ざわつく教室。
1時間目は自習になったらしい。
机に向かうのは少数派で、ほとんどは自由に過ごしていた。
信也はちらりと前方を見る。
窓際では「王子」と「騎士」、そして「姫」彩ヶ崎愛美花が、なにやら話し込んでいる。
――相変わらず、無駄にキラキラしている。
昨日は少し裕理に近づけた気がした。
けれど、こうして見るとやっぱり遠い。
物理的にも、立場的にも。
嫌でも思い知らされる。
このクラス――いや、この学校で「王子×騎士」は間違いなく特別な存在なのだ。
***
信也は、朝から机に突っ伏したまま動かない漣を、つん、と指でつついた。
「おーい。大丈夫か?」
……反応がない。
「漣、どうしたの?」
雪乃が漣を見下ろし、興味なさそうに言う。
当然のようにそこにいるが、雪乃は別のクラスの生徒だ。
それなのに、堂々と他人の机に腰かけている。
机の持ち主は――諦めたように別の席へ移り、漫画を読んでいた。
「雪乃、なんでいるんだよ。しかも人の教室でグミ食うな」
信也は横目でグミの袋をにらむ。
正直、迷惑だし、机の主にも悪い。
「別にいいじゃん」
そう言って、雪乃は袋から、つるんとした三角形のグミをひとつ取り出した。
漣の頭に乗っていたジャージを、そっと持ち上げて言った。
「ほら、グミあげる」
ジャージの隙間から、漣がチラッとグミを見る。
「レアチーズケーキ味だよ」
――シュッ。
その一言で、漣はまたジャージの奥深くに潜り込んでしまった。
巣穴に逃げ込む小動物のようで、なんだか可哀想だ。
「……抹茶味もあるけど」
雪乃なりに気を遣ったのだろうか――別の袋を開ける。
「だから、開けるなって。それどっちもダメだから」
信也はグミの袋を雪乃から取り上げ、ピタリと封を閉じた。
「なぜよ」
雪乃が首をかしげる。
信也は雪乃を手招きし、小声で言った。
「なんか昨日の放課後、蒼之森に捕まって……無理やりクレープ食べさせられたらしい」
「はぁっ!?」
雪乃が凄まじい声をあげて立ち上がる。
その瞬間、ジャージの下から漣のうめき声がもれた。
「ちょ、ちょっと待って」
雪乃はすごい勢いで、漣と蒼之森を交互に見比べる。
「なにそれ……喜べばいいの? 心配すればいいの? どっち!?」
「……心配しろよ」
漣が頭のジャージを取って顔をあげた。
目の下に、うっすらクマができている。
眠れなかったのだろうか。
能天気な漣にしては珍しい。
どこでも秒で寝られるヤツなのに。
「やばい……クレープって、そんなアイテムだったっけ?」
雪乃は頭を抱え、大げさに騒ぎ立てる。
かなり目立っている――でも、いつものことなので誰も気にしていない。
……それはそれでどうなんだ。
信也は小さくため息をつき、漣に優しく声をかけた。
「一緒にクレープ食べただけじゃなくて?」
「そうなんだけど……なんか、違うんだよ」
「なんかって、なにが?」
「だから……雰囲気が変で……あいつ、オレに……」
「オレに?」
雪乃がずいっと割り込んでくる。
「クレープを……」
漣は再び机に突っ伏した。ゴツッ、と鈍い音が響く。
「食べさせたんだ……よな? その……無理やり」
信也がそっとフォローする。
「っ、どういうふうに!!」
雪乃が食いついた。
「……聞くなよ」
信也は呆れ顔で言った。
「そこ、一番大事だから!」
雪乃は机を拳でドンッと叩いて言った。
その瞬間――数人の女子が、大きく頷いた気がした。
***
その時。
「なにが大事なんだ、雪乃」
鬼の形相のクラス委員長が現れ、雪乃の襟首をつかんだ。
「お前のクラスはあっちだ」
そのままズルズルと引きずっていく。
「続きを聞かせて! お願い!」
雪乃は机にしがみつく。
だが抵抗むなしく、廊下の向こうへと消えていった。
信也はため息をつき、前方に視線を移した。
そこには――いつもの笑顔を封じ、深刻な表情で話し込んでいる三人組。
なぜか「姫」が「騎士」を問い詰めているように見える。
「王子」は、そのやり取りを少し困ったように眺めていた。
――なにかあったのかな?
眺めていると、三人が一斉に信也たちの方を見た。
蒼之森がすっと立ち上がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「やばっ」
信也が小さくつぶやく。
「なに……」
漣が顔を上げた。
視線の数メートル先に――蒼之森。
その眼差しは射抜くように真剣だった。
「うわぁ!」
漣はガタッと椅子を倒し、そのまま後ずさる。
クラス中の視線を浴びながら、勢いよく教室を飛び出していった。
「おい!」
蒼之森がすかさず立ち上がり、後を追う。
――さすが騎士。動きがちがう。
信也が思わず感心した、その時。
異変を察知した「王子×騎士推し」の女子たちが、静かに立ち上がり、音もなく廊下に出て行った。
***
⦅漣視点⦆
必死に廊下を走る。
「待て……漣!」
背後から蒼之森の声。
……速い。靴音が一定のリズムで近づいてくる。
(やばっ、捕まる!)
階段に差しかかり、もたついた瞬間――あっという間に距離をつめられた。
「危ないから、逃げるのやめろ!」
踊り場で、腕をがしっと掴まれる。
そのまま――勢い余って、壁際に追い詰められた。
ドンッ、と背中が壁に当たる。
「いっ……」
思わず目を閉じる。
「ごめん……大丈夫か?」
おそるおそる目を開けると、すぐ目の前に蒼之森の胸元。
……近い。
しかも、なんか、やたら爽やかなにおいがする。
何のにおいだ?
思わず鼻を近付ける。
「おい」
蒼之森は一歩下がり、うつむいた漣の顎に手を添えると、そっと顔を上げさせた。
「え……」
声が震えた。
「大丈夫かって、聞いてる」
「……っだ、大丈夫じゃない!」
なぜか顔が熱くなる。ついでに、昨日のクレープ「あーん」までよみがえり、耳まで熱くなる。
――すると、なぜか蒼之森まで赤くなった。
「なんでおまえが……赤くなるんだよ」
漣が小さくつぶやくと、蒼之森はハッとしたように顔をそむけた。
「見るな」
「でも……」
「なんでもない。だから見るなって……」
「……そんなの、ムリだ」
気づけば、視線はどうしてもそちらへ向かってしまう。
なんでだ?
漣は、自分でもわからない衝動に、ただ戸惑っていた。
その時――蒼之森が赤い顔のまま、チラッと視線を合わせた。
「昨日……ごめんな」
「そうだ! なんであんなことしたんだよ!」
「……わからない」
蒼之森は困ったように目を伏せた。本当に分からない、という顔をしている。
「じゃ、しょうがないか……」
漣は言いながら思った。
(……しょうがないのか?)
***
⦅信也視点⦆
漣の後を追う信也。
階段の踊り場に、漣と蒼之森の姿が見える。
「漣!」
声をあげ、駆け上がろうとした――その時。
キュッ、と靴底が鳴ってバランスを崩す。視界が大きく揺れた。
(やば、転ぶ!)
思わず目をつぶった瞬間――
「信也!」
ドンッ。
壁に押し付けられる。
衝撃はほとんどない。
代わりに、がっしりした両腕に両側をふさがれていた。
シャツ越しに体温が伝わってくる。
裕理は険しい顔で、自分を見下ろしている。
逃げたいような、このまま時間が止まってほしいような、不思議な気分だ。
「信也」
至近距離で名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
「危ないだろ」
(裕理……いつもと違う。王子とも違う……なんだこれ)
「ごめん」
鋭い視線に、思わず謝ってしまう。
すると、裕理はわずかに表情を緩め、半歩下がった。
「いや。無事なら、それでいい」
(あ……)
少し残念な気分になる。
もう少し、あのままでいたかった。
その未練に、自分で驚く。
(オレ……どうしちゃったんだ?)
ふと顔を上げると、裕理も――熱を帯びた眼差しで信也を見ていた。
***
その瞬間――
階段では、ふたつの壁ドンが同時に完成していた。
「王子×騎士推し」女子たちがざわつく。
「ちょっと待って、今のなに?」
「なにが起きてるの?」
「もしかしてあの二人……体育の時の……」
「会議ある?」
「あるね」
廊下は一気にざわめきに包まれた。
それに気づいた裕理が、さりげなく信也から身を離す。
「また、部活で」
「あ……うん」
踊り場の蒼之森に声をかける。
「琉惺、行こう」
「あ……ああ」
二人は女子たちの前を堂々と通り抜け、教室へと戻っていった。
――残されたのは、壁に張り付いたままの信也と漣。
そして、静かに混乱している女子たち。
気まずい沈黙を破ったのは、漣の声だった。
「……なあ、信也」
「ん?」
「オレら、なんで壁に貼り付いてんの?」
「それは……」
(壁ドンされたからだよ)
信也と、女子たちの心の声がシンクロした。
***
放課後の教室。
「信也、帰ろ」
漣が声をかけてくる。
「おー」
信也はリュックを背負い、教室を見渡した。
今日は部活のない日。
裕理たちの姿はもうない。すでに帰ったのだろう。
少しホッとして、廊下に出る。
あの後――裕理にどんな顔をして会えばいいのか分からなくて、一日中避けてしまった。
いまさら、申し訳ない気持ちになる。
(あんな態度、取ることなかったのに……)
信也はリュックの紐をぎゅっと握り締めた。
階段に差しかかったところで、漣が足を止め、つぶやいた。
「あれ、なんだったんだろうな?」
「……さぁ」
信也は曖昧に答えた。
漣は知らない方がいい気がする。
知ったら絶対ややこしいことになる。
その時――
「あれはね」
廊下の曲がり角から、雪乃がぬっと現れた。
「あんたたちは知らないかもしれないけど、世の中にはBがLするという尊い――」
「雪乃。また明日な」
信也は即答した。どうせろくでもないことを言うに決まっている。
「バイバイ」
漣も合わせて手を振る。
「尊い……文化……が」
そのつぶやきは、廊下のざわめきにあっけなく飲み込まれ――跡形もなく消えた。
***
帰り道。
「なんか……蒼之森、顔赤かったけど……」
漣が道端の小石を蹴りながらつぶやく。
「それは……」
「風邪かな?」
「違うだろ!」
即座に突っ込む。どう考えても風邪じゃない。
あの蒼之森の表情は、きっと――あれだ。
わかる。でも、わかりたくない!
「じゃあ、何なんだよ!」
漣が、突っ込まなくていいところにしつこく突っ込んでくる。
「……暑かったとか?」
一応言ってみたが――苦しい。
漣がポンと手を打った。
「熱中症か!」
(……違う)
「あいつ、大丈夫かな」
漣は本気で心配している顔をしていた。
「お前……蒼之森の心配してる場合じゃないぞ」
「え?」
不思議そうに見てくる漣を、信也はマジマジと見返す。
(……こいつ、あっという間に仕留められそうだ)
そして――自分も。
裕理のシャツからのぞいた手首を思い出す。
普段はきっちり制服を着こなすタイプだからこそ、そのギャップがやけに色っぽかった。
「もしかして、信也も熱中症?」
漣が顔を覗き込んでくる。
「え、なんで」
「顔、赤いし」
ピタッとに触れる。
その瞬間、遠くからヒャーッと歓声が上がった気がした。
「な、なんでもない! ……てか腹減った。なんか食わない?」
とたんに、漣の表情が曇る。
「クレープ以外ならいいけど」
「……レアチーズケーキ」
「アウト」
「……ケーキ」
「アウト」
「……チーズ」
「信也。しつこい」
1時間目は自習になったらしい。
机に向かうのは少数派で、ほとんどは自由に過ごしていた。
信也はちらりと前方を見る。
窓際では「王子」と「騎士」、そして「姫」彩ヶ崎愛美花が、なにやら話し込んでいる。
――相変わらず、無駄にキラキラしている。
昨日は少し裕理に近づけた気がした。
けれど、こうして見るとやっぱり遠い。
物理的にも、立場的にも。
嫌でも思い知らされる。
このクラス――いや、この学校で「王子×騎士」は間違いなく特別な存在なのだ。
***
信也は、朝から机に突っ伏したまま動かない漣を、つん、と指でつついた。
「おーい。大丈夫か?」
……反応がない。
「漣、どうしたの?」
雪乃が漣を見下ろし、興味なさそうに言う。
当然のようにそこにいるが、雪乃は別のクラスの生徒だ。
それなのに、堂々と他人の机に腰かけている。
机の持ち主は――諦めたように別の席へ移り、漫画を読んでいた。
「雪乃、なんでいるんだよ。しかも人の教室でグミ食うな」
信也は横目でグミの袋をにらむ。
正直、迷惑だし、机の主にも悪い。
「別にいいじゃん」
そう言って、雪乃は袋から、つるんとした三角形のグミをひとつ取り出した。
漣の頭に乗っていたジャージを、そっと持ち上げて言った。
「ほら、グミあげる」
ジャージの隙間から、漣がチラッとグミを見る。
「レアチーズケーキ味だよ」
――シュッ。
その一言で、漣はまたジャージの奥深くに潜り込んでしまった。
巣穴に逃げ込む小動物のようで、なんだか可哀想だ。
「……抹茶味もあるけど」
雪乃なりに気を遣ったのだろうか――別の袋を開ける。
「だから、開けるなって。それどっちもダメだから」
信也はグミの袋を雪乃から取り上げ、ピタリと封を閉じた。
「なぜよ」
雪乃が首をかしげる。
信也は雪乃を手招きし、小声で言った。
「なんか昨日の放課後、蒼之森に捕まって……無理やりクレープ食べさせられたらしい」
「はぁっ!?」
雪乃が凄まじい声をあげて立ち上がる。
その瞬間、ジャージの下から漣のうめき声がもれた。
「ちょ、ちょっと待って」
雪乃はすごい勢いで、漣と蒼之森を交互に見比べる。
「なにそれ……喜べばいいの? 心配すればいいの? どっち!?」
「……心配しろよ」
漣が頭のジャージを取って顔をあげた。
目の下に、うっすらクマができている。
眠れなかったのだろうか。
能天気な漣にしては珍しい。
どこでも秒で寝られるヤツなのに。
「やばい……クレープって、そんなアイテムだったっけ?」
雪乃は頭を抱え、大げさに騒ぎ立てる。
かなり目立っている――でも、いつものことなので誰も気にしていない。
……それはそれでどうなんだ。
信也は小さくため息をつき、漣に優しく声をかけた。
「一緒にクレープ食べただけじゃなくて?」
「そうなんだけど……なんか、違うんだよ」
「なんかって、なにが?」
「だから……雰囲気が変で……あいつ、オレに……」
「オレに?」
雪乃がずいっと割り込んでくる。
「クレープを……」
漣は再び机に突っ伏した。ゴツッ、と鈍い音が響く。
「食べさせたんだ……よな? その……無理やり」
信也がそっとフォローする。
「っ、どういうふうに!!」
雪乃が食いついた。
「……聞くなよ」
信也は呆れ顔で言った。
「そこ、一番大事だから!」
雪乃は机を拳でドンッと叩いて言った。
その瞬間――数人の女子が、大きく頷いた気がした。
***
その時。
「なにが大事なんだ、雪乃」
鬼の形相のクラス委員長が現れ、雪乃の襟首をつかんだ。
「お前のクラスはあっちだ」
そのままズルズルと引きずっていく。
「続きを聞かせて! お願い!」
雪乃は机にしがみつく。
だが抵抗むなしく、廊下の向こうへと消えていった。
信也はため息をつき、前方に視線を移した。
そこには――いつもの笑顔を封じ、深刻な表情で話し込んでいる三人組。
なぜか「姫」が「騎士」を問い詰めているように見える。
「王子」は、そのやり取りを少し困ったように眺めていた。
――なにかあったのかな?
眺めていると、三人が一斉に信也たちの方を見た。
蒼之森がすっと立ち上がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「やばっ」
信也が小さくつぶやく。
「なに……」
漣が顔を上げた。
視線の数メートル先に――蒼之森。
その眼差しは射抜くように真剣だった。
「うわぁ!」
漣はガタッと椅子を倒し、そのまま後ずさる。
クラス中の視線を浴びながら、勢いよく教室を飛び出していった。
「おい!」
蒼之森がすかさず立ち上がり、後を追う。
――さすが騎士。動きがちがう。
信也が思わず感心した、その時。
異変を察知した「王子×騎士推し」の女子たちが、静かに立ち上がり、音もなく廊下に出て行った。
***
⦅漣視点⦆
必死に廊下を走る。
「待て……漣!」
背後から蒼之森の声。
……速い。靴音が一定のリズムで近づいてくる。
(やばっ、捕まる!)
階段に差しかかり、もたついた瞬間――あっという間に距離をつめられた。
「危ないから、逃げるのやめろ!」
踊り場で、腕をがしっと掴まれる。
そのまま――勢い余って、壁際に追い詰められた。
ドンッ、と背中が壁に当たる。
「いっ……」
思わず目を閉じる。
「ごめん……大丈夫か?」
おそるおそる目を開けると、すぐ目の前に蒼之森の胸元。
……近い。
しかも、なんか、やたら爽やかなにおいがする。
何のにおいだ?
思わず鼻を近付ける。
「おい」
蒼之森は一歩下がり、うつむいた漣の顎に手を添えると、そっと顔を上げさせた。
「え……」
声が震えた。
「大丈夫かって、聞いてる」
「……っだ、大丈夫じゃない!」
なぜか顔が熱くなる。ついでに、昨日のクレープ「あーん」までよみがえり、耳まで熱くなる。
――すると、なぜか蒼之森まで赤くなった。
「なんでおまえが……赤くなるんだよ」
漣が小さくつぶやくと、蒼之森はハッとしたように顔をそむけた。
「見るな」
「でも……」
「なんでもない。だから見るなって……」
「……そんなの、ムリだ」
気づけば、視線はどうしてもそちらへ向かってしまう。
なんでだ?
漣は、自分でもわからない衝動に、ただ戸惑っていた。
その時――蒼之森が赤い顔のまま、チラッと視線を合わせた。
「昨日……ごめんな」
「そうだ! なんであんなことしたんだよ!」
「……わからない」
蒼之森は困ったように目を伏せた。本当に分からない、という顔をしている。
「じゃ、しょうがないか……」
漣は言いながら思った。
(……しょうがないのか?)
***
⦅信也視点⦆
漣の後を追う信也。
階段の踊り場に、漣と蒼之森の姿が見える。
「漣!」
声をあげ、駆け上がろうとした――その時。
キュッ、と靴底が鳴ってバランスを崩す。視界が大きく揺れた。
(やば、転ぶ!)
思わず目をつぶった瞬間――
「信也!」
ドンッ。
壁に押し付けられる。
衝撃はほとんどない。
代わりに、がっしりした両腕に両側をふさがれていた。
シャツ越しに体温が伝わってくる。
裕理は険しい顔で、自分を見下ろしている。
逃げたいような、このまま時間が止まってほしいような、不思議な気分だ。
「信也」
至近距離で名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
「危ないだろ」
(裕理……いつもと違う。王子とも違う……なんだこれ)
「ごめん」
鋭い視線に、思わず謝ってしまう。
すると、裕理はわずかに表情を緩め、半歩下がった。
「いや。無事なら、それでいい」
(あ……)
少し残念な気分になる。
もう少し、あのままでいたかった。
その未練に、自分で驚く。
(オレ……どうしちゃったんだ?)
ふと顔を上げると、裕理も――熱を帯びた眼差しで信也を見ていた。
***
その瞬間――
階段では、ふたつの壁ドンが同時に完成していた。
「王子×騎士推し」女子たちがざわつく。
「ちょっと待って、今のなに?」
「なにが起きてるの?」
「もしかしてあの二人……体育の時の……」
「会議ある?」
「あるね」
廊下は一気にざわめきに包まれた。
それに気づいた裕理が、さりげなく信也から身を離す。
「また、部活で」
「あ……うん」
踊り場の蒼之森に声をかける。
「琉惺、行こう」
「あ……ああ」
二人は女子たちの前を堂々と通り抜け、教室へと戻っていった。
――残されたのは、壁に張り付いたままの信也と漣。
そして、静かに混乱している女子たち。
気まずい沈黙を破ったのは、漣の声だった。
「……なあ、信也」
「ん?」
「オレら、なんで壁に貼り付いてんの?」
「それは……」
(壁ドンされたからだよ)
信也と、女子たちの心の声がシンクロした。
***
放課後の教室。
「信也、帰ろ」
漣が声をかけてくる。
「おー」
信也はリュックを背負い、教室を見渡した。
今日は部活のない日。
裕理たちの姿はもうない。すでに帰ったのだろう。
少しホッとして、廊下に出る。
あの後――裕理にどんな顔をして会えばいいのか分からなくて、一日中避けてしまった。
いまさら、申し訳ない気持ちになる。
(あんな態度、取ることなかったのに……)
信也はリュックの紐をぎゅっと握り締めた。
階段に差しかかったところで、漣が足を止め、つぶやいた。
「あれ、なんだったんだろうな?」
「……さぁ」
信也は曖昧に答えた。
漣は知らない方がいい気がする。
知ったら絶対ややこしいことになる。
その時――
「あれはね」
廊下の曲がり角から、雪乃がぬっと現れた。
「あんたたちは知らないかもしれないけど、世の中にはBがLするという尊い――」
「雪乃。また明日な」
信也は即答した。どうせろくでもないことを言うに決まっている。
「バイバイ」
漣も合わせて手を振る。
「尊い……文化……が」
そのつぶやきは、廊下のざわめきにあっけなく飲み込まれ――跡形もなく消えた。
***
帰り道。
「なんか……蒼之森、顔赤かったけど……」
漣が道端の小石を蹴りながらつぶやく。
「それは……」
「風邪かな?」
「違うだろ!」
即座に突っ込む。どう考えても風邪じゃない。
あの蒼之森の表情は、きっと――あれだ。
わかる。でも、わかりたくない!
「じゃあ、何なんだよ!」
漣が、突っ込まなくていいところにしつこく突っ込んでくる。
「……暑かったとか?」
一応言ってみたが――苦しい。
漣がポンと手を打った。
「熱中症か!」
(……違う)
「あいつ、大丈夫かな」
漣は本気で心配している顔をしていた。
「お前……蒼之森の心配してる場合じゃないぞ」
「え?」
不思議そうに見てくる漣を、信也はマジマジと見返す。
(……こいつ、あっという間に仕留められそうだ)
そして――自分も。
裕理のシャツからのぞいた手首を思い出す。
普段はきっちり制服を着こなすタイプだからこそ、そのギャップがやけに色っぽかった。
「もしかして、信也も熱中症?」
漣が顔を覗き込んでくる。
「え、なんで」
「顔、赤いし」
ピタッとに触れる。
その瞬間、遠くからヒャーッと歓声が上がった気がした。
「な、なんでもない! ……てか腹減った。なんか食わない?」
とたんに、漣の表情が曇る。
「クレープ以外ならいいけど」
「……レアチーズケーキ」
「アウト」
「……ケーキ」
「アウト」
「……チーズ」
「信也。しつこい」


