俺たちが”手を繋いで”登校したという噂は、あっという間に広がった。
学内で2番目のゲイカップルの登場に、みんなは興味津々といった感じだった。
教室に入る時、何一つ不自然なことなどないといった顔で、真嶋はするりと手を離し、「また後でな」と笑った。
完璧だった。
それは周りの誰が見ても、俺は真嶋の彼氏だということを表していた。
「なぁなぁ」
佐野が、聞きたくて堪らないという顔をして、俺の席にやって来る。
「なんだよ、お前もかよ」
「だってすげーじゃん! 河瀬、とうとう運命の相手と巡り会ったのかよ?」
声デカいんだよ、と言って、佐野の頭を押さえ付ける。
「うるせぇな、放っておけ」
「そういうわけには行かないよ。河瀬がゲイだって、俺と竹岡にカミングアウトしてから、ずっと見守ってたんだ。ほら、思い詰めて2丁目とか行っちゃうんじゃないかと思って」
「行かない、そんなところ行かないよ」
佐野は悪いヤツじゃない。寧ろいいヤツだ。
だからこそ、仲が良くなる前に、グループになりかけてた佐野と竹岡にはカミングアウトしたんだ。
「俺はゲイなんだ」って。
でも、誰も彼も好きになるわけじゃないから、そこんとこ誤解してほしくないって。
「河瀬にもとうもう彼氏できたかー! で、どっちが告ったの?」
後ろからそっとやって来た、竹岡も聞き耳を立てている。
「告ったっていうかー、あの、そうだな。俺からかな?」
「なんだよ意味深だなぁ。勿体つけるなよ」
「だから、その、つまり。『付き合おう』って言ったのは俺の方ってこと」
最初から素直になればいいのに、と竹岡はぼそりと呟いた。
「恵ちゃんのクラスでもすげー話題になってるって。さっきメッセージ届いた」
「ていうかさ、いつから真嶋だった? 神楽坂先輩ってカッコいいよなって、いつも言ってたのに」
痛いところを突かれる。
「神楽坂先輩はー、つまり憧れで、俺はその、真嶋の⋯⋯優しいところがいいなって思ってて」
「まぁ、真嶋は優しいよな。背も高くて優しい、なんで彼女いないんだろうと思ってたけど、お前と同じだったなんて良かったじゃん。河瀬の応援してて、マジで報われた感じ」
なんか俺、そんなに哀れなヤツだったのかなって、少し、悲しくなる。
確かに実る恋はなかったけど。
真嶋と不意に目が合って、ヤツはプイと顔を背けた。
まぁ、こういうところが”模擬恋愛”なんだよ。みんなの前で、俺に笑顔なんて見せるわけ、ない。
しまおうとしていたスマホの通知が入って、ビックリする。
『こんなに話題になると思わなかったな』
真嶋からだった――。
身体が脱力する。すごく緊張してたことに、気付く。
腹の中から温かくなっていくような、不思議な気持ちになる。
ハッと気付いて返事を打つ。
『迷惑じゃなかった?』
返事はすぐに来た。
『いや。これで神楽坂先輩に思い知らせてやる。俺の好きなのは、先輩じゃないって。お前だってそうだろう?』
昨日の、真嶋が涙をこぼした横顔を思い出す。
あの涙、本物だったのに。
『河瀬の話に乗って良かった。帰りも手を繋ごう』
⋯⋯マジか。真嶋はそこまで思い詰めてたのか?
神楽坂先輩に思い知らせる。
先輩はきっと、俺たちのことなんて、なんとも思わないに違いないのに。
両手で持った、スマホのすました画面をじっと見る。そこに映っていたのは、困った顔をした俺の顔だった。
予鈴が鳴って、みんな慌てて自分の席に戻る。
明らかに、俺の方をチラッと見ていくヤツがいる。
特に女子。ごめん。真嶋に憧れてた子もきっといる。
そう思いながらスマホをマナーモードにして、制服のポケットに滑り込ませた。
四限が終わってすぐ、スマホが振動する。
「わぁッ!」
普段あまりないその振動に驚いて、腰が浮きかける。
「どうしたんだよ、河瀬」
昼飯を食べようと、俺の席に集まっていた佐野と竹岡が、不思議そうな顔をした。
恐るおそるスマホのロックを外すと、真嶋からメッセージが来てて、思わず真嶋の方を見る。
真嶋は、スマホを指さして、弁当を持って教室を出た。
『屋上前の踊り場で待ってる』
⋯⋯恋人みたいじゃないか、コイツ。絶対、誰かと付き合ったことがあるんだ。慣れてる。
俺は弁当箱を持つと「悪い」と言って立ち上がり、「いってらっしゃい」とふたりに手を振られた。
階段は、1年生の教室のある4階を通り越して、上に続いていた。
施錠された屋上に行こうとするヤツはいないようで、一段階段を上る毎に、埃がふわっと目の前に舞った気がした。本当にこの先に真嶋がいるのか、不審に思う。
最後の段が見えた時、同時に真嶋もこっちを見た。
「なんだよ、そんな怪訝そうな顔して」
「だって、こんな誰も来ないようなところに呼び出すから」
「なんでそんな卑猥そうな言い方するかな?」
真嶋は俺の顔を見て、くすっと笑った。
「べ、別に卑猥だとかそういうことは思ってないけど」
「弁当、一緒に食べようと思って。教室の真ん中で、さすがに机くっつけて食べるのはごめんだろう? 俺はごめん」
素直な笑顔に見とれる。
真嶋なんて、背が高いだけのヒョロい男だと思ってた俺の視力の悪さにはガッカリだ。コイツはあんな約束をきちんと守る、誠実な男だ。
真嶋は、自分の隣を、ポンポンと示した。
「ここ、誰かが使ってたんだよ。この辺は埃が少ないんだ」
「真嶋じゃなくて?」
「俺? 俺がなんで? ⋯⋯ずっと神楽坂先輩を好きだったって、河瀬は知ってるじゃん」
まぁ、そうなんだけど。
学校の、誰も知らないような場所を知ってる真嶋に、不信感を持ってしまったんだ。
「真嶋はさ、女の子とは付き合ったことはないの?」
箸を持ったまま、真嶋は固まった。
ふたりの間に沈黙が横たわる。俺はできる限りの目力で、真嶋を見た。
「いや、その⋯⋯」
「俺たちの契約、(1)嘘はつかない、忘れたのか?」
「嘘をつきたいわけじゃないけど」
手に持ってた箸で、真嶋は卵焼きにそっと手を付けた。
「いたんだよ、中学生の時に、告られて。でも、3ヶ月も続かなくて『真嶋くんて思ってたのと違った』って言われてフラれた。だからノーカンかなって」
「それはカウントするだろう!」
思わず大きな声が出てしまい、ハッとする。
手にしていたウィンナーを、思わず落としそうになる。
「で、考えてみて思ったんだけど。俺、告られて、付き合ってるうちにきっと好きになるんだろうと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだなって。神楽坂先輩を好きになって気付いたんだけど、その⋯⋯」
「今さらだけど、男が好きなの? 『男同士』とか言っておいて?」
「先輩が特別なんだと思ってたんだよ。でも、河瀬とこんな風に付き合うことになって、考えてみたら俺、女子に興味を持った覚えがないかもって」
「ゲイじゃん」
真嶋は、弁当箱の中身のどれを食べるか迷ってる顔をして、俯いた。
「俺と同じじゃん」
「⋯⋯河瀬はゲイなの?」
「俺は、男しか好きにならないし。だから誰とも付き合ったことはないっていうか」
「初カレ?」と真嶋は自分を、持っていた箸で示した。俺は仕方がないので、こくりと頷いた。
「それは光栄」
「どうせ”偽”だけどな」
「それでも河瀬の人生の中で、初めて付き合ったのは、俺ってことになるんだよ」
なんだか悔しかった。でも、悪い気はしなかった。
箸の先につまんだミートボールを俺に向けて、真嶋は「あーん」と言った。
俺は何かを観念して、「あーん」をした。ミートボールは口の中に転がって、真嶋は満足そうな顔をした。
なんだか真嶋のペースに乗せられてる。俺が言い出したことなのに。
ミートボールを咀嚼しながら、次の攻撃を考える。何かコイツをギャフンと言わせられそうなこと。
「河瀬さ、ミステリー映画とか観る? ミステリーならTVドラマに近いかと思ったんだけど。アニメの方がいいかな?」
「へ?」
いきなり変わる話題について行けない。
「だから、デートしようって言ってんの。せっかく付き合うことになったんだからさ、できそうなことはやってみようかなって」
「昨日は泣いてたくせに、お前って前向き」
「泣いてても日が暮れるだけだし」
どこかのクラスでうわっと言う声が上がる。なんだか盛り上がっているらしい。
その声は階段を上って、ここまで響いてくる。
「映画。⋯⋯少し、考えてみてもいいか? 調べてみるから」
真嶋ははっきりした顔で微笑んだ。
表情の豊かなヤツ、と鼓動が一段階速くなる。顔が赤くなるのを感じる。
男相手にバカみたいだ。しかも、好きになった男でもあるまいし。
「じゃあ調べてみて。河瀬の観たいのに合わせるから」
真嶋はそう言うと、ごちそうさまをした。
教室に戻ると、教室中の目がこっちを向いて、少し怖くなる。
大丈夫だよ、と囁くように、真嶋が俺の手を握った。
「お前らさ、そんなにオープンに付き合ってていいのかよ?」
クラスの真ん中に陣取ってたグループのうちのひとりが、大きな声を出した。
「こそこそ付き合えば気にさわらないってこと? それなら放っておいてくれよ」
「男同士で手、繋いでんの、見せつけるなよ」
どっと、一部の連中が笑った。顔が上げられない。恥ずかしい。俺はゲイだって自認してきたのに。
「悔しかったら彼女でも作って、手、握らせてもらえばいいじゃん。な!」
真嶋が俺を振り返った。俺は真っ赤になって、何も言えなかった。
そのうち予鈴が鳴って、みんなが机を動かす派手な音が響く。
その隙を縫うように、真嶋は手を引いて、俺の席まで戻してくれた。前の席の佐野が「おかえり」と言った。真嶋が「よろしく」と言った。
席に戻っていく真嶋の背中が頼もしく見える。俺、目がおかしくなったのかもしれない⋯⋯。
「真嶋、いいヤツじゃん」
後ろに身を捻って、佐野はそう言った。
赤くなった頬は、そんなに早くには元に戻らなかった。
「⋯⋯多分」
俺は一言しか返せなかった。
◇
英語科準備室にふたりして呼び出されたのは、放課後のことだ。英語の課題はしっかり出したつもりだったから、何の用だろうと訝しんだ。
「お前、覚えある?」と真嶋に訊くと、真面目な顔をして真嶋は「お前だろう?」と言った。
でも不思議なことに、呼び出しはふたり一組だったことだ。何を言われるのか、わからないようでわかった気がした。
失礼します、と部屋に入ると、そこにはまだ若い英語教師がいた。一部の男子に人気がある、いわゆるお姉さん系の教師だ。
教師は俺たちを見ると「付き合ってるんだ?」とおもむろに尋ねた。
真嶋が真面目な顔をして「はい」と答えた。
英語教師は、何かを考えるような顔を一瞬して、それからパッと顔を輝かせた。
「そっか、ふたり、本当に付き合ってるんだね? ほら、LGBTQとかもあるじゃない? だから先生も立場的に微妙なんだけど、やっぱりさ、男女間の交際は見逃さないのに、男同士ならOKってわけにはいかないじゃない?」
「そうですね。で、なんのことですか?」
真嶋は少しイラッとした声を出した。横顔が、険しい。
英語教師の顔が歪む。
「わかんないかなぁ? 大っぴらに手を繋いで歩かれたりすると、学校の風紀がね」
「男女間の恋愛では、手を繋いで登校しても何も言われませんよね? 先生がそれを注意したいのは、俺たちだからじゃないですか?」
真嶋のジャケットの裾を引く。それ以上、言うと、教師の心象が悪くなる。
「だから、そんなことないのよ。セクシャルマイノリティの問題は、先生だって理解してるつもりだし」
「それなら校内でも手を繋いでる他の生徒たち、連れて来ましょうか? みんなで先生に、大人しくお説教されますから」
教師は、ふぅと小さくため息をついた。まるで、目についた埃を吹き飛ばすように。
そして笑顔を作った。
「そうね、先生はいいのよ。生活指導でもないし。でも、生活指導の先生に何か言われる前に、忠告してあげようと思っただけ」
「そうですか。ご心配おかけしました。俺たちは俺たちのやり方で付き合ってるので、これ以上の心配は結構です。お話、ありがとうございました」
真嶋は教師に頭を下げた。きちんと礼儀を示すやり方で、だ。
遅れて俺も頭を下げる。どうしても驚くことばかりで動作がもたつく。
頭を下げたままの俺の手を、真嶋が引いた。
はぁっ、と小さなため息が、教師の口からこぼれ落ちた気がした。
「お前、ああいうのはまずいんじゃないの?」
「どういうのだよ」
真嶋は俺の手を引いて、どんどん歩いていく。慣性の法則で引っ張られるカバンが、その場に留まろうとしているのに。
「だって、教師に対してあんな態度を取るなんて」
「アイツだって、俺たちのこと、バカにしたじゃないか」
ピタッと、その足は止まった。
「アイツ、俺たちのことバカにしたんだ。大方、彼氏と上手くいってないんだよ」
その話に俺はププッと笑わないわけにはいかなかった。
教師はSNS上で自分の彼氏の自慢話ばかりを上げて、生徒にアカウントを特定された。
俺は興味がないから見たことがなかったけど、佐野が言うには、最近、彼氏と別れたという噂が回ってるらしかった。
「要するに、俺たちのこと、うらやましいんだろ? 生活指導の先生に注意されるまで、放っておいてくれよ」
「真嶋、俺、ウケる」
「バカ、どこにウケる要素があるんだよ」
真嶋はきっと、英語教師のSNSの話題を聞いていないに違いない。
そしてあの教師は、本当に彼氏と破局したに違いない。
そのふたつのことが、俺をいつまでも笑わせた。
学内で2番目のゲイカップルの登場に、みんなは興味津々といった感じだった。
教室に入る時、何一つ不自然なことなどないといった顔で、真嶋はするりと手を離し、「また後でな」と笑った。
完璧だった。
それは周りの誰が見ても、俺は真嶋の彼氏だということを表していた。
「なぁなぁ」
佐野が、聞きたくて堪らないという顔をして、俺の席にやって来る。
「なんだよ、お前もかよ」
「だってすげーじゃん! 河瀬、とうとう運命の相手と巡り会ったのかよ?」
声デカいんだよ、と言って、佐野の頭を押さえ付ける。
「うるせぇな、放っておけ」
「そういうわけには行かないよ。河瀬がゲイだって、俺と竹岡にカミングアウトしてから、ずっと見守ってたんだ。ほら、思い詰めて2丁目とか行っちゃうんじゃないかと思って」
「行かない、そんなところ行かないよ」
佐野は悪いヤツじゃない。寧ろいいヤツだ。
だからこそ、仲が良くなる前に、グループになりかけてた佐野と竹岡にはカミングアウトしたんだ。
「俺はゲイなんだ」って。
でも、誰も彼も好きになるわけじゃないから、そこんとこ誤解してほしくないって。
「河瀬にもとうもう彼氏できたかー! で、どっちが告ったの?」
後ろからそっとやって来た、竹岡も聞き耳を立てている。
「告ったっていうかー、あの、そうだな。俺からかな?」
「なんだよ意味深だなぁ。勿体つけるなよ」
「だから、その、つまり。『付き合おう』って言ったのは俺の方ってこと」
最初から素直になればいいのに、と竹岡はぼそりと呟いた。
「恵ちゃんのクラスでもすげー話題になってるって。さっきメッセージ届いた」
「ていうかさ、いつから真嶋だった? 神楽坂先輩ってカッコいいよなって、いつも言ってたのに」
痛いところを突かれる。
「神楽坂先輩はー、つまり憧れで、俺はその、真嶋の⋯⋯優しいところがいいなって思ってて」
「まぁ、真嶋は優しいよな。背も高くて優しい、なんで彼女いないんだろうと思ってたけど、お前と同じだったなんて良かったじゃん。河瀬の応援してて、マジで報われた感じ」
なんか俺、そんなに哀れなヤツだったのかなって、少し、悲しくなる。
確かに実る恋はなかったけど。
真嶋と不意に目が合って、ヤツはプイと顔を背けた。
まぁ、こういうところが”模擬恋愛”なんだよ。みんなの前で、俺に笑顔なんて見せるわけ、ない。
しまおうとしていたスマホの通知が入って、ビックリする。
『こんなに話題になると思わなかったな』
真嶋からだった――。
身体が脱力する。すごく緊張してたことに、気付く。
腹の中から温かくなっていくような、不思議な気持ちになる。
ハッと気付いて返事を打つ。
『迷惑じゃなかった?』
返事はすぐに来た。
『いや。これで神楽坂先輩に思い知らせてやる。俺の好きなのは、先輩じゃないって。お前だってそうだろう?』
昨日の、真嶋が涙をこぼした横顔を思い出す。
あの涙、本物だったのに。
『河瀬の話に乗って良かった。帰りも手を繋ごう』
⋯⋯マジか。真嶋はそこまで思い詰めてたのか?
神楽坂先輩に思い知らせる。
先輩はきっと、俺たちのことなんて、なんとも思わないに違いないのに。
両手で持った、スマホのすました画面をじっと見る。そこに映っていたのは、困った顔をした俺の顔だった。
予鈴が鳴って、みんな慌てて自分の席に戻る。
明らかに、俺の方をチラッと見ていくヤツがいる。
特に女子。ごめん。真嶋に憧れてた子もきっといる。
そう思いながらスマホをマナーモードにして、制服のポケットに滑り込ませた。
四限が終わってすぐ、スマホが振動する。
「わぁッ!」
普段あまりないその振動に驚いて、腰が浮きかける。
「どうしたんだよ、河瀬」
昼飯を食べようと、俺の席に集まっていた佐野と竹岡が、不思議そうな顔をした。
恐るおそるスマホのロックを外すと、真嶋からメッセージが来てて、思わず真嶋の方を見る。
真嶋は、スマホを指さして、弁当を持って教室を出た。
『屋上前の踊り場で待ってる』
⋯⋯恋人みたいじゃないか、コイツ。絶対、誰かと付き合ったことがあるんだ。慣れてる。
俺は弁当箱を持つと「悪い」と言って立ち上がり、「いってらっしゃい」とふたりに手を振られた。
階段は、1年生の教室のある4階を通り越して、上に続いていた。
施錠された屋上に行こうとするヤツはいないようで、一段階段を上る毎に、埃がふわっと目の前に舞った気がした。本当にこの先に真嶋がいるのか、不審に思う。
最後の段が見えた時、同時に真嶋もこっちを見た。
「なんだよ、そんな怪訝そうな顔して」
「だって、こんな誰も来ないようなところに呼び出すから」
「なんでそんな卑猥そうな言い方するかな?」
真嶋は俺の顔を見て、くすっと笑った。
「べ、別に卑猥だとかそういうことは思ってないけど」
「弁当、一緒に食べようと思って。教室の真ん中で、さすがに机くっつけて食べるのはごめんだろう? 俺はごめん」
素直な笑顔に見とれる。
真嶋なんて、背が高いだけのヒョロい男だと思ってた俺の視力の悪さにはガッカリだ。コイツはあんな約束をきちんと守る、誠実な男だ。
真嶋は、自分の隣を、ポンポンと示した。
「ここ、誰かが使ってたんだよ。この辺は埃が少ないんだ」
「真嶋じゃなくて?」
「俺? 俺がなんで? ⋯⋯ずっと神楽坂先輩を好きだったって、河瀬は知ってるじゃん」
まぁ、そうなんだけど。
学校の、誰も知らないような場所を知ってる真嶋に、不信感を持ってしまったんだ。
「真嶋はさ、女の子とは付き合ったことはないの?」
箸を持ったまま、真嶋は固まった。
ふたりの間に沈黙が横たわる。俺はできる限りの目力で、真嶋を見た。
「いや、その⋯⋯」
「俺たちの契約、(1)嘘はつかない、忘れたのか?」
「嘘をつきたいわけじゃないけど」
手に持ってた箸で、真嶋は卵焼きにそっと手を付けた。
「いたんだよ、中学生の時に、告られて。でも、3ヶ月も続かなくて『真嶋くんて思ってたのと違った』って言われてフラれた。だからノーカンかなって」
「それはカウントするだろう!」
思わず大きな声が出てしまい、ハッとする。
手にしていたウィンナーを、思わず落としそうになる。
「で、考えてみて思ったんだけど。俺、告られて、付き合ってるうちにきっと好きになるんだろうと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだなって。神楽坂先輩を好きになって気付いたんだけど、その⋯⋯」
「今さらだけど、男が好きなの? 『男同士』とか言っておいて?」
「先輩が特別なんだと思ってたんだよ。でも、河瀬とこんな風に付き合うことになって、考えてみたら俺、女子に興味を持った覚えがないかもって」
「ゲイじゃん」
真嶋は、弁当箱の中身のどれを食べるか迷ってる顔をして、俯いた。
「俺と同じじゃん」
「⋯⋯河瀬はゲイなの?」
「俺は、男しか好きにならないし。だから誰とも付き合ったことはないっていうか」
「初カレ?」と真嶋は自分を、持っていた箸で示した。俺は仕方がないので、こくりと頷いた。
「それは光栄」
「どうせ”偽”だけどな」
「それでも河瀬の人生の中で、初めて付き合ったのは、俺ってことになるんだよ」
なんだか悔しかった。でも、悪い気はしなかった。
箸の先につまんだミートボールを俺に向けて、真嶋は「あーん」と言った。
俺は何かを観念して、「あーん」をした。ミートボールは口の中に転がって、真嶋は満足そうな顔をした。
なんだか真嶋のペースに乗せられてる。俺が言い出したことなのに。
ミートボールを咀嚼しながら、次の攻撃を考える。何かコイツをギャフンと言わせられそうなこと。
「河瀬さ、ミステリー映画とか観る? ミステリーならTVドラマに近いかと思ったんだけど。アニメの方がいいかな?」
「へ?」
いきなり変わる話題について行けない。
「だから、デートしようって言ってんの。せっかく付き合うことになったんだからさ、できそうなことはやってみようかなって」
「昨日は泣いてたくせに、お前って前向き」
「泣いてても日が暮れるだけだし」
どこかのクラスでうわっと言う声が上がる。なんだか盛り上がっているらしい。
その声は階段を上って、ここまで響いてくる。
「映画。⋯⋯少し、考えてみてもいいか? 調べてみるから」
真嶋ははっきりした顔で微笑んだ。
表情の豊かなヤツ、と鼓動が一段階速くなる。顔が赤くなるのを感じる。
男相手にバカみたいだ。しかも、好きになった男でもあるまいし。
「じゃあ調べてみて。河瀬の観たいのに合わせるから」
真嶋はそう言うと、ごちそうさまをした。
教室に戻ると、教室中の目がこっちを向いて、少し怖くなる。
大丈夫だよ、と囁くように、真嶋が俺の手を握った。
「お前らさ、そんなにオープンに付き合ってていいのかよ?」
クラスの真ん中に陣取ってたグループのうちのひとりが、大きな声を出した。
「こそこそ付き合えば気にさわらないってこと? それなら放っておいてくれよ」
「男同士で手、繋いでんの、見せつけるなよ」
どっと、一部の連中が笑った。顔が上げられない。恥ずかしい。俺はゲイだって自認してきたのに。
「悔しかったら彼女でも作って、手、握らせてもらえばいいじゃん。な!」
真嶋が俺を振り返った。俺は真っ赤になって、何も言えなかった。
そのうち予鈴が鳴って、みんなが机を動かす派手な音が響く。
その隙を縫うように、真嶋は手を引いて、俺の席まで戻してくれた。前の席の佐野が「おかえり」と言った。真嶋が「よろしく」と言った。
席に戻っていく真嶋の背中が頼もしく見える。俺、目がおかしくなったのかもしれない⋯⋯。
「真嶋、いいヤツじゃん」
後ろに身を捻って、佐野はそう言った。
赤くなった頬は、そんなに早くには元に戻らなかった。
「⋯⋯多分」
俺は一言しか返せなかった。
◇
英語科準備室にふたりして呼び出されたのは、放課後のことだ。英語の課題はしっかり出したつもりだったから、何の用だろうと訝しんだ。
「お前、覚えある?」と真嶋に訊くと、真面目な顔をして真嶋は「お前だろう?」と言った。
でも不思議なことに、呼び出しはふたり一組だったことだ。何を言われるのか、わからないようでわかった気がした。
失礼します、と部屋に入ると、そこにはまだ若い英語教師がいた。一部の男子に人気がある、いわゆるお姉さん系の教師だ。
教師は俺たちを見ると「付き合ってるんだ?」とおもむろに尋ねた。
真嶋が真面目な顔をして「はい」と答えた。
英語教師は、何かを考えるような顔を一瞬して、それからパッと顔を輝かせた。
「そっか、ふたり、本当に付き合ってるんだね? ほら、LGBTQとかもあるじゃない? だから先生も立場的に微妙なんだけど、やっぱりさ、男女間の交際は見逃さないのに、男同士ならOKってわけにはいかないじゃない?」
「そうですね。で、なんのことですか?」
真嶋は少しイラッとした声を出した。横顔が、険しい。
英語教師の顔が歪む。
「わかんないかなぁ? 大っぴらに手を繋いで歩かれたりすると、学校の風紀がね」
「男女間の恋愛では、手を繋いで登校しても何も言われませんよね? 先生がそれを注意したいのは、俺たちだからじゃないですか?」
真嶋のジャケットの裾を引く。それ以上、言うと、教師の心象が悪くなる。
「だから、そんなことないのよ。セクシャルマイノリティの問題は、先生だって理解してるつもりだし」
「それなら校内でも手を繋いでる他の生徒たち、連れて来ましょうか? みんなで先生に、大人しくお説教されますから」
教師は、ふぅと小さくため息をついた。まるで、目についた埃を吹き飛ばすように。
そして笑顔を作った。
「そうね、先生はいいのよ。生活指導でもないし。でも、生活指導の先生に何か言われる前に、忠告してあげようと思っただけ」
「そうですか。ご心配おかけしました。俺たちは俺たちのやり方で付き合ってるので、これ以上の心配は結構です。お話、ありがとうございました」
真嶋は教師に頭を下げた。きちんと礼儀を示すやり方で、だ。
遅れて俺も頭を下げる。どうしても驚くことばかりで動作がもたつく。
頭を下げたままの俺の手を、真嶋が引いた。
はぁっ、と小さなため息が、教師の口からこぼれ落ちた気がした。
「お前、ああいうのはまずいんじゃないの?」
「どういうのだよ」
真嶋は俺の手を引いて、どんどん歩いていく。慣性の法則で引っ張られるカバンが、その場に留まろうとしているのに。
「だって、教師に対してあんな態度を取るなんて」
「アイツだって、俺たちのこと、バカにしたじゃないか」
ピタッと、その足は止まった。
「アイツ、俺たちのことバカにしたんだ。大方、彼氏と上手くいってないんだよ」
その話に俺はププッと笑わないわけにはいかなかった。
教師はSNS上で自分の彼氏の自慢話ばかりを上げて、生徒にアカウントを特定された。
俺は興味がないから見たことがなかったけど、佐野が言うには、最近、彼氏と別れたという噂が回ってるらしかった。
「要するに、俺たちのこと、うらやましいんだろ? 生活指導の先生に注意されるまで、放っておいてくれよ」
「真嶋、俺、ウケる」
「バカ、どこにウケる要素があるんだよ」
真嶋はきっと、英語教師のSNSの話題を聞いていないに違いない。
そしてあの教師は、本当に彼氏と破局したに違いない。
そのふたつのことが、俺をいつまでも笑わせた。



