イルカショーの迫力は僕の想像以上だった。トレーナーの人との息もぴったりで、いろんな芸を見せてくれたイルカたちに、ショーが終わる頃には心奪われていた。

 だからなのか、僕は今絶賛迷子だった。隣に迷子の男の子を引き連れて。

「この歳になって迷子になるなんて」

 僕が呆然と呟いていると、隣にいた迷子の男の子は「お兄ちゃん」と言いながら涙目になっていく。僕は慌ててその子の目線に合わせると、「大丈夫だよ。きっとすぐにお兄ちゃんたち見つかるから」と励ます。その言葉をどれくらい信用したのかはわからなかったが、その子は泣くのをグッと我慢する。

 僕は必死に堪えようとする男の子を安心させるように頭を撫でた後、スマートフォンを取り出す。連絡先は聡しか知らなかったため、聡にメッセージを送る。するとすぐに既読のマークがつき、自分たちも迷子センターに向かうという返答がくる。

 そのメッセージを確認した僕は早速迷子センターに向かうことにする。迷子センターは僕らがいる棟とは別にあり、そこそこ歩かなければいけない。隣の小さな子の体力がどれだけ残されているかはわからなかったが、とりあえず移動する。

 人混みをかき分けながら進んでいくが、小さな子供の足に合わせるのはなかなか難しかった。一人っ子の僕には自分より小さい子の面倒を見るという経験がなかったのだ。だけど、年長者として泣き言を言うわけにもいかず、隣の子供にたわいもない話をする。

「君の名前は? 今日は誰と来たの?」とか「あそこ見て、おっきい魚さんがいるね」とか。なんとか話題を作って子供の気を引く。子供は僕の声掛けに徐々に安心感を覚えたのか、少しずつ笑顔がみれられるようになった。

 そんなことをしながら迷子センターに着くと、聡たちはまだ到着していないようだった。スタッフの人に迷子の子供を手渡して、立ち去ろうとしたが、ぐいっと服を引っ張られる感覚がしてできなかった。

 服の端から辿っていくと、迷子の子供が不安そうな顔で僕の方を見ていた。今にも泣きそうなその表情に僕もスタッフの人も目を丸くする。この小さな子からすれば、ここも決して安心できる場所じゃないようだ。

 僕はしょうがないか、と思い、その子供と一緒に家族を待つことにする。

「……ごめんなさい」
「……え? 全然気にしなくていいんだよ。それに、僕も君と同じで迷子だし」

 安心させるように微笑みかけると、子供はほっとしたように胸を撫で下ろす。誰も知っている人がいない場所で一人でいる心細さはきっと僕が想像するよりもずっと大きいだろう。

「お兄ちゃんは、誰と来たの」
「僕はね、学校の友達と来たんだよ。君は誰と来たの?」
「えっとね、お兄ちゃんとお母さんとおばさんと、あっちゃん!」
「たくさんの人と一緒にきたんだね。あっちゃんはお友達?」
「うん! あっくんは保育園で一番仲良しなんだ! あっちゃんは僕と同じくらいなのに、僕よりずっと強いんだよ!」
「へぇ、そうなんだ。どんな風に強いの?」
「あのね、お勉強もできて、かけっこも一番なの! それに、お絵描きも、折り紙もずっと上手!」

 小さな子供にとってあっちゃんはきっととても大きな存在なのだろう。先ほどまでの疲れきった様子とは打って変わって目がキラキラと輝いている。まるで、早瀬くんのことを語っているときの僕みたいに。

「僕、あっちゃんみたいにたくさんのことができるようになりたいんだ。だけど、なかなかうまくできなくて」
「まだまだこれからだよ。僕も大好きない人がいて、その人の隣に立つのに相応しい人になりたい。だけど、一人で騒いでばかりでね」

 早瀬くんへの気持ちを諦めないと決めたけれど、今のところ僕は空回ってばかりだ。優しい早瀬くんだから許してもらえているところもきっとあるだろう。今日だって、女子たちをうまく躱すことができなかったし、早瀬くんが近くに来ると頭が真っ白になって何も言えなくなった。こんな情けない自分じゃ、いつか愛想をつかれるんじゃないか、と考えてから、そもそも早瀬くんにはそこまで僕を気にしていないかもしれないと考える。

「じゃあ、僕と一緒だね」

 子供のまっすぐな一言に僕はハッとして顔をあげる。無意識に膝の上でキツく握られていた手に子供がそっと手を乗せる。子供特有の高い体温が、僕の心を溶かすようだった。

「たくさん、たくさん頑張って。お兄ちゃんの大好きな人と、あっちゃんに頑張ったねって言ってもらうんだ」

 柔らかい頬を緩ませて子供は足をぷらぷらと動かす。何も知らない、純粋な子供の言葉が僕にまっすぐに刺さった。僕が何か言葉を返そうとした時、センターの扉が開いた。そこには慌てた様子の女性と、その後ろに早瀬くんたちの姿があった。

 女性は部屋を見渡して僕の横にいる子供を見つけるとまっすぐに走ってきた。

「もう! どこに行ってたの!」と怒りながら安心した表情を浮かべる女性に子供は「僕、あっちゃんみたいに強い人になる!」と的外れな返答をしていた。

「よ! 高校生にもなって迷子になった気分はどうだ?」

 親子のやり取りを横目に聡が近づいてくる。

「迷子も案外悪くないかもね」と返すと、「こっちはお前がいなくなって大変だったんだぞ」と頭にゲンコツを落とされる。別に音信不通になったわけでもないのに大袈裟な、と考えていると、聡を押しのけるようにして早瀬くんが前に出てくる。

「大丈夫? どこも怪我してない?」
「あ、う、うん! 全然、平気だよ!」
「そう。ならいい」

 確認したいことが終わったのか早瀬くんは言いたいことが終わると、すっと離れていった。そのことが少しだけ残念に思えるが、頭を振ってその気持ちを追いやる。

 迷子の子供の家族にお礼をたくさん言われた後、子供と母親は手を繋いで迷子センターを出ていった。扉の向こうではおばさんとあっちゃんが待っていたようで、出てきた子供にあっちゃんらしき人物が抱きついていた。


 その様子を見て、ようやく僕はあっちゃんが男の子だと知った。





 帰りのバスはなぜか早瀬くんが隣に座ってきた。行きと同じように聡が隣に来ると思っていた僕は、何が起きているかわからず硬直する。窓側の席に座っていたこともあり、出口を塞がれた僕はおとなしく彼の横に座るしかなかった。

 いつもの僕なら、うまく話せなく終わっていただろうけど、今の僕は先ほどの子供にもらった勇気があった。

「あ、早瀬くん! 今日、楽しかった?」

 どもりながらもなんとか会話を始めることに成功する。早瀬くんは少し考えた後、口角を少しだけ上げる。

「うん。楽しかったよ。凛月は? 楽しかった?」
「うん! 僕も楽しかった! 早瀬くんは何が一番いいなって思った?」
「そうだな……やっぱり、あのこけたペンギンかな。何度思い出しても凛月みたいで可愛かった」
「……う、そ、それって僕がおっちょこちょいって言ってるの?」
「ん? うーん、そうかも?」

 くすくすと笑う早瀬くんに僕は少しだけ自信を喪失していたが、すぐにそのことはどうでも良くなる。

 なぜなら、早瀬くんが僕の頬を人差し指で突いたからだ。

「ふぇ」と情けない声が漏れる。それすらもおかしかったのか、早瀬くんはいつになく上機嫌で笑っている。

「間抜けづら」

 視界の端では早瀬くんがふわりと笑いながら僕の方を見ていた。僕は自分の頬に急速に熱が集まるのを感じる。そして、体感十分ほどその状態で固まりながら口を魚のようにパクパクと動かす。

 ずっと彼だけを追いかけてきたが、こんな早瀬くんの顔を見るは初めてだった。

 甘い、まるで大切な人に見せるような、そんな顔を――。

「あ、う、す、好きです」

 思わず頭に浮かんだ言葉を伝えてから、僕は慌てて口を手で塞ぐ。

「うん。だから、俺が本気になるように頑張って」

 じっと見つめられて僕はどうしたらいいのかわからなくなる。学校まではまだまだ距離がある。こんな調子で早瀬くんに揶揄われたら、きっと僕の心臓は学校まで持たないだろう。早瀬くんはきっとそのこともお見通しだっただろうけど、僕で遊ぶのをやめなかった。

 その日の帰り道は、これまでで一番恥ずかしい時間になった。