キスしてほしい

「本気じゃないヤツとはキスしない」

 どうしてあんなことを言ったんだろう?
 別に、言わなきゃいけないセリフじゃなかった。
 河瀬だってきっとわかってる。いくら模擬恋愛だからって、キスなんてしないことくらい。

 手を繋ぐのとは訳が違う。
 あれは、最初は、俺たちが失恋した神楽坂先輩に対する、当てつけにもならない、当てつけだった。
 でもそれが普通になって、いつでもするりとお互いの手が繋がるようになって、気持ちが伝わる気がした。

 それだけのことだ。

 だけどキスとなると話は違う。
 俺たちの約束は『本気にならないこと』だ。キスはそれに抵触する恐れがある。
 だから、キスは回避した。あんなに至近距離に、河瀬の顔があったのに。

 あの時、目をギュッと閉じた河瀬の顔を見て、一歩引いた。拒否られてる、そう感じた。怖がらせちゃいけないって。
 本気になっちゃいけない、でもふざけすぎも良くない。

 ――だから。
 だから、俺は言い訳のように言ってしまったんだ、あの言葉を。
 自分を戒めるためにも。

 大体そんなことになったら、河瀬もかわいそうだ。
 俺が泣いたあの雨の日、河瀬のまつ毛も濡れていた。真っ赤な目をして。

 今でもはっきり覚えている。
 河瀬が「付き合おう」と言った時のことを。
 あれはつまり、傷の舐め合いの提案で、要するにリハビリだ。
 本気の恋愛じゃない、単なる次の恋への予行練習だ。

 そこのとこを履き違えちゃいけない。

 でも、踊り場から階段を下りていく河瀬の足取りは重くて、その背中はいつもより小さく見えた。
 河瀬を笑わせられるなら、少女マンガの王子様になってもいいと思ってたのに。
 一緒にホラー映画も観るし、手も握ってやるし、好きなシュークリームも。

 どこかで間違えた。
 ほら、あれだ。
 試験のマークシート、あれの塗りつぶすマスを一列間違えた時みたいに。
 正しく塗り直そうとしても、時間が足りない。
 解答はズレたまま。かけ違えたボタンみたいに。

 まるで、今の俺と河瀬みたいに。

 次の朝、いつもみたいに駅前で待ってると、メッセージが入った。
『遅刻した。先に行ってくれ』。ふたりで走ればいいと思ったけど、昨日の今日で気まずくて、ひとりで学校に向かった。

 少し遅れてきた河瀬に手を振ろうとすると、河瀬は
 ⋯⋯。こっちを見なかった。

 メッセージ、送ろうか、迷う。
 もしあの不用意な一言が原因なら、『契約』について話せば、誤解は解けるかもしれない。
 制服のポケットのスマホを握る。いい言葉が思いつかない。躊躇ってるうちに、次の授業が始まる。

 何度目かの休み時間の時、握りしめていたスマホが通知を知らせる。河瀬だった。
『昨日のことは俺が悪かった。今日は佐野たちと食べるから』
 明らかに避けられてる。俺はひとりで踊り場に向かった。

 考える。
 ポケットから何も喋らないスマホを取り出して、画面を見ては、やっぱり言葉が見つからない。
 最悪だ。
 河瀬を傷つけた。そんなつもりはなかったのに。

 図書委員の貸し出し当番の日だった。
 神楽坂先輩と一緒で、いつも浮かれてたけど、今日の心はどんよりした曇り空のようで、一向に晴れる気配はない。

 黙々と作業をする。
 本を借りに来る生徒の数は少ない。
 それでも、返却された本を書架に戻して、間違ったところに返されていた本を、正しい位置に戻す。

 先輩が後ろを通って「真嶋はいいな、背が高いから上の段にも手が届くだろう?」と話しかけられた。
 いつもだったら焦ってしまって、しどろもどろになるところだけど、今日は「それほど便利じゃありませんよ」と口から言葉がするする出た。

 窓際の席に、蔵田先輩。
 神楽坂先輩の当番が終わるのを、じっと待っている。分厚い参考書が見える。受験生は大変だ。
 神楽坂先輩も蔵田先輩も、同じ国立大を目指してるらしい。

 自分たちはどうだろう?
 この前、同じとこを目指したいと不用意に言った時、河瀬の顔が曇った。
 模擬恋愛の相手でも、例えばリハビリが終わったらいい友達になれないかな。

 不毛だ。
 今の状況を見てみろ。蔵田先輩みたいに、今日の河瀬は図書室で待ってくれなかった。

「うわっ!」
 乗っていた踏み台のバランスが崩れる。俺を押さえようとしてくれた神楽坂先輩の上に、縺れるように倒れてしまって気が動転する。

「真嶋、大丈夫だった?」
「先輩こそ、痛いところ、ありませんか!?」
「俺は⋯⋯」

 後ろから蔵田先輩が現れて、ゆっくり手を伸ばす。床に転がってしまった神楽坂先輩が、その手を掴んで、立ち上がった。
 まるでスローモーションのように鮮やかに、その光景は俺の目に焼き付いた。

 チクリ、まだ胸の奥が痛い。
 俺が先輩を引き起こせば良かった。
 あの、綺麗な指に手を伸ばして――。

 ダメだ、河瀬。
 俺にはまだリハビリが必要だ。必要なんだ。

 ◇

 帰ってから課題もせず、ベッドに横たわって待ってる。連絡が来るのを。
 いつ来てもいいように、くだらない動画を何本も見た。

 自分では何も上手く伝えられそうになかった。言葉が、繋がらない。手を繋ぐ時みたいにすっと、繋がってはくれない。

 いつもならこれくらいの時間に、たわいもないメッセージが入るのに、今日は完全無視だ。
 俺のことなんて、どうでも良くなったのかもしれない。

 或いは俺とは違って、河瀬はもう先輩のことは心の中で片がついて、リハビリは必要なくなったのかもしれない。
 俺にはまだ、河瀬が必要なのに――。

 ブルッと通知を知らせる振動が、スマホを持つ手に伝わる。
 河瀬からだ、緊張する。
 手に汗をかく。
 河瀬は今日一日のことを、なんて言い訳するつもりなんだろう?

『今日はなんかタイミング合わなくてごめん』
 画面の向こうに、河瀬の申し訳なさそうな顔が浮かぶ。お前が謝る必要なんてないのに。

『気にするなよ、そんな日もあるよ』
『真嶋が図書委員の日なら、久しぶりに遊びに行こうぜって盛り上がっちゃって』
『俺なんか今日、踏み台から滑って、神楽坂先輩の上に落ちちゃったんだ。カッコ悪いとこ見られなくて良かったよ』

 即レスだった返信が、ピタッと止まった。
 聞こえるはずのない、秒針の音がカチカチと音を立てる。
 既読は付いてるのに。

『へぇ、良かったじゃん』
『神楽坂先輩ってやっぱりいい人だよな。俺、やっぱりまだ嫌いになれなくて』
『うん、じゃあ別れようか?』
『なんで?』

 理解不能だった。
 俺にはまだリハビリが必要なはずなのに、言い出した河瀬がそんなことをどうして?

『俺にはもう、リハビリ、必要ないからさ。神楽坂先輩のことはもういいし、友達がいれば楽しいし。だから、もう終わりにしよう』

 は?
 どうしてそうなる?
 今日一日、離れただけなのに。

『ありがとう』
 ピンクのうさぎが向こう側から走ってきて、頭を下げるスタンプ。
 どういうことだよ。
 こちらこそって言えばいいのかよ。

 スマホを枕元に投げる。知るか、河瀬のことなんて。元々、好きだったのは河瀬だったわけじゃないし、この胸に空いた穴を埋めるのなんて、ひとりで⋯⋯。

 手を伸ばしてスマホを取り上げる。
 相変わらず黒い画面に、自分の顔が映る。
 じっと見る。河瀬から、メッセージの続きはない。
 こういう時は、自分から何か言えばいい。

 でもなんて?
 模擬恋愛なのに、別れたくないとかそういうの、あるのか? 気持ちはそこにないはずなのに。

 河瀬の、歯を食いしばって目をギュッと瞑った顔を思い出す。
 あと、数センチだった。
 吐息がかかりそうな距離で。
『ありがとう』だなんて。

「簡単なんだな」
 ひとり、呟いた。

 ◇

 電車を降りても、もう待つ必要はない。慌てた顔で俺を探す、背の低いパートナーはいなくなった。
 立ち止まらずひとり、学校へと急ぐ。

 教室に入ると、河瀬はもう来ていて、いつも通り友達に囲まれてる。友達の方がこっちをチラッと見て、河瀬の顔を見た。

「なんだお前たち、ほんとに別れたんだ? 昨日まで手、繋いで仲良く登校だったのに」
「別れたよ」

 足が一瞬止まる。
 あのメッセージ、本気だったんだな。本当に俺なんか必要なくなったんだな。
 何人かが、河瀬の声を聞いて、俺の方を見る。後ろから来た女子に「真嶋くん、邪魔」と言われて我に返る。

 どうかしてる。
 河瀬がいなくなったって、元の生活に戻るだけなのに。

 コンビニで甘いスイーツに目が行くこともなくなるし、映画館にならひとりでも行ける。
 待ち合わせもなくなる。俺は朝から河瀬を待つ必要がなくなったし、河瀬も図書委員の日に待つ必要がなくなる。

 そう、ダブルホイップのシュークリーム、そのカスタードは死ぬほど甘かった。
 ふたりで口直しに飲んだブラックのコーヒー。冷たい缶の感触をふと、思い出す。

『あとで話が』
 打ちかけて、やめる。それを打ったところで、河瀬の気持ちが戻ってくることはない。その小さな手の温もりも。

「真嶋、河瀬と別れたんだって?」
「まぁ」
「やっぱり男同士なんて無理なんだよ。女の子なら紹介してやるからさ。お前はすぐいい子が見つかるって」

 そうだな、と返答をする。
 女の子を前に好きになったのは、いつのことだろう。
 中学の時に付き合ったあの子も、結局好きになれなかったし。

 チラッと河瀬を見る。
 少しでいい。俺を見ろ。俺はお前を見てる。
 気持ちが通じたのか、河瀬が俺を見た。ドキッとした。
 そして後悔した。
 河瀬の顔にはなんの表情もなく、そのまま友達の方に向き直ったからだ。

 契約、まだ続行じゃないのかよ。
 河瀬がリハビリ完了したら、一方的に終了なのかよ。
 神楽坂先輩への気持ちはその程度だったのかよ。

 俺たちを結ぶものは『神楽坂先輩』というひとで、ふたりの間に他には何もなかった。
 面白いくらい、共通点がひとつも。