6月中旬。琴葉は初めての定期考査の勉強に追われていた。聖桜学園高等部2年のテスト科目は「国語」「数学」「英語」「化学」「工学」「政治」「歴史」「音楽」「美術」の9つであり、さらに能力を使った仮想戦闘試験が行われる。

 琴葉は音楽のみ自信があるものの、それ以外については授業についていくのがやっとだった。一方で、千広は座学が得意らしく、琴葉はわからない問題を千広に丁寧に教えてもらうことにしている。特に、千広の化学の知識には舌を巻く。もともと化学が好きで、優先的に勉強していた結果だと言っていた。

「琴葉!休日に一緒に勉強しない?」
「よろしいのですか?私、わからない問題ばかりで……千広さんに教えていただきたいことが山ほどあるのですが……千広さんもご自身の勉強をしたいでしょうし……」
「そんなの気にしなくて大丈夫だよ〜。教えることで理解が深まるって言うし!じゃあさ、もし宝条家がOKだったらでいいんだけど、琴葉の家にお邪魔してもいい?」

 友達と家で一緒に勉強するなど、夢にまで見た素敵なことだ。しかし、貴族ともなれば、家に他家の者を警戒心なく招き入れることは推奨されない。一応、琴葉は珀に確認を取ってみることにした。

「珀様、実は千広さんにこの家で一緒に勉強しようと誘われたのです。その……よろしいでしょうか……」
「琴葉はその友人と本当に仲がいいのだな。大丈夫だとは思うが、一応、宝条の結界に触れる前に少し身辺の確認だけさせてもらおう。そして、隼人をつけておく。友人には申し訳ないが、国のトップ貴族として、警戒を怠ることはできないからな」
「ありがとうございます、珀様。千広さんにも事前に伝えておきますね。ですが……隼人様をお借りしてもよろしいのですか?」
「ああ、かまわない。それに、勉強をするのだろう?あいつは俺の次に成績が良かったから、役に立つはずだ」
 
 案外簡単に許可が下りて、琴葉は安心する。千広の出自については、すでに宝条総出で調べているだろうし、特に問題ないと判断したのだろう。

 こうして、二人は勉強会をすることとなったのである。

※ ※ ※
 
 勉強会当日。千広は家の車で宝条家にやってきた。

「千広様。ようこそいらっしゃいました。宝条家次期当主の秘書をしております、白井隼人でございます。まず、失礼ながら、身辺の確認をさせていただきたく」
「白井様、お初にお目にかかります。玉垣(たまがき)千広と申します。以後、お見知り置きを」

 隼人が能力を使って千広が宝条に敵意を持っていないか、害を成す存在でないかを確かめる。もちろん、千広はただ勉強しに来ただけなので、特に反応はない。

「琴葉!今日は頑張ろうね。——それにしても、宝条家はすごく広いお屋敷だねぇ」
「私も婚約当初は驚きました」

 隼人を先頭に、応接室へと向かう。使用人がきっと部屋を整えてくれていることだろう。千広はキョロキョロと辺りを見渡して、初めての宝条家を堪能していた。

 部屋に辿り着くと、早速二人はタブレットを取り出し、教科書を開く。隼人は二人の席の少し離れたところに立ち、気配を消した。すぐにメイドが紅茶を入れて運んでくる。

「まずはやっぱり、数学だよねぇ」
「複素数の概念がさっぱり……」

 ペンシルで問題の解答を記入していくが、琴葉の手は止まりがちだ。だが、千広が集中しているのを見て、遠慮して質問ができていない。見かねた隼人が後ろからタブレットを覗き込んできた。

「琴葉様、手が止まっていらっしゃるようですが、わからない問題がございましたか?」
「え、ええ。1の3乗根についての問題なのですが、(1)は解けたのに、その先が全然わからないのです」

 隼人は問題を見た瞬間から、解説を始めた。問題集の付属の解説よりも何倍も明快な説明だった。

「——と、こんな形で変形すれば解けます。どうでしょう、解答、書けそうですか?」

 いつの間にか、千広も手を止めて隼人の話に耳を傾けていた。

「学園の先生よりもわかりやすい……」
「隼人様、これなら解けそうです。ありがとうございます!」

 珀の次に成績が良かったと言うのは、本当のことなのだろう。宝条家次期当主を支える身として、申し分ない頭の良さだ。その後、千広も隼人に質問をし始め、実質隼人の授業のようになってしまった。どの問題だろうと、見た瞬間に解答がパッと思いつくようで、千広も琴葉ももはや感動している。

「——珀様は隼人様よりも成績が良かったのですよね……?」
「珀様は全ての科目で毎回満点を取っていました。次期当主としての仕事もございましたのに、全てを軽々とやってのけてしまうので、私はついていくのに必死でございました」

 隼人が苦笑する。琴葉は自分に甘々な婚約者がすごい人であることを改めて実感し、戦慄するのだった。

「琴葉、私、数学飽きてきちゃった。白井様の説明、すごくわかりやすいんだけど、流石に数学ばかりやってるわけにもいかないし、そろそろ化学やらない?」
「ふふっ、千広さんは本当に化学がお好きなのですね」
「あはは、バレた?」

 二人は数学の教科書を閉じ、化学の教材を開く。琴葉は初め、長い問題文を読み取るのに苦戦していたが、千広が楽しそうに噛み砕いて説明してくれるため、段々と意図が汲めるようになっていく。化学に関しては、千広が全て解いてしまうため、隼人の出番はなかった。もちろん、仮に隼人が質問されていれば、数学同様、明快な説明を展開しただろうが。

 それから、メイドが持ってきてくれたスコーンをおやつに食べ、糖分補給をしたところで、隼人の経験を踏まえた政治の説明を聴き、二人で歴史の文献を読み解き、英語の長文にひいひい言いながら、満遍なく勉強した。

「私、音楽も対策したいんだけど、琴葉教えてくれる……?曲の作られた背景とは全然わかんないし想像できなくて……」 
「それなら、多分説明できると思います」

 次は琴葉の独壇場だ。とはいえ、琴葉は元来自分に自信がないので、控えめに説明する。

「この曲、授業でやった時もそうだったんだけど、やっぱり背景を想像してみても、楽譜と照らし合わせてみても、全然イメージできない……」

 テスト範囲として挙げられている曲のページを指差す千広。琴葉は教科書を覗き込むと、少し考える素振りを見せた。

「……千広さん、今から私が実際に弾いてみようかと思うのですが、いかがでしょう?」
「琴葉のピアノが聴けるの!?ええ、こんな贅沢なことがあっていいの?」
「最近はあまり弾いていない曲なので、あまり上手くはないかもしれませんが……やはり実際に曲を聴きながら、イメージを掴んだ方がいいと思うのです」

 隼人がメイドを呼び、防音室を整えるように命じた。その間、琴葉は千広に曲の背景を説明する。

「授業では、この作曲家が独り立ちしてから、なかなか故郷に帰れない日々が続いて、そんな中、住んでいる国と故郷が戦争状態に陥ってしまい、いよいよ帰れなくなってしまった。その悲しみと郷愁の念からこの曲を書いたと習いました。ですが、これは実は間違いなのです。彼は対外的にはそのような理由づけをして、この哀愁漂うメロディーを説明していますが、本当は恋人にフラれてしまい、会えなくなってしまった悲しみを綴ったのだそうですよ。そう考えると、途中の回想場面と思われるような軽快なメロディーに納得がいきませんか?」
「そうだったの!?なーんだ、表向きにそう説明していただけだったのかー。そうなんだよね、その途中の軽やかな部分が故郷を思うにしては軽すぎるというか、懐かしさよりも楽しさ?幸せな感じを受け取ったから、ちぐはぐで納得いかなかったの。そう考えたら、確かにすんなりイメージできるなぁ……」

 そうこうしているうちに、防音室が整ったとメイドが知らせに来て、また隼人を先頭に二人は移動するのだった。

 琴葉は久しぶりに弾くと言いながら、ミスタッチひとつなく美しい音色を響かせ、千広はうっとりとそれに聞き惚れる。琴葉の白くて細長い指が白と黒の鍵盤の上を駆け巡り、その度に繰り出される音符が部屋を優しく舞った。

「……なんだか、授業の時に聴いた印象と違って聴こえるね。さっきの背景もその理由の一つなんだろうけど、それ以上に琴葉が弾く音は優しいなぁ。きっと性格が出るんだね。恋人との思い出の部分も、愛が溢れてる気がする。あ、そっか。琴葉は珀様とラブラブだもんね!」
「……!」

 琴葉の頬が急激に赤く染まる。隼人がニヤニヤしているのが見えた。琴葉は恥ずかしさを忘れるためにも、テスト範囲の曲を次々と弾いていった。千広はその度に幸せそうに音楽に聴き入り、たまに思いついたことを教科書にメモしていく。

 そのうち、あっという間に日が暮れて、勉強会はお開きとなった。

「琴葉、今日は本当にありがとう!お互い、テスト頑張ろうね!」
「ええ。こちらこそ、とても充実した休日でした」
「隼人様も、今日はありがとうございました!また、数学教えてください〜」
「もちろんですとも」

 千広は律儀にも隼人にしっかり礼をし、琴葉に手を振って、迎えの車に乗り込んだ。車の中から、もう一度手を振りつつ、名残惜しそうに宝条本家を眺めている千広に、琴葉も車が見えなくなるまで手を振り返す。その日は二人とも、友達と勉強会ができたという事実に嬉しくなりながら、テスト勉強の続きをやるのだった。