桜の花びらが舞い散る季節。

 僕はたくさんの生徒が群がる掲示板を何度かジャンプしながらなんとか見ようとする。こういう時に身長が低いと不便で嫌になる。

 自分の名前を見つけた後は、お目当ての人の名前を探す。一年生の時は一緒だったから、今年も一緒であってほしい。ていうか、一緒になるために好きでもない理系を選択したのだから、一緒でなければ僕にとって損しかない。

「なに飛び跳ねてんだよ。お前はウサギか何かかよ」

 低くて色気や落ち着きを連想させる、僕にとって聞き逃せない声が聞こえる。僕は掲示板を見るのをやめて後ろを振り返ると、そこには大好きな人がいた。

 早瀬薫――女の子の様な名前をしているのに、身長は百七十を超えており、すらっとした立ち姿。鋭い目つきに高い鼻、顔のパーツ全てが整っている。

「早瀬くん! わ、わぁ! 新学期早々会えるなんて!」

 僕はあまりの嬉しさに感極まって泣きそうになる。こんなんでこれからやっていけるのかと聞かれたら、お願いだから黙っててくれ、と頼み込むことだろう。今はそんなことよりも、目の前の早瀬くんを脳裏に焼き付けることの方が大事なのだから。

 目を潤ませながら話しかける僕を早瀬くんは汚物を見るかのように冷めた表情で見てきた。どんな表情であれ、早瀬くんが僕を見ていることに意味があると声を高らかに宣言したい。

「なんで、泣きそうになってるんだよ。気持ち悪いやつだな」
「あ、ご、ごめんね! こんなにすぐに早瀬くんに会えると思ってなかったから、つい……」
「お前さ、これからまた、一年同じなんだから、いい加減その反応やめろよな」

 興奮して顔に熱が集まるのを感じながら、僕は早瀬くんの言葉に笑って答えようとした時、彼の言葉が頭に繰り返される。


 ――また、一年同じなんだから。


「……え!? 僕たち、また同じクラスなの!?」


 早瀬くんの言葉を理解した瞬間、僕は肩を大きく振るわせる。僕はこの人混みに負けて、まだクラス分けをはっきりと見ることができていなかったからその事実に驚いた。すると早瀬くんは眉間に皺を寄せて、「なんだよ、文句あるのかよ」と拗ねたように言う。

 僕は慌てて「滅相もないです! むしろありがとうございます!」と場所も考えずに叫んでいた。早瀬くんのムスッとした表情もカッコよくて僕は心の中のカメラで何枚も写真を撮る。

 周囲の人が何事かと僕たちを見ていたが、僕のことを知っている同級生たちは「また、お前か」と言うような視線を投げてよこした。我に返った僕が愛想笑いを浮かべながら周囲の人たちに頭を下げていると、早瀬くんが僕の顔を掴みぐいっと顔を彼の方に向けさせた。

 綺麗な早瀬くんの瞳の中に、驚いた顔をした僕がいる。あまりの間抜けた表情に恥ずかしさも込み上げてきた。

「……間抜けづら」

 僕が心で思っていたことを早瀬くんにも言われる。早瀬くんは機嫌が良くなったのか微笑を浮かべて僕にデコピンをする。僕が思わず額を抑えてなにが起きたのかを理解しようとしていると、早瀬くんは他の生徒に混じるように校舎に向かっていった。

 僕は早瀬くんの言うように締まりのない顔で去っていく彼の後ろ姿を呆然と見つめる。

「……は、反則だよぉ」と呟いた声は生徒の喧騒の中に消えていった。



 *



 僕こと水瀬凛月が早瀬薫を認知したのは高校入学した日のことだった。

 同じクラスになって、気だるげに自己紹介した彼はその美貌からクラスの視線を釘付けにした。女子は頬を赤くし、男子は自分との容姿の格差に嘆く息を漏らす。そんなかで僕は純粋にかっこいい人だなぁと考えながら見ていた。その時の僕は、別に彼のことを好きでもなんでもなかった。一クラスメイト、ただそれだけだった。

 早瀬くんの印象が変わったのは、ふとした出来事の積み重ねの結果だ。

 例えば、背の低い女子生徒が黒板を消すときに手伝う様子だったり、みんながサボりがちな掃除を丁寧におこなっている様子だったり。たまたま盗み見たノートは細やかな綺麗な字でお手本のように上手にまとめられていた。

 無愛想で、優しくない様に見える彼が見せる意外な一面が、少しずつ僕の心に蓄積されていった。

 滅多に笑うことはないが、友達とふざけている時に一瞬浮かべた柔らかい笑顔。耳に馴染むような低くて魅力的な声。運動も勉強もできるのに、決して努力を怠らないところ。

 気がつけば、僕はいつも早瀬くんの姿を目で追っていた。

 一軍の生徒に混じる彼と、平々凡々な僕とでは友達にすらなれなかったけど、それでもいいと思った。見ているだけで幸せになれることがあるんだと、その時初めて知ったことだ。


 じゃあ、そんな憧れがいつ恋心に変わったのかって?


 そんなのは簡単だ。


 恋は落ちるもの――そう先人は言った。


 まさにその通りで、僕は早瀬くんが校舎裏で猫と戯れている姿を目撃して、恋に落ちたのだ。

 彼の表情は変わらない。猫を見て癒されているのかどうかも遠目からでは判別つかなかった。

 だけど、小さなテノールの声でつぶやかれた控えめな「にゃぁ」と言う言葉に、僕は完全に恋に落ちた。

 どれくらいの破壊力だったのかというと、おそらく僕の常識全てがひっくり返りかえるくらいだ。それくらいの威力が、その一言に詰まっていた。

 まさか、自分が男に恋をするなんて思ってもみなかった。いや、普通に考えてそんな可能性考える人なんていないだろう。もしもいるのなら、ぜひ手をあげて僕に教えてほしい。ちょっと、一緒に語り合いたいから。

 早瀬くんの猫との逢瀬を見た僕は当然のようにその場を逃げ出した。あの尊い空間を壊してはいけないと本能的に思ったのだ。

 それからは一瞬だった。

 早瀬くんのやることなすこと、全部が輝いて見えたのだから、恋とは恐ろしいものだ。それでも、半年を過ぎることまでは、あくまで好きな人兼憧れな人という立ち位置で、どうにかなりたいとは思っていなかった。

 だけど、僕は運悪く彼が男子生徒から告白されている場面も見てしまったのだ。

 女子生徒からはよく告白を受けていると風の噂で知っていたが、まさか男子生徒にも告白されているとは思っていなかった。僕と同じような気持ちを持つ人はいたかもしれないが、この学校にそれを本人に伝える勇気がある人はいないと思っていた。

「悪いけど、その気持ちには応えられない」

 まるで用意していたかのような早瀬くんの言葉に相手の生徒は泣きながら去っていった。僕はその生徒の背中を見ながら、どうにか見つからないように帰ったのを覚えている。


 僕が受けた衝撃は大きかった。

 だって、早瀬くんは可愛い女の子と付き合って、華々しく青春を謳歌するのだと思っていたから。

 今回の男子生徒は振られてしまったが、もしも早瀬くんの琴線に触れることがあれば、可能性はゼロではないということだ。


 女の子ならまだ諦めがつく。だけど、同じ男なら――?


 僕は自分の考えに戦慄した。心の底から「嫌だ!」と叫ぶ自分がいるのを自覚する。


 嫌だ。

 男でもいいなら、僕でもいいじゃないか。


 これまでは男同士が付き合う可能性を考えていなかったから、平然としていられた。女の子と付き合うのなら仕方がないって。だけど、その可能性が現実になってしまった時、僕はなにもしないで諦めることができるのだろうか?


 素直な心は「無理だ」と悲鳴をあげる。


 そう、無理なのだ。


 自分が早瀬くんに釣り合っているかどうかは置いておいて、できる努力をしないで誰かに彼の隣を取られるのはどうしようもなく無理だと思った。

 家の洗面台にある鏡で見る自分は随分と情けない顔をしていた。


 やるしかない――今やらなければ、僕はこの先一生後悔する。


 その決意を心に秘めた日から、僕は早瀬くんに対する好意を隠すのをやめた。

 結ばれたいなんて、そんな贅沢は言わない。

 だから、彼の一生にほんの少しの爪痕だけでも残させてください。



 *



 新学期、新しいクラス。変わった人もいれば、同じ人もいる。

 朝の早瀬くんとのやりとりの後、なんとか気持ちを持ち直した僕は、自分に割り当てられた教室に向かった。

 教室に入ると、反対側の窓側の席に座った早瀬くんの周りにはいつものメンバーが集まっている。一軍生徒、クラスカースト上位の美男美女がそこにはいいた。

 僕は遠目からその集団を羨ましく思いながら見つめつつ、座席表を見て自分の席を確認する。

 座席は名簿順の時もあれば、男女別の時もある。そして、今回のように完全ランダム、担任の気分に任される時もあった。

 僕の席は早瀬くんとは反対側、廊下側の列の真ん中だった。

 トンっと席に荷物を置くと、後ろから思いっきり肩を組まれる。誰だ、と思いながら顔を横に向けると、親友の立花聡が嬉しそうに笑っていた。

「今年もよろしくな!」と、元気よく僕に挨拶をする。

 立花聡とは高校に入ってから出会った。快活で、豪快。大雑把な性格をしており、よく宿題を忘れる。楽しいことには全力で取り組み、勉強はそっとノートを閉じるタイプだった。聡は軽音部に所属しており、根っからのいいやつだと言えた。ある意味で一軍に所属していそうな彼だったが、聡はなぜか僕の隣を選んだ。


 彼曰く、面白いやつ、らしいのだが、僕が聡の前で面白いことをしたことはなかった。――多分、ないはずだ。


「そんで? 凛月は結局あのお方の近くの席にはなれなかった、と」
「う、うるさいな! しょうがないだろ!」
「せっかく同じ理系を選択したのになー。運が無さすぎて可哀想だわ」
「同じクラスになれただけ運ありまくりだろ!」

 僕のことを慰めるように頭を撫でてくるその手を振り払う。ニヤニヤ笑って楽しんでいる様子から煽られている様な気がしてならない。

「凛月はあんなにあのお方と同じクラスになれるか気を揉んでたっていうのに、あっちはあっちで楽しそうにしてんな」
「いいんだよ……また一年頑張ればいいんだから」
「そういう健気で一途なところも俺は好きだぜ〜」

「いらない。聡からの愛なんて軽薄そうで信用ならない」
 シッシッと飛んできた愛を振り払うと聡は「ひっでぇやつだな」とケラケラと笑い出す。心地いいテンポで会話が弾むこの感覚が僕も嫌いではなかった。だけど、それを彼に伝えてしまうと、きっと調子に乗ってしばらく揶揄われることは目に見えていたからあえてなにも言わない。きっと言わなくても、聡には伝わっているだろうけど。

 二人でふざけ合っていると、「ねぇ」と聞き馴染みのある声がした。僕はその声の人物が誰か一瞬で悟り小さな悲鳴をあげる。

 振り返るとそこには好きでたまらない早瀬くんが立っていた。

 まさか、向こうから話しかけてくれるなんて思ってもなくて、僕の頭は真っ白になる。それでも頭の片隅では、返事をしなくてはと思い口を開いたが出てくるのは「あ」とか「うぇ」とかだけで完全に変な人になっていた。

 見かねた聡が「どうしたんだよ、早瀬」とかわりに答えてくれた。

「ん? あぁ、うん。別にたいした用事はないんだけど、なんとなく?」

 少しだけ首を横に傾けた早瀬くんの仕草が可愛くて、僕の心の中は拍手喝采状態だ。隣で聡が「なんだそれ」と呆れたように呟くのを聞いて僕は脇腹に肘で殴りつけた。聡なんかが早瀬くんにそんな態度とっていいわけないだろ、という意味を込めて。

 突然の僕の攻撃に悶絶する聡を放置して、僕はようやく脳の機能を取り戻した。

「ど、どうしたの、早瀬くん! あ! もしかして僕たちうるさかった?」

「いや、そんなことはない。うるささで言えばあいつらの方がうるさいから」

 早瀬くんが少しだけ振り返って見た方向には、こちらを見てにこやかに笑う一軍男女がいた。そんな彼に「そう? えへへ」と返す僕は誰がどう見ても変人だ。自分のコミュニケーション能力の低さが悔やまれる。

「あ! そうだ、早瀬くん!」
「なに?」
「も、もしもよかったら、今日……」

 一緒に帰ろう――勇気を出して伝えたかった言葉は担任が「ほらー、お前ら席につけー」という声にかき消されてしまった。

 僕と早瀬くんは一瞬先生の方を見た後、すぐにまた顔を合わせる。

「なんだった?」

 生徒たちが自分の席に戻っていく中で、早瀬くんはいつもと変わらない様子で僕の言葉を聞き返してくれた。そういうところも僕は好きだなぁと思った。

「ううん! なんでもないよ!」と誤魔化すように笑うと、彼は疑うように目をじっと見つめてきた。

 綺麗な顔に見つめられて僕はドキドキしながら、そっと視線を逸らした。たったそれだけで早瀬くんは僕がはぐらかしたことに気がついたのか、「じゃあ、後でまた聞きにくる」と言って窓際の自分の席に戻って行った。

 僕はまた頭の中を真っ白にして、その言葉の意味を考えた。


 あとで――あとで!?


 また、あとで早瀬くんと話す機会があるのだとわかり激しく動揺する。そんな固まった僕にようやく復活した聡が可哀想なものを見る目で見て、ため息を吐いていのには全く気が付かなかった。