揺れる電車の中で、僕はぼんやりと窓の外を眺める。近くでは角田くんが早瀬くんたちを巻き込んでふざけている。

 プールからの帰り道、僕の頭の中は早瀬くんの言葉がずっと渦を巻いていた。

 『薫ちゃん』――遠坂薫、その子のことは忘れたくても忘れられなかった。僕が変わるきっかけになった人でもあり、僕の初恋の人でもあったから。

 でも、よく考えれば、早瀬くんの名前も薫だった。苗字が変わっていたし、僕は『薫ちゃん』を女の子だと勘違いしていたから、二人が同一人物なんて思いもしなかった。

 過去の初恋の人と、今の好きな人が同一人物な自分って、どれだけ早瀬くんのことを好きなのだろうか。もはや、運命と言ってもおかしくないかもしれない。僕は、恥ずかしさで顔を覆いたくなるが、周囲の人から見れば奇行に映ると思いグッと我慢する。

 早瀬薫こと遠坂薫との出会いは小学校中学年の時のことだった。


 *


 当時の僕は戦隊アニメの影響で一人称が俺だった。
 通学路で拾ったちょうどいい枝を振り回したり、友達と石を蹴ってどこまで続けられるかチャレンジをしたり。今振り返ればとても子供らしい子供時代を送っていた。

 学校ではクラスの中心にいるようなタイプで、男女関係なく遊びに誘っては外を駆け回った。恥ずかしい思いでもあるが、楽しかった記憶もあるから、悪いものではなかった。

 そんなある時、隣のクラスに転校生がやってきたという話が広まった。僕はクラスが違うからという理由で、特に気にかけてもいなかったが、クラスの女子たちがとても綺麗な子だったと騒いでいた気がする。転校生との接点なんてなくて、関わることもないだろうと思っていた。校舎裏のゴミ捨て場の付近でその現場に出くわすまでは。

「お前、気持ち悪いんだよ」

 当番でゴミを持って校舎裏に行くと、そんな声が聞こえてきた。僕はそっと影から様子を伺うと、髪の長い子が数人の男子たちに囲まれていた。その子は突き飛ばされたのか地面に座り込んでおり、必死に泣くのを耐えていた。その態度すら気に食わなかったのか、一人の男子が「何か言えよ、男女!」と言って蹴ろうとした。

 曲がったことが大嫌いで、いじめなんて卑怯な真似は絶対に許したくなかった僕は、手に持っていたゴミの袋を振り回しながら飛び出した。

「何してるんだよ! お前ら! いじめなんて馬鹿みたいなことするんじゃねぇ!」
「うわ、なんだよお前……!」
「こいつ、隣の水瀬だ!」

 僕のガキ大将っぷりはクラスの垣根を超えて届いていたようで、男子たちは顔を歪めると距離をとる。その時、僕は手に持っていたゴミ袋の口を開けて、目の前の男子に向かって放り投げた。異臭を放つ汚物に塗れた男子たちは、悲鳴をあげながら去っていき、僕はそれを満足そうに見つめる。

「ふん。これで懲りたら、二度とこんな卑怯なことするなよ!」

 逃げていく男子の背中に僕は大声で叫ぶ。そして、男子たちの姿が見えなくなると、呆然と座り込む子に手を差し伸べた。

「大丈夫? 酷いことされてない?」
「……だ、大丈夫。えっと、君は……」
「あ、俺? 俺は水瀬。水瀬凛月、隣のクラスのやつだよ。お前は?」
「僕は……遠坂、薫…………」

 女の子にしては少し低めだったけど、十分高い声でその子は手を取って立ち上がった。サラサラな髪の毛が肩のあたりで揺れている。綺麗な顔立ちでとても可愛らしい子だと思った。

「そっか! よろしくな!」

 そう言って笑いかけると、その子は小さく息を呑んでからにっこりと笑った。



 *



 見た目や声、そして名前から勝手に女の子だと勘違いしていた遠坂薫こと『薫ちゃん』は実は『薫くん』だったなんて。昔も今と変わらずバカな自覚はあったが、人の性別を勘違いするなんてありえないだろ、と僕は肩を落とす。
「どうしたんだよ、疲れてんのか?」

 一人で百面相していた僕に気がついた聡が話しかけてきた。僕は「うわー、聡〜」と情けない声をあげながら泣きつくと、聡はギョッとした顔を見せながら逃げた。なんで逃げるんだよ、ちくしょう、と心の中で睨みつける。

「僕は、昔からどうしようもないやつだったんだ」
「なんだそれ。つまり、ヘタレってことか?」
「誰がヘタレだ! 僕がこんなに頑張ってるのに!」

 不名誉な称号をつけられそうになり、僕はムッとする。

「実際、ヘタレだっただろ。新学期、挙動不審で早瀬に話しかけられるたびにおどおどしてたの、俺は忘れてないからな」
「ぐっ……それを持ち出されると、何も言えない」

 早瀬くんとの距離感を掴みあぐねていた時のことを言われるとぐうの音も出なかった。

「それで、何があったんだよ。あ、惚気なら聞かないからな」
「なんでだよ! 惚気でも聞いてよ!」

 気心がしれた仲というのはいいものだったが、蔑ろにされるのは話が違うだろ、と思う。僕は小さくため息を吐いて、顔を歪める。

「おいおい、そんな顔するなよ。俺が早瀬に怒られるだろ」

 今にも泣き出しそうな顔をしていたからか、聡がギョッとして慌てる。だけど、どうして早瀬くんの名前が上がるのか分からず首を傾げる。

「何話してるの?」

 二人で騒いでいたら、後ろから早瀬くんが現れた。聡は一瞬顔を顰めたが、すぐに笑って「あとは二人でごゆっくりー」と逃げていった。なんだったんだろうか。

「早瀬くん……」

 申し訳ない気持ちで呟くと彼は「どうしたの?」といつも通りに聞いてくる。早瀬くんの優しさに涙が出そうになった。

「気にしなくていいよ。昔の俺が、ヒョロガキだったのは事実だし。俺も、女だって勘違いしてる凛月に都合がいいって思ってたし」
「え、それって……」
「でも、昔の俺もいいけど、今は今の俺だけを見てほしいな」

 フッと笑った早瀬くんの顔のかっこよさに僕は何も言えなくなる。大事な話をしてくれているのに、毎秒ときめいている自分が本当に愚かに思えた。

「……もう十分過ぎるほど、早瀬くんのこと見てるよ」
「なら、もっと俺を見て。俺のことで頭いっぱいにして。そうしたら、許してあげる」

 意地悪そうに笑う彼に僕の心臓はまたドキッとはねる。わかりやすいくて本当に嫌になる。

 そんなことをしていると、電車は最寄駅に到着した。僕らはゾロゾロと電車から降りて、改札を抜けていく。

 プールではしゃぎすぎたため、あたりはすっかり夕日に包まれていた。ビルの隙間から差し込む光が眩しくて思わず目を細める。

 僕の前ではバスの時間を調べる聡や、まだまだ遊び足りなさそうな角田くんが遠藤くんに話しかけていた。僕もスマートフォンを取り出してどうやって帰ろうか考えていると、早瀬くんが横に来た。

「一緒に帰ろう」
「え? でも、早瀬くん僕の家の方じゃないよね?」
「俺がもう少し凛月と一緒にいたいんだけど。凛月は一緒にいたくないの?」

 何を言われたのか分からず、数秒頭がフリーズした。そして、言葉の意味を理解した瞬間、僕は手を差し出し頭を下げ「是非ともよろしくお願いしますっ!」と大きな声をあげた。聡たちが驚いたようにこちらを見ていたが、そんなことを気にかけている余裕はなかった。それよりも、早瀬くんと一緒に帰れる権利を確実に手に入れる方が重要だった。

 早瀬くんは僕の行動に目を丸くしたが、すぐに破顔する。「凛月ってそんなに大きな声、出るんだ」と口元を押さえて笑う。

 笑う彼の様子に角田くんは「なんや、あいつ。気持ちわるぅ」と言って体を震わせて、遠藤くんは「ははは、浮かれてんな」と愛想笑いを浮かべていた。聡は僕の弱みを証拠に残すためにスマートフォンのカメラを構えて一連の流れを録画している。恥ずかしくて顔から火を吹きそうだが、早瀬くんの笑顔が収められているのであれば、よしとする。絶対にあとで録画をもらおうと心に決めた。

「じゃあ、お願いな」

 早瀬くんはそう言って、僕の手を握った。

 そうして、僕らはみんなと別れてゆっくりと歩き始めた。少しでもこの時間が長く続けばいいのに、と下心も込めながら。

「……早瀬くん」

 僕は緊張した声色で名前を呼ぶ。早瀬くんはその声に反応して僕の方に顔を向けた。僕はこれから自分が言うことにいっぱいで早瀬くんの顔を見る余裕はなかった。

「ずっと、勘違いしててごめんね。でも、僕、『薫ちゃん』が早瀬くんでよかったって思ってるんだ。初恋の人が、早瀬くんで。それに、こうやってまた早瀬くんを好きになれたことも」
「俺も。今も昔も、ずっと凛月に想ってもらえてすごく嬉しい」
「本当に? それなら、嬉しいな」

 僕は早瀬くんの言葉に勝手に勇気をもらいながら、彼よりも少し前に立つ。足を止めた僕に倣うように早瀬くんも歩くのをやめる。手をグッと握りしめ、勢いよく顔を上げて早瀬くんの目をしっかりと見つめた。早瀬くんの瞳に映る自分は、顔が真っ赤でお世辞にもかっこいいとは言えなかった。だけど、それでもよかった。どれだけ情けなくても、これだけは伝えなければいけなかったから。


「早瀬くん、改めて……好きです。全然気が付かなかった僕だけど、ずっとずっと、大好きです!」


 大きく息を吸って、さっきみたいに手を差し出す。


「僕と、付き合ってください!」


 緊張で心臓が口から出そうなほどドクドクと脈打っているのを感じる。

 早瀬くんの答えが返ってくるまで、とても長い時間が過ぎたような気がした。永遠にも似た感覚に、僕は唇を噛み締める。

「ここまで、鈍いと逆に俺の方が心配になるんだけど」

 ようやく返ってきた言葉は少しだけ呆れも混じっていた。

 早瀬くんは僕の手をぐいっと引っ張り、腰に手を回す。急に近づいた体に僕は驚いて固まる。

「俺、別に誰にでも優しくするわけじゃない。告白してきたやつ全員にあんなこと言うわけじゃない」

 あんなこと、と考えていると、早瀬くんは答えを示すように「俺を本気にさせてみてってやつ」と言う。そして続けて言葉を紡ぐ。

「まだ、分からない? 凛月にとって俺が特別だったように、俺にとって凛月だけが特別なんだよ」
「とく、べつ……?」
「弱かった俺に手を差し伸べてくれた、俺だけのヒーロー……俺は、ずっと凛月だけを想ってきた――凛月だけが好きだ」

 コツンと僕の額に早瀬くんの額がぶつかる。ゼロ距離で見つめられ、あと少しで二人の唇がくっつきそうだった。

 とろけるように甘く、優しい瞳を見て僕はそっと目を瞑る。

 経験はなかったけど、きっと今がそのタイミングなんだと思って。

 一瞬の間があいた後、柔らかい感触が唇に伝わった。

 言葉よりも雄弁な、早瀬くんからの返事に、僕は嬉しくて涙を流した。