――LOG/PROJ-2025-WS-17
――件名:結婚式記録映像(ホテル・オルフェウス)
――撮影:STUDIO TUYA / カメラ1=山名、カメラ2=澤田、ドローン=休止
――編集メモ:仮ラフv0.3/タイムコード基準=メインカメラ(C1)
00:00:03
ピンマイクのスイッチが入る音が小さく混じる。会議卓ほどの長さのテーブルの上に置かれた白いブーケに、レンズが寄る。花弁の表面には細い静脈のような筋が走り、ホテルの天井灯を柔らかく反射していた。
山名(O.S.)「新婦さん、ピン、胸元に失礼しますね。――はい、じゃ、テスト。お名前と、今日の気持ちを一言お願いします」
新婦(微笑)「……緊張、してます。あの……朝から家族がずっとそばにいて、なんか、夢みたいで」
笑い声。背後でドアが開く音。控室に差し込む廊下の照明が一瞬、色温度を変えたように見える。映像は一拍だけ暗く、すぐに戻る。編集段階での波形に異常はない。たぶん人の出入りで自動露出が揺れただけだ、と山名はメモに書く。
00:04:12
新郎側控室。肩に手を置く同僚、ネクタイの結び目を何度も直す母、鏡の前で苦笑いする本人。
山名「緊張、してますか?」
新郎「めっちゃしてます。朝、靴下を左右逆に履いて出かけて……母に止められました」
母「小さいころからそう。大事な日に限って、ね。――でも、いい顔、してる」
鏡に三人分の顔が並ぶ。その右端、シャツの胸ポケットあたりにもうひとつ、輪郭の曖昧な顔が重なったように見える。編集時にフレームを拡大しても、ノイズの塊に過ぎない。だが山名は、拡大したままの画面に付箋を貼った。「鏡像、要確認」。自分で貼っておきながら、そこに何が映っていたのか、厳密な言葉は持てなかった。
00:09:37
廊下。花嫁側の友人たちがイヤリングを見せ合って笑っている。スタッフ用ワゴンがすれ違い、氷の入ったバケツが鳴る。音は透明で、幸福の内部にいるときの音の仕方をしていた。軽く弾んで、人を疑わない。
友人A「信じられない。高校のとき、体育のあとにジュースおごってくれた人が、今日、夫だよ」
友人B「ずっと“優しいひと”だったよね。面白い動画も撮ってくれるし」
山名「動画?」
友人B「去年の誕生日、夜中に“幽霊屋敷ツアー”って、空き家の前を通るだけの……」
友人A「やめなよ、あれ、私、怖かったんだから」
冗談だ、と誰かが言って、笑いが広がる。笑いの波形は均一で、どこにも濁りはない。だが、録音の底に針のような高周波が刺さっている。ヘッドホンでは聴き取れず、波形だけが細く震えている。編集ソフトはそれを「環境ノイズ」と表示した。
00:12:20
親族控室。新婦の祖母が椅子に腰掛け、手の甲の薄い皮膚に光が乗る。祖母は写真を一枚、膝の上に置いている。花嫁が子どもの頃、庭で犬を抱いて笑っている写真。写真の右奥の木陰に、白い影のような筋がある。
山名「おばあさま、今日の感想を」
祖母「よかった、ここまで、よく……ねえ」
山名「何か、思い出を」
祖母「この子、七つのとき、庭の隅で……自分の影を踏まないように歩く遊び、してたの。影を踏むと、そこに閉じ込められちゃうって。――誰に教わったのかしらね」
祖母の視線が、写真の右奥に泳いだ。そこには何もない。あるいは、見ようとすれば、何でも見える。幸せな日には、見たくないものを見ない力が働く。山名はファインダー越しに、祖母の指の関節の白さを見ていた。
00:18:51
エレベーターホール。新郎新婦の幼なじみが、余興のリハーサルをしている。ギターのコードを確認し、スマホで歌詞カードをスクロールする。通り過ぎる宿泊客が小さく会釈する。誰もが親切で、誰もが少し急いでいる。
幼なじみ「今日、サプライズで、昔のビデオも流すんですよ。二人で川に落ちたやつ」
山名「川?」
幼なじみ「中学のとき、夏祭りの帰りに橋の上でふざけてて。あれ、めっちゃ笑えるやつ。――で、昨夜、確認したら、後ろに変な……いや、まあ、光の反射かな」
山名「どんな?」
幼なじみ「白い、着物……みたいな。あ、やめよ、縁起でもない」
笑って流す。山名も笑う。録画ボタンの赤色が、ポケットの中でも熱を帯びているように思えた。
00:23:10
テロップ:〈前撮り映像/1ヶ月前〉
川沿いの公園。桜は青くなり、風が川面を逆立てる。新婦が白いワンピースで立ち、新郎が後ろから抱き寄せる。ドローン映像のようななめらかさはないが、風の粒がレンズに当たるたび、画面の奥行きが増す。遠くで誰かの笑い声。二人は振り向かない。画面の隅に、白い帯が一瞬だけ滑る。山名は繰り返し再生し、結局「風で揺れたビニール」とラベルをつける。どうしても何かの正体を決めたくなるのは、人間のよくない癖だとわかっていても。
00:27:44
控室に戻る。新婦の父が、ネクタイの結び目をゆるめて深呼吸をしている。
父「緊張するのは、娘じゃなくて、こっちだな」
山名「ご挨拶の言葉、もう決まりましたか」
父「いくつか考えたけど、最後は……生まれたときの話をしようかと。――あの日、病院から帰る途中で、信号が全部、青でね。するすると、なにも詰まらずに家まで着いた。あれは、たぶん、神様が……」
言葉が途切れ、父は笑う。笑いの端で、彼はふと、壁の時計を見る。秒針は進んでいる。だが山名は、このカットを後でコマ送りにしたとき、秒針の位置が三度、同じところに戻るのを見た。編集ソフトのフリーズだ、と思った。GPUの相性だ、と思った。そう考える方向に頭が勝手に滑っていく。
00:31:08
カメラ2(澤田)素材
式場スタッフがバージンロードの花びらを並べている。花びらはプリザーブドで、淡い象牙色をしている。スタッフの一人が、膝をついたまま、しばらく手を動かさない。澤田はその横顔を撮り、ズームインする。スタッフの眼は、花びらではないどこかを見ている。誰もいないはずの前列の椅子の高さを、追っている。澤田の映像は少し揺れ、すぐに引く。彼の癖だ。長く寄るのを嫌う。
スタッフ(小声)「……すみません、ちょっと、鳥肌が」
もう一人のスタッフ「冷房、強い?」
スタッフ「いや、なんか、誰か……通ったような」
もう一人のスタッフ「気のせいだよ。今日、人が多いから」
椅子の布の皺が一斉に伸びて、そのすぐ後に、ゆっくりと戻る。その揺れは、温度差でも空調でも説明できる。できる、と人は言う。言い切ると、ひとまず眠れる。
00:36:55
取材インタビュー:新郎の同僚
同僚「職場では、結構頼られるタイプですよ。細かい資料作るの好きで。――今日、すごいです、みんな。サプライズで、同期からのメッセージ動画、つないで……」
パソコンの画面に編集中の動画が映る。十数人の顔が、一枚の画面に並び、皆が順番に「おめでとう」を言う。画面の左上の小さな枠で、誰かが黙って手を振っている。無音。下に「会えなかった人にも」と字幕が入る。その枠の名前のところに、誰の名前も入っていない。未入力のフォームの線だけが白く点滅している。
山名「この枠、誰ですか?」
同僚「え? あれ、誰だ……?」
笑いが引きつり、すぐに「まあ、誰かの友だちじゃないですか」と流れた。山名はそこだけを切り出し、フォルダ名「未定」に入れた。編集機のデスクトップに、名付けられないものが増えていく。
00:41:10
花嫁友人インタビュー(輪番)
友人C「初デートのときね、あの子、道に迷ったの。地図が逆さまで」
友人D「でもね、迷った先で、駄菓子屋見つけてさ。かき氷、食べた」
友人E「今日のドレス、似合う。白って、あの子の色だよね」
言葉は軽やかで、記憶はやわらかい。輪番の端に、ひとりだけ、声の届かなかった人がいる。口が動いているのに、音がない。ヘッドホンを最大にしても、そこだけ波形がまっすぐだ。「後日、本人の都合で音声差し替え」とメモが添えてある。だが、その「本人」の名前が、記録に見当たらない。
00:45:29
控室・静止画撮影
スチールのカメラマンが合図を送る。新婦のベールをふわりと持ち上げ、光の角度を調整する。シャッター音の合間に、別の音が混じる。蛇口を開けたときに最初に出る、水に空気が混ざったような音。ベールの裏側で、誰かがゆっくり息を吸う。
スチール「はい、じゃあ次、親御さんと三人で」
フレームの端に、大人の手が写りかける。袖口が古い。流行の線からずれている。カメラマンは一歩下がり、「すみません、袖、入っちゃってます」と笑う。新婦の母は袖を直し、「ごめんなさい」と言った。直された袖の柄は、画面に写った袖の柄と、わずかに違っていた。編集段階でそれがわかったとき、山名は一人の時間に再生を止め、緑茶を淹れた。普段、コーヒーしか飲まないのに。
00:49:58
会場準備・メインホール
テーブルクロスに皺がないかをスタッフが確認する。ナフキンが白鳥の形に折られて並ぶ。席札の文字は端正で、美しい。名前の並びの途中に、白紙が差し込まれている。印刷ミス、差し替え待ち。スタッフはそれを後ろポケットに入れる。ポケットの布がその一瞬、濃い影を吸い込み、まるで白紙が席の上から席の下へ移動したように見える。
司会(リハ)「それでは、まもなく、おふたりの入場です」
空のマイクが自分の名を呼ばれたかのように、かすかに揺れた。
00:53:12
取材インタビュー:式場支配人
支配人「私どもは“記憶に残る一日”を作るお手伝いを心がけています。――この会場、天井が高いぶん、音の回りは気になるときがありますが」
山名「音?」
支配人「ええ。拍手が少し遅れて返ってくる。昔の造りでね。でも、それが良いと仰る方もいます。拍手が重なって、まるで……二度祝福されているみたいだって」
支配人は笑う。天井の梁の向こうに、照明の点検口が開いているのが見えた。そこから冷たい空気が降りてくる。冷たいが、清潔ではない冷たさ。地下室の床石に触れたときに掌が記憶する温度に似ている。
00:57:41
新郎新婦・事前インタビュー(並び)
二人が並んで椅子に座る。膝が触れ合わない距離。ちょうど、触れようとすると、指と指の間に、別の指が入り込めそうな、微妙な余白。
山名「お二人の出会いは?」
新郎「大学の……」
新婦「図書館。――卒論の資料が、同じ棚にあって」
新郎「偶然を、何度もやった気がします。雨の日に、道が混んでて、別の道を選んだら、そこで会う、みたいな」
新婦「同じ音を、聞いてる気がしたの。窓の外の電車の音とか、子どもの泣き声とか」
新郎「泣き声?」
新婦「うん。誰も気づかないような……遠い音。――今日も、たぶん」
山名「今日も?」
新婦「……なんでもないです」
二人は目を合わせて笑う。笑いは、少しずれる。誰かが合図を間違えたかのように、片方が先に笑い、もう片方が追いかける。編集では、そのずれを消せる。けれど、山名は消さなかった。
01:02:03
テロップ:〈当日朝・新婦実家/スマホ映像〉
台所。まな板の上で人参が転がる。母が「もうそんなに切らなくていいのよ」と笑っている。画面の端で、祖母の手が湯呑を持ち上げる。湯呑の柄に小さな鶴が描かれている。湯気が上がり、画面が曇る。曇りが引いたとき、背後のカレンダーに、今日の日付に二重丸がついている。その二重丸が、三重丸になる。書き足したのは誰か。スマホの保持者の指は常に画面の手前にあり、カレンダーには届きえない。
01:06:27
参列者スナップ
挙式前のロビー。新郎の叔父がネクタイピンを自慢する。新婦の従妹がドレスの裾を少し引きずり、母に直される。子どもが走る。子どもはどのカットでも同じ黄色い車のオモチャを握っている。音が軋む。車輪の軸が曲がっているのか、床の溝に引っかかっているのか。子どもは笑う。笑い声の半分くらいの高さで、同じ笑いが重なる。編集ソフトはそれを「ダブリング」と認識した。消せる。だが、消す前に、それが自分たちの仕事なのか、と山名は考える。
01:10:55
リハーサル・バージンロード
新婦がベールを下ろし、父と腕を組む。足元の花びらが小さく音を立てる。リハーサルのため、式場スタッフの拍手が控えめに鳴る。天井から、拍手の薄い返りが降りる。なるほど、二度、祝福されるように聞こえる。新婦は一歩目で足を止める。父が顔を寄せ、「大丈夫だ」と囁く。新婦は頷き、二歩目を踏む。そのとき、ベールが一瞬、逆方向に引かれる。誰かが軽く摘んだように。新婦は振り向かない。父も気づかない。山名は、カメラのピントをわずかに外した。
01:14:18
編集メモ/山名
・鏡像ズレ:00:04:12
・高周波ノイズ:00:09:37
・前撮り白帯:00:23:10
・無名枠:00:36:55
・袖の柄不一致:00:45:29
・秒針:00:27:44
付箋の粘着が弱くなり、剥がれて床に落ちる。拾おうとした指先に、花弁の粉がついた。今日一日、どこにでも花弁の粉がつく。靴の裏にも、カメラバッグにも、シャツの袖にも。粉は匂わない。匂わないもののほうが、長く残る。
01:17:02
式の直前・チャペル入口
扉の外に列ができる。参列者が一列で待ち、スタッフの合図を待つ。誰かが咳払いをする。手摺の金属が冷たく、触れた手がすぐに離れる。列の最後尾に、見慣れない女が立っている。顔の中央に傷がある。スタッフが声をかける。
スタッフ「ご参列者さまですか? 席次表、拝見しても……」
女は口を開き、何かを言う。音は記録されていない。カメラは少し上を向き、天井の梁を映す。梁の上を、白い布の端が滑る。次にカメラが戻ったとき、女はいない。スタッフは表情を整え、「入場のご案内です」と声を上げた。声が二度、響く。梁からの返りではない。時間の奥から、一度目の声が少し遅れてやってきた。
01:20:30
サウンドチェック・神父控室
神父「えー、テスト、テスト」
古びた革表紙の式次第。神父の指がページをめくる。ページの角が、紙魚に食われたように少し欠けている。メトロノームのような音がマイクに入る。誰かが机を指で叩いているのかもしれない。
神父「今日は良い日ですね。外は風がありますが……」
山名(O.S.)「神父さま、この会場で、変わったことって、あります?」
神父「変わったこと?」
山名「風とか、音とか」
神父「風と音は、いつも変わっています。――人の声は、重なると別の意味に聞こえる。祝福も、重なると、時々、違うものに」
神父は笑って、ページを閉じた。マイクのスイッチが切れる瞬間、低い声が一言だけ混じる。単語は判別できない。口蓋の奥で破裂した音だけが残った。
01:24:59
控室・新婦/ベールダウン前
ベール越しに覗く顔に、光が薄く降りる。新婦は深く息を吸い、鏡に向かって微笑む。その背後で、母が「綺麗」と言う。祖母が「泣くな」と言う。ふたりの声が、同じ高さで重なる。まるで、同じ声帯を分け合っているかのように。
新婦「これ、私の、最後の名前ですか」
母「名字のこと?」
新婦「ううん。違う。……なんでもない」
鏡の中の彼女の唇が、声のない言葉をつくる。映像を後で拡大すると、その口の動きは、今日の式とは関係のない誰かの名を言っているように見えた。けれど、その名は、音にならないまま、鏡の銀膜に吸い込まれた。
01:28:33
ロビー/集合写真の招集
司会が声を張る。「ご親族のお写真でーす」。人が集まる。白い壁に影が重なる。影は人数分だけある。シャッターの光が一度走る。影は、その数を減らさない。もう一度、光。影は、ゆっくりと、数を増やす。写真の中でのみ増える。現場の誰も、影の計算をしない。だって、幸福の場所で数を数えるのは、縁起が悪い。
スタッフ「さあ、皆さま、中へどうぞ」
ドアが開き、音が吸い込まれる。ホテルの音は、食べ物のように消化される。噛んで飲み込むと、何も残らない。残らないはずのものが、なぜか残る。
01:31:00
編集メモ/澤田
・チャペルのリミッター、少し甘い。誓いの言葉でピーク注意
・新郎父、挨拶原稿、ポケットの下。取り出しフォロー
・ロビーの子ども、黄色い車、紛失注意
澤田はメモを書きながら、さっきのスタッフの「鳥肌」という言葉を思い出す。鳥肌は、寒さのせいだけじゃない。体が内側から、目に見えない何かに反応したときに立つ。反応したのは、いったい何に対してだったのだろう。
01:33:22
サウンド素材/ホール環境音
空調の低い唸り。グラスが触れ合う予備音。キッチンのスイングドア。遠くで子どもの泣き声。泣き声は、すぐに笑い声に変わる。早送りすると、泣き声と笑い声の波形は似ている。笑いの波形から、泣きの波形を引くと、何が残るのか。数式で説明できることを、人は安心だと思う。数式は、人を慰める。だが、慰めは、長持ちしない。
01:35:40
テロップ:〈ここまでの映像は、挙式前の取材素材です〉
テロップ:〈以降、挙式本編の映像が続きます〉
編集用のタイムラインの下段で、赤いマーカーが点滅する。山名は吸い込まれるように、スペースキーを押した。画面が暗転し、チャペルの扉の内側が写る。白い花。光の帯。静かな音楽。扉の手前に、薄い何かが横たわっている。画面内でフォーカスが迷い、薄いものは、ただの反射になった。
司会(O.S.)「それでは、新郎新婦のご入場です」
拍手が起こる。拍手は、遅れてもう一度、起こる。
編集中の注記
この日、私たちは「幸福な一日」を記録するためにホテルを訪れた。
私たちの機材は、光を拾い、音を拾い、笑いを拾い、涙を拾った。
それでもなお、拾い損ねたものがある。
それが、拾われることを望まなかったのか、
それとも、拾ってはいけないものだったのか。
答えは、まだ、編集の外側にある。
01:38:12
チャペル内・扉開放
扉が開き、光が流れ込む。新婦は父と腕を組み、一歩を踏み出す。カメラは自動的に露出を上げようとして、わずかに迷う。迷いの間に、バージンロードの白に縁取られた影が複数、行き先を変える。影なのに、足音がある。足音は、拍手の裏側に隠れる。誰も、その足音を聞かない。しかし、足音は、記録される。記録された足音は、編集画面上で、名前を持たない音符のように並ぶ。
神父(穏やかに)「――では、誓いの言葉を」
ここで、ほんの一瞬、音が沈む。沈んだ底に、低い声が、短く沈む。
低い声(記録内)「……まだ」
この章は、誓いの瞬間の前で、いったん切るのがよい、と山名は考えた。幸福の構図を組み上げるだけ組み上げ、その端に糸のほつれを置いておく。テキストで説明するのではなく、映像の隙間で伝える。人は、見たいものしか見ない。だが、人は、見たくないものの輪郭も、同時に記憶する。
スペースキー。再生停止。編集室の窓の外で、午後の光が濁っていく。ホテルから持ち帰った花弁の粉が、キーボードの隙間に入り込み、指の腹に細かく付着している。匂いはない。匂いはなくても、何かは残る。
山名(編集メモ)
・第一章、ここまで。幸福のディテールを可能な限り残す。
・“綻び”は、見る者が気づくペースを信頼する。
・説明しない。名前を与えない。
・ただ、記録する。
外付けSSDの青いランプが、規則正しく点滅する。規則は、人を安心させる。しかし、規則は、破られるためにある。山名は、保存を押した。ファイル名は「01_record」。拡張子の後に、見えない何かが付いている気がした。見えないものは、気のせいで片付けるのが一番だ。片付けきれなかったものだけが、次の章に残る。
――件名:結婚式記録映像(ホテル・オルフェウス)
――撮影:STUDIO TUYA / カメラ1=山名、カメラ2=澤田、ドローン=休止
――編集メモ:仮ラフv0.3/タイムコード基準=メインカメラ(C1)
00:00:03
ピンマイクのスイッチが入る音が小さく混じる。会議卓ほどの長さのテーブルの上に置かれた白いブーケに、レンズが寄る。花弁の表面には細い静脈のような筋が走り、ホテルの天井灯を柔らかく反射していた。
山名(O.S.)「新婦さん、ピン、胸元に失礼しますね。――はい、じゃ、テスト。お名前と、今日の気持ちを一言お願いします」
新婦(微笑)「……緊張、してます。あの……朝から家族がずっとそばにいて、なんか、夢みたいで」
笑い声。背後でドアが開く音。控室に差し込む廊下の照明が一瞬、色温度を変えたように見える。映像は一拍だけ暗く、すぐに戻る。編集段階での波形に異常はない。たぶん人の出入りで自動露出が揺れただけだ、と山名はメモに書く。
00:04:12
新郎側控室。肩に手を置く同僚、ネクタイの結び目を何度も直す母、鏡の前で苦笑いする本人。
山名「緊張、してますか?」
新郎「めっちゃしてます。朝、靴下を左右逆に履いて出かけて……母に止められました」
母「小さいころからそう。大事な日に限って、ね。――でも、いい顔、してる」
鏡に三人分の顔が並ぶ。その右端、シャツの胸ポケットあたりにもうひとつ、輪郭の曖昧な顔が重なったように見える。編集時にフレームを拡大しても、ノイズの塊に過ぎない。だが山名は、拡大したままの画面に付箋を貼った。「鏡像、要確認」。自分で貼っておきながら、そこに何が映っていたのか、厳密な言葉は持てなかった。
00:09:37
廊下。花嫁側の友人たちがイヤリングを見せ合って笑っている。スタッフ用ワゴンがすれ違い、氷の入ったバケツが鳴る。音は透明で、幸福の内部にいるときの音の仕方をしていた。軽く弾んで、人を疑わない。
友人A「信じられない。高校のとき、体育のあとにジュースおごってくれた人が、今日、夫だよ」
友人B「ずっと“優しいひと”だったよね。面白い動画も撮ってくれるし」
山名「動画?」
友人B「去年の誕生日、夜中に“幽霊屋敷ツアー”って、空き家の前を通るだけの……」
友人A「やめなよ、あれ、私、怖かったんだから」
冗談だ、と誰かが言って、笑いが広がる。笑いの波形は均一で、どこにも濁りはない。だが、録音の底に針のような高周波が刺さっている。ヘッドホンでは聴き取れず、波形だけが細く震えている。編集ソフトはそれを「環境ノイズ」と表示した。
00:12:20
親族控室。新婦の祖母が椅子に腰掛け、手の甲の薄い皮膚に光が乗る。祖母は写真を一枚、膝の上に置いている。花嫁が子どもの頃、庭で犬を抱いて笑っている写真。写真の右奥の木陰に、白い影のような筋がある。
山名「おばあさま、今日の感想を」
祖母「よかった、ここまで、よく……ねえ」
山名「何か、思い出を」
祖母「この子、七つのとき、庭の隅で……自分の影を踏まないように歩く遊び、してたの。影を踏むと、そこに閉じ込められちゃうって。――誰に教わったのかしらね」
祖母の視線が、写真の右奥に泳いだ。そこには何もない。あるいは、見ようとすれば、何でも見える。幸せな日には、見たくないものを見ない力が働く。山名はファインダー越しに、祖母の指の関節の白さを見ていた。
00:18:51
エレベーターホール。新郎新婦の幼なじみが、余興のリハーサルをしている。ギターのコードを確認し、スマホで歌詞カードをスクロールする。通り過ぎる宿泊客が小さく会釈する。誰もが親切で、誰もが少し急いでいる。
幼なじみ「今日、サプライズで、昔のビデオも流すんですよ。二人で川に落ちたやつ」
山名「川?」
幼なじみ「中学のとき、夏祭りの帰りに橋の上でふざけてて。あれ、めっちゃ笑えるやつ。――で、昨夜、確認したら、後ろに変な……いや、まあ、光の反射かな」
山名「どんな?」
幼なじみ「白い、着物……みたいな。あ、やめよ、縁起でもない」
笑って流す。山名も笑う。録画ボタンの赤色が、ポケットの中でも熱を帯びているように思えた。
00:23:10
テロップ:〈前撮り映像/1ヶ月前〉
川沿いの公園。桜は青くなり、風が川面を逆立てる。新婦が白いワンピースで立ち、新郎が後ろから抱き寄せる。ドローン映像のようななめらかさはないが、風の粒がレンズに当たるたび、画面の奥行きが増す。遠くで誰かの笑い声。二人は振り向かない。画面の隅に、白い帯が一瞬だけ滑る。山名は繰り返し再生し、結局「風で揺れたビニール」とラベルをつける。どうしても何かの正体を決めたくなるのは、人間のよくない癖だとわかっていても。
00:27:44
控室に戻る。新婦の父が、ネクタイの結び目をゆるめて深呼吸をしている。
父「緊張するのは、娘じゃなくて、こっちだな」
山名「ご挨拶の言葉、もう決まりましたか」
父「いくつか考えたけど、最後は……生まれたときの話をしようかと。――あの日、病院から帰る途中で、信号が全部、青でね。するすると、なにも詰まらずに家まで着いた。あれは、たぶん、神様が……」
言葉が途切れ、父は笑う。笑いの端で、彼はふと、壁の時計を見る。秒針は進んでいる。だが山名は、このカットを後でコマ送りにしたとき、秒針の位置が三度、同じところに戻るのを見た。編集ソフトのフリーズだ、と思った。GPUの相性だ、と思った。そう考える方向に頭が勝手に滑っていく。
00:31:08
カメラ2(澤田)素材
式場スタッフがバージンロードの花びらを並べている。花びらはプリザーブドで、淡い象牙色をしている。スタッフの一人が、膝をついたまま、しばらく手を動かさない。澤田はその横顔を撮り、ズームインする。スタッフの眼は、花びらではないどこかを見ている。誰もいないはずの前列の椅子の高さを、追っている。澤田の映像は少し揺れ、すぐに引く。彼の癖だ。長く寄るのを嫌う。
スタッフ(小声)「……すみません、ちょっと、鳥肌が」
もう一人のスタッフ「冷房、強い?」
スタッフ「いや、なんか、誰か……通ったような」
もう一人のスタッフ「気のせいだよ。今日、人が多いから」
椅子の布の皺が一斉に伸びて、そのすぐ後に、ゆっくりと戻る。その揺れは、温度差でも空調でも説明できる。できる、と人は言う。言い切ると、ひとまず眠れる。
00:36:55
取材インタビュー:新郎の同僚
同僚「職場では、結構頼られるタイプですよ。細かい資料作るの好きで。――今日、すごいです、みんな。サプライズで、同期からのメッセージ動画、つないで……」
パソコンの画面に編集中の動画が映る。十数人の顔が、一枚の画面に並び、皆が順番に「おめでとう」を言う。画面の左上の小さな枠で、誰かが黙って手を振っている。無音。下に「会えなかった人にも」と字幕が入る。その枠の名前のところに、誰の名前も入っていない。未入力のフォームの線だけが白く点滅している。
山名「この枠、誰ですか?」
同僚「え? あれ、誰だ……?」
笑いが引きつり、すぐに「まあ、誰かの友だちじゃないですか」と流れた。山名はそこだけを切り出し、フォルダ名「未定」に入れた。編集機のデスクトップに、名付けられないものが増えていく。
00:41:10
花嫁友人インタビュー(輪番)
友人C「初デートのときね、あの子、道に迷ったの。地図が逆さまで」
友人D「でもね、迷った先で、駄菓子屋見つけてさ。かき氷、食べた」
友人E「今日のドレス、似合う。白って、あの子の色だよね」
言葉は軽やかで、記憶はやわらかい。輪番の端に、ひとりだけ、声の届かなかった人がいる。口が動いているのに、音がない。ヘッドホンを最大にしても、そこだけ波形がまっすぐだ。「後日、本人の都合で音声差し替え」とメモが添えてある。だが、その「本人」の名前が、記録に見当たらない。
00:45:29
控室・静止画撮影
スチールのカメラマンが合図を送る。新婦のベールをふわりと持ち上げ、光の角度を調整する。シャッター音の合間に、別の音が混じる。蛇口を開けたときに最初に出る、水に空気が混ざったような音。ベールの裏側で、誰かがゆっくり息を吸う。
スチール「はい、じゃあ次、親御さんと三人で」
フレームの端に、大人の手が写りかける。袖口が古い。流行の線からずれている。カメラマンは一歩下がり、「すみません、袖、入っちゃってます」と笑う。新婦の母は袖を直し、「ごめんなさい」と言った。直された袖の柄は、画面に写った袖の柄と、わずかに違っていた。編集段階でそれがわかったとき、山名は一人の時間に再生を止め、緑茶を淹れた。普段、コーヒーしか飲まないのに。
00:49:58
会場準備・メインホール
テーブルクロスに皺がないかをスタッフが確認する。ナフキンが白鳥の形に折られて並ぶ。席札の文字は端正で、美しい。名前の並びの途中に、白紙が差し込まれている。印刷ミス、差し替え待ち。スタッフはそれを後ろポケットに入れる。ポケットの布がその一瞬、濃い影を吸い込み、まるで白紙が席の上から席の下へ移動したように見える。
司会(リハ)「それでは、まもなく、おふたりの入場です」
空のマイクが自分の名を呼ばれたかのように、かすかに揺れた。
00:53:12
取材インタビュー:式場支配人
支配人「私どもは“記憶に残る一日”を作るお手伝いを心がけています。――この会場、天井が高いぶん、音の回りは気になるときがありますが」
山名「音?」
支配人「ええ。拍手が少し遅れて返ってくる。昔の造りでね。でも、それが良いと仰る方もいます。拍手が重なって、まるで……二度祝福されているみたいだって」
支配人は笑う。天井の梁の向こうに、照明の点検口が開いているのが見えた。そこから冷たい空気が降りてくる。冷たいが、清潔ではない冷たさ。地下室の床石に触れたときに掌が記憶する温度に似ている。
00:57:41
新郎新婦・事前インタビュー(並び)
二人が並んで椅子に座る。膝が触れ合わない距離。ちょうど、触れようとすると、指と指の間に、別の指が入り込めそうな、微妙な余白。
山名「お二人の出会いは?」
新郎「大学の……」
新婦「図書館。――卒論の資料が、同じ棚にあって」
新郎「偶然を、何度もやった気がします。雨の日に、道が混んでて、別の道を選んだら、そこで会う、みたいな」
新婦「同じ音を、聞いてる気がしたの。窓の外の電車の音とか、子どもの泣き声とか」
新郎「泣き声?」
新婦「うん。誰も気づかないような……遠い音。――今日も、たぶん」
山名「今日も?」
新婦「……なんでもないです」
二人は目を合わせて笑う。笑いは、少しずれる。誰かが合図を間違えたかのように、片方が先に笑い、もう片方が追いかける。編集では、そのずれを消せる。けれど、山名は消さなかった。
01:02:03
テロップ:〈当日朝・新婦実家/スマホ映像〉
台所。まな板の上で人参が転がる。母が「もうそんなに切らなくていいのよ」と笑っている。画面の端で、祖母の手が湯呑を持ち上げる。湯呑の柄に小さな鶴が描かれている。湯気が上がり、画面が曇る。曇りが引いたとき、背後のカレンダーに、今日の日付に二重丸がついている。その二重丸が、三重丸になる。書き足したのは誰か。スマホの保持者の指は常に画面の手前にあり、カレンダーには届きえない。
01:06:27
参列者スナップ
挙式前のロビー。新郎の叔父がネクタイピンを自慢する。新婦の従妹がドレスの裾を少し引きずり、母に直される。子どもが走る。子どもはどのカットでも同じ黄色い車のオモチャを握っている。音が軋む。車輪の軸が曲がっているのか、床の溝に引っかかっているのか。子どもは笑う。笑い声の半分くらいの高さで、同じ笑いが重なる。編集ソフトはそれを「ダブリング」と認識した。消せる。だが、消す前に、それが自分たちの仕事なのか、と山名は考える。
01:10:55
リハーサル・バージンロード
新婦がベールを下ろし、父と腕を組む。足元の花びらが小さく音を立てる。リハーサルのため、式場スタッフの拍手が控えめに鳴る。天井から、拍手の薄い返りが降りる。なるほど、二度、祝福されるように聞こえる。新婦は一歩目で足を止める。父が顔を寄せ、「大丈夫だ」と囁く。新婦は頷き、二歩目を踏む。そのとき、ベールが一瞬、逆方向に引かれる。誰かが軽く摘んだように。新婦は振り向かない。父も気づかない。山名は、カメラのピントをわずかに外した。
01:14:18
編集メモ/山名
・鏡像ズレ:00:04:12
・高周波ノイズ:00:09:37
・前撮り白帯:00:23:10
・無名枠:00:36:55
・袖の柄不一致:00:45:29
・秒針:00:27:44
付箋の粘着が弱くなり、剥がれて床に落ちる。拾おうとした指先に、花弁の粉がついた。今日一日、どこにでも花弁の粉がつく。靴の裏にも、カメラバッグにも、シャツの袖にも。粉は匂わない。匂わないもののほうが、長く残る。
01:17:02
式の直前・チャペル入口
扉の外に列ができる。参列者が一列で待ち、スタッフの合図を待つ。誰かが咳払いをする。手摺の金属が冷たく、触れた手がすぐに離れる。列の最後尾に、見慣れない女が立っている。顔の中央に傷がある。スタッフが声をかける。
スタッフ「ご参列者さまですか? 席次表、拝見しても……」
女は口を開き、何かを言う。音は記録されていない。カメラは少し上を向き、天井の梁を映す。梁の上を、白い布の端が滑る。次にカメラが戻ったとき、女はいない。スタッフは表情を整え、「入場のご案内です」と声を上げた。声が二度、響く。梁からの返りではない。時間の奥から、一度目の声が少し遅れてやってきた。
01:20:30
サウンドチェック・神父控室
神父「えー、テスト、テスト」
古びた革表紙の式次第。神父の指がページをめくる。ページの角が、紙魚に食われたように少し欠けている。メトロノームのような音がマイクに入る。誰かが机を指で叩いているのかもしれない。
神父「今日は良い日ですね。外は風がありますが……」
山名(O.S.)「神父さま、この会場で、変わったことって、あります?」
神父「変わったこと?」
山名「風とか、音とか」
神父「風と音は、いつも変わっています。――人の声は、重なると別の意味に聞こえる。祝福も、重なると、時々、違うものに」
神父は笑って、ページを閉じた。マイクのスイッチが切れる瞬間、低い声が一言だけ混じる。単語は判別できない。口蓋の奥で破裂した音だけが残った。
01:24:59
控室・新婦/ベールダウン前
ベール越しに覗く顔に、光が薄く降りる。新婦は深く息を吸い、鏡に向かって微笑む。その背後で、母が「綺麗」と言う。祖母が「泣くな」と言う。ふたりの声が、同じ高さで重なる。まるで、同じ声帯を分け合っているかのように。
新婦「これ、私の、最後の名前ですか」
母「名字のこと?」
新婦「ううん。違う。……なんでもない」
鏡の中の彼女の唇が、声のない言葉をつくる。映像を後で拡大すると、その口の動きは、今日の式とは関係のない誰かの名を言っているように見えた。けれど、その名は、音にならないまま、鏡の銀膜に吸い込まれた。
01:28:33
ロビー/集合写真の招集
司会が声を張る。「ご親族のお写真でーす」。人が集まる。白い壁に影が重なる。影は人数分だけある。シャッターの光が一度走る。影は、その数を減らさない。もう一度、光。影は、ゆっくりと、数を増やす。写真の中でのみ増える。現場の誰も、影の計算をしない。だって、幸福の場所で数を数えるのは、縁起が悪い。
スタッフ「さあ、皆さま、中へどうぞ」
ドアが開き、音が吸い込まれる。ホテルの音は、食べ物のように消化される。噛んで飲み込むと、何も残らない。残らないはずのものが、なぜか残る。
01:31:00
編集メモ/澤田
・チャペルのリミッター、少し甘い。誓いの言葉でピーク注意
・新郎父、挨拶原稿、ポケットの下。取り出しフォロー
・ロビーの子ども、黄色い車、紛失注意
澤田はメモを書きながら、さっきのスタッフの「鳥肌」という言葉を思い出す。鳥肌は、寒さのせいだけじゃない。体が内側から、目に見えない何かに反応したときに立つ。反応したのは、いったい何に対してだったのだろう。
01:33:22
サウンド素材/ホール環境音
空調の低い唸り。グラスが触れ合う予備音。キッチンのスイングドア。遠くで子どもの泣き声。泣き声は、すぐに笑い声に変わる。早送りすると、泣き声と笑い声の波形は似ている。笑いの波形から、泣きの波形を引くと、何が残るのか。数式で説明できることを、人は安心だと思う。数式は、人を慰める。だが、慰めは、長持ちしない。
01:35:40
テロップ:〈ここまでの映像は、挙式前の取材素材です〉
テロップ:〈以降、挙式本編の映像が続きます〉
編集用のタイムラインの下段で、赤いマーカーが点滅する。山名は吸い込まれるように、スペースキーを押した。画面が暗転し、チャペルの扉の内側が写る。白い花。光の帯。静かな音楽。扉の手前に、薄い何かが横たわっている。画面内でフォーカスが迷い、薄いものは、ただの反射になった。
司会(O.S.)「それでは、新郎新婦のご入場です」
拍手が起こる。拍手は、遅れてもう一度、起こる。
編集中の注記
この日、私たちは「幸福な一日」を記録するためにホテルを訪れた。
私たちの機材は、光を拾い、音を拾い、笑いを拾い、涙を拾った。
それでもなお、拾い損ねたものがある。
それが、拾われることを望まなかったのか、
それとも、拾ってはいけないものだったのか。
答えは、まだ、編集の外側にある。
01:38:12
チャペル内・扉開放
扉が開き、光が流れ込む。新婦は父と腕を組み、一歩を踏み出す。カメラは自動的に露出を上げようとして、わずかに迷う。迷いの間に、バージンロードの白に縁取られた影が複数、行き先を変える。影なのに、足音がある。足音は、拍手の裏側に隠れる。誰も、その足音を聞かない。しかし、足音は、記録される。記録された足音は、編集画面上で、名前を持たない音符のように並ぶ。
神父(穏やかに)「――では、誓いの言葉を」
ここで、ほんの一瞬、音が沈む。沈んだ底に、低い声が、短く沈む。
低い声(記録内)「……まだ」
この章は、誓いの瞬間の前で、いったん切るのがよい、と山名は考えた。幸福の構図を組み上げるだけ組み上げ、その端に糸のほつれを置いておく。テキストで説明するのではなく、映像の隙間で伝える。人は、見たいものしか見ない。だが、人は、見たくないものの輪郭も、同時に記憶する。
スペースキー。再生停止。編集室の窓の外で、午後の光が濁っていく。ホテルから持ち帰った花弁の粉が、キーボードの隙間に入り込み、指の腹に細かく付着している。匂いはない。匂いはなくても、何かは残る。
山名(編集メモ)
・第一章、ここまで。幸福のディテールを可能な限り残す。
・“綻び”は、見る者が気づくペースを信頼する。
・説明しない。名前を与えない。
・ただ、記録する。
外付けSSDの青いランプが、規則正しく点滅する。規則は、人を安心させる。しかし、規則は、破られるためにある。山名は、保存を押した。ファイル名は「01_record」。拡張子の後に、見えない何かが付いている気がした。見えないものは、気のせいで片付けるのが一番だ。片付けきれなかったものだけが、次の章に残る。



