体育祭の朝。
青天だ。
雲ひとつない。

「……晴れ過ぎじゃね?」

漣がつぶやく。

「だな」

「なんで?」

「さあ」

強い日差しが、テントや応援旗、舞い上がる砂の一粒一粒まで光らせていた。
昇降口で、信也と漣はテンション低めにその光景を眺める。
もうすでに帰りたい。

「……じゃ、あとでな」

「うん。信也のリレー、見に行く」

「オレも、漣の綱引き……行けたら行く」

「わかった」

軽く言葉を交わし、それぞれの持ち場へ急いだ。
信也は靴を履き替えながら、横目で裕理の下駄箱をのぞいた。

――もう来ている。

(……あいつ、大丈夫かな)

昨日まで、必死に練習していた裕理の姿が脳裏に浮かぶ。
ゆる水部の活動日は火曜と木曜だけ。
水泳部に頼み込んで、この一週間、第八レーンを借りて特訓した。

25メートルを泳ぎきれたのは、つい昨日のことだ。
プールへ向かうと、裕理は水面をじっと見つめていた。
いつも、何を考えながらあの場所に立っているのだろう?
信也はそっとその横顔を盗み見た。

「おはよ」

声をかけると、裕理はゆっくり振り向いた。

「おはよう」

「緊張してる?」

「……まぁね。信也は?」

「うん、ちょっと……いや、かなり。だって、なぜかオレがアンカーになってるし!」

思わず声が大きくなった。

気づいたら泳ぐ順番が決まっていて、文句を言う暇もなかった。
しかも、その事実を知ったのは、昨日の放課後だ。

せめて、裕理は二番目あたりにしてほしかった。

――いまさらだけど。

「がんばれよ。頼りにしてる」

そう言って、裕理はポンと信也の背中をたたいた。
リレーは各クラス四名。
裕理は三番手、信也はアンカー。
アンカーだけが倍の五十メートルを泳ぐ。
泳ぐだけなら問題ない。
けれど――勝敗を分ける舞台となれば話は別だ。

「……うー、胃が痛い」

信也がプールサイドでうずくまると、裕理は肩をすくめて笑った。

「大げさだな。まぁ、俺も頑張るし。どうにかなるって」

軽口に見えて、ちゃんと励ましてくれているのがわかる。
信也はてのひらで水をすくい、パシャっとはね上げた。

裕理は、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。
――けれど、不安なのは誰よりも彼自身のはずだ。

確かに、上達の速さには驚かされた。
だけど――水泳部ではないにしろ、ある程度水泳が得意な連中と互角に渡り合えるかといえば、正直きびしい。
あっという間に差をつけられる光景が、脳裏に浮かぶ。
信也は隣を見上げた。
そこにあるのは、涼しげな表情――なぜか、その落ち着きがかえって不安をあおった。

(……せめて、弱音を吐いてくれればいいのに)

***

⦅漣視点⦆

体育館。
漣は二階のゴール裏の通路に身を潜め、コートを見下ろしていた。
応援団は女子ばかり。
その輪に入る勇気は、さすがにない。
それでも――琉惺の姿は見たい。応援だってしたい。
だからゴールの影に紛れるようにして、じっと彼を目で追っていた。

「あいつ……ほんと目立つな」
つぶやいた声は、あっけなく体育館のざわめきに飲み込まれた。

生き生きとコートを走り回るその姿。
ボールを求めて伸ばす指先が、まぶしくて――遠い。
その真剣なまなざしの先に、自分はいない。
それが、少し胸の奥をざわつかせた。

コートに立つ彼らの熱気、弾むボールの音。
琉惺の手にボールが渡るたびに沸き起こる、大きな歓声。
そのすべてに包まれながら、漣はただ見つめることしかできなかった。

――琉惺がシュートを決めた瞬間、体育館中にどよめきが広がった。

「おお!」

思わず漣が声を上げると、琉惺がハッと顔を上げた。
そして、何かを探すように二階席へ視線を向ける。
その視線が、すぐに漣をとらえた。

「漣、そんなところにいたのか」

「……居場所がないから、隠れて見てる」

こそっと打ち明けると、琉惺はふっと笑って言った。

「そっか。ちゃんと応援しろよ」

――ヤバい。その笑顔だけで、胸の奥がぎゅっとなる。

膝の力が抜け、その場にへたり込む。
胸のときめきが止まらない。
むしろ、どんどん強くなっていく。

そして、それは漣だけではなかった。
一部の女子も、「騎士と天然」のやり取りにすっかり心を奪われ、応援どころではなくなっていた。

***

⦅漣視点⦆

「おい、漣。行くぞ!」

腕をぐいっと引っ張られる。

「え?」

見上げると、琉惺が真上から自分を見下ろしていた。

「いつまでそうしてるんだよ。試合、終わったぞ」

「……終わった!? か、勝った?」

「勝ったに決まってるだろ。……てか、見てなかったのかよ」

琉惺が呆れたように眉をひそめる。

「なぜか記憶が飛んでる」

頭がふわふわして、時間の感覚がまるでない。
たしか、琉惺のせいだったような……いや、間違いなく琉惺のせいだ。

「なんだそれ。……ま、いいや。それより綱引きの集合時間だから、行くぞ」

琉惺がそう言って漣を急かす。
髪から、汗がぽたりと落ちた。

「……すごい、汗かいてる」

気づけば、手が勝手に伸びていた。
その指先を、琉惺がすばやくつかむ。

「おい、やめろ……触るなって」

琉惺は顔を隠すように、袖でグイッと額の汗をぬぐった。
その横顔が、わずかに赤い。

「りゅ……?」

呼びかける間もなく――

「行くぞ」

手を引かれるようにして、漣はサブ体育館へと向かった。

二人が入ってくるなり、実行委員が安堵の声を上げる。

「蒼之森、すまん! バスケと綱引き、時間かぶってるの気づかなかった」

「大丈夫。間に合ったし」

「それでは、位置についてください!」

運営の声が体育館に響きわたる。

「漣、一番前でもいいか?」

「う、うん」

笛が鳴る前の、一瞬の静寂。
背中に、琉惺の気配を感じる。
さっきまではあんなに遠く感じたのに――今は触れるほど近い。
まだ何もしていないのに、呼吸が浅く速くなる。

(――全く集中できない!)

漣は思わずギュッと目をつぶった。

***

⦅琉惺視点⦆

ピッ――!

合図と同時に、ロープが大きく軋む。
両手で握り、全身で引く。
視線のすぐ先には、漣のつむじ。

(近っ……)

必死に綱を引く漣。
その姿が、どうしようもなく可愛い。
引っ張り方がぎこちないのも――また、可愛い。
そんなことを思っていたとき。

ポタッ。

汗がまつ毛を伝い、視界が一瞬ぼやける。

(汗が――)

キュッ。
靴底が滑り、足がわずかに流れた。

「――っ、漣!」

踏ん張ろうとした足が、漣のかかとを押してしまう。

「うわっ、なに……!?」

振り返ろうとした漣の体が、ふっとバランスを崩した。

次の瞬間――

縄から手が離れ、重力に引っぱられるように前のめりになる。
そのまま、仰向けに倒れた琉惺の胸元へと、倒れ込んだ。

「んっ――!?」

唇が、触れた。
思わず息を飲むほどの、確かな感触。

「……っ」

一瞬、時が止まった。
すべてが遠のいていく。
琉惺は目を見開いたまま、漣を抱え込む格好で固まった。

まるで悲鳴のような歓声が、波となって押し寄せた。
敵も味方も、競技中であることを忘れたように、ただその光景を見つめている。
その時、いち早く我に返った実行委員が叫んだ。

「今のうちだ! 引けー!」

琉惺と漣をのぞいたメンバーが、一斉に綱を引いた。

「うおおおおお――!」

「勝者、A組!!」

審判の声が響いた瞬間、わっと空気が弾けた。

琉惺は漣をそっと離し、立ち上がる。
一方の漣は――完全にフリーズしたまま、両手で口元を押さえていた。
その様子に、客席の一角がざわめき出す。

「ちょっ、騎士様、顔真っ赤!」

「し、しかし『王子×騎士最強説』は……我が校の伝統は……?」

「推し変わ……る?」

「……漣、意外とやりおる」雪乃がつぶやき――

「琉惺……顔、ヤバ」愛美花もぽそりと続けた。

観客のざわめきは、やがて勝利を祝うコールへと変わっていく。

そして、熱気が少し落ち着いた頃――

体育館の隅。

「……漣。口、どうした? 大丈夫か?」

琉惺が口を押えたままの漣の手をそっとどける。

――怪我は、していない。たぶん。

「……大丈夫なわけない」

「え……?」

「キス、された」

言ってから、ジトっと琉惺をにらむ。

「……キス?」

琉惺は喉の奥で小さく息をのんだ。

「あ……ごめん。本当に、ごめん」

不可抗力、だよな――
頭ではそう思っているのに、気づけば謝罪の言葉が口からこぼれていた。

***

信也と裕理は、水着の上にジャージをはおり、少し離れた場所からその様子を見ていた。

「今……キス、した?」

信也が隣を見ると、裕理は珍しく、ぽかんとした顔をしていた。
無言のまま、目をぱちぱちと瞬かせている。

珍しくて――なんだか、面白い。

(こんな顔もするんだ……もし、自分がキスしたら、どんな顔をするんだろう)

我に返って、信也は頭を振る。
最近、頭の中がこんなことばかりだ。
自分でも、どうしてなのかよくわからない――

ふと目を向けると、裕理がこちらを見て言った。

「……俺らも、頑張らないとな」

その時、場内放送が喧騒を切り裂くように響いた。

『一年生の皆さんに連絡します。次は水泳リレーを開始します。選手はプールサイドに集合してください』

「……行くか」

裕理の呟きに、信也はうなずいた。
思いがけない出来事の余韻が、抜けないまま。
――次は、自分たちの番だ。