キスしてほしい

 英語教師に呼び出された帰り道、繋いだ手をブラブラさせたまま、僕らは学校を出た。

「でもさ、本当のこと言うと、付き合ってるヤツらでいつでも手を繋いでるのは少数派だよな」と真面目な顔をして、真嶋は言った。
「そうだな」と言って、俺は真嶋の手をギュッと握った。

 真嶋は繋いだ手を上にあげて、「たったこれだけのことなのにな」と言った。
「たったこれだけのことなのに、大騒ぎだ。気持ちが通じるような気がするのにな。今までほとんど接点なかったお前とも」

 その言葉は、爆発的な威力を持って、俺を揺り動かした。
 聞き間違えじゃなければ、真嶋は「気持ちが通じる」とそう言った。

「⋯⋯なんだよ河瀬、黙るなよ。なんか、俺が恥ずかしいじゃん」
「超能力者?」
「んなわけないだろう? あ、コンビニ寄っていい? 喉乾いた」

 手を繋ぐだけで気持ちが通じるなら、世の中の恋人たちは、みんな手を繋ぐだろう。
 そんなわけあるまい。
 心臓が爆音を立てて、騒ぎ立てる。
 ホットのココアを持って、レジに向かった。

「河瀬、こっち」
 真嶋は赤いポストの脇で、俺を待っていた。
 待たせて申し訳なかったと思いながら、隣に行く。

「悪い」
「大袈裟だなぁ。ほらこれ、好物だって言ってただろう? 有名店のじゃなくて悪いけど」

 真嶋の手にあったのは、ダブルホイップのシュークリームだった。
 嫌なことがあった時、コンビニに買いに行くやつ。
 それと同じ物がここにある。

「金、払うよ」
「いいよ、彼氏だろ?」
 くすくす笑う真嶋は、少しいつもよりタレ目になって、その笑顔が眩しい。
「⋯⋯じゃあ、遠慮なく」

「ほら、口開けて」
 個包装のビニール袋を器用に開けると、昼間のミートボールの時のように、真嶋は俺の口を開けさせた。
 外はもう夕闇が空を覆い始めて、コンビニの看板に明かりがともる。

 バクッと思い切って食べると、滑らかなカスタードと、口当たりのいいホイップが、舌の上でとろける。
 やっぱりシュークリームしか勝たんわ、と思っていると、真嶋が反対の手に持っていた缶コーヒーを俺に渡した。

 いつもは絶対、買わない無糖のブラックに、戸惑う。真嶋は笑って「絶対、合うから飲んでみなよ」と言った。

 半信半疑で口を付けると、コーヒー特有の芳しい香りと、口の中に苦さだけじゃなく、ほんの少しの酸味を感じる。コクがあって、でも酸味が効いてる。
 コーヒーってこんな味なんだ、と缶をまじまじと見る。

「間接キスだね」
 目の前がチカチカする。この男は一体、俺を何度、驚かせれば気が済むんだろう?

「そこまでしなくても、さ。模擬恋愛だし」
「そう? こういうのが恋愛の醍醐味かと思ってた。ほら、あんなにがぶり食べるから、口の端、付いてる」

 真嶋はその俺より長い指で、丁寧に俺の口の端に触れると、クリームをペロッと赤い舌で舐めて、こっちを見た。
 いちいちやることがエロい。
 真面目そうな顔して、頭ん中、どうなってるんだ?

「あー、やっぱり甘い! コーヒーちょうだい」
 甘い物、苦手なんだと思う。その真嶋がレジで何食わぬ顔をして、シュークリームを買う。
 俺のためだ。
 何だかすごい贅沢だ。

「うち、姉ちゃんがすごいいっぱいマンガ持っててさ、付き合ったらこういうことするんだろうなぁって、昨日、読んでて思ったんだけど、現実はマンガより甘いなぁ。真似してたら、これじゃマンガみたいに本気に⋯⋯」
 コーヒーを飲み下しながら、そう言った。

 そう、マンガ。少女マンガか。
 それなら確かに、そういうシーンがあるかもしれない。

 頬についたクリームを、彼氏が拭う。「付いてるよ」って。そのままペロリと舐める。
 ふたりは見つめ合って⋯⋯てのは、模擬恋愛にはナシだ。
 だって、本気になるわけにはいかないから。

 キスしたら、本気になるのか?
 わからないまま、シュークリームを手渡される。
 クエスチョンマークが頭の中を、くるくる回っていた。

「そうそう、映画の件だけどさ、今週末、空いてる?」
「⋯⋯真嶋、お前ってぐいぐい来るよなぁ」
 真嶋はきょとんとした顔をした。
「だって、先輩たちを見下すんだろう? 恋人同士がやりそうなこと、全部やろうぜ」

 フタも開けず、ぶら下げていたココアの温度が下がってくる。熱さは温もり程度に変わっていく。
「じゃあ、『寒い』って言ったら、どうしてくれるの?」

 ドキドキして答えを待つ。真嶋に他意がないのはわかってるんだけど。

「マフラーとジャケット、どっちがいい?」
「へ?」
「そういう時は、ふわっと掛けてやるものだろう?」

 思わず邪なことを考えていた、自分が恥ずかしくなる。
 間接キスも拒まないくらいなら、当然、抱きしめてくれるだろうって。

「どうした? 気に食わない答えだった?」
 だから顔が近い! 近いんだよ。
 そんな心配そうな顔して見つめられると、心臓が壊れそうになるんだよ。

「女の子は喜ぶんじゃねーの?」
「男同士はダメなのか。やっぱりBL読んで、勉強するか」
 悔しいことに笑わされっぱなしだった。

 ――一緒にいるのが、心地いい。
「行こう」と差し出された手を取って、この気持ちも伝わってしまうのかもしれないと、ドキドキする。

 契約内容3、本気にならないこと。
 大丈夫。まだ大丈夫。
 恋愛に慣れてないだけだから。

 ◇

 数日で、あちこちに行く度、奇異な目を向けられることにも慣れてきた。
 学校では噂話のネタは、鮮度が命というように、次々変わったし、街中では人混みの中に入ってしまえば、それ程目立つわけじゃないことがわかった。

 真嶋はまるで、俺の心を覗き見ようかとするように、何処に行く時にも手を差し出してきた。

 ドキドキが伝わるかもしれないと思うと、いつも手に汗をかく。
 気になって、手ばかり洗う俺を、不思議そうに真嶋は見た。

「なぁ、観たい映画、決まった?」
 毎日、見える風景がめまぐるしく変わる中、この男は、俺なんかにペースを乱されることはない。
「えーと」と言葉を濁す。

「まだ決めてないのか?」
「漢字テストあったから」
「漢字と映画は関係ないだろう。俺は楽しみにしてるのに」

 図書室のテーブルで、本を流し読みする俺に、真嶋は話しかけてきた。
 真嶋は今日は貸し出し当番の日で、放課後は貸し出しカウンターに入らなくちゃいけなかった。

 とは言え、定期テストも控えてない午後の図書室は静かで、窓から時折、そよ風が吹いては、ふわっとカーテンを揺らす。
 まるで海の底の海藻がゆらりと揺れるように、ゆったりと。

 眠気をそよ風が運んでくる。
 目の前の文字が歪む。
 ダメだ、もう目を開けていられない。
 ブラックアウト。

『映画、決まった?』
 再三の返事の要求に、げんなりする。
 真嶋のいいところは、押しつけはしてこない。悪いところは、選択肢も与えてこないところだ。

 普段はあまり観ない映画を「決めろ」と言われても、俺にはそれが難しかった。

『ひょっとして、映画、イヤだった?』
『全然。ただ選ぶのは俺には難しいだけ。あれはどう? 原作本が大ヒットしたヤツ』
『いいけど、ホラーだぞ?』
『大丈夫だよ、多分』

 ネットで映画をあれこれ調べて、ダメだ――と思って出た答えがそれ。
 だって真嶋の趣味、わかんねーし。ダメ元で名前をあげてみた。

 真嶋はなかなか決まらないことを、相当気にしていたらしく、俺の選んだ映画にそれ以上の文句は付けなかった。
 で、気付く。
 着ていく服がねーし!

 正直にそう言うと「なんでもいいじゃん。映画館は暗いから、そんなに見られないよ」と言われる。
 お前はそれでいいかもしれないけど、俺は全然、良くない。
 佐野に助けを求める。

『明日の放課後? いいけど、恵ちゃんとクレープ食べに行く約束してるんだ。怒られたら一緒に謝れよ』と一緒に服を見に行ってもらえることになる。

『友達に放課後、買い物に誘われたんだけど』とメッセージを再度、送ると真嶋は『その男とは手を繋ぐなよ』と本音か冗談かわからない返事を寄越した。
 スマホの本体の、温度が上がった気がした。

「手を繋ぐなって? 真嶋ってすました顔して、意外に独占欲強いんだな」
「じゃあ、これが恵ちゃんの話だったら?」
「⋯⋯恵ちゃんは他の男と手を繋いだりしない」

 佐野は他人の彼氏のことはボロクソに言うくせに、自分の彼女のことになると、独占欲丸出しだった。
 俺たちはなんとか様になる服を見つけ、とりあえずカフェで落ち着いたところだった。

「しかし教室の外での真嶋って、どんな感じ?」
「どんな感じかって言われても」
「教室ではいつも、頭のいいグループに入ってるじゃん? 想像もつかないよ、河瀬と手を繋いで歩いてたりさ」

 確かに俺と真嶋では、成績に差がありすぎた。真嶋の成績なら、きっと、すごいところを目指しても、行けるんじゃないかと思うくらい。
 真嶋は優秀で、人望も厚かった。教室の隅に在席させてもらってる俺とは違った。

 急に、真嶋が遠く感じる。
 物理的に、じゃなく、精神的に。
 ああ、真嶋が言ってたっけ。「手を繋ぐと気持ちが通じる」って。
 俺は空っぽの右手をじっと見た。

「だけどさ、河瀬がコーヒー飲むなんて想像できなかったよな。いつもココアかミルクティーだったのに。河瀬のくせに生意気だよ」
 佐野が愉快そうに笑う。

「うるさい! 俺だってコーヒーくらい飲めるんだよ。⋯⋯この前、真嶋が甘い物に合うんだって教えてくれたんだ」
「恋は味覚も変えるってか? すげぇな、恋」

 俺の前には、安納芋のモンブランが置かれていた。
 確かに、中に生クリームがたっぷり入ったモンブランとコーヒーの相性はバツグンだった。

 真嶋を通して見る世界は、いつもより15度くらい傾いて見える。そのわずか15度によろめいてるんだ、きっと。
 俺の中の真嶋は、どんどん体積を増していった。