キスしてほしい

 ”別れよう”だなんて、ずいぶんな言い草だ。自分から、模擬恋愛を切り出したのに。
 でもきっと、真嶋はなんとも思わない。
 昨日だって「なんで?」って言ったきり、真嶋からの連絡はない。

 真嶋にとって俺は、それ以上でもそれ以下でもなくて、本当なら教室で話しかけることだって、殆どなくて。

 本気じゃなくても当たり前だ。
 ”釣り合わない”。これ以上、適切な言葉はない。

 背が高くて成績も優秀な真嶋。
 背が低くて成績も辛うじて中間の俺。
 凸凹コンビ。

 あの日、文句を言った英語教師が、テキスト片手に何かを喋っている。
 俺たちなんて冗談みたいな関係なのに、ムキになっちゃって、真嶋、ほんと面白い。

 おかしいと思うのに、笑えない。
 一生懸命、ノートを取っている自分がいる。
 同じ大学なんて、目指せるわけがない。
 真嶋の頭はどうかしてる。

 どうかしてる、と思いつつ、別れた彼氏を思い出しながら、シャープペンシルを動かす。シャーペンの芯の先が、乾いた音を立てて、折れた。

 ◇

「本当に別れちゃったんだな、お前たち」
 佐野が、フルーツオレの紙パックを持っていた俺に、小声で話しかけてくる。
 小声ってところがいやらしい。

「だから言ったじゃん、そうやって」
「昼休みに、お前が隣にいないことに慣れちゃったよ」

 慣れるほど長い間じゃなかっただろう、と思う。
 リハビリ恋愛だって、お試し期間くらいしか付き合ってない。
 思い出の数だって、かぞえるほどしか⋯⋯。

 あの日のシュークリームの、いつもと違うとろけるような甘さとか、初めて飲むブラックコーヒーの缶の口の冷たさとか。
 自分から言い出して観に行ったホラー映画が、思ったより怖くて、手を握ってもらったとか。

 相合傘。
 あの日、俺たちが初めて一緒に帰った、失恋した日の思い出。

 神楽坂先輩のことなんて、いつまでも想っていてもどうしようもないんだ。経験則がそう言っている。
 フルーツオレのパックにストローが上手く刺さらない。角度が悪い。

「うわっ」
 角をしっかり持ってなかったフルーツオレの、四角いブリックパックから、液体が溢れ出る。

「河瀬、ぼんやりするなよ」
「してねぇよ。ちょっとストローが上手く刺さらなくて」
「あー、あるある」
「ちょっと水道、行ってくるわ」

 良かった、フルーツオレがド派手な色じゃなくて。でも、着ていた白いセーターに薄オレンジ色の液体が滲んでいる。
 ただ拭いただけじゃ、ダメそうだ。

 水道の蛇口をひねると、思ってた以上の量で、水が出てくる。今度は水飛沫を浴びる。
 散々だ。ついてないにも程がある。

「河瀬」
 後ろからパタパタと走る上履きの音がして、振り返る。真嶋だった。

「何か用?」
 教室からほんのちょっとの距離なのに、真嶋は身体を折り曲げて、膝に手をつく。背中が規則正しく上下して、バカだな、こんなことで走るなんて。

「お前、タオル持ってるのかな、と思って」
「濡らしたティッシュで良くない? ニットだよ」
 貸してみろよ、と言って、ポケットから小さいタオルハンカチを取り出す。真嶋は俺のセーターが伸びるくらい引っ張って、俺を引き寄せた。

「ちょ、ちょっと。何してんの?」
「何って、シミ抜き。慣れてんだ」
「慣れてるっておかしいだろ? 大体なんで追いかけてなんて」
「心配したからに決まってんだろ? バカ」

 バカは余計じゃないのかな、と思う。
 屈む真嶋のつむじが見える。いつもはずっと遠くにある、真嶋のつむじが、今、そこに。

「ほら、取れた」
「お節介だよ、バカ。彼氏でもないくせに」
 真嶋の顔は怒っているように見えた。歯を食いしばって、眉を寄せている。

「彼氏じゃなきゃ、心配もしたらダメなのか?」
「友達だってそこまで心配しないじゃん。何言ってんの? ただのクラスメイトなのに」

 教室の喧騒が、廊下まで響いてくる。
 その声が、俺たちの間を風のように、通り抜けていく。

「ただのクラスメイトだって、心配するんだよ、バカ!」
 押しても倒れそうにない、ゆっくりと重い足取りで、真嶋は歩いて行った。ゆっくり、どっしり。
 ――バカって、2回も言った。

 ◇

 あー、俺ってバカだなぁ。
 確かに真嶋の言う通り、バカだ。こんな風に真嶋のこと、また考えてるなんて。
 どうして真嶋のことになると、ムキになっちゃうんだろう?
 ただの、クラスメイトなのに。

「かーわせ! ほら、元気出せよ。マイク持ってさ」
「え? 俺、まだ曲、入れてないんだけど」
「優しい俺らが先に入れてやったって。な?」
 竹岡が、うんと頷く。にこにこして相変わらず掴みどころのないヤツだ。

 知らない曲ではなかった。昔の曲だった。
 流れるようにアップテンポで進む曲に、追いつくように歌う。

 アレ? 先が歌えない?
 歌詞だけが白塗りになって、どんどん流れていく。
 真嶋のことが頭の中でいっぱいになって爆発しそうになる。

「愛の意味」?
 それは、恋ではなくて?

「おい、河瀬! どうしたんだよ。調子良く歌ってたじゃん」
「あー、俺もういいや」
「良くねぇよ、今日は”河瀬を励ます会”だぜ」

 そういうのが余計堪える。
 だって心配されるようなことは、本当になかったんだ。
 勘弁してもらって、マイクを置いて座る。
 音楽がプツッと途切れる。

 お互い、本気じゃなかったし、入試の模擬テストみたいにまだ合否が出るようなものじゃなかったし。
 本命も、まだ決めてない、仮の関係だったし。

『模擬恋愛』。
 自分から始めたくせに、自分から一抜けした。だって真嶋の隣にいると、神楽坂先輩のことなんて、すぐに宇宙の彼方に飛んでった。
 自分勝手かもしれないけど、あんな風に誰かに優しくされたことはなくて、ついつけあがって。

 こういうの「好きだった」って言うのかなー。ダーッと身体中の水分が、目に集まってくる感じがする。
 こぼれ落ちないように、上を向く。瞬きはできない。流したらいけないから。みんなにバレる。

「河瀬さ、今ならまだ間に合うんじゃね? お前から別れたんだろう?」
「どうして?」
 瞼を手のひらで押さえながら答える。

「だって、今日の真嶋、おかしかったもん。お前のこと追いかけていく姿、すごくカッコよかったぜ。惚れるのも納得」

「惚れてたらフラないだろう?」
「⋯⋯もっともだ。惚れてるヤツはフラない」
「そういうことだよ。俺がゲイだからって、相手は選ぶんだよ」
 じゃあ、本気になっちゃったのは真嶋だけか、と佐野が言った。なわけないじゃん。俺なんか。

 竹岡がしっとりしたバラードをたっぷり歌い上げてる間、ドリンクバーにカルピスを取りに行く。
 コップの中にカラカラと氷が入る。ボタンを押すと、白い液体が、コップに注がれていく。

 あ、コーヒー。
 ガムシロとコーヒークリームが置かれてる。ブラックだ。
 ブラックコーヒーは二度と飲まない。嫌いだからじゃない。飲みたくないからだ。

 バラードがクライマックスを迎える頃、丁度よく部屋に戻った。竹岡が声を張り上げて、「おー!」と佐野が感嘆の声を上げる。
 俺は静かに入口近くの席に座った。

「おい河瀬」
「なんだよ?」
「真嶋って、あんなんだったっけ?」
「どんな?」
「何かのために走り出すような、さ」

 お前しつこいよ、と佐野を追いやる。
 そうだ、真嶋はそんなヤツじゃなかった。でもアイツは神楽坂先輩のためなら、きっと足がもつれて転んでも立ち上がって追いかける。
 俺だけが知っている。先輩を好きな、真嶋を。

「やっぱり帰るわ、ごめん」
「おい、今日は」
「”河瀬を励ます会”だろう? マジでごめん。今度埋め合わせする」

 世界中のラブソングに「クソ喰らえ」と言いたくなった。愛なんて、軽々しく歌ってんじゃねーよ、と。

 ◇

 古文のノートが埋まってない。
 几帳面な竹岡が、ノートを貸してくれた。
 さっきまで一緒にノートを写していた佐野は、隣のクラスの恵ちゃんが迎えに来て、帰っていった。

 佐野は恵ちゃんにベロベロだ。
 女に興味のない俺でもわかるほど、恵ちゃんは良くも悪くも女の子らしい。
 ゲイの俺を一瞥して、佐野を引きずって行った。

 図書室は、風を通すために窓が細く開けられていた。
 カーテンが揺れる。
 ふわっと、顔にかかるんじゃないかと目を上げた。

 トントントン、とテーブルを叩く音がして、そっちを見る。俺のテーブルの下から見上げるように、誰かがしゃがみ込んで俺を見ている。

「河瀬先輩ですよね?」
「⋯⋯ああ、そうだけど」
 そこには人懐こそうな愛嬌のある細面の、見たことのない男がいた。

「何の用?」
「うわー、冷たいなぁ。声かけただけなのに」
 普通、知らない男に声かけられて、愛想良く答える方が少ないだろう。それとも警戒する俺が、自意識過剰か?

「自分、1年の御子柴準って言います! 図書委員なんですけど、知ってますか?」
 知らねぇよ、と思う。
 確かに俺は図書室の常連で、神楽坂先輩の姿を目で追って、真嶋の帰りを待っていた。

 でもその時は神楽坂先輩や、真嶋を見てたわけで、コイツの顔なんて見覚えはない。
 でも”御子柴”は耳に残りやすい、変わった苗字だった。

「それで、御子柴くんは何の用?」
「あのー」
 下から目線で俺を見て、照れくさそうに言葉を発した。

「前からずっと河瀬先輩のこと、気になってて。でも真嶋先輩いたし、俺なんかダメだよなぁと思ってたんです。あの人って完璧っぽいし。だけど真嶋先輩とわ――」

「図書室出て話さない? キミ、ちょっと声デカいよ」
「話、聞いてくれるんですか?」
「わかったから、外に出よう、な?」
 はい、と元気よく答えて、御子柴は廊下に出た。

「で?」
 言っちゃってもいいんですか、と長身で細身のその男はもじもじした。

 さっきまでの図書室での静けさが嘘のように、女の子たちの歓声に消されていく。
 南の海を泳ぐ熱帯魚の群れのように、女の子たちは楽しそうに笑う。

「俺、河瀬先輩のこと、気になってます。ずっと前から。先輩も俺のこと、気にしてもらえませんか?」
「⋯⋯何も知らないのに?」

 そう、何も知らないのに。
「知らないなら知ればいいですよ、俺、知ってもらえるように、がんばります!」
「クラスも委員会も部活も違うのに、どうやって?」

 知るには時間はそれほどかからない。一緒にいる時間さえ、多ければ。
 手を握って、開く。繋いだ手の感触を思い出す。

「河瀬さんさえ良ければ、とりあえず今日、一緒に帰りません? あ、俺、貸し出し当番あるんですけど」
「いいよ、待ってる。慣れてるから」

 今日、真嶋は当番じゃなかった。
 だからこそ、こうして堂々と自習してたわけで。

 ⋯⋯真嶋が見てたら、どんな風に思うだろう? 未練たらしい。真嶋の目には、まだ、神楽坂先輩しか映ってないのに。

 換気のための窓を、御子柴が閉めて歩く。ああ、そうか。その途中で俺を見つけたわけだ。
 俺を見てるヤツがいたなんて、全然知らなかったなぁ。

 その後は時間ができたので、古文のノートもキレイに仕上がり、明日の提出に間に合いそうだった。
 まだ御子柴の業務が終わるまでに時間があったので、書架の間を本を見て歩く。

 あんまり本を読む習慣はない。
 ただ、図書室常連としては、何かしら手にしてないカッコがつかないので、何かを読む。自然に、すっと手が伸びる。

 夏目漱石なんて、名前からして堅そうで、気難しい人だったと聞いていたから、自分から手に取るなんて思ってもみなかった。
 でも国語の授業でやったのは一部分だけだと聞いていたので、興味があった。

 貸し出しカウンターに行く。
 書架の整理をしていた御子柴とは別の委員が、処理をしてくれる。
 その本を持って、元いた席に戻る。

 とても姿勢がいいとは言えない、頬杖をついた姿勢で、ずべーっと、本を読み始める。
 国語で習った”先生”が出てきて、そうそうこの人、と近所の人に会ったような気分になる。

 真嶋の不在を空気に感じる。
 この部屋の中に、真嶋はいない。
 この間、ここに座った時は、確かにそこにいたのに。

 真嶋のことばかり考えていると、ダメになりそうになる。
 背中に重しが乗っかって、身動きできなくなる。
 息が苦しい。こんなんじゃダメだ。這い上がらないと――。

「先輩、お待たせしました」
「お、おう」
 気が付くと、漱石を開いたまま、ぐっすり眠っていたようだ。何かに追いかけられてる夢を見たせいで、身体の節々が重い。

「お腹空きません? どこか寄って帰りませんか? その方がいっぱい話せるし」
「⋯⋯いいんじゃない?」
「やった。カバン、持ってきますね」

 ひとつしか歳は違わないのに、動きが素早い。
 この間まで中学生だったヤツは、やっぱり活きが違う。
 のろのろとカバンに漱石を、詰め込んだ。