登校したたくさんの生徒が運動場に集まっている。それぞれが学校指定のジャージ姿で、深い青色の群衆が先生から指示が来るのを待っていた。

 今日は校外学習の日だった。

 先輩である三年生が修学旅行に行っている裏で、二年生は水族館に、一年生は山へハイキングに行く。山に向かう一年生たちの呪詛を聞き流しながら、僕たちはおとなしくバスが到着するのを待っていた。

「凛月ー。お前今日の班長やってくんない?」

 ぼうっと立っていると後ろから聡がひっついてくる。今回の校外学習では男女別でグループを作って行動する。僕はくっついてきた聡と同じ班で、そこに加えて早瀬くんとその友達が一緒だった。

「僕よりも、早瀬くんたちにお願いしたほうが……」
「あー、でも、凛月の方が適任だろ? 俺が聞いてきてあげようか?」
「どこが適任なんだよ……絶対に振り回されて終わるじゃん」

 肩を落としながら聡に断固拒否の姿勢を示すが、彼は聞いていないようで近くにいた早瀬くんたちに勝手に話しかけていた。

「なぁ、早瀬たちも凛月が班長でいいだろ?」と、突然話を振られた早瀬くんとその友達の遠藤和樹は僕らの方を見る。

「俺は構わないよ」と、早瀬くんが。そして横にいた遠藤くんも人の良さそうな笑顔を見せて頷いた。どちらかは否定してくれると思ったのに、どちらも面倒ごとからは逃げたいタイプのようだった。

「ほらー、お前でいいって言っただろ」
「なんか釈然としないんだけど……それってつまり、面倒臭い役目を押し付けたいだけじゃ……?」
「あはは、なんでわかったんだよ!」

 隠す様子も見せない聡の図々しさに呆れながらも、結局僕はそれを受け入れるしかなかった。

 調子のいいやつ、と心の中で愚痴を漏らしていると、肩を叩かれた。

「押し付けてごめん。嫌なら、変わろうか?」

 ずいっと近づいた早瀬くんの顔に僕は大袈裟に体を震わせて、その場に飛び上がる。その様子を見た聡が腹を抱えて笑っていたが、そこにまで気は回らない。

「い、い、嫌じゃない、です……」

 かろうじて絞り出した声に早瀬くんは不思議そうな顔をしていたが、僕は真っ赤になった顔を手で隠すので精一杯だった。僕の挙動不審な様子から遠藤くんは何かを察したのだろう。ニヨニヨと笑って僕の隣に立つと、ぐいっと肩を引き寄せる。

「――え?」と思った時には、遠藤くんとは反対の方に体を引っ張られていた。

 何が起きたのか分からず、困惑したまま顔を上に向けると、氷よりも冷たい表情を浮かべた早瀬くんがいた。

 早瀬くんの顔が真上にあるってことは、僕は一体どこにいるんだ――と、考えてからすぐに早瀬くんの腕の中にいることに気がついた。

 声にならない悲鳴をあげてその場に立ち尽くしていると、早瀬くんは僕のそばから離れ遠藤くんの額にデコピンをお見舞いしていた。

「いや、お前……わかりや、っいってぇ!」

 思いの外大きな音がなったそのデコピンの威力は、遠藤くんが額を抑えてしゃがみ込むほど強かったようだ。

「遠藤、お前とはいい友達だと思ってたんだけどな」
「いやいや、今でもいい友達だろ!? なに勝手に縁切ろうとしてるんだよ!」
「俺は笑えない冗談ほど嫌いなものはないんだ」
「笑えなかったのはお前だけだろ? 見ろよ、立花も笑いすぎて立ち直ってないじゃん!」

 遠藤くんが僕の視界の端で蹲っている聡を早瀬くんに売ると、早瀬くんは氷点下の眼差しで「立花……お前ともここまでだな」と冗談を言う。

 早瀬くんはよくある男子高校生のノリは好きじゃないのかと思っていたが、案外そうでもないらしい。新しい、彼の一面が知れて、僕は少しだけ嬉しかった。

 一人でホクホクとした気持ちになっていると、急に肩が重くなった。

「ねぇ、あいつらひどくない? 俺のこと慰めて」
「……ヒェ」

 顔面の暴力。イケメンの破壊力とは恐ろしい。

 そんなことを頭の片隅で考えていると、ようやく先生からの号令がかかる。移動しなければいけなくなり、僕らはゆっくりと前の生徒に続く形で進む。

 早瀬くんもようやく僕から離れて遠藤くんの隣に戻る。そのことが少しだけ寂しいと思ったが、気持ちを切り替えるように努めた。


 *


 バスに揺られて着いた水族館はこの地域で有名な場所だった。何度かテレビでも取り上げられており、その中でも有名なのは飼育員さんの独特な魚の紹介文だった。平日にも関わらず、人が多いのはその独特な紹介文を見に来ているのだろう。

 水族館は海の近くにあるため、バスから降りると潮の匂いがほんのりと香る。この匂いを嗅ぐと、海に来たんだな、しみじみと思う。

「ほら、凛月! そんなところで黄昏れるなー。早くしないと置いていくぞ」

 海のある方向を眺めながらゆっくりとしていると、聡が僕の意識を引き戻すように大きな声を出す。僕はハッとしてみんなの方を見ると、一部の生徒はすでに水族館の中に入っているところだった。

「ごめん! 今いく!」と言って聡たちの方に駆け寄る。
 先生から団体専用の窓口に案内されて、館内に入るとひやっとした空気が肌を撫でる。外の暑さとのギャップに思わず体を震わせると、隣に来た早瀬くんが僕の顔を覗き込んできた。

「寒い? 大丈夫?」
「あ、ううん! 全然! これくらいへっちゃらだよ!」
「そう。ならいいけど」

 さりげない気遣いを見せた早瀬くんは僕の言葉に納得したのか先を歩く遠藤くんたちの方に足を向ける。スマートな対応力に僕が惚れ惚れとしていると、両腕を誰かに抑えられた。びっくりして横を見ると、クラスメイトの女子が僕のことを囲っていた。

「ねぇ、水瀬。あんた、最近早瀬くんと距離近くない?」と、長谷川さんが。

「そうよ。いくら水瀬といえど許されないことだってあるんだからね」と、間宮さんが。

 そして後ろに集まっていた他の女子たちも同様の言葉を僕に投げかける。僕は冷や汗を流しながら、どうにかこの追求から逃げようとするが、隠し持っていた女子たちの力が強くて振り解けなかった。

 長谷川さんは長谷川京子といい、由緒正しい家柄のお嬢様らしい。そして、反対側にいる間宮さんこと間宮玲奈は長谷川さんの親友だ。彼女たちは女子の中でも一際目立っており、通称早瀬くんファンクラブの会員の一人でもあった。

 早瀬くんファンクラブ、とは名前の通り、早瀬くんが好きな人で構成された非公式のファンクラブのことだ。誰とも付き合おうとしない早瀬くんをみんなで愛でるために、抜け駆けなどしないように互いに牽制し合うのが目的だと聞いたことがあるが、それが事実だったことを今身をもって知ることになる。

「いい、水瀬。あんたは確かに顔は可愛い寄りだけど、だからといって抜け駆けが許されるわけじゃないのよ」と、長谷川さんが僕に指を突きつける。目の前に迫った指を見て僕はのけぞるが、両脇を抱えられておりうまく逃げることができない。

「早瀬くんはみんなのものなのよ。それはたとえ、男であっても同じなんだから」

 ふんっと鼻を鳴らした間宮さんが口をへの字に曲げて言う。僕は曖昧に笑って受け流すが、彼女たちはそれでは許してくれないようだった。

「で、でもさ、やっぱり早瀬くんは誰のものでもないよ……」
「なに言ってるのよ! あの美しいご尊顔に、クールで誰も近づけさせない孤高の狼のような存在……誰かが待ったをかけなきゃみんな見境なくおこぼれにあやかろうとするじゃない! 私たちがその役割をしてるのよ!」
「いや、でも……早瀬くんはそんなこと望んでないんじゃ……」
「でも、も、だって、もないわ! あのね、水瀬……」

 熱くなった長谷川さんがさらに言い募ろうとした時、「ねぇねぇ」と声をかけられる。声のした方をみんなで見ると、にこやかに笑っている遠藤くんがいた。

「俺たち、そろそろ見て回りたいんだけど。そいつ、返してもらってもいい?」

 早瀬くんと同じくらい整った顔で有無を言わさず笑いかける遠藤くんに本能的に恐怖を覚える。イケメンと美人を怒らせてはいけない、と誰かに聞いたことがあったが、どうやらそれは間違いではないらしい。

 長谷川さんと間宮さん、そしてクラスの女子たちはたじろぎながら渋々僕から手を離す。それを確認した遠藤くんは満足そうに頷くと僕の手を取って他のメンバーが待っているところまで連れていく。

「ほらよ。全く、小さいガキじゃないんだから、あーいうのくらい自分でなんとかしろよな」

 遠藤くんが苦言を言われながらも、みんなのところに戻る。聡は呆れ顔で僕のことを見ており、早瀬くんはいつも通り無表情でじっと僕を見ている。みんなからの視線に僕は少しだけ恥ずかしくなり、愛想笑いを浮かべる。

「そろそろ俺たちも中を見て回ろうぜ」と聡が手で中を指差す。その言葉に一同が賛成し、僕への追求は終わった。

 水族館の中は全体的に暗く、水を通して入り込む光がキラキラと輝いている。巨大な水槽の中をさまざまな種類の魚が自由に動き回り、とても綺麗だった。水族館とは縁がない人生を歩んでいた僕には目の前に映るすべてのものが新鮮に思える。

「見ろよ、チンアナゴだ。ひょろひょろしてんなー」
「本当だ。チンアナゴって見えないだけで本当はすごく長いんでしょ」

 聡に腕を引かれながら水槽の中を覗くと、ちょうど顔を出したチンアナゴと目があった。ふと解説に向けるとスタッフの手書きで「海底のモグラ叩き!」とデカデカと書かれている。そしてその下には「正式名称はガーデンイール」と書かれており、僕はチンアナゴが愛称であることを初めて知った。

 クスッと笑わせるような、温かい書き込みに僕たちの心も温かくなる。この水族館が人気な理由も納得がいく。

「あっち、行ってみようぜ!」と遠藤くんが指差した方には南極コーナーと書かれた、より寒そうなエリアがあった。特に反対意見もなかったため、みんなでそちらに移動すると、大きな展示場にペンギンがたくさん泳いでいた。

 簡易的な飛び込み台も設置してあり、ちょっと鈍臭いペンギンが足を踏み外し、転がるようにして水にダイブしたところを運良く見ることができた。

 それを見て「あはは、可愛いね」と、聡に向かって喋る。が、横に現れたのは早瀬くんだった。

 ひゅっと息が詰まる。驚きすぎてなにも出てこなかった。

 早瀬くんは僕が固まる様子を見てもなにも言わずに、じっとペンギンの方を見る。

「あ、あの、早瀬くん!」
「……ん? どうした?」
「早瀬くんは、ペンギン好き? あ、というか、生き物って好きなの?」
「んー、嫌いではないかな。でも、さっきこけたペンギンは好きかも」

 たくさんのペンギンの群れに混じってしまい、彼のいうペンギンがどの個体かはもうわからなかった。

「なんか、こけたときの焦り方が凛月みたいだった」

 彼の言葉に僕は「え?」っと思って顔をあげると、僕の方を見ていた早瀬くんと視線が絡み合う。早瀬くんはそれだけいうと他の人に場所を譲って展示場の後方に移動してしまう。僕はどうして自分の名前が出てきたのかわからず、しばらくその場に立ち尽くす。彼の言葉をちゃんと理解するには、少しだけ難解だ。

 南極コーナーも楽しんだ後、お昼頃になったため一同は休憩コーナーに移動する。休憩コーナーには同じ考えの生徒や一般客で溢れかえっていた。

「どうする? 外で食べれそうなところ探すか?」

 いろんなところから飛んでくる女子生徒の視線を無視しながら遠藤くんは早瀬くんの方を見る。早瀬くんは「それでいい」と短く返答をし、聡と僕もそれに倣うように頷く。

 外に出ると、室内の休憩スペースよりは人が少なく、座る場所も見つけられそうだった。

「水族館なんて、いまさら楽しめるかなって思ってたけど、案外楽しいもんだな」

 スペースを確保し、弁当を広げながら遠藤くんがパッと笑みを浮かべる。

「僕は、水族館あまり来たことなかったから、新鮮で楽しい」と僕が返すと、隣に座った聡が同意するように軽く首を動かす。

「へー、二人は水族館より動物園派なのか?」
「そういうわけでもないかも。快適さで言えば、やっぱり空調が効いてる方が過ごしやすいし」
「たしかにな! 動物園も嫌いじゃないけど、暑くなってくる季節に行くのはちょっと勘弁だよな。早瀬はどっち派なんだ?」
「俺はどっちでも。獣臭か生臭さかを選ばされてる感じ」

 早瀬くんはコンビニで買ってきた惣菜パンをもそもそと食べながら答える。「情緒ねぇなぁ!」と遠藤くんはケラケラとおかしそうに笑った。

「生物って括りは変わらないだろ。見てても、あー生きてんな、くらいにしか思えない」
「もっと、可愛いとかかっこいいとかあるだろ。それこそ、サメとかは強くてかっこいいだろ」

 熱が入ったように遠藤くんが早瀬くんに語っていたが、早瀬くんには一ミリも響いていないようで、ずっと首を傾けている。その様子を見ながら昼食を食べ進める。

「お、午後はイルカショーがあるみたいだ。みんなで行くか?」

 なんだかんだで一番騒がしかったのに、一番早く食べ終わった遠藤くんがリーフレットを眺めながら午後の提案をしてくれる。僕はイルカショーという言葉に目を輝かせた。

 今回の校外学習で密かに一番楽しみにしていたものでもある。

 僕は迷わず遠藤くんの言葉に頷いた。

「よっし、なら午後はイルカショーを楽しもう!」