キスしてほしい

 御子柴はファストフード店に入ると、「先輩、何頼みますか? ガッツリ行きます? 俺が買ってくるんで席に座っててください」とレジに向かった。

 忙しいヤツだ。
 無駄にエネルギーを消費してる気がする。
 アップルパイとバニラシェイクを頼んで、千円札を渡す。
「千円は多いですよ。今日は付き合ってもらったんで、俺の奢りで」と御子柴は言った。

 アイツは元気の塊だ。
 慌てた太陽が転がり込んできたと言われたら、そうかもしれない。

 後ろ暗さなんて微塵も感じさせない。
 俺はゲイだってだけで、人生の裏街道を歩んできたつもりだったのに。アイツは俺が気になるなんて、やっぱりゲイなのか?

「お待たせしました! ポテト揚げたてで、ラッキーですよ。俺、ナゲットも買ってきたんでシェアしましょう。先輩、マスタードでも大丈夫でしたか?」
「ああ、大丈夫」
「なら良かった。ここのマスタードソースって、ちょっと独特の味がするじゃないですか?」

 いただきます、と大きな手をパチンと合わせて、フライドポテトに指を伸ばす。その手の大きさを、見てる。

「御子柴って身長高いよな、何センチくらいあるの?」
 御子柴は満面の笑顔を見せた。
「な、なんだよ」
「先輩が俺に興味持ってくれたのがうれしくって! 俺、178センチ、蟹座のO型です!」

 179センチの真嶋とは、1センチ違う。
 でもたった1センチだ。殆ど同じ。

「手、大きいよな?」
「比べてみます? はい」
 俺が返事をする前に、御子柴は俺の顔の前に手のひらを広げて見せた。
 一瞬、出かけた手を、そろっと下げる。

「いいや。俺の方が小さいに決まってるし」
「河瀬さんのそういうところがかわいいんじゃないですか? あ、ごめんなさい! 気にさわりましたか?」
「⋯⋯いや、ほんとのことだから」

 御子柴は子犬のような目をして、俺を見た。
 まるで「待て」をさせられてる時のように。
 なんだか、かわいそうになってくる。
 手を、そろっと上げる。

「御子柴さぁ、俺なんかのどこがいいわけ?」
「え!? 河瀬さんなところ!」
「なんだよ、それ」

 合わせた手が、笑った時の振動で揺れる。
 これが178センチの手か、と、これとは違う手を思い出す。

「河瀬さんはもう、ひとつのカテゴリーですよ、僕の中では!」
「だから、それってなんだって言うの?」
「つまり、”世界にひとりしかいない”ってことです。河瀬さんの代わりはどこにもいない」

 ああ、なるほど。
 これは模擬恋愛とは違うということか。
 リハビリではないから、相手を簡単に変えることはできない。

「悪いけど俺、そんなんじゃないから」
 引っ込めようとした手を、御子柴は逃がさなかった。
 手の大きさに、不思議と胸が締めつけられる。

「河瀬さんに本気はなくても、俺にはあるし。こうやって河瀬さんに触れられるようになったから、欲も出るし。俺、河瀬さんのこと、やっぱり好きです」

「だってさ、御子柴くんてゲイなの?」
「言ったじゃないですか? 河瀬さんは他のみんなとは違うカテゴライズされてるって」
「でも、ノンケなのにゲイなんかに手、出すと、後悔するよ」

「河瀬さんのことなら、後悔してもいいですよ」
 御子柴はパッと手を離すと、にこっと人懐こい笑顔を見せた。

「今、河瀬さんと手を繋いで歩いてた真嶋さんに、やっと並べた気がしました」
「何を大袈裟な」
「だって、見てるだけだったから」
 そう言うと恥ずかしそうに笑う。

 俺も、真嶋といる時、こんな笑顔を見せてたのかなぁと、ふと思う。
 無いよな。
 俺は無愛想で、コイツほど人懐こくもないし。

 真嶋はこんな風に俺を見てたんだろうか? 何も考えずに、真嶋に甘えてた俺を。
 俺って、ほんと、バカみたいだ。

「河瀬さん?」
「なんでもない。バニラシェイクがキーンと来ただけ」
 御子柴はホッとした顔をした。
 俺の目に、涙が滲んだ。

 どうして簡単に手を離してしまったんだろう?
 欲しかったんなら、思いっきり手を繋いでたら良かったのに。それこそ、俺の手を捕まえた御子柴のように。

 でも欲しかったのかな?
 本当に?

 店を出る時も、トレイを片付けてくれて、御子柴は本当にかいがいしい男だった。
 次第にムズムズしてくる。言葉が、喉の奥からせり上がってくる。

「あ、あのさ」
「はい」
「本当に、俺なんかでいいの?」
「はい、代わりの人は誰もいませんから。安心してください」

 安心⋯⋯安心か。
 確かに次はそれが欲しい気がする。揺るぎようもない、安心。

「先輩、こういうのが適切かわからないけど」
 するっと自然に手を握られて、顔面に血が上るのを感じる。地面がぐらっと揺れる。

「俺、ちゃんとこういう意味で、先輩のこと好きです。先輩がすぐに真嶋先輩のことを忘れられないのはわかってるんです。だけど、お試しでいいから、俺と手を繋いでくれませんか? やっぱりダメですか?」

 ちょっと待って、と顔を上げられない。
 だって、誰かに好きになられるなんて初めてだ。こんな風に、お願いしてもないのに、大切そうに扱われるのは初めてだった。

 足元の地面が柔らかくなったような、不思議な気分になる。掴まれている右手から、御子柴の気持ちが流れ込んでくる気がする。

 心の中の未だ消化されない祈りが、伝わってしまわないようにと思うと、手汗をかいた。その手を、するりと御子柴の大きい手が包んでしまう。

「いいよ」

 どうなったっていい。
 思い切って、この流れに身を任せてしまえばいい。
 そうしたら、この胸の中の中途半端な気持ちを――追い出してくれるかもしれない。

 御子柴と一緒に見る世界は、夕暮れ時でも眩しく見えた。まるで、目が潰れそうなくらい。

 ◇

「じゃあ、ここで」
 御子柴は駅前に着いても、手を離さない。ここで、という言葉は意味をなさなかった。
 その手の温かさは、人恋しさを思い出させる。

「お前さ、これじゃ帰れないって」
「じゃあ河瀬さん、明日の朝、ここで待ち合わせてもいいですか?」
「ここ?」
「俺、電車なんで。改札出たら、真っ直ぐここに来るんで」

「ここ⋯⋯」
 真嶋との約束の場所と寸分違わぬ場所に、ちょっと迷う。
 もう、真嶋とここで待ち合わせることはないのに。

「いいよ。じゃあここで」
「遅れると待たせることになっちゃうから、連絡先、交換してください」

 ポケットからスマホを出す。
 知らぬ間に、通知。メッセージ。――真嶋からだ。

『真嶋がスタンプを送信しました』

 メッセージの内容はわからない。けど、見たくない。見たいけど、見たくない気持ちが勝る。
 ここで見てしまって、気持ちが揺らいでしまったりとか、打ちひしがれたりとかしたくない。

「河瀬さん?」
「ああ、じゃあQRコード」

 連絡先の交換は心の交換のような気もした。
 俺の心も安っぽくなったもんだ。簡単に、交換されてしまう。
 心が交換されたら、気持ちはどこに行くんだろう?

 ◇

 帰ってからスマホのトーク画面を眺める。
 真嶋は一体、何を伝えようとしたんだろう? 今更だ。全部、遅い。

 ごろんとベッドに横たわって考える。真嶋のこと。
 神楽坂先輩を、真嶋がまだ好きだということ。
 それだけで、真嶋を諦めるのには十分だった。

 好きだった。
 認めてしまえば簡単だった。
 胸の内のモヤモヤした気持ちは、たった一言でいい表せられた。

 好きだったんだ、優しくしてくれた真嶋のこと。好きになったんだ、いつの間にか。
 アイツが隣で気付かないうちに。

 でももう遅いんだよ、気が付いたって。俺は新しい道を行くって決めたんだ。
 その結果がどこに行き着くことになっても関係ない。
 どうなったっていい。この気持ちの行き場がないのなら。

 さよなら、真嶋。
 楽しかったよ、すごく。
 ありがとう。

 ◇

 一晩明けて、カーテンの隙間から覗いた空は、鈍色だった。
 約束してるんだから、待たせるわけにはいかない。
 のろのろ、支度を終える。

 母さんがしっかりご飯を食べないから、といつも通り小言をいって、トーストを半分齧って「いってきます」と家を出る。

 駅までは15分ほど歩けば着いてしまう。困ったな、と思う。どうしてそんな風に思うのかはわからない。足取りが重い。気が重いからだ。

「おはようございます、河瀬さん!」
 朝から血圧の高そうな顔をした男が、そこには立っていた。少し前までそこは真嶋の席で、代わりのヤツはいなかった。
「おはよう」と小さく言う。

「なんだ、朝は弱いんですね」
「朝弱いのなんて、普通じゃない?」
 御子柴は手のひらを、そろっと俺の前に出して見せた。
「いいよ、別に」
 御子柴はその大きな手で、俺の手をがっちり握りしめた。

「うれしいです、憧れてたんで。河瀬さんと手を繋いで登校するの」
「は? 男同士なんて、色気も何もないじゃん」
「ありますって。俺、真嶋先輩と河瀬さんが手を繋いで登校してるのを見た時、心が痛くなりました。もう、その繋いでる手しか見えなかったくらい」

 昨日の通知を思い出す。
 でもそんなものに振り回さればかりいられない。
 新しい自分になるって、決めたから。

 道行く生徒たちが、この前とは別の意味で、俺らのことをジロジロ遠慮なく見ていく。
 そりゃそうだ、こんな短期間で相手が変わるなんて、俺だって思ってもみなかったんだ。逆の立場なら、俺だって振り返る。

「河瀬?」
 呼ばれて振り返る。御子柴も止まる。
 そこには佐野と恵ちゃんがいた。

「お前、何やってんの?」
「いやー、そういうこと」
「そういうことってさぁ。傷心なのはわかるけど」

 佐野はどうやら、俺が真嶋にフラれたんだと思ってたらしい。恵ちゃんが、隣でキョトンとしてる。
 ふたりの手は、指を絡めた恋人繋ぎだった。

「おはようございます。河瀬さんのお友達ですね? 俺、1年の御子柴って言います。これからきっと、河瀬さんの教室に顔を出すこともあると思うんで、その時はよろしくお願いします!」
「はぁ⋯⋯俺、佐野。河瀬に良くしてやって」
「はい! もちろん」

 御子柴は上履きをはくと、俺の教室まで送ると言い出した。俺はそれを”丁重に”お断りして、じゃあ、と3階に着いたところで手を振った。
 1年はもうひとつ上の階で、正直ホッとした。その顔を見られてないといいけど。

「河瀬、アレ、なんなんだよ。マジであんなのと付き合うの? どうしちゃったの、お前」
「⋯⋯告られた」
「告られたってことはさ、まだ好きじゃないってことだろう?」
「まぁ、そういうことになるんだろうな」

 佐野は口を閉ざした。
 代わりに竹岡が珍しく口を挟んだ。
「好きじゃないのに付き合うんだ?」

 その言葉は、俺の心の深いところを揺らした。
 だってそうだ。
 真嶋の時も、御子柴も、好きじゃないところからのスタートだ。

「そのうち、好きになれるかもしれねーじゃん」
「好みってものはないのかよ?」
「そんなこと言ってたら、ゲイに彼氏はなかなか見つかんねーよ」

 カバンをドサッと机の上に放り出す。
 今日は古文のノートの提出日だ。昨日、竹岡に借りたノートと一緒に、教科担当の生徒の元へ向かう。

「竹岡⋯⋯」と振り返った時には竹岡はもう、佐野とのお喋りに夢中で、ノートを借りた手前、竹岡のノートも俺が出すしかない。
 同じクラスならこういうこともある。覚悟を決めて、ノートを持つ手に力を込める。

「真嶋、古文のノート」
 真嶋がハッとした顔をして、俺の目を見つめる。見つめ合うなんてシチュエーションは今までもなかった気がして、頬が熱くなる。こんな時なのに。

「未読無視」
 真嶋の目力が強くなる。ちょっと、怖い。
「メッセージくらい見たっていいじゃないか」

 そう言うと反論の余地も与えず、俺の持っていたノートを取って、真嶋は別の生徒のノートを集めに行ってしまった。
 思えば、あの雨の日も、未提出だった俺の古文のノートを真嶋が集めに来たんだったっけ。

 叱られた気分になって、下を向く。
 てっぺんから地下にまで落とされたような気持ちになる。
 ズシンと胸の奥に、大きな石が落ちてきたような、そんなショック。

 予鈴が聴こえて、ぺたぺたと席に戻る。忘れよう、それがいい。
 いつまでも別れた男のことを引きずったって、いいことなんかないに決まってる。

 新しい彼氏もできたし、おまけにアイツは俺にベタ惚れだ。
 ”河瀬”という箱にカテゴライズされた自分を想像する。俺はどんな顔をして、御子柴のその箱に入ってるんだろう?