”未読無視”。
メッセージの未読無視なんか、それほど大したことじゃない。河瀬にあんな男が近づくことに比べたら。
アイツは1年生の図書委員で、今日はたまたま貸し出し当番が被った。
河瀬が、いつもの席にいる。何か熱心に読んでる。
読書してる時、眉が寄る癖、直ってない。ああ見えて、アイツ、国語は得意なんだ。古文担当係の俺は知ってる。
あの雨の日、模擬恋愛を始めた日。
あの日以前も、河瀬のことは視界に入っていた。
もちろん、そういう意味で”好き”だったわけじゃなくて、でも図書室によく来るクラスメイトの存在は、目の奥に残っていた。
なんとなく無意識に見ていた。本を読む時の癖や、借りていく本がいちいち繊細な内容の小説ばかりだということも。
知らない他人、とは思えない位置に河瀬はいた。
なのに、今はこんなに離れてる。
貸し出しカウンターから、河瀬のお気に入りの席までの物理的距離は変わらない。だけど今は間に邪魔なヤツがいる。
1年生の御子柴。同じ図書委員だ。
河瀬は今日、御子柴の貸し出し当番が終わるまで、あの席で待っているつもりらしい。
俺も当番だって知ってるくせに。
ふたりは毎日、手を繋いで登下校をしてる。はっきりこの目で見た。
「嘘だろう?」と思ったのは、まだ少しでも河瀬の気持ちが、自分に残ってると驕っていた自分だった。
自然と手のひらに目が行く。
俺の手のひらは空席で、そこに河瀬の一回り小さな、包んであげられる手のひらはない。
俺が自分の気持ちを出し惜しみしてる間に、アイツに全部持って行かれてしまった。アイツ、御子柴に!
「真嶋さん、手、止まってますよ」
書架の整理をしていた俺の隣を通る時、アイツは涼しい顔でそう言った。
そして俺が見ていた河瀬に、屈託なく笑いかけて何かを話している。
手の中に持った本の重さを忘れる。
ああ、そうだ。河瀬はちょっと意地悪なことを言うと、すぐにあの不機嫌そうな顔をする。かわいくて、頬をつつきたくなる。
でも本人は背が低いことを気にしてるので、「かわいい」なんて口にしたらいけない。
細心の注意が必要だ。
ふくれっ面、目を逸らす、またこっちを見て、そして笑う――。すべてが俺の時と同じで、ヒリヒリする。
イチャつきたいなら、御子柴と今すぐ帰ったらいい。
そんな小さなことを考える男に、俺は成り下がってしまった。
神楽坂先輩が本を返却しに来た。カウンターに急ぐ。御子柴はまだ河瀬を弄ってる。
「真嶋、お疲れ様。いつも真面目だな。今日の他の当番は?」
気まずくて何も言えない。先輩だって、俺が河瀬と付き合ってたことを知ってるはずだ。
先輩は御子柴のところにゆっくり向かった。
「御子柴くん。1年生だからって何もわからないわけじゃないだろう? ちゃんと滞りなく業務を進めないと」
ハッとした顔で、河瀬が口を開く。神楽坂先輩が好きだった河瀬が。
「先輩、俺が悪いんです。仕事の邪魔をして、すみませんでした。俺、もう帰りますから」
河瀬は本とカバンを持つと、立ち上がった。
御子柴も、3年生には口答えできないらしく、ただ謝っていた。
御子柴は河瀬に何か言うと、河瀬は「いいよ」と小さく笑った。
立ち上がって、そのまま返却カウンターに本を差し出す。緊張する。あの日から河瀬とは殆ど喋ってない。
「漱石もなかなか面白かったよ」
河瀬の読んでたのは、夏目漱石の『こころ』だった。国語の時間、部分的にやったヤツだ。
「三角関係なんてさ、現代っぽいよね。貸し出し業務、邪魔してごめん」
それだけ言うと、河瀬は図書室を出て行ってしまった。
追いかけたい。
衝動が、身体を突き動かそうとする。カウンターの上に、思わず『こころ』を下ろした。
御子柴も神楽坂先輩も、俺のことを見たと思う。
図書委員の仕事をサボったことなんて、一度もなかった。好きだった神楽坂先輩に良く思われたかったから。
でも今、俺は図書室を出て、廊下を走って、河瀬を追いかけている。
最悪だ。
こんな自分になってしまったことを、うれしく思うなんて。
「河瀬!」
振り向きざまに後ろから抱きしめる。背の低い河瀬を包み込むように、転ばせないように、細心の注意を払って。
驚いた顔をした河瀬がかわいい。もうずっと、こんなに近くで顔をはっきり見たことがない。
「真嶋、お前、何してんの? こんなところで」
「だって、声かけただけなら、河瀬、逃げるだろう?」
「⋯⋯逃げたかもしれないけど、その、人目あるから離して」
とん、と軽く河瀬は俺を押した。
「話がある」
「俺の方はないよ」
「でも、俺にはあるんだよ。河瀬、俺からのメッセージ、未読無視のままだろう?」
河瀬は俯いて、何かを考えてるようだった。
そして顔を上げると「わかった」とそう言った。俺の手を引くと、どんどん進んで、気が付くと俺たちは階段奥の踊り場にいた。
「話って何?」
話って⋯⋯そうだ、話さなくちゃいけないことがある。一方的に終わったらいけないことだ。
「『別れよう』って、どういうこと?」
「そのまんまの意味」
「リハビリはもう必要ないって、御子柴が現れたから? 『他の人を好きになったら別れる』って約束だったから?」
「違う! ⋯⋯違うけど、真嶋にはわかんないよ、俺の気持ち」
「言われないとわかんないだろ?」
思ったより大きな声が出て、自分が一番驚く。
声が、小さい踊り場に反響して、その後いつも通り、グラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくる。
「⋯⋯あ、そんなに大きな声、出すつもりじゃなくて。ごめん。河瀬、びっくりしたよな?」
ホラー映画を観に行った時の河瀬を思い出す。ほんのちょっとの効果音の、ひとつひとつに、本気で驚いているのが、左側から伝わってきた。
大きな音が苦手なんだろう、悪いことをした。
目を上げて河瀬を見ると、びっくりを通り越した顔をして、壁に背中がへばりついていた。
ドン、と小さな音がして、河瀬の背中は完全に壁に密着した。
「ごめん。どうしたら、許してくれる?」
「あ⋯⋯」
河瀬の顔には”怖い”という感情が貼り付いていた。触ったら、消えてしまいそうなほど、萎縮していた。
もうどうしたらいいのかわからなくなって、「なぁ、とりあえず御子柴と別れてくれよ」と情けない声が出る。
ダメだ、ダメだ。そんなことが言いたいんじゃない。
集中するんだ。自分の伝えたかったことへ。
「河瀬、好きなんだ、そばにいてくれよ」
ドン。河瀬のすぐ脇の壁を、拳で殴ってしまう。
そのせいで、河瀬の顔が余計、硬直してしまう。
「だって、真嶋は神楽坂先輩のことがまだ好きなんだろう? 俺のことは放っといてくれ。お前に本気になんかなんない。お前も模擬恋愛のことなんか忘れて」
「勝手にお終いにするなよ!」
空いていた方の手で、河瀬の顎を押さえる。
「まし⋯⋯」
唇を、塞いだ。キスなんて初めてだ。全部、手探りだ。
強ばっていた唇の力がゆっくり抜けるのを感じる。
やわらかい唇の感触。他の、どんな物とも違う。
どん、と河瀬が俺を押す。唇が離れる。
「別れなよ」
「そんなこと言われる筋合いはない」
「あるだろう? 俺はお前の”彼氏”なんだ」
「おかしいよ。『本気のヤツとしかキスしない』主義じゃなかったのかよ」
河瀬の顔は涙でぐしょぐしょで、それが俺にはすごくかわいく見えた。
ポケットからタオルハンカチを出して、涙を拭いてやる。
「気付いたんだ。お前が一番大切なんだ。先輩のことなんて、もうどうでもいいんだよ。不安にさせてごめん」
「⋯⋯真嶋、ほんとのこと言ってる? それ信じてもいい?」
「ごめん、不器用で」
不器用なりに、キスを重ねる。
二度、三度。
ため息がこぼれる。
河瀬の唇はまだ少し強ばっていた。そんな河瀬をかわいく思う、俺はもう河瀬の虜だ。
河瀬はずずっと、背中を滑らせて、床に座り込んだ。
◇
「真嶋先輩、どういうことですか? 河瀬さんから『もう付き合えない』って」
御子柴は噛み付きそうな勢いで、そう捲し立てた。
俺は腹に決めていた。
スッと息を吸って、勢いでしゃがみ込む。土下座する。プライドなんかクソ喰らえだ。
「ごめん! 河瀬とは別れてくれ! 勝手なのはわかってる」
「真嶋、そこまでしなくても」
河瀬がおろおろしてるのを、頭上に感じる。
「⋯⋯いいんです、真嶋先輩、立ってください。わかってたんですよ、俺。いつか先輩が、河瀬さんのこと迎えに来るって」
ぼそぼそっと御子柴はそう言った。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
俺なんかまだまだだ。河瀬をできるだけ大切にしなくちゃいけない。
「御子柴、ごめんな。ちょっとの間だったけど、俺はお前の明るいとこに、すげぇ救われたから」
「河瀬さん、真嶋先輩がイヤになったらいつでも戻ってきてください。俺、河瀬さんのこと、ずっと見守ってますから」
「ありがとう」
最後の感動的な別れのシーンまで、なんだか妬けてしまって、真っ直ぐに見ていられない。どうせ俺はへそ曲がりで、嫌なヤツなんだろう。
「土下座より、俺、あれがやりたかったな。『一発殴られてください!』ってヤツ」
「ははは⋯⋯」
土下座しておいて、良かったかもしれない。
河瀬が、俺の手を引いて「よっこらしょ」と立ち上がらせる。
「バカだな、真嶋。俺のためにここまでしなくても」
「お前の彼氏なんだから、これくらいするだろう?」
「マジで言ってんの? 言ってることわかってる?」
河瀬は顔を赤くした。夕日の照り返しだったのかもしれない。俺は真嶋の頬に手を添えた。
ただ、触れたかった。
「もう一回キスする? 俺たちの模擬恋愛、終わったんだよな、あの時のメッセージで。『ありがとう』ってヤツ、結構キツかった。ウサギなんかもう送ってくるなよ」
「俺の方が⋯⋯。だってお前に本気になりそうで、怖くて」
つぅっと、ひとすじの涙が添えた手を濡らしていく。そのまま、反対の手で背中をそっと、俺の方に押してやる。
ことん。小さな頭が肩に当たる。
「だから、始めからやり直そう。間違ってたんだよ、きっと。模擬恋愛なんかいらない。河瀬、俺と付き合ってくれ。もう河瀬のことしか考えられないんだ――」
河瀬は腕の中でゆっくり頷いた。間違いではないと思える早さで。
「いいよ、付き合ってやる。よそ見は許さない」
「それはお互い様だろう?」
カバンの中からごそごそと、河瀬は何かの紙を取り出した。それから、そのいつか見た進路調査票をビリビリに破くと、窓の外に向かって花びらのようにそれを撒いた。
下を歩いてた女の子たちが、一斉に上を向く。
「何やってんだよ」
背中から河瀬が落ちないように、そっと抱きしめた。
「お前、進路調査票出さなくて怒られなかったの?」
「親に電話が」
「で?」
河瀬は窓の外を見下ろしたまま、呟いた。聞こえるか、聞こえないかギリギリの声で。
でもきっとこれが本音なんだろうから、と耳を澄ませて落とされる声を拾う。
「俺、バカだから、真嶋と同じ大学は無理だと思うよ。それは諦めてよ。でも、がんばってみるよ、やれるとこまでバカなりに。だからその、一緒に」
「一緒にがんばろうな」
窓の下では、紙切れが風に吹かれてどこかへ飛んでいった。
ギュッと抱きしめる手に、一瞬だけ力を込める。
腕の中の河瀬の体温が、0.2度、上がった気がした。
(了)
メッセージの未読無視なんか、それほど大したことじゃない。河瀬にあんな男が近づくことに比べたら。
アイツは1年生の図書委員で、今日はたまたま貸し出し当番が被った。
河瀬が、いつもの席にいる。何か熱心に読んでる。
読書してる時、眉が寄る癖、直ってない。ああ見えて、アイツ、国語は得意なんだ。古文担当係の俺は知ってる。
あの雨の日、模擬恋愛を始めた日。
あの日以前も、河瀬のことは視界に入っていた。
もちろん、そういう意味で”好き”だったわけじゃなくて、でも図書室によく来るクラスメイトの存在は、目の奥に残っていた。
なんとなく無意識に見ていた。本を読む時の癖や、借りていく本がいちいち繊細な内容の小説ばかりだということも。
知らない他人、とは思えない位置に河瀬はいた。
なのに、今はこんなに離れてる。
貸し出しカウンターから、河瀬のお気に入りの席までの物理的距離は変わらない。だけど今は間に邪魔なヤツがいる。
1年生の御子柴。同じ図書委員だ。
河瀬は今日、御子柴の貸し出し当番が終わるまで、あの席で待っているつもりらしい。
俺も当番だって知ってるくせに。
ふたりは毎日、手を繋いで登下校をしてる。はっきりこの目で見た。
「嘘だろう?」と思ったのは、まだ少しでも河瀬の気持ちが、自分に残ってると驕っていた自分だった。
自然と手のひらに目が行く。
俺の手のひらは空席で、そこに河瀬の一回り小さな、包んであげられる手のひらはない。
俺が自分の気持ちを出し惜しみしてる間に、アイツに全部持って行かれてしまった。アイツ、御子柴に!
「真嶋さん、手、止まってますよ」
書架の整理をしていた俺の隣を通る時、アイツは涼しい顔でそう言った。
そして俺が見ていた河瀬に、屈託なく笑いかけて何かを話している。
手の中に持った本の重さを忘れる。
ああ、そうだ。河瀬はちょっと意地悪なことを言うと、すぐにあの不機嫌そうな顔をする。かわいくて、頬をつつきたくなる。
でも本人は背が低いことを気にしてるので、「かわいい」なんて口にしたらいけない。
細心の注意が必要だ。
ふくれっ面、目を逸らす、またこっちを見て、そして笑う――。すべてが俺の時と同じで、ヒリヒリする。
イチャつきたいなら、御子柴と今すぐ帰ったらいい。
そんな小さなことを考える男に、俺は成り下がってしまった。
神楽坂先輩が本を返却しに来た。カウンターに急ぐ。御子柴はまだ河瀬を弄ってる。
「真嶋、お疲れ様。いつも真面目だな。今日の他の当番は?」
気まずくて何も言えない。先輩だって、俺が河瀬と付き合ってたことを知ってるはずだ。
先輩は御子柴のところにゆっくり向かった。
「御子柴くん。1年生だからって何もわからないわけじゃないだろう? ちゃんと滞りなく業務を進めないと」
ハッとした顔で、河瀬が口を開く。神楽坂先輩が好きだった河瀬が。
「先輩、俺が悪いんです。仕事の邪魔をして、すみませんでした。俺、もう帰りますから」
河瀬は本とカバンを持つと、立ち上がった。
御子柴も、3年生には口答えできないらしく、ただ謝っていた。
御子柴は河瀬に何か言うと、河瀬は「いいよ」と小さく笑った。
立ち上がって、そのまま返却カウンターに本を差し出す。緊張する。あの日から河瀬とは殆ど喋ってない。
「漱石もなかなか面白かったよ」
河瀬の読んでたのは、夏目漱石の『こころ』だった。国語の時間、部分的にやったヤツだ。
「三角関係なんてさ、現代っぽいよね。貸し出し業務、邪魔してごめん」
それだけ言うと、河瀬は図書室を出て行ってしまった。
追いかけたい。
衝動が、身体を突き動かそうとする。カウンターの上に、思わず『こころ』を下ろした。
御子柴も神楽坂先輩も、俺のことを見たと思う。
図書委員の仕事をサボったことなんて、一度もなかった。好きだった神楽坂先輩に良く思われたかったから。
でも今、俺は図書室を出て、廊下を走って、河瀬を追いかけている。
最悪だ。
こんな自分になってしまったことを、うれしく思うなんて。
「河瀬!」
振り向きざまに後ろから抱きしめる。背の低い河瀬を包み込むように、転ばせないように、細心の注意を払って。
驚いた顔をした河瀬がかわいい。もうずっと、こんなに近くで顔をはっきり見たことがない。
「真嶋、お前、何してんの? こんなところで」
「だって、声かけただけなら、河瀬、逃げるだろう?」
「⋯⋯逃げたかもしれないけど、その、人目あるから離して」
とん、と軽く河瀬は俺を押した。
「話がある」
「俺の方はないよ」
「でも、俺にはあるんだよ。河瀬、俺からのメッセージ、未読無視のままだろう?」
河瀬は俯いて、何かを考えてるようだった。
そして顔を上げると「わかった」とそう言った。俺の手を引くと、どんどん進んで、気が付くと俺たちは階段奥の踊り場にいた。
「話って何?」
話って⋯⋯そうだ、話さなくちゃいけないことがある。一方的に終わったらいけないことだ。
「『別れよう』って、どういうこと?」
「そのまんまの意味」
「リハビリはもう必要ないって、御子柴が現れたから? 『他の人を好きになったら別れる』って約束だったから?」
「違う! ⋯⋯違うけど、真嶋にはわかんないよ、俺の気持ち」
「言われないとわかんないだろ?」
思ったより大きな声が出て、自分が一番驚く。
声が、小さい踊り場に反響して、その後いつも通り、グラウンドから運動部の掛け声が聞こえてくる。
「⋯⋯あ、そんなに大きな声、出すつもりじゃなくて。ごめん。河瀬、びっくりしたよな?」
ホラー映画を観に行った時の河瀬を思い出す。ほんのちょっとの効果音の、ひとつひとつに、本気で驚いているのが、左側から伝わってきた。
大きな音が苦手なんだろう、悪いことをした。
目を上げて河瀬を見ると、びっくりを通り越した顔をして、壁に背中がへばりついていた。
ドン、と小さな音がして、河瀬の背中は完全に壁に密着した。
「ごめん。どうしたら、許してくれる?」
「あ⋯⋯」
河瀬の顔には”怖い”という感情が貼り付いていた。触ったら、消えてしまいそうなほど、萎縮していた。
もうどうしたらいいのかわからなくなって、「なぁ、とりあえず御子柴と別れてくれよ」と情けない声が出る。
ダメだ、ダメだ。そんなことが言いたいんじゃない。
集中するんだ。自分の伝えたかったことへ。
「河瀬、好きなんだ、そばにいてくれよ」
ドン。河瀬のすぐ脇の壁を、拳で殴ってしまう。
そのせいで、河瀬の顔が余計、硬直してしまう。
「だって、真嶋は神楽坂先輩のことがまだ好きなんだろう? 俺のことは放っといてくれ。お前に本気になんかなんない。お前も模擬恋愛のことなんか忘れて」
「勝手にお終いにするなよ!」
空いていた方の手で、河瀬の顎を押さえる。
「まし⋯⋯」
唇を、塞いだ。キスなんて初めてだ。全部、手探りだ。
強ばっていた唇の力がゆっくり抜けるのを感じる。
やわらかい唇の感触。他の、どんな物とも違う。
どん、と河瀬が俺を押す。唇が離れる。
「別れなよ」
「そんなこと言われる筋合いはない」
「あるだろう? 俺はお前の”彼氏”なんだ」
「おかしいよ。『本気のヤツとしかキスしない』主義じゃなかったのかよ」
河瀬の顔は涙でぐしょぐしょで、それが俺にはすごくかわいく見えた。
ポケットからタオルハンカチを出して、涙を拭いてやる。
「気付いたんだ。お前が一番大切なんだ。先輩のことなんて、もうどうでもいいんだよ。不安にさせてごめん」
「⋯⋯真嶋、ほんとのこと言ってる? それ信じてもいい?」
「ごめん、不器用で」
不器用なりに、キスを重ねる。
二度、三度。
ため息がこぼれる。
河瀬の唇はまだ少し強ばっていた。そんな河瀬をかわいく思う、俺はもう河瀬の虜だ。
河瀬はずずっと、背中を滑らせて、床に座り込んだ。
◇
「真嶋先輩、どういうことですか? 河瀬さんから『もう付き合えない』って」
御子柴は噛み付きそうな勢いで、そう捲し立てた。
俺は腹に決めていた。
スッと息を吸って、勢いでしゃがみ込む。土下座する。プライドなんかクソ喰らえだ。
「ごめん! 河瀬とは別れてくれ! 勝手なのはわかってる」
「真嶋、そこまでしなくても」
河瀬がおろおろしてるのを、頭上に感じる。
「⋯⋯いいんです、真嶋先輩、立ってください。わかってたんですよ、俺。いつか先輩が、河瀬さんのこと迎えに来るって」
ぼそぼそっと御子柴はそう言った。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
俺なんかまだまだだ。河瀬をできるだけ大切にしなくちゃいけない。
「御子柴、ごめんな。ちょっとの間だったけど、俺はお前の明るいとこに、すげぇ救われたから」
「河瀬さん、真嶋先輩がイヤになったらいつでも戻ってきてください。俺、河瀬さんのこと、ずっと見守ってますから」
「ありがとう」
最後の感動的な別れのシーンまで、なんだか妬けてしまって、真っ直ぐに見ていられない。どうせ俺はへそ曲がりで、嫌なヤツなんだろう。
「土下座より、俺、あれがやりたかったな。『一発殴られてください!』ってヤツ」
「ははは⋯⋯」
土下座しておいて、良かったかもしれない。
河瀬が、俺の手を引いて「よっこらしょ」と立ち上がらせる。
「バカだな、真嶋。俺のためにここまでしなくても」
「お前の彼氏なんだから、これくらいするだろう?」
「マジで言ってんの? 言ってることわかってる?」
河瀬は顔を赤くした。夕日の照り返しだったのかもしれない。俺は真嶋の頬に手を添えた。
ただ、触れたかった。
「もう一回キスする? 俺たちの模擬恋愛、終わったんだよな、あの時のメッセージで。『ありがとう』ってヤツ、結構キツかった。ウサギなんかもう送ってくるなよ」
「俺の方が⋯⋯。だってお前に本気になりそうで、怖くて」
つぅっと、ひとすじの涙が添えた手を濡らしていく。そのまま、反対の手で背中をそっと、俺の方に押してやる。
ことん。小さな頭が肩に当たる。
「だから、始めからやり直そう。間違ってたんだよ、きっと。模擬恋愛なんかいらない。河瀬、俺と付き合ってくれ。もう河瀬のことしか考えられないんだ――」
河瀬は腕の中でゆっくり頷いた。間違いではないと思える早さで。
「いいよ、付き合ってやる。よそ見は許さない」
「それはお互い様だろう?」
カバンの中からごそごそと、河瀬は何かの紙を取り出した。それから、そのいつか見た進路調査票をビリビリに破くと、窓の外に向かって花びらのようにそれを撒いた。
下を歩いてた女の子たちが、一斉に上を向く。
「何やってんだよ」
背中から河瀬が落ちないように、そっと抱きしめた。
「お前、進路調査票出さなくて怒られなかったの?」
「親に電話が」
「で?」
河瀬は窓の外を見下ろしたまま、呟いた。聞こえるか、聞こえないかギリギリの声で。
でもきっとこれが本音なんだろうから、と耳を澄ませて落とされる声を拾う。
「俺、バカだから、真嶋と同じ大学は無理だと思うよ。それは諦めてよ。でも、がんばってみるよ、やれるとこまでバカなりに。だからその、一緒に」
「一緒にがんばろうな」
窓の下では、紙切れが風に吹かれてどこかへ飛んでいった。
ギュッと抱きしめる手に、一瞬だけ力を込める。
腕の中の河瀬の体温が、0.2度、上がった気がした。
(了)



