水瀬くんは諦めない!

 時間は少しだけ進み、期末テストを終えた僕らは電車とバスに揺られて隣町のプールに遊びにきていた。


 角田くんはしっかりとほとんどの教科で赤点を取り、部活の顧問に怒られたそうだ。そんな角田くんの補習の都合に合わせて僕らは動いた。

「いやー、全く、勉強ばっかりで嫌になるわ! 今日はパーっと遊ぼうな!」

 ニカっと歯を見せる角田くんに遠藤くんが「お前はもすこし勉強しような」と呆れていた。

 みんなが楽しそうな様子に僕もつい頬が緩んでしまう。期末テストの結果は角田くんと同じであまり触れたくはないけど、テストの緊張感の反動もあって今日がすごく楽しみだった。隣に立つ早瀬くんも心なしか雰囲気が柔らかく、もしかしたら楽しみにしていてくれたのかと思うと誘って良かったなと思う。

「よっしゃ! いくぜー!」

 先頭に立って掛け声をあげる角田くんに続くように僕らは施設の扉を潜った。

 人気な施設なこともあってか、中には人が多かった。受付で人数分のチケットを購入すると、一緒に更衣室の鍵を渡してくれた。

 ぞろぞろと更衣室に向かう廊下でプールの様子を見ることができて、僕は期待に胸が膨らむのを感じた。

 流れるプールも楽しそうだし、ウォータースライダーも種類がいくつかあるようで早く着替えて遊びに行きたかった。

「楽しみだね、早瀬くん!」

 ニコニコと笑いながら隣を歩く早瀬くんに話しかける。早瀬くんはチラッとプールの様子を確認した後、僕の方を見て少しだけ口角を緩ませる。

「楽しそうな凛月を見てると、俺も楽しくなる」

 そう言ってサラッと彼は僕の頭を撫でていく。さりげない接触に僕の心臓は大きく飛び跳ねる。

「お前ら、早くこいよ! 置いていくぞ」

 先を歩いていた聡たちが僕たちの方を振り返って手を振っている。僕は「ごめん!」と慌てて謝ってから、早瀬くんの手を掴んで引っ張る。手に触れる時、かなり緊張したが、やられっぱなしは嫌だと思ったら自然と動いていた。

 早瀬くんは驚いたように目を見開いた後、僕の手を優しく握り返してくれた。そのちょっとしたことが嬉しくて、僕は顔を真っ赤にさせる。自分から仕掛けたことなのに、早瀬くんにようにスマートにできないところが情けなかったけど。

 付き合いたてのカップルのようなやり取りをしているのを見た角田くんが「あいつら、付き合っとるんか?」と呟いて、隣にいた遠藤くんに頭を叩かれていたことに、僕は気がついていなかった。

 更衣室で水着に着替え、いざプールサイドに立つと、塩素の独特な匂いと水の匂いが充満していた。楽しそうにはしゃぐ声に僕の気持ちも高まっていく。

「やっぱ、最初は定番の流れるプールからやろ!」
「俺浮き輪借りてくるわ。ただ浮かんでる人やりたい」

 角田くんがキラキラとした瞳で一番大きいプールを指差す。その横を聡が通り過ぎていき、壁際に並んでいたドーナツ型の浮き輪に手を伸ばしている。聡もなかなか独特な感性を持っているようで、さすが僕の友達だと思った。

「お前ら自由すぎるだろ……早瀬たちもとりあえずあそこでいいか?」

 苦笑いを浮かべて自由に動き回る二人を見守りながら遠藤くんが僕らの方を見る。早瀬くんは小さく頷いて応えており、僕も「問題ないよ」と言葉を返す。

 プールの淵に立って、ゆっくりと足を水につける。ひやっとした水の冷たさに、一瞬心臓が縮こまる感覚がするが、慣れてくると心地よくてそのまま水の中にダイブする。

「ふわぁー! 気持ちいー!」

 小さな子供でも楽しめるように水の深さはそこまで深くなく、余裕で足が底につく。しかし、流れるプールだからか横から水に押されるような不思議な感覚がして、なんだか面白かった。

「早瀬くん! 一緒に泳ごう!」

 テンションの上がった僕は、プールの淵に立っている早瀬くんに手を伸ばす。何故か、この時の僕は彼がその手を取ってくれると信じていた。

「はは、テンション上がりすぎ」

 早瀬くんは僕の期待を裏切らず、僕の手を頼りにプールの中に入ってくる。

「本当に、水に浸るのが好きなんだな」
「うん! 泳ぐのは大変だけど、水の冷たさとか気持ちいよね!」
「ずっと好きだった?」
「うん? ……うん! 多分、小さい時から川遊びとか、プールとかは好きだったよ」
「へぇ、小さい時の凛月か……ちょっと気になる」

 コテンと首を傾ける早瀬くんの仕草に、単純な僕は可愛いと思い体を固まらせる。

「そんなに、面白くないよ。僕の小さい時なんて、ほぼ黒歴史みたいなものだし」
「黒歴史なの? どうして?」

 過去のことを思い出しながら、誤魔化そうと笑ったが早瀬くんは諦めるつもりはないようでじっと僕の瞳を見つめてくる。僕は、過去の自分が恥ずかしすぎて早瀬くんの視線から逃げるように目線を彷徨わせる。

「教えてくれないんだ」

 僕が言い淀んでいると、早瀬くんは水をかき分けて僕の方に一歩近づいてきた。肌と肌が触れそうなほど距離が近くなり、僕は思わず足を後ろに引きそうになる。だが、彼が腰に手を回して引き寄せたことで、逃げることができなかった。

「俺に、凛月のことを知ってもらうチャンスじゃない?」

 挑戦的な瞳で僕のことを煽ってくる。意地悪な早瀬くんの態度に僕は言葉を詰まらせた。そして、バッと両手で顔を覆って「早瀬くんがカッコ良すぎてどうにかなりそうなので、ちょっと一時休戦を申し込みます!」と自分が大衆の中にいることも忘れて叫んでいた。

 ハッと気がついた時には周囲で流れていた人たちが僕らを見ていた。なんなら、ようやく入水した聡たちも僕ら――正確には僕のこと――を凝視していて、僕はあまりの恥ずかしさで居た堪れなくなる。

 僕の渾身の叫びに早瀬くんはようやく解放してくれて、僕は顔の半分まで水に浸かりぷかぷかと浮かんで流されることにした。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。

 早瀬くんはまだ僕の過去を聞くことを諦めていないのか、流されていく僕に合わせて横を歩いてついてくる。

「なんでそんなに言いたくないの?」
「……なんと言いますか…………昔の僕は大分やんちゃをしていたというか」
「やんちゃってどんな?」

 興味津々な様子で続きを待っている早瀬くんに、僕は「えぇ、そこ突っ込んでくるの?」と口を尖らせる。どんな早瀬くんも好きだが、意地悪な早瀬くんは少し苦手かもしれない、と考える。まぁ、それでもやっぱり好きなんだけどね。

「昔は一人称も俺って言ってて、ガキ大将みたいな? 友達を巻き込んで色々やってたんだよね。中学に上がるときに、もうちょっと大人になろうと思って大分矯正したけど」
「なんで矯正しようと思ったの? ガキ大将な凛月も良かったと思うけど」
「えぇ、いいことないよ。本当に周りを振り回す天才だって不名誉な言葉をもらったこともあるもん」
「何それ。そんなこと言われてたんだ」

 くすくす笑う早瀬くんと対照的に僕は恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちだった。

 僕は昔の自分のことを思い出す。

 今では面影など一切無くなってしまったが、昔は男子も女子も関係なく、みんなの輪の中心で騒いでいるようなタイプだった。曲がったことは嫌いで、いじめのような陰険なことも嫌いだった。好きなことはみんなが笑っていることで、泣いている子がいたら、いつも泣き止むまでそばにいた。そして、最後は一緒になって遊んで、笑って終わるのだ。


 じゃあ、なんで今の僕になったのか。

 理由は単純、その頃に僕は初恋を経験したのだ。


 相手は自分と同じ歳の子で、肩まで伸びた髪にスッとキレのある瞳に、ぷっくりと膨らんだ唇が可愛かった。その子は、よく学校の隅で泣いていて、僕が話しかけると花が咲くように笑ってくれた。その笑顔が当時の僕は大好きで、いつも話しかけていた。

 中学生になる時、その子は親の転勤の関係で遠くへ引っ越すことになった。僕は悲しくて仕方がなかったけど、その子と約束をした。今思えば、連絡先も何も聞かずにただ約束だけをした、無謀で、無策なものだった。

『次に会った時は、絶対にずっと一緒にいよう』

 そう約束したあの子は、今どこで何をしているのだろうか。

 久しぶりに思い出したその約束を頭の中で呟きながら、僕は隣を歩く早瀬くんに視線を向ける。そういえば、その子はどことなく早瀬くんに雰囲気が似ているような気がした。

 あの子の名前は――と思い出そうとした時、後ろから急に水をかけられる。

「俺たちのことを置いていくなよ!」

 驚いて振り返った時、追撃するように聡が僕の顔に水をかけてきた。身構える間もなく水を顔面で受け止めた僕は、口の中に入ってきた水を思わず飲み込んでしまった。

「はは、油断してるからそうなるんだよ」

 聡が大きな口を開けて笑っている。その様子にムッとしながら、僕はやり返すために水をかけるが簡単に避けられてしまった。

「な、後でウォータースライダーやらん? むっちゃ楽しそうやん」

 僕らの横で角田くんが早瀬くんを誘っていたが、彼は「俺はパス。ここで歩いてる方が楽しい」と断っていた。角田くんは大袈裟に肩を落とし、次に遠藤くんと声をかけにいく。

「あれ、やらないの?」
「うん。実はちょっと怖かったりする」

 恥ずかしそうに頬をかきながら早瀬くんは僕にだけ聞こえる声でそう言った。早瀬くんはなんでもできると思っていたが、意外にもそうでもないらしい。意外な早瀬くんの一面を知ることができて僕は嬉しくなる。

「そっか。じゃあ、僕と一緒にこっちでたくさん遊ぼう! あ、ほら、あっちに波が出てるプールもあるよ」

 流れるプールとは別のプールを指差す。早瀬くんは笑って頷いてくれた。ほんの小さなことだけど、早瀬くんが笑ってくれると僕も嬉しくなる。

 しばらく、流れるプールで遊んだ後、聡と遠藤くんと角田くんはウォータースライダーの方に向かい、僕らは波が出るプールに向かった。

「すごい、本当に海みたい」

 プールは本物の海のようにスロープ状の入り口になっており、波打った水が足元まで流れてくる。僕ははしゃぎながら足を進め、波に流されるまま体を浮かべる。

「最近は、いろんな形のプールがあるんだな」

 隣にきた早瀬くんが感心したように呟き、僕は笑って頷いた。

「こうやってると、海にも行きたくなるね」
「凛月は他にどこ行きたいの?」
「うーん。パッとすぐには思いつかないや。でも、早瀬くんとならどこ行っても楽しいから、どこでもいいかも!」

 テンションが上がっていた僕は普段ではいえないようなこともぽろっと言ってしまう。早瀬くんはキョトンとした顔を見せた後、口元を緩ませる。

「凛月って、本当に俺のこと好きなんだね」

 目も細めて楽しそうに笑う早瀬くんに、ようやく僕は自分の言葉の恥ずかしさに気がついた。一瞬にして顔を真っ赤に染めると、僕は誤魔化すように視線を彷徨わせる。数秒前の僕を止める方法は、どこかにないだろうか、と本気で考えてしまう。

 でも、とふと考える。

 早瀬くんを好きなことは別に恥ずかしいことじゃないし、むしろどんどん伝えるべきことだ。なら、僕が今取るべき行動は――。


「……うん。僕は早瀬くんのこと大好きだよ!」


 勇気を振り絞って本心を伝えてみたが、やっぱり好意を伝えるのは恥ずかしくて顔が熱い。だけど、きっとこうやって何度も気持ちを伝えることは大事なことだから、と思い直す。

 早瀬くんは僕が好意で返してくると思っていなかったのか、大きく目を見開いていた。そして、口元を手で隠すとそっぽを向いて「……反則だろ」と小さく呟く。髪の隙間から見えた耳が少し赤くなっていたのは、僕の見間違いじゃないと思いたい。

 進級してから、早瀬くんと一緒に過ごす時間ができて、いろんな彼の表情を見てきたが、本気で照れた表情を見るのは初めてな気がした。いつも飄々としてクールな早瀬くんは、僕みたいにすぐに表情に出すタイプじゃなかったから。

 また一つ、新しい発見ができた、と僕は少しだけ嬉しくなる。あわよくば、もっと早瀬くんと近づきたいところだけど、今はこの距離感が心地よかった。

 そんなことを考えていると、「ねぇ、凛月」と早瀬くんに話しかけられる。

「俺さ、すごく頑張ったんだ」

 唐突な言葉に僕は首を傾げる。早瀬くんが何を伝えたいのかよくわからなかった。だけど、早瀬くんはそんな僕にお構いなしに話し続ける。

「昔は、もやしみたいにひょろっとしてて、泣き虫だったんだ。だけど、そんな俺を変えてくれた人がいた」

 僕の知らない早瀬くんの過去。彼は今、それを僕に伝えようとしてくれているのか。なら、ちゃんと聞かなければいけないと思って居住まいを正す。

 周りの喧騒も遠くなり、静かに話す早瀬くんの声だけがクリアに聞こえてくる。

「凛月、『薫ちゃん』って覚えてない?」

 早瀬くんの口から出た名前に僕は「どうして……」と小さく呟く。


 その名前を僕はとてもよく知っていた。



 だって、その名前は――僕の初恋の人の名前だったから。