぶ。
片方は細く、片方は長い。
雨の粒がその輪郭をやわらげ、やがて溶かしていった。
——影は二つ。だが、踏めるのはいつも、一歩だけだ。
静はその一歩を、静かに選び続ける。
静は草履の緒を軽く指で整え、足裏に木の感触を確かめる。息を一本、細く吐く。風の向き、灯の高さ、足音の速さ——すべてが「間合い」に変換されるのを、体の奥で確かめた。
今夜の“表”は近藤・土方が担う。池田屋の表口はざわめきの極みになる。静と蓮の任は“裏”。逃げ道を塞ぎ、できれば策を回す頭を生け捕る。
宿の裏手に回り込む細道には、酒蔵へ通じる勝手口があると密偵は言った。静は軒の端を見上げる。板戸の上に吊るされた灯籠がゆらりと揺れ、金具が小さく乾いた音を鳴らした。
「静」
背後で蓮が低く呼ぶ。槍は袋から半分だけ覗き、石突が夜露を弾いた。
「合図が来たら、一気にいく。裏木戸は俺が割る。お前は酒蔵へ滑り込め」
「はい、蓮。——割る際は、二拍子目でお願いできますか。私がひとつ、息をさきに置いておきたいので」
静は肩だけで笑った。ひょうひょうとした声音に、蓮は短く鼻を鳴らす。
「了解。……それと、顔を見せるのはお前の役目だ。兄貴に似てる顔だ。賭ける価値はある」
「似てる、というのは便利な悪事です。私の良心はいつも困っています」
「困らせとけ。後で俺が酒を奢る」
表の方から、遠雷のような、しかし確かな殺気のうねりが近づいてくる。表口での突入が始まったのだ。歓声と悲鳴の境目のような叫び声が一つ上がる。
静は首をわずかに傾け、風の音に耳を澄ませる。蔵の板の向こう側——二歩、いや三歩先に人の気配。低い囁きと、布擦れ。逃がしの準備に違いない。
「行くぞ」
蓮の囁きと同時に、裏木戸が石突で跳ね上がる。木戸と柱の間に入った楔が砕け、音は短く鋭く、直後に静の足が影に吸い込まれた。
酒蔵の空気は生ぬるい酒気と木の匂いに満ちている。樽の列がつくる闇の柱の間を、静の足運びは水面を滑るように進む。
今夜の静は刺すために来たのではない。逃げ道を塞ぎ、喉元に冷たい言葉を置くために来た。斬らずに勝つ——そう決めた時の身体は、なぜか軽い。
樽と樽の隙間を抜け、梁に吊られた小さな灯りの下に影が二つ、三つ。短い裃に野暮ったい町人風の装い。声だけは良く回る。
——裏手は押さえたと聞いたぞ。
——表が騒がしい。早う出ろ。
——道はこっちや。
静は、その場で一度だけ深く頭を垂れた。礼をするふりをして、足運びを切り替える。灯りの手前、一足一刀の外。居合の鯉口がわずかに鳴る。
「こんばんは。私、新選組でございます」
柔らかい声が、酒蔵についた埃の粒まで撫でるように行き渡った。
男たちがぴたりと固まる。灯が静の顔を照らす。
その瞬間、誰かが舌打ちして吐いた。
「沖田——ッ!」
顔が似ている。静は知っている。その事実は刃より速く、噂より強い。
男たちの視線が一斉に静へ集まった瞬間、蓮が戸口を塞ぐように滑り込み、槍を横に構えた。蔵内で長物は不利——それでも蓮は穂先を寝かせ、逆手に持ち替える。柄は短く、突きは一間。
「逆手一間突き」。間詰めでこそ活きる、蓮の裏技だ。
最初の男が飛びかかる。短刀。
静は鯉口を切り、しかし抜かない。鞘を握った左の肩をわずかに前に出し、刀身を半寸だけ押し出す。鯉口の金具が相手の手首を打ち、短刀の軌道が逸れる。
右の手の内を返し、そのまま柄頭で相手の顎を打つ——乾いた音。男は樽に背をぶつけ、肩から崩れた。
「おや、失礼。痛かったでしょうか。……ご安心を、致命ではありません」
静の言葉に、二人目が怯んだ。そこで蓮の槍がすり抜ける。
穂先は胸を狙わない。脇の下——筋肉の薄いところに軽く刺す。血は出るが、死なない。男は悲鳴を噛み殺し、膝が折れる。
「寝てろ。命は拾ってやる」
蔵の奥から、もう一つの気配。
静は灯の位置を確かめた。梁から吊られた灯の揺れは、外の風より内の動きに敏感だ。誰かが梯子を降りる気配。地上ではない。——上に、間がある。
静は木箱に足をかけ、音を立てずに身を持ち上げる。梁の上は埃が薄く、つい先ほど通った跡が一本、走っている。
そこへ——
表からの怒声が、蔵の板壁を震わせた。短く鋭い金属音。近藤の太い声、土方の短い指示が重なる。表は表で火花が散っている。
揺れた灯の影が一瞬だけ長く伸び、梁の上の男の袖を舐めた。静はそこへ指先で風を置く。鞘から、刀身が風より静かに滑った。
抜いたことすら音にならない。居合の初太刀は空を斬らず、灯の紐を斬った。灯は落ちかける瞬間に炎を吐き、すぐさま静の指が陰を作って風を断った。火は消え、闇が落ちる。
落ちた灯の鈍い音に驚いた梁上の男が、体勢を崩す。木粉がぱっと舞う。
静は鞘で梁を叩き、男の足を外させた。梁から落ちた男は背から樽の上に落ち、息を吐き切る。
「蓮、二」
「了解。三は?」
「まだ、いますよ。上に」
静が囁くと同時に、蔵のさらに奥、戸袋の裏から布の擦れる音。
逃げ道だ。勝手口のさらに裏、路地へ抜ける腰高の戸。そこを使うには、酒樽を二つ、横へ動かす必要がある。
蓮が槍の石突で床を軽く打つ。合図。
静は樽の縁へ掌を置く。樽は満ち、重い。ひとりで動かすのは骨だ。普通なら。
「重いのは、難です」
静はひょうひょうと呟いて、樽と床の間に座布団ほどの隙間を作った。木片を楔のように差し込む。てこの腕を変えれば、重さは性質を変える。
蓮の槍の柄が、そこに差し込まれる。二人で息を合わせる。
——引く。
樽が鳴く。
——止める。
楔がすべり込む。
——押す。
床板がわずかに軋む。
動いた。
腰高の戸の前に、影がひとつ。影は短い。小柄。だがその手にある包みは、身体の割にいささか大きい。
包みの端から、薄い紙の匂い。書付か。名簿か。
静は樽の影に身を半分隠し、声をかけた。
「そこの方。——危ないですよ」
影がびくりと揺れ、包みを抱え直す。
「来るな!」
幼い声ではない。女の声でもない。声帯に砂が混じったような、煙草と夜更かしの付き合いが長い声。
「足を引いた方がよろしい。戸板の釘が、外れております」
静が半歩、影に寄せる。
影は躊躇なく戸を蹴った。
戸は内側に倒れ、外気が流れ込む。夜の冷気。路地。
——そこへ、蓮の槍が横に走った。
槍は突くものだが、横に走らせれば、それは欄干にもなる。戸口の高さに穂先を通し、影の鳩尾の手前でぴたりと止める。
影は立ち上がりきれず、腹を槍に乗せるように折り曲がった。
「ぅ、げっ……」
胃の中のものを吐き出すより前に、息が止まる。
静はそこで初めて抜いた刀を見せる。刀身は灯を失い、ただの線にしか見えない。
彼は笑ってみせた。
「私、沖田静と申します。兄は総司。どちらでも斬れてしまうのが難でして」
影が息を呑む。その一瞬で、包みが床に落ちた。蓮が槍の石突で包みを押さえる。
「……持ってくぜ。中身は後で御用だ」
影はなおも目を泳がせ、戸口の外をうかがった。路地の暗がりの先に、別の影が二つ。
挟みだ。
静は右足だけを半歩、外へ滑らせる。闇の中の足運びを見たことがある者には、たぶんそれだけで十分に伝わる。
刃が、来る前に。
彼は鞘を上段に振り上げ、板戸の残骸を叩く。大きく、しかし意味のない音。
外の影が一瞬たじろいだ。
そのたじろぎの分だけ、蓮の槍が前に出た。石突が路地の土を鳴らし、穂先が正面を牽制する。
「おーい。今なら、逃げたい奴は右に回れよ。左は死ぬ」
軽口。だが嘘は混じっていない。左手側には土方の隊が詰める路。右は行き止まり。逃げられないが、死にはしない。
影たちは、右へ流れた。
静は、目の前の小柄な影に向き直る。
「では、あなたは残ってください。お話を伺いたい」
小柄な影は、ようやく静の目を真正面から見た。そこで初めて、静はその目が「敵方の兵」ではなく、「策を回す者」の目であると理解した。
逃げ足より先に考えが動く。だから足が遅い。
この手合いは、刃より言葉が効く。
「名乗りは不要です。ですが、帳面は必要です。それと、裏で繋がる名も」
静は刀を鞘へおさめた。
“音を立てずに抜いた刀は、音を立てずにおさめる”。それが、彼の流儀だった。
——表で、歓声が一段と高くなった。斬り結びの波は峠を越えつつある。
蓮が包みを開き、薄い紙束をぱらぱらと捲る。
「金の流れ、宿の手配先、武器の搬入……。やるじゃねえか、坊や」
小柄な影は唇を噛み、沈黙する。かすかに震える喉。
静は、その震えを責めない。
代わりに、きっぱりと言った。
「生きて、困ってください」
影の目が揺れる。
静はその視線を真っ直ぐ受け止めた。ひょうひょうとした顔の奥で、熱のようなものが小さく灯る。
「斬るより困らせる方が、案外こたえるものです。……ね、蓮」
「同感。死ぬのは簡単すぎる」
蓮が槍の柄で軽く床を叩くと、蔵の外から二名、隊士が飛び込んできた。
「裏、確保」
「こっち、三。生け捕り一、紙束一」
手筈どおり、引き渡しが済む。
蓮が槍の穂先に輪っかを嵌め、穂を布で包む。狭所での血の匂いは避けた方がよい。
静は蔵の入口で軽く首を回し、肩の重さを確認した。体はまだまだ動く。
——表へ、行くか。
表へ出ると、雨上がりの石畳に灯の粒が散らばっていた。池田屋の表口は破られ、戸障子は割れ、廊へ転がる下駄や刀の鞘が転戦の痕を示す。
静は足音を柔らかくして、廊下を抜けた。
客座敷では、数名が取り押さえられ、袖が破られ、畳の縁に血が点々。
その中央に、兄がいた。
沖田総司。
咳をひとつ、ひどく軽く。袖口で口元を押さえ、その眼だけは澄み切っている。
静と目が合う。
総司は、わずかに首を傾げ、笑った。
「遅いじゃないですか、静」
ひょうひょうとした声が兄にも似ている。だが花の香りが違う。
「おや、兄上。表はお忙しそうでしたので、裏で困らせておりました」
静が礼を軽くすると、総司の視線が静の後ろ、蓮へ滑る。
「槍、よく働いたでしょう」
「当たり前だ。俺の槍は長さじゃねえ、届く心臓があるかどうかだ」
蓮が肩で笑い、槍の柄を軽く叩く。
総司が一度、笑って、軽く咳込んだ。
「……大丈夫です」
静はその言葉の先を取らず、ただ頷いた。兄がそう言った時は、本当に大丈夫な時と大丈夫でない時がある。だが今は、言葉の方を支えるべきだ。
土方が帳面を受け取りに寄ってきた。
「裏はどうだ」
「逃げ道は塞ぎました。策を回す者と思しき一名、生け捕り。帳面は蓮が」
蓮が紙束を差し出す。土方の目が刃のように細くなる。
「上等だ。——お前ら、よくやった」
褒め言葉は短い。だが隊士はそれで十分に動ける。
戦の熱が引いていくのに合わせて、夜風がひやりと肌を撫でた。
廊の端で、静は一度だけ外を見た。
祇園町の灯の群れが遠くで揺れている。花街の音が、現(うつつ)と夢の境目のように薄く響く。
自分がここにいること。兄と並び、蓮がいること。
似ている顔を武器にすること。
それが、時にどれほど残酷で、どれほど効率的か。静は知っている。
似ている顔であればこそ、敵は怯み、味方は迷う。
それでも静は、今夜を選んだ。斬らずに勝つ夜を。
帰途、石畳に雨が戻り始めた。粒は細く、夜の匂いを洗うほどではない。
「静」
蓮が隣に並ぶ。槍は布に包まれ、音を立てない。
「裏、楽しかったか?」
静は肩をすくめる。
「楽しい、というよりは……そうですね、作法の良い勝負でした。相手にも、私たちにも」
「作法ねえ。お前は茶席でも人を追い詰められそうだ」
「茶杓の跡は嘘をつきませんから」
蓮が笑い、雨が少しだけ強くなる。
「さっきの台詞、よかったぞ」
「どれでしょう」
「『どちらでも斬れてしまうのが難でして』ってやつ。敵の顔色が変わった」
静は小さく、ひょうひょうと笑った。
「困りますねえ。私の良心が、また」
「困らせとけよ。生かして困らせる、だろ」
「ええ。生きて、困ってもらいましょう」
二人は壬生へ向かって歩く。夜は、先ほどまでの刃のきらめきを吸い込んで、しっとりと落ち着きを取り戻しつつある。
ふと、静は歩幅を半歩だけ広げてみた。兄と自分の歩幅の違いを思い出す。
兄の歩は舞のように軽やかで、静の歩は影のように薄い。
どちらも同じ速さで、違う場所へ到る。
壬生寺の鐘が、雨に濡れた空気を震わせた。
静は振り返らない。
彼には、同行者がいる。
槍の穂先を布で包む男は、常に背後を守る盾であり、同時に前を穿つ刃でもある。
退くは逃げにあらず、生を繋ぐ術。
今夜、生かして困らせた者たちを、明日もまた生かして困らせるために、二人は歩く。
京の路地に、二本の影が並ぶ。
片方は細く、片方は長い。
雨の粒がその輪郭をやわらげ、やがて溶かしていった。
——影は二つ。だが、踏めるのはいつも、一歩だけだ。
静はその一歩を、静かに選び続ける。



