プール。
水面がわずかに揺れ、ザバッと顔を出す信也と裕理。
「……潜れるようになってる!」
信也が驚いたように声を上げると、裕理はゴーグルをずらしてどこか得意そうに笑った。
「風呂で練習した」
「本当にやったんだ」
「……なんか、音で溺れてると思ったらしくて、親が飛び込んできた」
「マジ?」
「で、ゴーグル姿の俺見て、無言で戻ってった」
思わず笑ってしまう。
「ヤバいな。裸にゴーグルとか……」
口にした瞬間、頭の片隅にその光景が浮かんだ。
――裸にゴーグル姿の裕理。
変な格好のはずなのに、想像の中の裕理は、やっぱりかっこいい。
(……なんてこと考えてんだ)
浮かんだ妄想を振り払うように、信也は水中へ潜った。
追いかけるように裕理も潜ってくる。
もう、普通に潜れてる。
さすが裕理だ。
自分はもう息が苦しいのに、余裕そうな笑みを浮かべている。
「ぷはっ」
先に水面へ飛び出したのは信也だった。
「……余裕すぎだろ」
まだ水の中にいる裕理を見下ろしながら、思わずつぶやく。
きっと、あっという間に自分より上手くなるだろう。
そしたら、隣にいる「理由」がなくなる。
この時間は、長くは続かないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったとき――
「そういえば……」
裕理が顔を出し、ふと口を開いた。
「そろそろ、体育祭だな」
「う……」
信也は、水の上に仰向けに浮かんだ。
この高校を選ぶとき、気にかかっていたことがある。
それは――体育祭が一大イベントで、しかも年に二回もあるということだった。
「どうした?」
裕理が不思議そうに信也を見下ろす。
「裕理は楽しみだろ、体育祭。何でもできるし――」
「まぁ、水泳以外は」
「……水泳になったりして。水泳部と勘違いされて」
ふっと笑った信也の脇腹を、裕理がチョン、と指で突いた。
「ちょ、やめっ……!」
裕理は悪戯っぽく笑って、さらにチョンチョンと突いてくる。
「やめろっ!」
思わず裕理の手を掴んだ。
一瞬、視線が絡む。
「……っ!」
信也は慌てて手を離し、うつむいた。
「たしか、入ってる部活の競技には出られないはずだけど」
裕理が言った。
「そうなの?」
「たしか」
「そっか……」
小さく息を吐く。
ほんの少し、残念に思う。
裕理と一緒に出たい――そんなことを、考えてしまった。
***
翌日。
ホームルーム。
「体育祭の種目を決めまーす!」
実行委員の声が響いた瞬間、教室が一気にざわめきに包まれた。
コツコツとチョークの乾いた音が響き、黒板に次々と競技名が並んでいく。
バレー
バスケ
サッカー
綱引き
水泳リレー/自由形
「やりたい競技のところに名前を書いてくださーい。複数エントリーもOKです!」
あちこちから「どれ出る?」「一緒に出ようよ」と声が飛び交い、みんな楽しそうに種目を選んでいる。
――さすがだ。この学校ならではの光景だ。
しかし、一方では――
「ついに、この時が来てしまった……」
隣の席で、漣がカタカタと震えている。
「漣! 黒板よく見ろ。綱引きがある!」
信也は思わず身を乗り出し、漣の肩を揺さぶった。
「……つなひき?」
魂が抜けたような声が、漣の口から漏れた。
「まだ誰も書いてないから、今のうちに――」
「……綱引き!!」
次の瞬間、漣はよろよろと立ち上がり、人だかりをかき分けて黒板へと向かった。
綱引きの欄に『篠田』と書き込むと、どこか誇らしげな顔で席に戻ってくる。
「書いてきた!」
さっきまでの様子が嘘のように、すっかり元気を取り戻していた。
「よかったな」
信也はそう言いながら、黒板へ視線を向けた。
リレーの横に「自由形」と書かれている。
――つまり、走るリレーではなく、水泳のリレーだ。
どうしよう。
バスケとかバレーは得意じゃない。
(早く、綱引きに名前を書かないと……)
そう思いながらも、視線は「リレー(自由形)」から離せなかった。
もしかしたら――本当は、リレーをやりたいと思っているのかもしれない。
裕理と、一緒に。
そのとき、遠くにいた裕理と目が合った。
気づけば、信也は立ち上がっていた。
理由なんて、わからない。ただ、体が勝手に動いていた。
黒板の前に立つと、人気がないのか、リレーの欄にはまだ誰の名前もなかった。
一瞬だけためらってから、その空白に『羽瀬』と書き込む。
胸の鼓動がうるさいまま、席へ戻る。
椅子に腰を下ろした瞬間、教室のあちこちから微かなどよめきが上がった。
ハッと視線を上げると、自分の名前のすぐ下に――『雫ヶ原』の文字があった。
***
⦅琉惺視点⦆
「裕理……大丈夫なの?」
「なにが」
クラスの喧騒を眺めながら、裕理はいつも通りの涼しい顔をしている。
琉惺はため息をつき、幼なじみの隣へ腰を下ろした。
「おまえ、泳げないじゃん」
「少しは、泳げるようになった」
「……少しって、まさかバタ足とかじゃないよな」
「ビート板なし」
得意げな視線を寄越してくる。
「……って、それでリレー出るつもり? それに……」
琉惺は言葉を切った。
泳げるようになったからといって、トラウマを克服したことにはならない。
本人は気づいているのだろうか。
トラウマなのは水だけじゃない。
あの「視線」だ。
琉惺はそっと裕理の表情を盗み見た。
相変わらず、余裕そうな横顔。
「まだ日数あるし。信也もいるから、問題ない」
迷いもなく、そう言い切る。
「そう?」
きっと、本番にはきっちり合わせてくるのだろう。
――いつもそうだから。
「まぁ、思いっきりダサい姿見せて……王子から庶民に落ちる、ってのもアリかもな」
琉惺が言うと、裕理は楽しそうに笑った。
「それ、いいな」
久しぶりに見る素の笑顔に、思わずため息がこぼれる。
――もしかして、本気で「庶民」になりたいとでも、思っているのだろうか。
「琉惺は? 名前どこにもないけど」
裕理がぽつりとつぶやく。
「――いけね」
慌てて立ち上がり、黒板へ駆け寄った。
そこには、困り顔の実行委員が顎に手を当てて立っていた。
「蒼之森、たのむ! バスケと綱引き、出てくれ!」
***
放課後。
帰ろうとする裕理、琉惺、愛美花の前に、一人の人物が立ちはだかった。
――雪乃だ。
足を開き、腰に手を当てている。
「絶対にここは通さない」とでも言いたげな、強い意思がその立ち姿から伝わってくる。
三人は足を止め、顔を見合わせた。
正直、どう扱っていいか分からない。
すらりと伸びた手足、さらさらのロングヘア。
外見だけなら、美人の部類に入るはずだ。
――なのに、なぜかそう見えない。
信也も漣も、普段から彼女を雑にあしらっている。
雪乃は、美人である前に、とんでもない変人なのだ。
「……雪乃」
裕理が囁くように、そっと呼びかけた。
琉惺と愛美花は、反射的に裕理を見た。
(おい、名前で呼ぶな!)
(なに、その声のかけ方!?)
――案の定、雪乃の足がガクガクと震え始める。
「名前呼びとか、シャレにならないから」
愛美花が耳打ちすると、裕理はわずかに首を傾げて答えた。
「でも、名字知らない」
「……この天然が」
琉惺がぼそっとつぶやいた。
「きょ、今日は『姫』に用があって来たの!」
雪乃が、どうにか崩れ落ちずに言った。
「……姫?」
また、三人で顔を見合わせる。
「愛美花のことか。――じゃ、また明日な」
琉惺が手を振る。
「じゃ」
裕理も片手を上げ、すっと愛美花の横を通り過ぎていった。
王子と騎士は、あっさりと「姫」を置いて去っていった。
「……は?」
取り残された愛美花は、呆然とその場に立ち尽くした。
***
「早く! 時間がない!」
雪乃に手を引かれ、愛美花は放課後の廊下を走っていた。
な、なにこれ……。
初めての感覚に、戸惑うしかない。
同性の友達なんて、今までいなかった。
男なら、腕を振り払えば済む話だ。
けれど、同性の場合――どうしていいのか、分からない。
(なに、この子……足、速っ)
雪乃は廊下の突き当たりで立ち止まると、キョロキョロと辺りを見回し、言った。
「これ、被って」
「え……」
手渡されたのは、大きめの紙袋。
一部が、不自然に破かれている。
雪乃はそれを、愛美花の頭上にかざした。
「やだ……やめて!」
――ズボッ。
え?
破かれた部分が、ちょうど目の位置にきていた。
その隙間から、雪乃の姿が見える。
彼女も同じように袋を被っている。
「これ、なに……」
「しー、静かに」
そう言って、雪乃は目の前の扉を、そっと開けた。
***
薄暗い、教室。
カーテンは閉め切られ、電気もついていない。
わずかに、ホワイトボードだけが白く浮かび上がっている。
――え。
愛美花は、思わず足を止めた。
……人がいる。しかも、思っていた以上にたくさん。
ホワイトボードの隣に立つ女子が、こちらに鋭い視線を向けてくる。
だが、何も言わず、スッと目をそらした。
「本日の議題は――」
重苦しい空気が、教室全体を支配する。
「庶民・羽瀬信也と、天然・篠田漣を排除すべきか」
(え……)
愛美花は思わず、隣の雪乃を見る。
雪乃は小さく頷き、ホワイトボードへ視線を移した。
そこには、二枚の写真が貼られている。
ひとつは、プールサイドで並んで弁当を食べる裕理と信也。
もうひとつは、ゴミ捨て場の裏へ向かう琉惺と漣の後ろ姿。
ざわ、と空気が揺れた。
「ご存じの通り、わが校の伝統は『王子×騎士』です。それを乱す者たちを、断罪すべきか否か。意見のある方は――今ここで表明してください」
沈黙を破って、一人の女子がすっと立ち上がった。
「……断罪すべきです。王子と騎士の絆を脅かすなど、あってはならない暴挙。迷っている時間はありません。手遅れになる前に、速やかに裁きを下すべきです」
「待ってください!」
別の席から、鋭い声が空気を切り裂く。
「伝統も大切です。しかし――王子と騎士、その『お気持ち』はどうなるんですか?」
暗がりに潜む十数人の視線が、一斉に交錯した。
その時、小柄な女子がスッと立ち上がり、賛同するように数人が続いた。
「皆さん『庶民×天然』の存在をお忘れではありませんか? 伝統は確かに大切です。けれど――新しい可能性も、同じように重んじるべきかと!」
ふたたび空気が揺れる。
小さな拍手が起こり、それに呼応するように後方の小集団が声を上げた。
「それならば――私たちは『姫』をめぐって争う王子と騎士の対立にこそ、浪漫を感じます!」
ビクリと、愛美花の肩が震える。
「姫? な、何を言ってるんですか。ここは、そういう話し合いの場では――」
「静粛に」
冷たい声が響いた。
沈黙の中、視線が交錯する。
雪乃が、愛美花の袖をそっと引く。
「……もう出よう」
耳元で、ささやくように言った。
二人は静かに、廊下へ抜け出した。
***
学校から駅へと続く坂道を下る。
夕方の風が、さっきまでの緊張を少しずつ洗い流していく。
「……なにあれ」
愛美花はぽつりとつぶやいた。
「なんか、最後の方わけわからないことになってて、うけたよね。紙袋被ってて正解だったでしょ」
雪乃が肩をすくめる。
「……たしかに」
愛美花は苦笑した。
まさか、紙袋を被っていてよかったと思う日が来るなんて――
坂の下の公園に、裕理と琉惺の姿が見えた。
待っていてくれたのだろう。
「用事、終わった?」
琉惺が素っ気なく言う。
「まあね」
「てか、何してたの?」
「……秘密」
「秘密!?」
琉惺の戸惑った顔が妙におかしい。
「知らない方がいいやつだから!!」
愛美花が言うと、隣で雪乃が全力でうんうんと頷いた。
水面がわずかに揺れ、ザバッと顔を出す信也と裕理。
「……潜れるようになってる!」
信也が驚いたように声を上げると、裕理はゴーグルをずらしてどこか得意そうに笑った。
「風呂で練習した」
「本当にやったんだ」
「……なんか、音で溺れてると思ったらしくて、親が飛び込んできた」
「マジ?」
「で、ゴーグル姿の俺見て、無言で戻ってった」
思わず笑ってしまう。
「ヤバいな。裸にゴーグルとか……」
口にした瞬間、頭の片隅にその光景が浮かんだ。
――裸にゴーグル姿の裕理。
変な格好のはずなのに、想像の中の裕理は、やっぱりかっこいい。
(……なんてこと考えてんだ)
浮かんだ妄想を振り払うように、信也は水中へ潜った。
追いかけるように裕理も潜ってくる。
もう、普通に潜れてる。
さすが裕理だ。
自分はもう息が苦しいのに、余裕そうな笑みを浮かべている。
「ぷはっ」
先に水面へ飛び出したのは信也だった。
「……余裕すぎだろ」
まだ水の中にいる裕理を見下ろしながら、思わずつぶやく。
きっと、あっという間に自分より上手くなるだろう。
そしたら、隣にいる「理由」がなくなる。
この時間は、長くは続かないのかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったとき――
「そういえば……」
裕理が顔を出し、ふと口を開いた。
「そろそろ、体育祭だな」
「う……」
信也は、水の上に仰向けに浮かんだ。
この高校を選ぶとき、気にかかっていたことがある。
それは――体育祭が一大イベントで、しかも年に二回もあるということだった。
「どうした?」
裕理が不思議そうに信也を見下ろす。
「裕理は楽しみだろ、体育祭。何でもできるし――」
「まぁ、水泳以外は」
「……水泳になったりして。水泳部と勘違いされて」
ふっと笑った信也の脇腹を、裕理がチョン、と指で突いた。
「ちょ、やめっ……!」
裕理は悪戯っぽく笑って、さらにチョンチョンと突いてくる。
「やめろっ!」
思わず裕理の手を掴んだ。
一瞬、視線が絡む。
「……っ!」
信也は慌てて手を離し、うつむいた。
「たしか、入ってる部活の競技には出られないはずだけど」
裕理が言った。
「そうなの?」
「たしか」
「そっか……」
小さく息を吐く。
ほんの少し、残念に思う。
裕理と一緒に出たい――そんなことを、考えてしまった。
***
翌日。
ホームルーム。
「体育祭の種目を決めまーす!」
実行委員の声が響いた瞬間、教室が一気にざわめきに包まれた。
コツコツとチョークの乾いた音が響き、黒板に次々と競技名が並んでいく。
バレー
バスケ
サッカー
綱引き
水泳リレー/自由形
「やりたい競技のところに名前を書いてくださーい。複数エントリーもOKです!」
あちこちから「どれ出る?」「一緒に出ようよ」と声が飛び交い、みんな楽しそうに種目を選んでいる。
――さすがだ。この学校ならではの光景だ。
しかし、一方では――
「ついに、この時が来てしまった……」
隣の席で、漣がカタカタと震えている。
「漣! 黒板よく見ろ。綱引きがある!」
信也は思わず身を乗り出し、漣の肩を揺さぶった。
「……つなひき?」
魂が抜けたような声が、漣の口から漏れた。
「まだ誰も書いてないから、今のうちに――」
「……綱引き!!」
次の瞬間、漣はよろよろと立ち上がり、人だかりをかき分けて黒板へと向かった。
綱引きの欄に『篠田』と書き込むと、どこか誇らしげな顔で席に戻ってくる。
「書いてきた!」
さっきまでの様子が嘘のように、すっかり元気を取り戻していた。
「よかったな」
信也はそう言いながら、黒板へ視線を向けた。
リレーの横に「自由形」と書かれている。
――つまり、走るリレーではなく、水泳のリレーだ。
どうしよう。
バスケとかバレーは得意じゃない。
(早く、綱引きに名前を書かないと……)
そう思いながらも、視線は「リレー(自由形)」から離せなかった。
もしかしたら――本当は、リレーをやりたいと思っているのかもしれない。
裕理と、一緒に。
そのとき、遠くにいた裕理と目が合った。
気づけば、信也は立ち上がっていた。
理由なんて、わからない。ただ、体が勝手に動いていた。
黒板の前に立つと、人気がないのか、リレーの欄にはまだ誰の名前もなかった。
一瞬だけためらってから、その空白に『羽瀬』と書き込む。
胸の鼓動がうるさいまま、席へ戻る。
椅子に腰を下ろした瞬間、教室のあちこちから微かなどよめきが上がった。
ハッと視線を上げると、自分の名前のすぐ下に――『雫ヶ原』の文字があった。
***
⦅琉惺視点⦆
「裕理……大丈夫なの?」
「なにが」
クラスの喧騒を眺めながら、裕理はいつも通りの涼しい顔をしている。
琉惺はため息をつき、幼なじみの隣へ腰を下ろした。
「おまえ、泳げないじゃん」
「少しは、泳げるようになった」
「……少しって、まさかバタ足とかじゃないよな」
「ビート板なし」
得意げな視線を寄越してくる。
「……って、それでリレー出るつもり? それに……」
琉惺は言葉を切った。
泳げるようになったからといって、トラウマを克服したことにはならない。
本人は気づいているのだろうか。
トラウマなのは水だけじゃない。
あの「視線」だ。
琉惺はそっと裕理の表情を盗み見た。
相変わらず、余裕そうな横顔。
「まだ日数あるし。信也もいるから、問題ない」
迷いもなく、そう言い切る。
「そう?」
きっと、本番にはきっちり合わせてくるのだろう。
――いつもそうだから。
「まぁ、思いっきりダサい姿見せて……王子から庶民に落ちる、ってのもアリかもな」
琉惺が言うと、裕理は楽しそうに笑った。
「それ、いいな」
久しぶりに見る素の笑顔に、思わずため息がこぼれる。
――もしかして、本気で「庶民」になりたいとでも、思っているのだろうか。
「琉惺は? 名前どこにもないけど」
裕理がぽつりとつぶやく。
「――いけね」
慌てて立ち上がり、黒板へ駆け寄った。
そこには、困り顔の実行委員が顎に手を当てて立っていた。
「蒼之森、たのむ! バスケと綱引き、出てくれ!」
***
放課後。
帰ろうとする裕理、琉惺、愛美花の前に、一人の人物が立ちはだかった。
――雪乃だ。
足を開き、腰に手を当てている。
「絶対にここは通さない」とでも言いたげな、強い意思がその立ち姿から伝わってくる。
三人は足を止め、顔を見合わせた。
正直、どう扱っていいか分からない。
すらりと伸びた手足、さらさらのロングヘア。
外見だけなら、美人の部類に入るはずだ。
――なのに、なぜかそう見えない。
信也も漣も、普段から彼女を雑にあしらっている。
雪乃は、美人である前に、とんでもない変人なのだ。
「……雪乃」
裕理が囁くように、そっと呼びかけた。
琉惺と愛美花は、反射的に裕理を見た。
(おい、名前で呼ぶな!)
(なに、その声のかけ方!?)
――案の定、雪乃の足がガクガクと震え始める。
「名前呼びとか、シャレにならないから」
愛美花が耳打ちすると、裕理はわずかに首を傾げて答えた。
「でも、名字知らない」
「……この天然が」
琉惺がぼそっとつぶやいた。
「きょ、今日は『姫』に用があって来たの!」
雪乃が、どうにか崩れ落ちずに言った。
「……姫?」
また、三人で顔を見合わせる。
「愛美花のことか。――じゃ、また明日な」
琉惺が手を振る。
「じゃ」
裕理も片手を上げ、すっと愛美花の横を通り過ぎていった。
王子と騎士は、あっさりと「姫」を置いて去っていった。
「……は?」
取り残された愛美花は、呆然とその場に立ち尽くした。
***
「早く! 時間がない!」
雪乃に手を引かれ、愛美花は放課後の廊下を走っていた。
な、なにこれ……。
初めての感覚に、戸惑うしかない。
同性の友達なんて、今までいなかった。
男なら、腕を振り払えば済む話だ。
けれど、同性の場合――どうしていいのか、分からない。
(なに、この子……足、速っ)
雪乃は廊下の突き当たりで立ち止まると、キョロキョロと辺りを見回し、言った。
「これ、被って」
「え……」
手渡されたのは、大きめの紙袋。
一部が、不自然に破かれている。
雪乃はそれを、愛美花の頭上にかざした。
「やだ……やめて!」
――ズボッ。
え?
破かれた部分が、ちょうど目の位置にきていた。
その隙間から、雪乃の姿が見える。
彼女も同じように袋を被っている。
「これ、なに……」
「しー、静かに」
そう言って、雪乃は目の前の扉を、そっと開けた。
***
薄暗い、教室。
カーテンは閉め切られ、電気もついていない。
わずかに、ホワイトボードだけが白く浮かび上がっている。
――え。
愛美花は、思わず足を止めた。
……人がいる。しかも、思っていた以上にたくさん。
ホワイトボードの隣に立つ女子が、こちらに鋭い視線を向けてくる。
だが、何も言わず、スッと目をそらした。
「本日の議題は――」
重苦しい空気が、教室全体を支配する。
「庶民・羽瀬信也と、天然・篠田漣を排除すべきか」
(え……)
愛美花は思わず、隣の雪乃を見る。
雪乃は小さく頷き、ホワイトボードへ視線を移した。
そこには、二枚の写真が貼られている。
ひとつは、プールサイドで並んで弁当を食べる裕理と信也。
もうひとつは、ゴミ捨て場の裏へ向かう琉惺と漣の後ろ姿。
ざわ、と空気が揺れた。
「ご存じの通り、わが校の伝統は『王子×騎士』です。それを乱す者たちを、断罪すべきか否か。意見のある方は――今ここで表明してください」
沈黙を破って、一人の女子がすっと立ち上がった。
「……断罪すべきです。王子と騎士の絆を脅かすなど、あってはならない暴挙。迷っている時間はありません。手遅れになる前に、速やかに裁きを下すべきです」
「待ってください!」
別の席から、鋭い声が空気を切り裂く。
「伝統も大切です。しかし――王子と騎士、その『お気持ち』はどうなるんですか?」
暗がりに潜む十数人の視線が、一斉に交錯した。
その時、小柄な女子がスッと立ち上がり、賛同するように数人が続いた。
「皆さん『庶民×天然』の存在をお忘れではありませんか? 伝統は確かに大切です。けれど――新しい可能性も、同じように重んじるべきかと!」
ふたたび空気が揺れる。
小さな拍手が起こり、それに呼応するように後方の小集団が声を上げた。
「それならば――私たちは『姫』をめぐって争う王子と騎士の対立にこそ、浪漫を感じます!」
ビクリと、愛美花の肩が震える。
「姫? な、何を言ってるんですか。ここは、そういう話し合いの場では――」
「静粛に」
冷たい声が響いた。
沈黙の中、視線が交錯する。
雪乃が、愛美花の袖をそっと引く。
「……もう出よう」
耳元で、ささやくように言った。
二人は静かに、廊下へ抜け出した。
***
学校から駅へと続く坂道を下る。
夕方の風が、さっきまでの緊張を少しずつ洗い流していく。
「……なにあれ」
愛美花はぽつりとつぶやいた。
「なんか、最後の方わけわからないことになってて、うけたよね。紙袋被ってて正解だったでしょ」
雪乃が肩をすくめる。
「……たしかに」
愛美花は苦笑した。
まさか、紙袋を被っていてよかったと思う日が来るなんて――
坂の下の公園に、裕理と琉惺の姿が見えた。
待っていてくれたのだろう。
「用事、終わった?」
琉惺が素っ気なく言う。
「まあね」
「てか、何してたの?」
「……秘密」
「秘密!?」
琉惺の戸惑った顔が妙におかしい。
「知らない方がいいやつだから!!」
愛美花が言うと、隣で雪乃が全力でうんうんと頷いた。


