その日は朝から明らかに、珀が浮き足立っていた。

「琴葉、今日はお昼過ぎに小雨の予報だが、神楽の力で天候を変えることはできないだろうか」
「珀様……。雨も大切です。それに、雨の中二人で歩くのもまた、素敵なことではありませんか」

 今日は、久々のデートである。お互い忙しく、最近はあまりデートの時間を取ることができていなかったのだが、たまたまその週は魔形の発生が落ち着いていて、仕事が早く終わった珀が、週末にデートに行こうと琴葉を誘ったのだった。
 
 琴葉にもほんの少しずつ、やりたいことが芽生えるようになってきて、寝る前にSNSを眺めているときにふと目に留まったおしゃれなカフェに珀と二人で行ってみたいと口にした。珀はそれを聞いて、それはそれは驚いて箸を落としてしまっていたくらいだ。もちろん、珀は厳しい貴族教育を受けてきたから、普段は非常に行儀がよく、箸を落とすことなどあり得ないのだが、それくらい琴葉の希望にびっくりしたのだろう。

 珀は琴葉の発言をきっかけにデートプランを組み、今回は「庶民デート」なるものをやってみようということになった。琴葉の提案したカフェは庶民向けの街に構えられているもので、SNSでバズっているところだったため、いつもよく歩く貴族街ではなく、平民が住むいわば下町のような場所で庶民に混ざってデートをしてみたら面白いのではないか、という考えである。

「琴葉様!なんて美しいのでしょう!ラフな格好もこんなに綺麗に着こなされるだなんて!流石でございます!」

 朝食を食べ終え、支度に取り掛かる。「庶民デート」というテーマを踏まえて、取り寄せたラフな服装を琴葉に着せて、結依が興奮したように感想を述べた。胸元にパールが並んだ白のTシャツに、ジーンズ、デニムのジャケットという格好である。庶民に紛れてデートをするのなら、いつものような高い服を着ていると狙われかねないという珀の過保護な発想から、結依が服装を準備するように仰せつかったのだ。

「琴葉様は美しい黒髪をお持ちです。いつもの甘い格好ももちろんお似合いになるのですが、こういった格好いい服装もお似合いになると思いました!予想通り、いや、予想を超える美しさでございます!早速珀様にお見せいたしましょう!」

 別のメイドがデートに必要な持ち物を入れた小さな斜めがけバッグを手渡してくれる。結依が部屋の扉を開けると、すでに目の前には珀が。

「……!」

 珀は手で口元を覆い、声にならない声を上げた。琴葉も、最初の頃は珀がこのような反応を見せることを不思議に思っていたが、最近では流石にかわいいと思ってくれていることを自覚し始めたため、恥ずかしくて俯いてしまう。

「琴葉、やっぱり今日は外に出るのはやめて家で……」
「珀様……」
「いや、すまない。出かけたくはあるのだが、あまりのかわいさについ閉じ込めて置きたくなってしまう」

 琴葉は照れて珀の顔を見ることができず、少し目線をうろつかせる。そして、気づいた。珀もラフな格好をしていることに。ダボっとしたパンツに白Tを合わせ、その上から黒シャツを羽織っている。カジュアルな服装だが、それでも消えないほどの気品。あまりの格好良さに琴葉は目が眩んだ。

「……珀様、素敵です……」

 満足げにニヤリと笑った珀は琴葉の手を取って玄関前の車へと向かった。今日は下町を歩くため、近くまで車で送ってもらい、そこからは車なしでの移動となる。平民ばかりの街を高級車が走っていたら目立つからだ。

 まずは平民向けの大型ショッピングモールに向かった。庶民向けの服屋、アクセサリーショップなどが、吹き抜け部分をぐるりと囲むように立ち並ぶ光景は、二人ともあまり見たことがなく、思わず立ち止まってしまう。

 何より、人が多い。貴族街はあまり混んでいることがない。なぜなら、能力者の数、すなわち貴族の数はそれほど多くないからだ。そもそも、能力者が多ければ、魔形討伐界隈だって人手不足になるはずがない。それに対して、データでは知っていたが、平民はこんなにも数が多いのか、と実感する。

「ちょっとちょっと!見て、あの人!超かっこよくない?」
「ほんとだ!え、芸能人?」
「背高いし顔良すぎ……」

 珀はその見目の良さから、注目の的になってしまっている。琴葉はその珀にエスコートされながら歩いているため、非常に目立ってしまっていた。

「隣の人、彼女?」
「え、なんか釣り合ってなくない?」
「なんていうか、貧相だよね」

 珀と一緒にいると嫉妬されるのはよくあることだ。それに、鈴葉たち令嬢に直接罵声を浴びせられてきた琴葉は、多少の悪口には耐性がある。

「珀様!あのお店に入ってみたいです」

 店の外にまで香りが広がっている香水ショップを指差して、琴葉が言う。珀は優しく微笑んで頷いた。

「きゃっ!今の顔見た?イケメンすぎる!」
「それなそれな?お近づきになれないかなぁ」
「あんたじゃ無理でしょ。あーでも、あんな子と一緒にいるくらいだし、意外といけるかも?」

 騒ぎ立てる高校生くらいの女の子たち。店に入る直前、珀はその三人組をしっかり睨みつけた。顔のいい人間が睨むと迫力がすごい。三人は恐怖で固まってしまった。

「珀様……?」
「なんでもない。何か惹かれるものはあるか?」
「これなんか、程よく甘い香りで素敵だと思いませんか?」

 手であおぐようにして香りを堪能する二人。一方、店の外では、早速、隼人が対応に当たっていた。

「お嬢さんたち、俺と遊ばない?」

 珀ほどカリスマ性が溢れているわけではないが、隼人もかなりのイケメンだ。そんな男に声をかけられて、喜ばない女はいない。珀が一般人に危害を加えることなくデートを終えられるように、秘書として立ち回り、害悪を遠ざけるのが隼人の仕事だ。大戦以降、自らの手で人を殺めてしまった罪悪感であまり睡眠を取れていないようだったが、最近では薬も使いつつ、少しずつ立ち直ってきているようで、その働きも以前のそれと同じレベルにまで回復している。

 琴葉と珀はリビングに置くルームフレグランスを購入して、店を後にした。結局二人とも、珀が普段使っている柑橘系に惹かれてしまって、フレグランスもその系統になった。高級品ばかりに囲まれて生きてきた珀にとっては、今日のデートはつまらないだろうかと琴葉は少し不安だったが、意外にも珀は安物に興味を示していた。仕事ができる分、コスパやタイパという概念があるからなのだろうか。

 その後も服屋を回ったり、雑貨を選んだりして、空腹を感じ始める。カフェに移動しようと吹き抜けを突っ切るエスカレーターに乗って1階に向かい始めた時のことだった。

「ええー、マイクテストマイクテスト……」

 1階のホール部分に人だかりができているのが見える。中心にいる人物がマイクを持ち、その周辺ではその人の支持者と見られる数人がビラを配っていた。

「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。今回は、能力者が貴族として特権を持ち、政治を担っているこの現代日本の異常性に、皆さんに気づいてもらいに来ました」

 不穏なメッセージに、珀と琴葉は顔を見合わせる。人だかりの前列の方は、考えに強く賛同しているのだろうか、いいぞいいぞ、と囃し立てている。後列の方は何事か、とざわついていた。

「皆さんはつい先日の下院における、月城和樹氏の演説を聞いたでしょうか!彼曰く、魔形討伐の力、すなわち能力と、政治の才能は全く別物であると。能力を継承しているというだけで国の上に立ち、多くの資源を享受している彼らは、決して政治の才能があるわけではない。現に、被災した山梨の復興は全く進んでいない。一方で、ただ無能力者として生まれ落ちただけで、政治に意見してもその声が届くことなく、国の一員であるというのにも関わらず、実質亡き者にされている我々の中にも、政治の才を持てるものはきっといるはずだ。正しく、現代の国の在り方は間違いであり、能力の有無に関わらず政治を執り行えるように仕組みを変えるべきではないか、と。」

 珀も琴葉も、これは見過ごすわけにはいかないと感じて、自然と人だかりに加わった。はぐれないように、珀は琴葉の華奢な白い手をしっかり握る。

「私たちは今!目を覚ますべきではないか!なぜ能力を持たずに生まれただけで、政治には参画できず、貧しい暮らしを強いられなければならないというのか!月城氏の演説は、この国の間違いを的確に言い表していたと、私は思います」
「そうだそうだ!」
「そもそもあれだけの才覚がある月城氏が上院に入れない仕組みだっておかしい!」

 ビラが後列にまで回ってきて、珀が一枚手に取る。眉間には皺が寄っていた。

「今日!私はここに宣言します。我々『革命の会』は、貴族政を打ち壊し、間接民主制を採用し、この国の在り方を根本から作り変える。今日をその決起集会とする!我々は、その名の通り、革命を起こすのです!」

 わあああと歓声が上がる。珀は険しい顔をしたまま、琴葉の手を引いてホールから抜け出した。しかし、すぐに甘い笑みを琴葉に向け、カフェに行こうと告げる。

「大丈夫なのですか……?」
「ああ。どうせ隼人が見ている。そうでなくとも、護衛から隼人に連絡が行くだろう。今日は誰にもデートを邪魔させないように命令したからな」

 いつも通りこき使われている隼人が若干可哀想だが、琴葉とて貴重なデートの時間は大切にしたいので、頑張ってもらいたい。

 少し移動した先にあるカフェは、ふかふかの白いソファとシックな黒っぽい木のテーブルが特徴の、おしゃれな店だ。庶民感を楽しむために、予約はせずに来たため、少し並んで待つことになる。

「こうして待たないと店に入れないのは、不便だな」
「確かにそうですね。でも、待っている間、お店の雰囲気を楽しめてこれはこれで素敵な時間です」
「ポジティブだな」
「珀様と一緒なので……それだけで幸せなのです」

 珀は少し照れたように、すでに握っていた琴葉の手をぎゅっと強く握りしめた。しばらくして、ウェイターが席へと案内してくれる。メニューを開いて、二人で何を頼むかを考え始めた。

「コース料理だと、せいぜい二択から選ぶくらいだから、こうも選択肢が多いと、選ぶのが難しい」
「たまにはこういうのも面白いですね」

 珀は名家のお坊っちゃまだし、琴葉はメイド同然の扱いを受けていたせいで外に出る機会などほとんどなかったため、二人とも平民向けの店には慣れていない。待つのも料理を選ぶのも、何もかもが新鮮だ。

「バズっていたフレンチトーストも気になりますし、このサンドイッチも美味しそうです……珀様は何か気になるメニューはありますか?」
「そうだな……では、俺がそのサンドイッチを頼むから、フレンチトーストと半分ずつ食べたらどうだ?」
「ええ!?それでは、珀様の食べたいものが食べられないではありませんか!」
「俺はどちらも食べたいし、琴葉が食べたいものを食べてほしい」

 押し問答の末、結局、フレンチトーストとサンドイッチを半分ずつ分けて食べることになった。二人とも、その問答すら楽しくて、思わず笑顔になってしまう。

「あのカップル、かわいくない?」
「わかる!初々しいよね」

 先ほどのショッピングモールでの周囲の反応とは対照的に、カフェでは好意的に取られているようだ。それはそれで気恥ずかしくて、琴葉はいたたまれないのだった。

 運ばれてきた料理は美味しかったし、甘いと言いつつ顔を綻ばせている珍しい珀が見れて、琴葉は大満足だ。珀は意外にも甘いものが好きなようだ。コーヒーはいつもブラックで飲んでいるが、甘いのも苦いのも好きなのだろうか。

 コーヒーか紅茶か聞かれ、二人はコーヒーを選ぶ。珀が家で仕事をするときには、必ず琴葉がコーヒーを入れて、二人で飲むため、癖のようなものだ。熱いコーヒーを少しだけ口に含んで、ショッピングモールでの集会を思い出す。デートの場でそのようなことを話題に出していいか迷った末、琴葉は遠慮がちに話し出した。

「——貴族という階級は、いずれなくなってしまうのでしょうか?」
「そうかもしれない。階級自体は簡単に壊せるだろうからな」

 珀が意外にもあっさりと返事をしたので、琴葉は戸惑ってしまう。

「では、私たちはどうなってしまうのでしょう……?」
「どうもならないさ。階級自体は消滅しても、魔形討伐自体は必要だから、能力者が処刑されることはないだろうし、しばらくは今みたく富を享受したままだろうな」
「いずれは……」
「ああ。将来的には、徐々に平民との貧富の差が縮んでいくだろう」

 先見の明があると言われている珀の言うことだ。きっと間違いないのだろう。

「ただ、一点気をつけなければならないのは、やはり月城の動向だろうな」
「それは——あのように影響されて革命を起こす平民が多発するから、でしょうか?」
「まあそれもあるが……革命が起こるのは別にいい。いや、困る貴族はいるだろうが、俺は別になんとも思わない。それも時代の流れだろう。だが、月城は戦争を起こす気じゃないかと思う。それが唯一気がかりな点だな」
「戦、争——」

 珀は声を潜めて、だが表情は変えずに、そんな壮大な話をする。琴葉は事の大きさに身震いしてしまう。

 戦争という響きは、琴葉に引っかかりを残したが、今日のところはデートを楽しもうと、切り替えることにしたのだった。

 カフェを後にして、二人で映画館に入る。美術館や博物館なんかには行ったことがある二人も、映画を映画館で観るのは初めてで、爆音と大画面に非日常を味わった。少し前の琴葉であれば、大きな音は神楽家にいた頃を連想させる恐怖の対象だったが、戦闘訓練をこなした今ならば、特に問題はない。そんな些細なところにも、自身の変化を感じて、改めて救ってくれた珀に感謝する琴葉。

 二人は無事、庶民デートを満喫したのだった。無論、家に帰ってから、買ったものの開封を楽しんだのは、言うまでもない。