僕たちが生まれた時から住んでいるハインベルグのお屋敷は、墨を刷いたような夜の闇の中でも、蒼白く光っていた。まるで嘘の空に、地上に月光があると示しているようだった。
 人里離れた森の中にぽかんと浮くように建っている僕らの屋敷を、訪れ、帰る人は「怖い」というのだが、僕は馬車で街に出掛けて人込みに晒されるよりも、永遠にこの屋敷の中で弟のルドルフと共に過ごす方が良いと思っていたし、その願いは変わらずに現実として続くと信じ切っていた。
 夜風は鬱蒼とした森を揺らし、音を鳴らす。 
 僕は深夜に薄く瞳を開けると、隣で眠るルドルフが、その風の音を聴きながら、安らかに眠っているのを見たことがある。彼の髪と同じ金に白を一滴混ぜたような淡いブロンドの睫毛が揺れて、月のように光っていた。
 僕にとっての月は空ではなく、隣にあった。
――あの辛く悲惨な日が来るまでは。

 「チェックメイト」

 本棚で四方を覆った壁の、大きな部屋の中央で、まだ背の低い13歳だった僕たちは、足もつかないことをわかっていたのに、丈の長い椅子に座ってチェス盤を広げ、チェスを打っていた。
 白のポーンを指で摘まみ、ルドルフの黒のキングの前に置く。
 ルドルフはしばらく、サファイア色の大きな瞳でじっとキングを見つめていたが、やがて形の良い眉を寄せると、あからさまに残念そうな顔で肩を落とす。

「ああ、また負けた。やっぱリヒト兄さんは強いなぁ」

 彼が白い手を後頭部に回し、がしがしと頭を掻くと、線の細いやわらかなブロンドが、庭に面した大きなガラス窓から差し込む白い陽射しに当たって、きらきらと煌めいて落ちる。
 僕と同じ色艶をした弟の髪が、天へ惹かれて舞い上がったいくのを、チェスを見るふりをしながらちらちらと見ていた。

「ねえ! もう一回やってよ! お願い!」

 ルドルフが身を乗り出し、僕に顔を近付ける。彼の着ている白いシャツの首元で結んだ赤いリボンが、ひらりと揺れる。
 僕は考えるふりをして顎に手をつけた。だが答えはもう決まっていた。

「いいけど。また僕が勝っちゃうよ?」

 そんな意地悪なことを言っていても、僕はルドルフともう一度チェスがやりたいと思っていた。

「ありがとう! リヒト兄さん」

 ルドルフは手を胸の前で合わせてぱっと明るい笑顔の花を咲かす。
 僕はそれを見て満足して、口角をうっすらと上げた。
 互いのチェスを崩し、再び盤の上で立てる音が室内に響く。結局僕は弟に弱いのだ。僕と同じ顔をした、同い年のこの弟に。

ハインベルグ家の中庭には、広いテニスコートがある。僕はそのテニスコートでよく父とテニスをして遊んでもらうのが好きだった。一方運動音痴なルドルフは、僕たちがテニスに誘っても一向にのらず、テニスコートが見える位置の木陰に腰を下ろして、分厚い本を読んでいるのがいつもの光景だった。
 だが今週の日曜日は何故かルドルフは僕の誘いに乗って、珍しく僕とテニスをすることになった。何故急にテニスをしてくれることになったんだろう。わからないが、積極的な弟の態度はとても嬉しかった。得意不得意が双子なのに違っている僕らは、いつも趣味が合わないが、互いが互いを肯定し、認め合って成り立っている。ルドルフは僕に合わせようとしてくれているのかもしれない。
 確かに、父とテニスをすることもとても楽しいが、大好きな弟と大好きなテニスが出来ることは、何にも代えられない喜びだ。

「ルドルフ、行くよ!」
「う、うん!」

 僕の右手に掴まれた黄色いテニスボールが、天へ高く舞い上がる。父とよく使っているので、少し毛羽立っているテニスボールは、5月の太陽の光で、うっすらと金色の光の糸を纏っているように見えた。太陽と重なると、逆光となって黒い点となる。そしてルドルフのコートへと加速度を増して降りていく。
 ルドルフは天高く昇ったテニスボールを茫然と見上げていたが、徐々に自分の元へ近づいて来るにつれて、動揺し、あたふたと体を動かした。白いシャツを腕まくりした、彼の華奢な白い腕に掴まれたブルーのテニスラケットが震えているのが、こちらのコートからもはっきりと見える。

「あっ、あっ、あっ」

 ようやく地面へと降り立とうとするテニスボールに、ルドルフの動揺は更に大きく鳴り、どっちつかずに左右へ大きく揺れるが、面を天へ向けて変な構えをした彼のラケットにボールは落ちることはなく、狙ったように彼の額と鼻の間にぶつかり、勢いをなくして彼のコートへぽとり、と落ちる。

「あいたっ」

 ルドルフは一拍置いて尻餅をついた。
 柔らかなテニスコートは、彼の体を傷つけることはなかったが、彼は両手できつく握っていたラケットを手から落とした。そして上半身を両腕で支えると、胸を張るように天へ向け、鼻を指先で擦る。
 
「ルドルフ!」

 僕は自分の赤いラケットを右手に握ったまま、ルドルフへ向かって駆けた。

「大丈夫か?」

 僕がルドルフの傍へ膝をつき、彼の後頭部と背中に手を入れて支えると、ルドルフは僕に気付いてこちらを見た。サファイア色の彼の大きな瞳が揺れていた。

「兄さんごめん。せっかく兄さんが投げやすい球出してくれたのに」
「ほら、掴め」

 僕は彼の背中から左手を離すと、彼に向かって手を差し伸べた。
 ルドルフは僕の白いてのひらをしばらく茫然と見つめていたが、やがてゆっくりと片手を僕のてのひらの上に乗せた。彼の少し冷えたてのひらを感じると、僕はぎゅっと掴み、力を入れて彼を引っ張り上げて立ち上がった。
 互いにしっかりと両脚がコートの上に立ったのを確認すると、ルドルフは僕の手を離し、代わりに微笑みを浮かべた。

「兄さんはすごいや。ボク、テニスもできやしない」
「何言ってるんだ。君は絵も上手いし、読書家じゃないか」
「兄さんはチェスと乗馬とテニスが上手い。ボク達見た目はそっくりな双子だけど、得意不得意は似てないね」
「確かに」
 
 ルドルフはそういうと、微笑みが徐々に薄れ、真顔になった。そして俯く。
 一方その時の僕は、彼の様子に気付かず、ずっと笑ってしまっていた。今にして思えば、僕は馬鹿だった。何故彼の変化に気付いてあげられなかったのだろうと、時々、自分で自分の胸を引き裂いてしまいたい衝動に駆られる。