体育祭も、いよいよ終盤。

屋内プールには、まるで真夏のような熱気が立ちこめていた。
プールサイドに集まった一年生のざわめきが、いつになく大きい。

『次は、一年生によるリレーです!』

マイク越しの声に、歓声が波のように押し寄せた。

信也は、隣に立つ裕理を見た。
まるで別人みたいに、硬い表情。
まっすぐ前を見つめたまま、石像のように立ち尽くしている。

強く握った指が、血の気を失ったように白くなっていた。

「あっちで待ってるから」

信也は、どうにかそれだけ言った。

「……わかった」

裕理はうなずく。
けれど、その目は一度も信也の方を見ない。

言いようのない不安が、胸の奥にじわりと広がっていく。
まるで自分が、裕理の世界から切り離されてしまったようだった。
声をかけたくても、言葉が出てこない。

どうすることもできず、信也は裕理と離れ、逆側のスタート位置へと向かった。

「ねえ、あれ……本当に王子?」

「でも、名前呼ばれたし……」

どこからともなく、戸惑い混じりの声が上がる。
異変を察知した「王子×騎士」推しの女子たちが、顔を見合わせながら不安げにささやき合った。

その時、鋭い笛の音が空気を裂いた。

『第一泳者、スタートしました!』

水面が大きく跳ね上がり、歓声が一斉に沸き起こった。
思ったより、みんな速い。
第二泳者の水しぶきが次々と立ち、勝負の熱が一気に高まっていく。

『ここまでトップを走る一年A組! 第三泳者、雫ヶ原裕理にバトンが――バトンが……!?』

勢いよく響いていた実況が、ふいにかすれた。
ざわめきも、少しずつ音を失っていく。

――裕理は、動かない。

スタート台の上で、ただ立ち尽くしている。

『おっと、なにかハプニングでしょうか?』

歓声が、ぴたりと止まった。
さっきまでの熱気が嘘のように、会場が息を潜める。
その時、信也は裕理が前に話していたことを思い出した。

――みんなの前で、溺れた。

裕理のトラウマは、きっと「溺れたこと」じゃない。
その姿を「見られた」ことなのかもしれない。

他人に弱みを見せられない。
信也にさえ、最後まで弱音を吐かなかった。
ずっと胸の奥にあった漠然とした不安――その正体に、今ようやく気づいた気がした。

「裕理……」

信也の喉から、思わず声が漏れる。
けれど、水音と歓声にかき消されて、届かない。

どうすれば――あいつを動かせるんだ。

その時――

「おい、雫ヶ原!」

人垣をかき分け、蓮見が裕理の横に立った。

『ちょっ、蓮見!?』

実況マイクが慌てて声を上げる。
蓮見が、裕理に何かを告げた。
その瞬間、裕理の瞳に、ふっと光が宿ったように見えた。
止まっていた時間が、ほんの少しだけ動き出す。

信也は思わず、スタート台にあがり、右手を高く掲げた。
会場のざわめきが、すっと引いていく。
時間が止まったみたいに、世界から音が消えた。

「大丈夫。来い」

小さくつぶやく。
裕理は――飛び込んだ。
水面がぱん、と割れ、白い飛沫が散る。
フォームはぎこちない。
バタ足とクロールの中間みたいで、体の動きも安定しない。
客席がざわつく。

「え……大丈夫?」

「あの泳ぎ、なに?」

だが、その泳ぎは、やがて空気を変え始めた。
豪快な水しぶき。
荒々しいまでのバタ足が、前へ進む力へと変わっていく。
ぎこちなさは、いつしか力強さへと姿を変えていた。

「すご……!」

「ワイルドすぎ!」

『王子とは思えぬ豪快な泳ぎ!』

どよめきが渦になり、歓声が重なる。

「あれはあれでカッコいい……かも」

「いや、普通に好き」

――女子たちのテンションが、一気に戻っていく。

「――行け!」

「がんばれ!」

ざわめきは、次第に熱を帯びた声援へと変わっていった。
裕理は腕を伸ばし、必死に水をかく。
信也の待つゴールに、ぐんぐん近づいてくる。

「裕理! あと少し!」

信也は叫んだ。
最後の一掻き――タッチ。
目が合った、その瞬間。
信也は迷いなく、水面へと飛び込んだ。

アンカー、五十メートル。

水が爆ぜ、体が矢のように伸びる。
元・水泳部仕込みのターンとストロークが、水を切り裂く。

「あれ、羽瀬? 速い!」

「A組のアンカーやば!」

ゴールが迫る。
裕理が見える。
信也は全力のまま、壁を叩いた。

『A組、一着でゴール!』

実況の叫びと同時に、歓声が炸裂した。

「やったな」

上から差し出された手。
信也はその手を、掴む。
気づけば、ぐっと引き寄せていた。

「あ」

ズルッと裕理の足が滑る。

ドボンッ!

水柱が上がり、二人は水中へと沈んだ。
二人だけの世界で、裕理の手がすっと信也に伸びる。
指先が首筋をなぞり――次の瞬間、ぐっと引き寄せられた。

「……っ」

驚く暇もなく、唇が触れた。
思わず、信也も裕理の首に手を回し、さらに引き寄せる。

ほんの一瞬。
けれど、それは「偶然」じゃなかった。

「え、今なにかあったよね!?」

「水中にいる時間、長くなかった?」

見えなくても、伝わるらしい。
女子たちのざわめきが、波のように広がっていった。

「信也、やりおる」

雪乃が満足げにつぶやいた。

***

「終わったなー」

夕方。

体育館裏の木陰で、信也と裕理は並んで腰を下ろしていた。
漣と琉惺も一緒だ。
日中の暑さが嘘のように、涼しい風が吹き抜けていく。

「信也、リレーかっこよかった」

漣がぽつりとつぶやく。

「あ、ありがと。……漣たちも――」

言いかけて、信也は言葉を飲み込んだ。
漣と琉惺の、あのハプニングは一瞬で校内中に広まった。
そのせいで今、二人は人目から逃れるように、体育館の裏で時間を潰している。

「……」

「……」

「ゆ、裕理もすごかったよな。あの短期間で、よくあそこまで泳げるようになった」

気を取り直して信也が言うと、琉惺が珍しく食い気味に口を挟んだ。

「だよな。俺、あの瞬間、涙出たから」

「オレも……感動した」

漣が小さくつぶやく。
裕理は視線をそらし、少し恥ずかしそうに言った。

「……すべてをさらけ出したからな」

「それでも『王子』のままって、ずるくね?」

漣が、どこか拗ねたように言う。

「本当は『王子』返上するつもりだったんだけど」

裕理が言った。

「そういえば、あの時――蓮見部長、何て言ったんだ?」

漣が口を挟む。

「ああ……『信也だけ見てろ』って」

「まじか……はずっ」

なぜか漣が顔を赤らめる。

「だよな」

裕理もつられて笑った。

――その表情は、どこまでも柔らかかった。

信也は、胸の奥が温かくなるのを感じながら、その横顔を見つめていた。

どこからか、風に乗って女子たちのため息まじりの声が届く。

「……結局、全員、尊い」

「ほんとそれ」

声はすぐに風にさらわれ、空へと溶けていった。

――きっと、この一日を、ずっと忘れない。