雨が降っていた。
俺は、教室の窓を開け放って、帰っていく生徒たちを見下ろしていた。
前髪が濡れる。
目の前が、霞んで見える。涙が滲む。目の前が、見えない。
「河瀬! お前、古文のノート、まだ提出してないって。なぁ、雨に濡れるぞ。雨、酷いのか?」
「放っておいてくれ」
「放っておけって、お前、風邪を⋯⋯」
真嶋はピタリと足を止めた。
そして、窓の外にふと目をやると、窓から身を乗り出した。
「真嶋、おいお前、落ちるって!」
掴んだシャツの背中が、もう湿っていた。
真嶋は手で口を押さえると、小さく「先輩」と呟いた。
「先輩?」
「あの噂、本当だったんだな⋯⋯。お前、図書委員で一緒だったんだな、神楽坂先輩と」
「うん、そう。隣を歩く蔵田先輩もな」
傘の花はどんどん開いては散らばっていった。その中に、小さなビニール傘がひとつ、際立って見える。
シースルーの傘の中には、神楽坂先輩と蔵田先輩。肩を寄せて、1本の傘に収まっていた。
ふたりの距離は限りなくゼロで、先週あたりから出回っていた噂を真実だと決定づけた。
「俺、好きだったんだよね、先輩のこと。去年の体育祭の時、ジャンケンに負けて実行委員にされちゃってさ。その時いろいろ助けてくれたのが先輩で、やさしいなぁって思ってそれから」
「先輩はいつもやさしいよ。俺だって図書委員になって何もわからなかった時、貸し出し業務から書架の整理まで、全部、先輩が⋯⋯」
男って、こんなに綺麗に泣くこともあるんだなって、思った。真嶋が拭った涙が、手の甲の上で光る。
真っ直ぐに流れ落ちる涙に、俺の涙はすっかり止まってしまった。だって、こんなに綺麗に。
「あのさぁ、こんな提案するのもどうかなと思うんだけど」
まつ毛を濡らしたまま、真嶋はこっちを向いた。普段から色素の薄いその肌は、青ざめて見えた。
「あのさ、フラれた者同士じゃん、俺らって。だからさ、リハビリだと思ってちょっと付き合ってみない? そういうのもやってみたら楽しいかもしんない」
「楽しいかも? マジで言ってんの? 失恋したばっかなのに?」
「だからさ、気分転換だと思えばいいじゃん」
「気分転換で付き合うか? 男同士だぞ」
付き合わない。気分転換で付き合うバカなんていない。
まぁ、こういうのは単なる気まぐれで、フラれたことへの腹いせだ。
「まぁ、いいじゃん、そういうお楽しみも」
真嶋は黙って目を逸らした。ガラッという音を立てて、窓を閉めてきっちり施錠した。
「わかった。乗るよ、それ」
「⋯⋯え?」
「お前と付き合えばいいんだろう? リハビリとかはよくわからないし、男とは付き合ったことはないけど、泣いてたって意味ないしな」
それに、と真嶋は付け足した。
「先輩たちを見下そう」
悲しそうに、そう呟いた。花が萎れた時のように、俯いて。
俺は手近にあった紙を裏返すと、油性ペンのフタをキュッと音を立てて開けた。
「契約内容を決めよう」
「契約?」
「そう、これはあくまで模擬恋愛だからさ、ちゃんと決まりを作らないと」
真嶋の顔に、もう涙の跡はなかった。でも興味があるわけでもないのは一目瞭然だった。
呆れたように、机の前にしゃがんだ俺を見ている。
「その1、嘘をつかないこと。その2、他に好きな人ができたら別れること。その3、本気にならないこと。これくらいかな」
「河瀬さ、その紙、明日提出の進路調査票だぞ。どうすんだ? 親のサイン欄があったぞ」
「早く言えよ、そういうこと! あー、まぁ、まだ考えてないから別にいいけどさ」
「考えてないのか」
「そんな先のことがわかるかよ」
なるほど、と真嶋は言った。
さっきはあんなに泣くほど気持ちが高ぶっていたようだったのに、もう、切り替えたのか、すっかり普通そうに見えた。
普通の真嶋。
しっかりしてて、お人好し、ちょっと鈍い。
「とりあえず帰ろうぜ」
カバンの中に必要なものだけ詰めて、立ち上がると、真嶋は教室の入り口に立って、俺を待っていた。目を疑う。
「なんだよ、友達同士だって帰り支度くらい待つだろう?」
真嶋は照れてるように見えた。『付き合う』という自分で言い出した言葉の意味が、急に重みを増してくる。階段を一段下りるごとに、背中に乗った荷物が、重くなる気がした。
真嶋が傘立てから紺色の傘を出して、俺も似たような自分の傘の柄を持ち上げて、気が変わって、ストーンと落とす。
嫌な顔をして、真嶋が振り返る。
「何やってんだよ」
「傘、一本でいいかなと思って」
「良くないだろう?」
「相合傘しない? 先輩たちみたいに」
「お前さぁ、考えなしだな。俺と別れた後、どうするんだよ? 一緒に帰るの、駅までだろう?」
至極真っ当な意見に、俺の手は傘の手を再び掴んだ。そして真嶋の傘がポンッと音を立てて広がったところに飛び込んだ。
「相合傘だな」
「狭い。て言うか、お前、肩濡れてるし」
俺の傘を提げている方のブレザーの肩が、濡れていた。真嶋は傘を傾けた。
「あ、カッコつけるなよ」
「俺の方が身長、高いからな」
「身長高いと”攻め”になるのかよ」
「”攻め”?」
「いや、こっちのこと。その、身長何センチ?」
「俺は179。180には1センチ、足りない。河瀬は?」
「⋯⋯俺の身長なんかどうでもいいじゃん。168だよ。これ以上はどうやっても伸びねぇ。分けてくれよ」
「分けられるものならな」
ポタポタだった降りは、次第に強くなって、俺たちの入った傘に重い音を響かせた。
「真嶋は何が好き?」
「俺? そうだな、好きなことって言ったら、そうだ、映画は結構観るかな」
「カウチポテト?」
「いや、映画館に行く。月イチくらい」
へぇ、と思う。そんな風には見えない。もっと、アウトドアな感じの。
「河瀬は?」
「俺か。俺は⋯⋯いいか、笑うなよ? 俺、甘い物好きなんだ。特にカスタードクリームと生クリームが。だからコンビニでよく、シュークリームとかプリンを買う。本当は『モーツァルト』みたいな有名店のお菓子が食べたいんだけど、さすがに男ひとりは気が引けて」
「そんな風に見えないけどな」
ドキッとする。さっき、俺が真嶋に対して思ったように、真嶋も俺のこと、考えて。
「じゃあどんな風に?」
「甘いものよりはジャンクフードの方が好きそう」
「ジャンクフードか。嫌いじゃない。今度一緒に食べに行くか」
「それもいいかもな」
話題が途切れる。
急に心細くなる。さっきまで繋いでいた手が、パッと離されたかのように。
「本当に、付き合うのか、俺たち」
声に出してみる。怖い。
俺はずっと男しか好きにならないゲイだった。友達を好きになって、ダメになったこともある。
真嶋のことはまだ、ただのクラスメイトだったけど、拒否られるのはやっぱり怖い。
「まぁ、先輩にフラれたしな」
「そんな理由で男と付き合うの?」
「それ、お前が言うか?」
真嶋は笑顔を見せた。さっきまでの顔より、ずっとやわらかい。
「真嶋、俺の事、嫌じゃないのかよ」
真嶋は俺の目をじっと見た。その目を見上げてる俺は、間抜けだと思った。何を期待してるんだよと。
「正直、まだわかんないよ。今まで、河瀬のこと、あんまり知らなかったし。あーでも、友達だったら付き合わなかったかも。そういうのって、気まずいだろう?」
そうだな、と顔を伏せた。
模擬恋愛と言ったけど、これは不毛な付き合いだ。
本気になったら終わる、ドライな関係だ。
そうだよな、とまた口からこぼれた。
駅までの道のりは、思っていたより長かった。隣に真嶋がいることを、意識せずにはいられなかったからだ。
真嶋の目はまるでウサギのように、赤かった。
教室であんなに泣いたからだ。
長いまつ毛に、涙が滲んでいた。
男って、こんな風に泣くんだと、一度見た横顔が忘れられない。
なんで今、俺たちは笑ってるんだろう。
そうだ、笑ってないと泣いてしまうからだ。
あの人が誰かのものになってしまったことを水に流すように、雨脚はいっそう強まった。
足元のローファーに、水が入った。
◇
翌日はカラッと晴れて、『駅の階段、下りたところで待ち合わせ』は、メッセージでの約束通り実行された。
背の高い真嶋は、階段脇の壁にもたれて、スマホを出すわけでもなく、所在なさげにそこに立っていた。
俺はその姿を見つけて、自然、早足になる。
隣を歩く女子たちが、真嶋の噂をしてる。背の高さだけで噂話の対象になるんだから、世の中、不公平だ。
俺なんか、ラッシュの人混みに埋もれてしまうというのに。
「おはよう」
早足で息が切れた。肩で息をする。
「おはよう、河瀬。そんなに急がなくても良かったのに。遅刻するにはまだ早い」と言って、腕時計をチラッと見た。
コイツ、腕時計族なんだな、と思う。大抵のヤツはスマホで時間を確かめる。
なんだか育ちが良さそうだ。特に高そうな時計ではなかったけど、時間を見る所作が綺麗だった。
改めて考えると、俺は真嶋のことを何も知らなかった。『映画好き』ということくらいしか。
クラスでも、成績のいい真嶋のグループと、俺らのグループでは隔たりがあった。俺たちはいつもくだらないネタで盛り上がっていた。
「行こうか」と真嶋が言ったので、慌てて「待って」とそのジャケットの裾を引く。真嶋が驚いた顔をして振り返る。
「どうした?」
「手!」
「手?」
「手くらい繋がないと! 先輩たちは、最初、手を繋いでるところを見られて話題になっただろう?」
立ち止まった真嶋は、自分の手のひらをまじまじと見た。
考えている、その手が俺の手に繋がれることを。
俺は迷う真嶋に、ずいと手を伸ばした。
「はい」
真嶋はもう一度、自分の手を見て、それから俺の手を見た。
リレーのバトンを渡すように、その手は伸ばされて、俺の手を握った。
「お前、手、小さい」
「最初の感想がそれかよ」
「だって本当のことだからな」
繋がれてない方の手を広げて出してくる。その手に、吸い付くように自分の手を重ねる。
ピタッと密着した手は、確かに指先が揃うことがなかった。予想通りではあったけど。
「まぁ、いいや、行こう」
手を引かれて歩き出すと、風が頬を切った。まだ冬には遠い季節だったけど、冷たい空気が頬に当たった。
真嶋は大股だった。その歩幅の違いを埋めるのが難しい。コイツ、絶対、女子と付き合ったことのないヤツだ。
「ちょっと待てって。速いって」
後ろを振り向くと、驚いた顔をした。
「ごめん、男相手に歩幅を気にしたことはなくて」
「女子ならあるのかよ!?」
「まぁ、女子なら⋯⋯」
前言撤回。女子となら、付き合ったことがあるヤツだ。
「気にしたのって、彼女?」
「まぁ、男と付き合うのはお前が初めてだし」
”付き合うのは”ってところでドキッとする。自分から提案しておいてドキッとするのは、おかしな気がした。
「付き合ってるわけだし? 俺の身長は背の高い女子並みなんだから、歩く速さくらい合わせろよ」
「あー、ごめん。気付かなかった」
細くなったその目は、まだ赤かった。昨日はよく眠れなかったのかもしれない。初めての失恋だったのかもしれない。
失恋ばかりの俺には、よくわからなかったけど。
俺はその手をギュッと握った。
置いて行かれないように。「大丈夫だよ」と言うように。
俺がついてるから、と言えるほどの自信は、まだなかった。模擬恋愛の”彼氏”という言葉が、宙に浮いた。
思ったより俺たちの繋がれた手には、注目が集まって、学校に着く頃には、周りの生徒が遠巻きに見ているようになった。
ヒソヒソ小声で何かを囁いてるのがわかる。
「これが最初の難関だな」と言うと、真嶋は堂々と手を繋いだまま、校門をくぐった。
雨に散った桜の葉が、濡れたまま捨てられた雑誌のように、くたっとその木の根元に張り付いている。
生活指導の教師の目が、一瞬、俺らの手に視線を留めて、目を上げた。知らないフリだ。
神楽坂先輩たちも堂々と、手を繋いだまま校門をくぐる今、俺たちに文句を言うことはできない。
緊張で手汗をかく。
駅前の人混みと、学校の中は違う。
世間の目が気になるっていうのは、こういうことだ。案外、俺は小心者だったんだな、と憧れていたシチュエーションにビビる自分を俯瞰した。
下駄箱に着くと、当たり前だと言うように手は離れて、少し胸が痛む。
別にコイツは神楽坂先輩じゃないのに、と思うと、微妙な気持ちだった。
「上履きはいた?」
上から声がかかる。ソフトな声色。
コイツ、こんな声だったっけ、ってなる。
「履けた」
「じゃあ行こうぜ」と言うと、手を差し出す。
唖然としてその手を見ると、真嶋は「付き合ってんだろう、俺たち。これくらいは先輩たちもしてる」と少しさみしそうに笑った。
俺は、教室の窓を開け放って、帰っていく生徒たちを見下ろしていた。
前髪が濡れる。
目の前が、霞んで見える。涙が滲む。目の前が、見えない。
「河瀬! お前、古文のノート、まだ提出してないって。なぁ、雨に濡れるぞ。雨、酷いのか?」
「放っておいてくれ」
「放っておけって、お前、風邪を⋯⋯」
真嶋はピタリと足を止めた。
そして、窓の外にふと目をやると、窓から身を乗り出した。
「真嶋、おいお前、落ちるって!」
掴んだシャツの背中が、もう湿っていた。
真嶋は手で口を押さえると、小さく「先輩」と呟いた。
「先輩?」
「あの噂、本当だったんだな⋯⋯。お前、図書委員で一緒だったんだな、神楽坂先輩と」
「うん、そう。隣を歩く蔵田先輩もな」
傘の花はどんどん開いては散らばっていった。その中に、小さなビニール傘がひとつ、際立って見える。
シースルーの傘の中には、神楽坂先輩と蔵田先輩。肩を寄せて、1本の傘に収まっていた。
ふたりの距離は限りなくゼロで、先週あたりから出回っていた噂を真実だと決定づけた。
「俺、好きだったんだよね、先輩のこと。去年の体育祭の時、ジャンケンに負けて実行委員にされちゃってさ。その時いろいろ助けてくれたのが先輩で、やさしいなぁって思ってそれから」
「先輩はいつもやさしいよ。俺だって図書委員になって何もわからなかった時、貸し出し業務から書架の整理まで、全部、先輩が⋯⋯」
男って、こんなに綺麗に泣くこともあるんだなって、思った。真嶋が拭った涙が、手の甲の上で光る。
真っ直ぐに流れ落ちる涙に、俺の涙はすっかり止まってしまった。だって、こんなに綺麗に。
「あのさぁ、こんな提案するのもどうかなと思うんだけど」
まつ毛を濡らしたまま、真嶋はこっちを向いた。普段から色素の薄いその肌は、青ざめて見えた。
「あのさ、フラれた者同士じゃん、俺らって。だからさ、リハビリだと思ってちょっと付き合ってみない? そういうのもやってみたら楽しいかもしんない」
「楽しいかも? マジで言ってんの? 失恋したばっかなのに?」
「だからさ、気分転換だと思えばいいじゃん」
「気分転換で付き合うか? 男同士だぞ」
付き合わない。気分転換で付き合うバカなんていない。
まぁ、こういうのは単なる気まぐれで、フラれたことへの腹いせだ。
「まぁ、いいじゃん、そういうお楽しみも」
真嶋は黙って目を逸らした。ガラッという音を立てて、窓を閉めてきっちり施錠した。
「わかった。乗るよ、それ」
「⋯⋯え?」
「お前と付き合えばいいんだろう? リハビリとかはよくわからないし、男とは付き合ったことはないけど、泣いてたって意味ないしな」
それに、と真嶋は付け足した。
「先輩たちを見下そう」
悲しそうに、そう呟いた。花が萎れた時のように、俯いて。
俺は手近にあった紙を裏返すと、油性ペンのフタをキュッと音を立てて開けた。
「契約内容を決めよう」
「契約?」
「そう、これはあくまで模擬恋愛だからさ、ちゃんと決まりを作らないと」
真嶋の顔に、もう涙の跡はなかった。でも興味があるわけでもないのは一目瞭然だった。
呆れたように、机の前にしゃがんだ俺を見ている。
「その1、嘘をつかないこと。その2、他に好きな人ができたら別れること。その3、本気にならないこと。これくらいかな」
「河瀬さ、その紙、明日提出の進路調査票だぞ。どうすんだ? 親のサイン欄があったぞ」
「早く言えよ、そういうこと! あー、まぁ、まだ考えてないから別にいいけどさ」
「考えてないのか」
「そんな先のことがわかるかよ」
なるほど、と真嶋は言った。
さっきはあんなに泣くほど気持ちが高ぶっていたようだったのに、もう、切り替えたのか、すっかり普通そうに見えた。
普通の真嶋。
しっかりしてて、お人好し、ちょっと鈍い。
「とりあえず帰ろうぜ」
カバンの中に必要なものだけ詰めて、立ち上がると、真嶋は教室の入り口に立って、俺を待っていた。目を疑う。
「なんだよ、友達同士だって帰り支度くらい待つだろう?」
真嶋は照れてるように見えた。『付き合う』という自分で言い出した言葉の意味が、急に重みを増してくる。階段を一段下りるごとに、背中に乗った荷物が、重くなる気がした。
真嶋が傘立てから紺色の傘を出して、俺も似たような自分の傘の柄を持ち上げて、気が変わって、ストーンと落とす。
嫌な顔をして、真嶋が振り返る。
「何やってんだよ」
「傘、一本でいいかなと思って」
「良くないだろう?」
「相合傘しない? 先輩たちみたいに」
「お前さぁ、考えなしだな。俺と別れた後、どうするんだよ? 一緒に帰るの、駅までだろう?」
至極真っ当な意見に、俺の手は傘の手を再び掴んだ。そして真嶋の傘がポンッと音を立てて広がったところに飛び込んだ。
「相合傘だな」
「狭い。て言うか、お前、肩濡れてるし」
俺の傘を提げている方のブレザーの肩が、濡れていた。真嶋は傘を傾けた。
「あ、カッコつけるなよ」
「俺の方が身長、高いからな」
「身長高いと”攻め”になるのかよ」
「”攻め”?」
「いや、こっちのこと。その、身長何センチ?」
「俺は179。180には1センチ、足りない。河瀬は?」
「⋯⋯俺の身長なんかどうでもいいじゃん。168だよ。これ以上はどうやっても伸びねぇ。分けてくれよ」
「分けられるものならな」
ポタポタだった降りは、次第に強くなって、俺たちの入った傘に重い音を響かせた。
「真嶋は何が好き?」
「俺? そうだな、好きなことって言ったら、そうだ、映画は結構観るかな」
「カウチポテト?」
「いや、映画館に行く。月イチくらい」
へぇ、と思う。そんな風には見えない。もっと、アウトドアな感じの。
「河瀬は?」
「俺か。俺は⋯⋯いいか、笑うなよ? 俺、甘い物好きなんだ。特にカスタードクリームと生クリームが。だからコンビニでよく、シュークリームとかプリンを買う。本当は『モーツァルト』みたいな有名店のお菓子が食べたいんだけど、さすがに男ひとりは気が引けて」
「そんな風に見えないけどな」
ドキッとする。さっき、俺が真嶋に対して思ったように、真嶋も俺のこと、考えて。
「じゃあどんな風に?」
「甘いものよりはジャンクフードの方が好きそう」
「ジャンクフードか。嫌いじゃない。今度一緒に食べに行くか」
「それもいいかもな」
話題が途切れる。
急に心細くなる。さっきまで繋いでいた手が、パッと離されたかのように。
「本当に、付き合うのか、俺たち」
声に出してみる。怖い。
俺はずっと男しか好きにならないゲイだった。友達を好きになって、ダメになったこともある。
真嶋のことはまだ、ただのクラスメイトだったけど、拒否られるのはやっぱり怖い。
「まぁ、先輩にフラれたしな」
「そんな理由で男と付き合うの?」
「それ、お前が言うか?」
真嶋は笑顔を見せた。さっきまでの顔より、ずっとやわらかい。
「真嶋、俺の事、嫌じゃないのかよ」
真嶋は俺の目をじっと見た。その目を見上げてる俺は、間抜けだと思った。何を期待してるんだよと。
「正直、まだわかんないよ。今まで、河瀬のこと、あんまり知らなかったし。あーでも、友達だったら付き合わなかったかも。そういうのって、気まずいだろう?」
そうだな、と顔を伏せた。
模擬恋愛と言ったけど、これは不毛な付き合いだ。
本気になったら終わる、ドライな関係だ。
そうだよな、とまた口からこぼれた。
駅までの道のりは、思っていたより長かった。隣に真嶋がいることを、意識せずにはいられなかったからだ。
真嶋の目はまるでウサギのように、赤かった。
教室であんなに泣いたからだ。
長いまつ毛に、涙が滲んでいた。
男って、こんな風に泣くんだと、一度見た横顔が忘れられない。
なんで今、俺たちは笑ってるんだろう。
そうだ、笑ってないと泣いてしまうからだ。
あの人が誰かのものになってしまったことを水に流すように、雨脚はいっそう強まった。
足元のローファーに、水が入った。
◇
翌日はカラッと晴れて、『駅の階段、下りたところで待ち合わせ』は、メッセージでの約束通り実行された。
背の高い真嶋は、階段脇の壁にもたれて、スマホを出すわけでもなく、所在なさげにそこに立っていた。
俺はその姿を見つけて、自然、早足になる。
隣を歩く女子たちが、真嶋の噂をしてる。背の高さだけで噂話の対象になるんだから、世の中、不公平だ。
俺なんか、ラッシュの人混みに埋もれてしまうというのに。
「おはよう」
早足で息が切れた。肩で息をする。
「おはよう、河瀬。そんなに急がなくても良かったのに。遅刻するにはまだ早い」と言って、腕時計をチラッと見た。
コイツ、腕時計族なんだな、と思う。大抵のヤツはスマホで時間を確かめる。
なんだか育ちが良さそうだ。特に高そうな時計ではなかったけど、時間を見る所作が綺麗だった。
改めて考えると、俺は真嶋のことを何も知らなかった。『映画好き』ということくらいしか。
クラスでも、成績のいい真嶋のグループと、俺らのグループでは隔たりがあった。俺たちはいつもくだらないネタで盛り上がっていた。
「行こうか」と真嶋が言ったので、慌てて「待って」とそのジャケットの裾を引く。真嶋が驚いた顔をして振り返る。
「どうした?」
「手!」
「手?」
「手くらい繋がないと! 先輩たちは、最初、手を繋いでるところを見られて話題になっただろう?」
立ち止まった真嶋は、自分の手のひらをまじまじと見た。
考えている、その手が俺の手に繋がれることを。
俺は迷う真嶋に、ずいと手を伸ばした。
「はい」
真嶋はもう一度、自分の手を見て、それから俺の手を見た。
リレーのバトンを渡すように、その手は伸ばされて、俺の手を握った。
「お前、手、小さい」
「最初の感想がそれかよ」
「だって本当のことだからな」
繋がれてない方の手を広げて出してくる。その手に、吸い付くように自分の手を重ねる。
ピタッと密着した手は、確かに指先が揃うことがなかった。予想通りではあったけど。
「まぁ、いいや、行こう」
手を引かれて歩き出すと、風が頬を切った。まだ冬には遠い季節だったけど、冷たい空気が頬に当たった。
真嶋は大股だった。その歩幅の違いを埋めるのが難しい。コイツ、絶対、女子と付き合ったことのないヤツだ。
「ちょっと待てって。速いって」
後ろを振り向くと、驚いた顔をした。
「ごめん、男相手に歩幅を気にしたことはなくて」
「女子ならあるのかよ!?」
「まぁ、女子なら⋯⋯」
前言撤回。女子となら、付き合ったことがあるヤツだ。
「気にしたのって、彼女?」
「まぁ、男と付き合うのはお前が初めてだし」
”付き合うのは”ってところでドキッとする。自分から提案しておいてドキッとするのは、おかしな気がした。
「付き合ってるわけだし? 俺の身長は背の高い女子並みなんだから、歩く速さくらい合わせろよ」
「あー、ごめん。気付かなかった」
細くなったその目は、まだ赤かった。昨日はよく眠れなかったのかもしれない。初めての失恋だったのかもしれない。
失恋ばかりの俺には、よくわからなかったけど。
俺はその手をギュッと握った。
置いて行かれないように。「大丈夫だよ」と言うように。
俺がついてるから、と言えるほどの自信は、まだなかった。模擬恋愛の”彼氏”という言葉が、宙に浮いた。
思ったより俺たちの繋がれた手には、注目が集まって、学校に着く頃には、周りの生徒が遠巻きに見ているようになった。
ヒソヒソ小声で何かを囁いてるのがわかる。
「これが最初の難関だな」と言うと、真嶋は堂々と手を繋いだまま、校門をくぐった。
雨に散った桜の葉が、濡れたまま捨てられた雑誌のように、くたっとその木の根元に張り付いている。
生活指導の教師の目が、一瞬、俺らの手に視線を留めて、目を上げた。知らないフリだ。
神楽坂先輩たちも堂々と、手を繋いだまま校門をくぐる今、俺たちに文句を言うことはできない。
緊張で手汗をかく。
駅前の人混みと、学校の中は違う。
世間の目が気になるっていうのは、こういうことだ。案外、俺は小心者だったんだな、と憧れていたシチュエーションにビビる自分を俯瞰した。
下駄箱に着くと、当たり前だと言うように手は離れて、少し胸が痛む。
別にコイツは神楽坂先輩じゃないのに、と思うと、微妙な気持ちだった。
「上履きはいた?」
上から声がかかる。ソフトな声色。
コイツ、こんな声だったっけ、ってなる。
「履けた」
「じゃあ行こうぜ」と言うと、手を差し出す。
唖然としてその手を見ると、真嶋は「付き合ってんだろう、俺たち。これくらいは先輩たちもしてる」と少しさみしそうに笑った。



